山下泰平の趣味の方法

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明治時代に貧乏人の子供に憧れ苦学生のコスプレをするお金持ちの子供がいた

貧乏人の子供に憧れるお金持ちの子供たち

明治時代には、お金持ちの子供が貧乏人の子供に憧れることがあった。貧乏人の子供の格好を真似してみたり、貧乏生活に挑戦してみる子供すらいた。なんでそんなことをするのかといえば、単純に馬鹿だからである。しかしながら馬鹿が馬鹿みたいな行為をするにしろ、そこには理由や理屈がある。そんなわけで、なぜ明治時代にお金持ちの子供が貧乏人の子供に憧れ、苦学生のコスプレをしたのか解説してみよう。

富豪の息子たち

そもそも貧乏人の子供に憧れるお金持ちの子供がいたこと自体が、信じ難い人がいるかもしれない。まずは実例を紹介しておこう。

市川好廉は慶応大学を経て、実業家となった男である。彼の父市川好三は山梨県出身の米穀商で、一八七六年に設立された第三国立銀行の出資者の一人だ。第三国立銀行の初代頭取は安田善次郎で、ようするに今でいうところの富豪の息子なのだが、この人は苦学をしたと自認をしていた。ちなみに彼が学生時代を過したのは明治五年から十年前後の時代になる。

「予は何故苦学せし乎(実業の世界 一九一一年 四月一日号)」で市川は「近頃の学生は馬鹿に贅沢になった」と嘆き、私が学生の頃には「精神の修養上」「忍耐力、克己心の修練」のために、あえて「苦学を行った経験がある」としている。「同じ学校の友達二人と相談し」家賃の安い家を借り、実家から「学費を取り寄せないやうにし、極めて質朴な生活」をするというものであった。全員が富裕層の息子であったらしく「学費をもらえぬ事もなければ、品物も取寄せればどんなにでも取寄せられる」のだが、好んで質素な暮しをしようという主旨であった。

どのような生活をしていたのかというと貧乏生活としては凡庸なもので、蚊帳がなくて困ったとか、「下駄にしても新しいものは恥しいといってはかない。新しいものはわざわざ溝泥に入れて汚し」たそうだ。今の贅沢に慣れた学生には「到底真似難い事だろう」としているが、普通に真似できる奴は大量にいた。旧制中学では真新しい下駄や学帽を汚すことは、長く普通に行われたくらいで、至極凡庸な行為だといえよう。

市川がこの生活を続けたのはおそらく明治六年あたりの数ヶ月程度で、酒の席で「昔はこんな馬鹿な暮しをしていたこともあるよ」と語るのなら理解できなくはないが、若者への説教として自慢気に話しているのはかなりヤバく、現代の感覚だと完全な老害であろう。

市川が至極凡庸な貧しい生活の真似事しか出来なかったのは、働きながら学ぶ苦学生はほとんど存在していないかったからだ。苦学生が存在している時代に、後に評論家となった樋口竜峡は、そのコスプレをしようとして失敗している。樋口は銀行家樋口与平の長男で、またもや銀行の奴である。

彼が帝大に通っていた頃に、毎朝散歩をすると色々な人と行き交うが、「元気らしく、見えたのは、牛乳配達夫に新聞配達夫である」「車夫も勇ましい」。彼らの中には苦学生がいると聞いた樋口は、そのうち「苦学生のする事は、なんでも勇ましい様に見え」るようになってしまった。「辛苦してて勉強するのは、傍で考えて見ると如何にも楽しそう」であり、「ガラガラと箱車を引いて、チリンチリンと腰の鈴を鳴らして駆ける様はどうも羨ましくてならなかった」ため、苦学生になることにしたそうだが、相当な馬鹿だといえよう。

この計画を友達に話したところ「親元からの支援も断るのか」と煽られてたのだが、樋口は「親からの仕送りは貯金をしておく」と答えている。嘘でもいいから、親の世話にはならんくらいのことを言えよとしか言い様がない。こういう根性なしであるため、仕事を探しているうちに脚気となりこの計画は頓挫してしまう。それでも諦めきれなかったのだろうか、樋口はちょっとした書き物をした上で、従兄に出版社を紹介してもらい本を出して小遣いを稼いだ。これも当時の少し貧しい学生がしていたアルバイトであり、本人は満足していたようなので他人がどうこう言うことでもないのであろう。(自ら進んで取れ 樋口 竜峡 広文堂 明治四三(一九一〇)年)

樋口や市川ともに、自分は苦労をしたと感じていたことは確かなのであろう。しかし貧しい生活で難しいのは、一度判断を誤ってしまうと生活を回復させるまでに時間がかかる、あるいは永遠に復旧することができない点だ。

現代でも判断を誤って一万円程度無駄にしたために、三ヶ月程度苦悩をし続けている若者はそこそこの数はいるはずで、そういった人間が抱える難しさは、樋口や市川には理解することは出来なかったのであろう。

