山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

五〇年間ずっと嘆き続けながら問題を放置した日本社会

放置され続けた苦学問題

世の中には様々な問題が存在している。問題を解消すると問題は消滅するわけだが、別に死ぬわけでもないだとか、面倒クセーだとか俺は困ってない、テレビでスーツ着た奴がなんかしゃべってたしこの政党で良いのでは? などといった理由で、問題が放置されることは多い。こういうことは昔からあることで、私は諸事情があり戦前の苦学について調べていたのだが、苦学が抱える問題も50年程放置されている。戦前の苦学が抱えていた問題の中には、今もまだ解消されていないものがなくもないため、100年以上としてもいいかもしれない。

戦前の苦学は、完全に破綻している。当時理想とされたスタイルで苦学すると、死ぬか犯罪者になるかの二択である。天才だろうと超能力者だろうと大詐欺師だろうと、苦学には失敗する。

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早々に逃げればなんとかなるが、馬鹿正直に苦学を続けていれば犯罪者になるか死ぬ。

こんな危険な風習をなぜ放置するのか?

労働及産業 友愛会 友愛会本部 大正八(一九一九)年

苦学とかどう考えても無理だろといった状況なのだが、実は当時の人もそれには気付いていた。気付いてるのになぜ問題を放置していたのかというと、社会全体が馬鹿だったからなのだが、とにかく苦学はずっと無理なまま放置され続けた。

そもそも働きながら学ぶ近代的な苦学が発生したのは、およそ明治二五(一八九二)年あたりのことだ。厳密に検証すると明治二〇年あたりにも苦学はあり微妙なところもあるのだが、そんなことを厳密に検証している暇人などこの世に存在しないため、明治二五(一八九二)年に苦学が発生したということにしておこう。それから昭和一〇年代まで、つまり五〇年の間、苦学は無理であり続けた。なぜ苦学にまつわる問題が放置されていたのかといえば面倒クセーからで、とにかく苦学は軽く雑に扱われていた。

雑に扱われていた実例としては、各々の時代で様々な人間が「〜年前なら苦学も出来たのだが……」などと、表面上は嘆息していることを挙げることができる。「10年前には出来た」という記述を信じ、10年前の資料に当ってみると、そこでもまた「〜年前なら苦学も出来たのだが……」と語られているといった状況で、五〇年ほど「〜年前なら苦学は出来た」と語られ続けているのである。つまり「〜年前なら苦学は出来た」の『〜年前』というのは調査をした結果ではなく、あくまで語っている人間の感覚で、なんら根拠のない発言だということになる。

個人間の雑談ならまだしも、『立身苦学案内』的なガイドブックですらそうなのだから、そのいい加減さも想像できよう。ちょっと信じ難いかもしれないが事実は事実なのだから仕方がないというわけで、一九四〇年あたりから順番に時代をさかのぼりながら「〜年前なら苦学も出来た」発言を見ていこう。

昭和と大正時代の不可能な苦学

昭和一二(一九三七)年に出版された『同し方向へ 高島米峰著 明治書院』には、次のような記述がある。

一体、苦学成功といふことは少くとも今から四五十年も前の時代の話であつて、近年は一般の経済生活状態から言つても、苦学成功などは到底考へられない状態でもある。

昭和一二年の四五〇年前だから、明治二〇-三〇年あたりなら苦学はできたということになる。

この記述が正しいとすると、およそ五〇年間、苦学は不可能だったといきなり証明されてしまうのだが、それではつまらないので、さらに十年ほどさかのぼり、昭和一(一九二六)年に書かれた『現代の修養 立身成功処世要訓 宇野共次著 大興社』の記述を確認してみると次の通りだ。

「苦学はなぜ失敗が多いかといふと、今日は苦学で成功できる時代ではないからであります」

この記述を信じるのであれば、少なくとも『現代の修養』の昭和元年から『同し方向へ』の十二年の間は、苦学で成功するのは無理な時代であったとしてもいだろう。その上で『現代の修養』では「今から一〇年前」つまり大正五年あたりに苦学をしていた四名の友人である甲乙丙丁氏を紹介している。

甲氏は「苦学を中絶して」某店の店員となったが、苦学時代の無理がたたって五年後に死亡、丙氏は苦学をしたり止めたりを繰り返した末に、苦学を諦め出版社に勤務することとなったのだが、入社4年目に苦学時代の過労がたたって同じく死亡してしまう。

