山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

ぶつかり男を初めて見た

駅を歩いていたら前にいた小柄な女性がいきなり後ろ向きにジャンプしてきたので、なんだこいつ頭おかしいのか?って思ったんだけど、よくよく観察してみるとオッさんが女性に突進し、軽く飛ばされてしまったといった状況だった。

無駄に女性にぶつかっていく、ぶつかり男、あるいはぶつかりおじさんの存在は知っていたので、おそらくこれがぶつかりおじさんなのだろうと認識することはできた。そこで正義感の強い私は周囲の人達と協力してオッさんをとっ捕まえ、拷問をして二度と電車に乗れない身体にしてやったというようなスカッとストーリーみたいなのがインターネットだと好まれるが、現実はそれほどドラマチックではない。オッさんは意味の分からないことをブツブツ言いながらそのままどこかに行ってしまい、女性も何事もなかったかのように歩き続けていた。

私が歩きながら考えていたのは、あれが本当にぶつかり男なのだろうかということであった。

もちろん注意したほうが良かったのかな……などといったことも思わなくもなかった。しかしなんだかんだで2秒くらいの出来事だし、かなりの反射神経がないと注意とか不可能だと思われる。人がわりと多くいたのでオッさんをつかまえようと大きなアクションを取ると、私が他人にぶつかって第二のぶつかりおじさんが誕生するだけである。あと女性的にも、他人がワーワー騒いだら余計に不愉快みたいなところもあるんじゃないのかとか、色々なことを考えるんだけど、それよりも強く思ったのが、先にも書いた通り、あれは本当にぶつかりおじさんなのかなといった疑問であった。

普通に考えると意味もなく他人にぶつかるメリットはない。それどころかリスクのが大きいと思う。小柄な女性が肩パットに毒針を仕込んでいたら、あのオッさんは死んでたと思う。普通に死ぬだけならまだいいけど、その毒が身体に入ってしまえば最後、全身が猛烈な痛みとともに紫色になり、寝てやり過ごそうとしても目から大量(200イギリスガロン)の海水とともにヒジキが大量に流れ出てくるため布団が湿気り続け異常に不快な気持になり、24時間苦痛が襲いかかり三日三晩七転八倒し続けなくてはならない。強靭な意志で痛みに耐えれば生存できるものの、そうでなければ死んでしまう。普通のオッさんにそのような痛みにたえることができるとは思えない。痛みにたえることもできずに毒で死ぬようなクズが、他人様にぶつかろうと思ったりしてるんじゃねぇよと私なんかは怒りに燃えてしまうわけだが、そんな毒はこの世に存在しないし女性も肩に毒針を仕込んでいなかった可能性が高い。もちろん違う方法で毒針を刺していた可能性は残っておりオッさんの死生は不明だが、オッさんから被害を受けたことがない人間だと、意味もなく他人にぶつかる人間が生存しているのかといった疑問を持ってしまう。どう考えても意味なくぶつかるというのは意味不明であるから、オッさんの足腰やら判断力が弱っていて、意図せずぶつかったのだろうというように処理してしまう人もいると思う。

私もオッさんの反射神経が鈍りすぎててぶつかったんじゃないのかとか、ゲーム脳なのではないかと考えてしまった。今のゲームは知らないけど8ビットのゲームだとダメージを受けると暫くチカチカ点滅して無敵状態になる。サンソフトのいっきみたいに一回ダメージ受けたら死ぬゲームの場合だと、残機が減って復活してしばらくはチカチカ状態で無敵になるんだけど、オッさんは生きてたのでダメージ制のゲームだったのであろう。色々あって脳が弱りすぎたオッさんは、一回女性にぶつかってダメージを受けてチカチカ点滅の無敵状態になって駅のホームをゆうゆうと濶歩できるとか考えていたのかもしれないが、それは大間違いで現実とゲームは違う。同じっていうのならパターン化された動作で空中を飛びまわりながら、駅の構内でビームみたいなのを一生出してたらいいと思うわけではあるが、生身の人間が人間にぶつかったところで、点滅しないし無敵にもならない。ただぶつかるだけである。そのくらいのことは分かって欲しいものですが、次に私が考えたのは、サンソフトのいっきの舞台が何年くらいのなのかっていうことであった。

色々な描写から江戸時代であることは確か(明治入ってすぐの可能性もなくはない)なんだろうけど、安定した時代においては、一揆は基本的には交渉事である。デモンストレーション的な行為が主体で、人を打ん殴ったり、ぶっ殺したりすることはほとんどない。農具を持って一揆をするのも、我々は農業をしている人間だぞというアピールで、別に鎌で侍を切り殺そうとしているわけではない。いっきのような一揆が行なわれたのは、島原の乱以前か江戸の後期のことで、忍者がいるっていうことは江戸に入ってすぐくらいの話なんだろうが、しかし後期っぽい部分も多いしなどと色々なことを考えた末に、やはりあれはぶつかり男とかぶつかりおじさんとか呼ばれる奴であったのだろうなと、ようやく認めることができた。めでたしめでたしといったところだが、ちょっと自分に動揺してしまった。

私は日頃、昔のことを調べて遊んでいるのだけど、たまに信じられないような資料を目にすることがある。人間は既存の知識や経験を基準にして、物事を理解するわけだけど、そういうものから飛び出した外れ値のような事実が存在するのである。変なものに出会った時に、(検証は必要にしろ)それをそのまま受け入れることができるのかどうかが、昔のことを調べる上でわりと重要なセンスだと私は考えている。

だから変な出来事を見ても、そのまま認める訓練はできていると思っていたのだが、中途半端に非現実的なぶつかりおじさんに直面した際に、なんとか整合性をつけようと色々なことを考えていた自分に対してちょっと動揺してしまったというわけである。

異常な資料を読んだとしても二秒で納得できるように訓練したところで、生存している変なものに対しては無力であり、立場の違う人の被害を理解するっていうのは、なかなか難しいものであるなといった感想だった。