理想化された苦学生

現代の視点からみると、市川や樋口は馬鹿丸出しなわけだが、当時の事情を鑑みるとその気持は分からないでもない。

市川の時代は日本の学校は黎明期であり、貧乏で(あるいは貧乏に見える)優秀な学生がいた。日本の文明を先に進めると同時に、大学で教えられるような人材を作り上げるため、各藩から優秀な人材を集めた貢進生(今の奨学生のようなもの)の制度や、東大の学部を作ってみたけど農学部や工学部入学してくる奴がいねぇというような時代であったため、学生間の格差も大きかったのである。それに加えて「粗衣粗食を尊ぶ」といった感覚もまだまだ残っている時代であった。市川自身も当時はまだまだ「粗衣粗食を尚ぶと云ふ漢学書生の遺風」が残っていたとしている。ようするにそういった生活スタイルが格好良いとされていたため、コスプレ的にそんな生活をしてみたくなったというわけだ。

樋口のケースでは単純に新聞・牛乳配達夫や車夫が一定の条件下で格好良く見えたというのが大きかったのであろう。

明治二十年にはイキな新聞配達人がいて、お金持ちの娘に惚れられるようなこともあった。当時、新聞を取るような家は基本的には良家であったから、恋愛関係に陥るのはお嬢さんだったというわけだ。(明治二〇年六月一七日朝日新聞第百十八号)もっとも、そのような新聞配達人はすぐに滅んでしまった。

長くシャレた格好をしていたのは牛乳配達夫で、とある苦学生は牛乳配達で苦学を成功させるための要素として「牛乳配達がハイカラぶっても仕方ない」と語っている。(学生タイムス社 明治三九(一九〇六)年 七月号)牛乳配達は新聞配達よりも参入障壁が高いが収入は多少マシといった職業で、身形に気を使う苦学生も多かったのである。大正時代に入っても「気障な人間が多い。頭をみても真中から割って、蜻蛉の頭みたいに安チックで固め、犬張子見たいにホワイトシャツのエりに、赤い毒々しいネクタイ」をしている牛乳配達夫がいた。(無産階級の生活百態 深海豊二 著 製英舎出版部 大正八(一九一九)年)彼らは配達先の女中さんと恋愛関係になることがまれにあったそうだ。

車夫には、威勢の良い男がわりにいた。明治三〇年代には三宅青軒が車夫を主人公とした娯楽小説を何作か書いている。苦学生の車夫が主人公の冒険小説は、大正時代に入っても書かれており、一定の格好良さを持った職業であったのだろう。

それに加えて苦学生が理想化された時代もあった。

『家庭雑誌 家庭雑誌社 明治三〇(一八九七)年 三月号』に掲載された小説「貧書生」は、新聞配達夫で苦学する青年が主人公の小説だ。

彼の配達先に小さな私立の女学校……現在の私塾くらいの規模……があった。この学校に新聞を届けるのは、奇妙な新聞配達夫であった。面体を頭巾で隠し、夏でも古びた外套を身に付けていた。外套は子供向けのものを直したのかと思えるほどに小さい。その姿のおかしさに、女学校の生徒たちが声を出して笑うことも度々であった。

変な格好

ある日のこと校長である老女が彼に、ちょっとしたお使いを頼んだところ、どうもいい返事をしない。幾度か頼むと青年は頭巾を取り、身の上を語り出した。私は家が零落した結果、新聞配達に身を落し学校に通う貧書生であります。これから学事があるためあなたのご用事をすることはできません、このことは深く隠しておりましたが、あまりにお気の毒なのでこうして頭巾を取り事情を話した次第です……と。

学費を使い込み、新聞配達で金を稼ぎ放蕩をする若者すらいる昨今、このような礼儀の正しい若者は珍しいと老女は感心し、今後は相談にも乗ろうしなんだったらお世話もしようと申しでるのだが、青年は学校がありますからまた後日と後ろも見ずに立ち去った。

ある日のこと、件の若者が一張羅の洋装でやってくる。世間話の後、女学校の助手でもしていただければというが、若者は新聞配達で学校を卒業すると誓いを立てたのでそれは出来ないとその申し出を断ってしまう。老女はますますその気象にほれ込むと同時に、彼の心を動かすこともできないと悟る。若者は庭にある梅を眺め、これは実に善い梅です。早咲をしないで十分霜雪に逢うた方が却って好いかも知れません。花が咲きましたら奇麗でしょう。その頃は拝見に参りたいものです」と言い残し帰っていった。

それから彼の姿を見ることなかった。我が身を恥じてのことだろうか、その他の事情があるのかは分からない。梅の花は満開になったが、彼の姿はもう見ることはできなかった……というような物語で、高潔な苦学生といったイメージが存在した。未成年で子供っぽく考えの足らない樋口が「辛苦してて勉強するのは、傍で考えて見ると如何にも楽しそう」と思うのも、当然といえば当然の話なのである。