丁氏は出版社でバイトをしながら早稲田大学に通いなんとか卒業後するも、「たびたび鼻血を出して、脳貧血のために気を失うほどの危険状態」になるため、日蓮宗の熱心な信者になった。乙氏は独力で苦学を続けたものの、途中でこれは無理だと悟り、某家の入り婿となって資金の援助を得て学校を卒業、「苦学なぞはするものではない。身体に無理をしたので、永らく病苦に苦しんだ」と語っていたそうだ……というわけで、大正五年前後であれば、苦学をしたうちの四名中二名が死亡、一名が半分出家して使い物にならなくなり、金持ちの入り婿になれた者は病気になりながらも生き残れるといった結論となるが、ようするにまともな身体で苦学を終えたものはいなかった。

他の資料からも、大正時代の苦学の無理さを確認しておこう。『実行の苦学 相沢秋月 相沢秋月 大正一二(一九二三)年』で著者は、大正四(一九一四)年に苦学をしようとした自身の経験を書き記している。

苦学をしようと思い立った相沢は、ちょっとしたツテのある代議士の元で、書生(下働き)として働きながら学ぼうと考えた。ところが代議士から「今の世は、苦学は不可能である。十年以前ならばいざ知らず、苦学するのは堕落の第一歩となる」と断られてしまっている。

代議士が「十年以前ならばいざ知らず」と言っているので、大正四年の十年前にあたる明治三十年代後半の苦学に関する記述を引き続き確認していこう。

明治時代の苦学

相沢が苦学をした十年前に書かれた『新渡米 出版協会 出版協会 明治三八(一九〇五)年』を読んでみると、「牛乳配達と新聞配達をして居って歳は二十四だと。そうか君、余程つまらぬ事をして居った物ぢゃないか。左様な苦しい仕事をして居って学問を修める事が出来る物か」としてあり、やはり無理である。

苦学が可能であった時期として、いくつかの資料で共通しているのが、明治二〇-三〇年あたりである。

先に紹介した『同し方向へ』に加え、大正六年に書かれた『苦学と就職思ひのまゝ 野木愛太郎 編 東京生活堂 大正六(一九一七)年』でも「苦学は二十年三十年の昔にして、現代においてはその成功は難しと」としてある。大正六年の二三十年前だから『同し方向へ』と同じく、明治二〇-三〇年あたりになる。『新渡米』が書かれたのは明治三八年、なるほど明治二十年から三十年代前半ではないから、苦学は無理なのかと納得してしまいそうになってしまうが、結論を書いてしまうと明治二五年でも苦学は基本的には不可能だ。

冒頭で苦学が発生したのが明治二五年としたが、『同し方向へ』と『苦学と就職思ひのまゝ』の記述から、苦学発生の最初期ならばそれなりに成立していたのではないかと考えたくなるのが人情だろう。しかしながら確認してみると、残念ながら無理である。

『忠魂義胆 島村清 玉田玉秀斎講演 嶋之内同盟館 明治四四(一九一〇)年』は、苦学生の成長を描いた娯楽物語である。主人公の島村清は独立独行、他人の厄介にならぬという信念を持つ若者だ。明治二一年、母親の死をきっかけに、島村は苦学を決意するのだが、彼の気象を愛する侯爵がその将来を危ぶみこんなことを語る。

「馬鹿者でも学資に不自由が無かったならば、必ず順序の教育を受けて進んでいくが、よく走る馬でも飢えたる時はとても走る事はおろか、歩く事も出来ない訳だから、今日の世の中は学問と筋力の相応がもっとも肝要だ。労働の傍ら苦学をしようとする者は、指の先で大盤石を掘るも同然だが、その反対に学資に事を欠かずに順序の学問をする者は、器械をもって地を掘るも同然」

指の先で大盤石を掘ることはできないので、無理だということになる。もっとも『忠魂義胆 島村清』は娯楽物語であり、いい加減な書籍であるから、これをこのまま信用することはできない。

もう少しまともな書籍『学生自活法 緒方流水著 金港堂 明治三六(一九〇三)年』に、明治二五年あたりの苦学の状況が綴られている。

明治二二年あたりから、貧しい書生たちが働きながら学ぼうとしたが、その当時は相応しい職業がなかった。昔からある年季奉公は、一年単位の契約で、五年なり七年なり働いてようやく一人前、活版工も似たり寄ったりで七年で一人前、苦学には向いていない。新聞配達もあるにはあったが、需要が少なく老人の小遣い稼ぎ程度のもので、若者向けの仕事は車夫くらいしかなかった。

明治二五年あたりになり新聞配達の需要が増え、ようやく労働しながら学校に通えるような環境が登場したように思えた。そして苦学に挑戦する若者も増えてきたのだが、学校に通う若者の雇用を避ける組織が多かった。

苦学する奴は新聞配達すんな的な話

なんとか新聞配達所に入り、早朝に仕事を済ませ登校するといった毎日を送ることになったとしても油断はできない。大きな事件が起きると新聞社は号外を出す。新聞配達夫として働いている学生は、号外を配達するため学校を早退しなくてはならない。断われば解雇待ったなしである。

無理では?

