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山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

私はこういう人です

ユリイカに雑文が掲載されます

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3039

一番後ろにある『われ発見せり』ってのを書きました。買おう!!!

ユリイカ 2017年5月 特集=追悼・鈴木清順 ―1923-2017―

ユリイカ 2017年5月 特集=追悼・鈴木清順 ―1923-2017―

  • 作者: 鈴木清順,原田芳雄,木村威夫,山根貞男,蓮實重彦,麿赤兒,広田レオナ
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2017/04/27
  • メディア: ムック
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雑誌の雰囲気と合わせるために気を使って2つくらい文章を書いて選んでもらった。明治とか大正とか1mmも関係ないことが掲載されてる。ちなみに白ご飯世界はその時にボツになったほうなんだけど、掲載されてる文章のほうが私はお気に入りです。

cocolog-nifty.hatenablog.com

あと肩書はどうしますかって聞かれたので、絶対になにがあっても文句を言わないのでそっちで決めてくださいって答えた。肩書とか自分で決めるの絶対に嫌だと思う。最近の私は鳥肝を買ってきて切ってから水に漬けてる間にビール飲みながらハツの部分だけ炒めて食ってから適当に味付けしてプックリなるように煮ることに熱中しているので、肩書を正確に書くとしたら『働いてゲットした金で鳥肝を買ってきて切ってから水に漬けてる間にビール飲みながらハツの部分だけ炒めて食ってから適当に味付けしてプックリなるように煮る』みたいになると思う。しかし私は常に鳥肝を煮ているわけではない。トマトソースを作り置きしたりもしますし、あるいは歩行している場合もある。人間というものは歩行する生物で、歩行している間の肩書は誰だって歩行者である。歩行してない時は停止者なのかっていうと、指なんかが動いている場合もあってなかなか難しいところである。こういうことを考えていると面倒くさくなってくるので、肩書とか自分で決めるの絶対に嫌だと思うんだけど、なんだかまとまらない文章になっちゃいましたから、最近昼飯用に作った日清焼きそばの画像を貼り付けまして結びの挨拶に代えさせていただきたいと思います。

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白ご飯世界

日本における代用食の歴史はとても長い。ただし本格的に代用食の探究が開始されはじめたのは、明治時代のことである。混ぜご飯やおからの活用などがあったが、最も盛り上がったのは玄米食だった。

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玄米は白米と比べ1.3倍の栄養があるため、消費量が7割で済む。玄米の栄養により医療費も減少し、精米費も節約できる。大正八年には、玄米奨励法案建議案が提出され、大阪では70万枚の玄米推奨広告が配られた。震災後には天皇陛下すら玄米食に言及しているのだから、その盛り上がりは推して知るべしといったところである。

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しかしどの代用食も、本格的な普及には失敗している。失敗の理由を考えると、日本人は白ご飯が大好きだからという所に着地する。基本的に日本人は米が好きである。ある時期には、日本の中心が米がといった位置にまで到達している。

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それでは昔の人はどのくらい米を食べていたのか? 明治30年代の学生は、1日あたり5合の米を食べている。好きでなくては、これほどまでに食べることはできない。とはいえ、彼らが食べていた白ご米は今と比べると美味くはないだろう。調理器具はもちろん、米の保存状態も今より悪いことは確実である。少し余談になってしまうが、昔の学生が自炊生活をしようとすると、共同生活、今でいうところのシェアハウスのような形態をとることが多かった。これはコストの問題で、一人暮しだとメリットがない。食材を大量に購入し、数人分の調理を一度にすることによって、金銭的時間的なメリットがようやく発生する。その際に起きるのが、誰が米を炊くのかという問題で、やはり技量に差があった。

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こういった状況は、米が大好きな我々にとっては許し難いことであった。誰もが米を炊き、美味い白ご飯を食べることができる世界が求められていた。

さらに金銭的に裕福な家庭とは違い、白ご米なんて滅多に口に入らないってな人々も存在していた。白ご飯が大好きな我々にとって、そんな状況もまた我慢のならないものであった。白米が好き過ぎるがために、誰もが美味い白ご飯を食べられる世界を作ろうという情熱を、かっての我々は持っていた。

現在、日本で生活していれば、どこにいようと美味い米を食べることができる。湿度と温度が管理できる優秀な貯蔵庫が存在し、発達した流通によって米が店頭に並べられる。パッケージもほぼ完璧、品種改良された米は、生産性が上がっただけでなく、どれも美味い。十万円以上する高性能な炊飯器も販売されているが、数千円の文化鍋を使いこなせば十分以上に美味い米を炊き上げることができる。

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それほど難しい技術が必要なわけでもない。

  • 米をとぎ水につけておく(1回目の水はすぐに捨てること)
  • 水は米の上1-1.5mm程度の高さ
  • 沸騰するまで強火、沸騰後は弱火で8-15分(パチパチした音が出たら火を止める)
  • 蒸らし時間は5-10分(なくてもいい)