日清戦争の前後など、悲惨なことになっていたのではないかと思われる。苦学生たちは別に新聞配達をしたいわけではない。学びながら働こうとすると、新聞配達くらいしか選択肢がないため、仕方なしに新聞配達をするわけだが、新聞配達では勉強できないといった状況で、ようするに苦学はずっと不可能であった。苦学をテーマにした書籍で「〜年以前ならばいざ知らず」と嘆いている奴も、別に確認したわけでもなく、なんとなく嘆いているといった状況で、いい加減なこと此の上ない。

それでも苦学に対する幻想は消えなかった。志望者がいる以上、苦学関連の書籍はそれなりに売れてしまう。そんなわけで、今回紹介してきたような書籍が出版され続けた。

苦学を放置するとどうなるのか

そもそも失敗する苦学者を放置しているとなぜ問題なのかといえば、ひとつは犯罪が増えるからだ。冒頭で苦学をすれば犯罪者になるか死の二択と書いたが、一般的に人間は死ぬことを嫌がる。そんなわけで犯罪者が増えてしまう。

社会主義運動家の堺利彦が危惧したのは、大卒がショボい(堺は凡骨としている)という点であった。明治三五年当時、帝国大学を卒業することは大変に難しいことだとされていた。ところが卒業した者たちの中に、凡骨、つまりたいした人間ではない。(この評価は堺利彦が一種の天才かつ、学校からドロップアウトした人間であることを考慮に入れなくてはならない)当時は大学に行こうというのは、裕福な家庭の子供たちだった。つまりエリートといっても、学資を出せる家庭の中でのエリートで、支援を受けた貧乏人の子供たち競争に参加させることで、受験の競技人口が増え、真のエリートを作り上げることができるというのが堺の主張であった。『堺利彦全集 第一卷 堺 利彦 中央公論社 昭和八(一九三三)年』

もうひとつ、苦学に失敗した者たちが誇りを持って生きることができないという点もある。死んだり犯罪者になるのは避けたいと、早々に苦学を諦めた若者たちは、それぞれ仕事を探し生活をすることとなる。新聞配達を続けてみたり、工員になったりと色々なのだが、彼らは不満を持ち続け、日比谷焼打事件などに参加する元苦学生たちもいた。

苦学問題の一番簡単な解決方法は、堺の言う通り教育に金を使うことなのだが、当時の日本の状況を考えると非現実的である。そして苦学を希望する者たち……それも貧しい若者たちの目標が、大きすぎるといった問題もあった。仮に多くの若者たちが入学できるような教育機関が設立されていたとしても、俺の希望はそうではないと、別のルートを目指して突っ走り、死ぬか犯罪者になる苦学生たちが続出していたことだろう。

宮崎来城の解決方法

「名流苦学談 宮崎来城著 大学館 明治三七(一九〇四)年」は、苦学に成功した偉人を紹介しつつも、若者たちに厳しい現実を教えるといった謎の書籍である。なぜこのような構成になったのかといえば、著者の宮崎が誠実であったからだ。この書籍で宮崎は、働きながら学ぶとか普通に無理だろと書いてしまっている。

車夫は収入が「客次第」だから「まず駄目とおもわねばならない」。華族の専属の車夫になれば無理ではないが、「好い手づるを求めねば、容易に得られまい」。新聞配達は収入が低すぎるため、「いかがとおもう」。筆耕はというと、時間を費やし手も疲れるため学問をするためには、「余り好い職業とはおもわれない」。牛乳配達も余程の縁故がなければ「衣食を給するには足らない」。新聞で牛乳配達や新聞配達などを募集しているが、「まだ東京の事情を知らない、田舎出の貧書生などは、必ず近寄らぬやうにするが宜しい、欺かれぬが宜しい」。ようするに働きながら学ぶなんてことは無理だとしているのである。

それではどうすればよいのかというと、宮崎は考え方を変えろと言う。そもそも昔は学校なかったのだから、「教師に就くことの出来ぬのを嘆くまでもない」。だから自分で学べ、読書をしろと説いた。

読書するしかない……

当時の苦学者向けのガイドブックのほとんどは、基本的には苦学は無理だとした上で、しかし頭が良い上に五年ほど薩摩芋のみ食い続け2時間睡眠で健康体を維持できる程度に頑強であれば、こんな仕事をしながら学問することもできますよなどといった内容になっている。苦学などしたことがない学生の小遣い稼ぎ、あるいは実家からの仕送りを遊びに使い込んだ末に、なんとか出版社にもぐり込んだ男が書き飛ばしたようなものも多かった。

宮崎はといえば、それなりに苦学をした末に、一時は国士として活躍し、後に故郷へ戻り後進の育成に努めというような人物である。だからこそ、このような内容になったのではないのかと私は考えている。