単純に面白いので興味のある人は試しにやってみるのも良いだろう。

トオヤマ 亀印 文化鍋 16cm <2.5合>

トオヤマ 亀印 文化鍋 16cm <2.5合>

米にかける労力の、自由度も素晴しい。家庭用の精米機を購入し、良い水を使えば、異次元の美味さの白飯を食べることもできる。手間を省きたいのなら無洗米もあるし、それすら面倒ならばレトルトご飯で済ますのも良い。都市部ならこういうことが可能というのではなくて、日本であれば離島に住んでいたって実現できてしまう。

もちろん情熱と努力だけで、こういった環境を実現されることはできない。米自体が持つ性能も高い。私は定期的にホームベーカリーでパンを焼くのだが、室温や水の量、そして小麦の質などによってかなり出来が違う。予約機能を使うと仕上がりに影響がある。こういった要素は米にも影響を与えるものの、パンほどではない。米には安定感がある。

全てが今となってはなんでもないことだが、そこには異常なまでの技術と労力が使われている。我々は白ご飯が大好きで、日本全国四六時中、美味い白ご飯を食べられることこそが目標なのだという情熱がなければ、とうてい実現できる世界ではない。

剣道と銃剣道どっちが強いのか大正時代に試してる奴らがいた

子供に銃剣道と剣道のどっちを教えるのか迷ってる人たちが大量にいるんだけど、強い方を教えたほうが良いに決ってる。男だったら誰だってそう思う。女だってそう思うはずだし、大正時代の奴らもそう思ってる。そんなわけで大正14年に銃剣道vs剣道の試合が開催されたのであった。

銃剣道は比較的早い時期に陸軍で採用されていたものの、従来の剣術や槍術の応用に過ぎないとされ、一段低く見られてしまう傾向があった。というわけで大日本武徳会も、銃剣道に教士範士の称号を与えることが長くなかった。陸軍当局の働きかけによって、大正13年にようやく教士の称号が与えられることになる。

しかしながら銃剣道と剣道が勝負をしたら、剣道が勝つだろといった風潮がまだまだ存在している。銃剣道の人らがイライラしていたところ、大正14年に全国剣道大会が開催されることとなった。

銃剣道から教士が出てから初の試合である。ここで勝てば銃剣道の真価を認めされることができる。ものすごい大事な試合だと言えよう。

銃剣道側が用意したのは銃剣道がスゲー上手い人、メチャ気合が入っている。

剣道側は、身長180cm体重100キロのデカくて力のある奴を試合に出す。こいつの必殺技は横面で、くらったら鼓膜が破れてしまうほどの威力がある。使う竹刀は120cmの長さ、とにかく力が強くて、試合中に人の足の骨も折ったことがある。もう剣道とか関係なしにこいつが強いだけでは?といった疑問が湧き上がってくるし、負けたくないのは分かるけど剣道大人気なさすぎるだろっていう雰囲気がある。

身長180cm体重100キロのデカくて力が強く、鼓膜破ったり足の骨を折ってくる奴と試合するのはかなり嫌だと思われる。あとこの時代はルールとか曖昧だからな。こっちが先に一本を取っても、相手が動いてたら試合は続行する。デカい奴は身体も丈夫だから、一本取ろうがなにしようがずっと動いてるから、絶対に一回は殴られる。とにかく最悪である。

で、試合がどうなったのかっていうと、銃剣道側が優勢の相撃ちといった感じだった。ヘーって感じですね。この試合の模様を詳しく知りたい人は次のリンクから読むことができる。格闘技が好きな人は知ってるかもしれない。面白くて良い本です。

国立国会図書館デジタルコレクション - 名人達人決死の大試合

国会図書館デジタルコレクションは読みにくいんで、zipで画像まとめたのもアップロードしておいた。

名人達人決死の大試合(鳴弦楼主人 大日本雄弁会 大正15)

ところでこの時代の本っていうのは、すでに言文一致になっている。わりと洗練されている文章も多くて、現代とあんまり変わりがない。だから誰だって読むのは読める。

だけど文化は今とかなり違う。例えばなんだけど、この書籍では、登場人物のほとんどが異常に勝負に執着する。それでスポーツマンシップみたいなのが、あんまり感じられないもしれない。それはそういう時代だったからで、当時の人々は現代人とは異なる感覚を持っている。別に卑怯だったり狂ったりしているわけではない。この辺りは日本が娯楽としてのスポーツをあまり持っていなかったため、こういう風に受容するしかなかったとか色々な事情があるんだけど、そういうものなのかなって思いながら読むと分かりやすいと思う。

余談だけど数学や科学、あるいは外国語の文章というのは読めないって感じることが多いと思うんだけど、100年前の日本の本もやっぱりある程度まで学習しないとまともには読めない。ただこの本は現代の人でも読みやすく上にかなり面白い。細かいことは抜きにして気が向いたら読んでみてください。