問題を解消しようとはしたけれど

ここからは私の考えをまとめるためのメモのようなものなので、そういうものとして読んでいただきたい。

苦学の不可能さを解消するために、それなりの制度や仕組みは作られていた。苦学生のために夜間学校が作られ、給料を得ながら学べる職業訓練学校や、基本的には学費が必要ない師範学校などもあった。しかしながら田舎から出てきた若者が、苦労をした末に夜間学校を卒業したとして、はっきりいって得られるのもはそれほど大きくはなかった。

実は苦学を調査する以前、戦前の苦学者は師範学校に入学するものだと私も考えていた。しかし師範学校には、できればいきたくないといった若者が多かった。

なんでこんな学校を作るのか……

『こころの華 竹柏會出版部 明治三五(一九〇二)年』

廃止したほうが良さそう

『新仏教 新仏教徒同志会 明治三九(一九〇六)年』

それでも並外れたな努力の才能と忍耐力、知能と健康な身体、そして他の選択肢に見向きもしない思い込みさえあれば、貧しい家の子供でも通える学校が用意されていたことは事実だ。私は苦学は不可能だとしているが、実のところ可能な苦学もそれなりにあったのである。それならなぜに不可能だと私がしているのかといえば、ここは異常に複雑な部分なので流してしまうが、貧しければ貧しいほど不可能な苦学にひかれてしまうといった問題を抱えていたからである。

彼らは貧しさゆえに、社会に関する情報をほとんど持たない。他の選択肢があることすら知らず、大昔の出世物語を元にして、小学校を卒業したからとりあえず東京に出て帝大を卒業するだとか、よく分からんが大臣になるなどの高すぎる目標を設定してしまう。そんなことが出来るはずもないのだから、苦学は不可能になってしまうというわけである。

実は苦学の過程で工場などで働き、頭角を現す苦学生たちはわりといた。しかし彼らは機会を得ると、なんの迷いもなく職場を去り上の学校に進学しては失敗していく。驚くことに彼らは学問をしたいわけではない。とにかく立身出世をしたいのだが、具体的に立身出世がなんなのかというとあやふやだ。ただ工場で働くのはなにか違うくらいの感覚であった。

彼らが工場で働くことを嫌がったのは、他にも理由がある。当時は身体を使う仕事に対して不当に低く評価する文化があり、身体を使わずに頭で考えることが高度なことだとされていた。当時の頭だけを使ってなにかしていると主張している奴らの仕事を確認すると概ねゴミみたいなものでしかないのだが、帝大ですら工業科や農学科に、人が集まらなかった時代があったほどだ。この辺りの感覚は今の人にはよくつかめないと思われるので、一例として東京工業試験所の事例を紹介する。

昭和一六(一九四一)年に工業学校(今の工業大学卒くらい)を卒業し東京工業試験所に入所した若者は、部長から「上級学校、特に大学へ行くことはならん、国賊だと」言われたそうだ。なぜなら「国立大学を卒業すると、とにかく全然仕事しなくなる」からだ。「大学を出て15年か20年たつと、化学実験や化学分析も自分ではできなくなる」。そのため「工業学校卒の者」「化学実験や化学分析」をされるわけだが、工業学校卒業の人たちは、「技手以上の技師にはなれ」なかった。(後に多少は改善されたそうだ)これらの考え方が、一八九〇年あたりにもあった「身体を使う仕事に対する嫌悪感」から来るものだとすると、それは五〇年以上も残り続けたということになる。

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働けば働くほど出世から遠ざかり、学べば学ぶほど駄目になるというのは理屈に合わないような気がするが、東京工業試験所は国立の研究施設であるから、その時代としてはそれほど馬鹿な考え方ではなかったのだろう。上級学校、特に大学へ行くと国賊というのも謎で、国賊になるような国立の学校があるというのも大笑いなのだが、これらは工場で働き才能を開花させたにもかかわらず、今から見るとお話にならないような水準の教育しか施していない学校へ進学しようとした苦学生たちの行動原理と構造としてはよく似ている。

先にも書いた通り、戦前の日本が教育に莫大な予算を投入することは難しかった。しかしながら、「身体を使う仕事に対する嫌悪感」を払拭することは、非現実的だとするほど難しいことではない。実際に戦前に作られ、現代も残る人工的な感覚は多い。時間厳守、仕事をなるべく休まないなどといった感覚は、今も残る代表的なものだといえる。

苦学生の全員が帝国大学を卒業し、大臣になれる社会を維持することは不可能だ。しかしそれぞれの人間がそれぞれの仕事でなにかを創造、あるいは生産し、(幻想であったとしても)安心して生活できる環境は、当たり前に実現可能であったように私には思えてならない。

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