苦学のイメージを利用する苦学生

戦前の苦学生のイメージは複雑で、賞賛されることもあれば、コミュニティーから排斥されてしまうことすらある。

苦労をするのは良いことだというのは戦前に存在していた価値観だ。だから苦学は賞賛される。だからこそ先に紹介した市川や樋口のように、苦学生のスタイルを真似したがる人々がいた。これも今では文化盗用として批判されてしまうのであろうが、当時はなんとなく苦労人の良い人的な評価を得られたのである。しかしながら「苦学生上りの紳士は何処かものごしに卑しい所がある。善良な家庭にスラスラ育った人にはそれがない(親分子分 白柳秀湖 (武司) 著 東亜堂書房 大正一(一九一二)年」などといった価値観も並立していた。

苦学生のイメージを活用しなんとか生き延びようとする貧しい若者たちもいた。まずは言い訳としての苦学だ。

虚栄的労働と云ふと何んだか、語弊があるかも知れぬが、実際何等の勉強もしない連中が、世間から単純なる労働者と見られる事の嫌さに、此新聞配達となつて、苦学生らしき顔をしてたものも、決して少くはなかった。(無産階級の生活百態 深海豊二 著 製英舎出版部 大正八(一九一九)年)

このように今は一時的に新聞配達をしているだけで、苦学をして将来偉いものになるのだと虚勢を張る若者たちもいた。苦学生だと言い張ってなんとか生活しようと苦闘する若者たちもいた。

『私は何々学校へ通学している苦学生ですが歯磨でも買つて頂き度いんですが』 「例えば新聞配達が新聞を勧誘に来るにしても、私は何々へ通学している苦学生ですが、何うか新聞を取って貰い度い』とか、『化粧品を買って貰い度い』とか、なんにつけ、かんにつけ苦学と云ふものを、自己の或る目的の手段にして居ると云ふのが、 近頃一般の苦学生と称する青年である。」 (立志成功苦学の裏面 深海豊二 著 須原啓興社 大正五(一九一六)年)

苦学生だと称し同情を得て、押し売りを成功させようといった手法となる。こういった若者が増えるにつれ苦学生の評判は悪くなり、苦学の難易度が上っていくといったことも起きた。

このように苦学生というイメージは多くの人に利用されていた。押し売りに活用するのは実用的なもので、冒頭で紹介した事例はさしずめ娯楽目的というところなのだろう。

苦学生とはなんなのか

普通に考えるのであれば、苦労をして働きながら学校に通う、あるいは通いたいと考えている若者が苦学生だとということになるのであろう。しかし日本の戦前の苦学ついて、私は少し違うとらえ方をしている。

以前に書いたように別に若者たちは、学校を卒業したいわけではなく、学問をしたいわけでもなかった。

cocolog-nifty.hatenablog.com

今いる環境から、抜け出したいくらいの考えしかなかったのである。しかし環境を変えようとするためには、今でもものすごい労力が必要だ。まして戦前、それもしがらみの多い田舎に住む若者が、人生を変えようと決心するためには、心を突き動かすような大きな力が必要であった。その大きな力となったのが苦学ではなかったのかというのが、今のところ私の出している結論である。

進学するための資金がない上に、成績も悪いのであれば、苦学なんてできるわけがない。それでも俺は苦学をするんだと言い張れば、苦学自体は悪いことではないのだから、なんとか家を出れなくもない。彼らはもちろん失敗してしまい、次のような生活を送ることになる。

金のある奴は夜になるとカフェーの女給のながし目に現を抜かす。活動を見に行く。真面目に勉強なんかしようものなら傍で浪花節をうなる。活弁の真似をする。どたんばたん相撲を取る。勉強の妨害する事おびただしい。『最新専検・高検・高資・普文独学受験法 勝田香月 編著 東京国民書院 昭和三(一九二八)年』

田舎から東京に出てきて、こういった生活を送る若者たちは、「堕落の境に陥ちて、金槌の川流となり、一生浮ぶ瀬の無い(立志成功苦学の裏面 深海豊二 著 須原啓興社 大正五(一九一六)年)」人物だとされた。中には犯罪者となり逮捕される奴もいた。

遊びすぎて逮捕された奴

しかしである。全く道徳的なことではないが、真面目に勉強している奴の隣で浪花節をうなり活弁の真似をして妨害するのは、少し楽しそうだなと私は思ってしまうのである。学習に集中し油断をしている奴の後頭部を相撲をするついでに張り倒す馬鹿なども絶対にいたはずで、そのような風景を見て笑わずにいられる自信はない。

彼らは確かに愚かなのであろうが、馬鹿さの具合でいえば冒頭で紹介した市川好廉や樋口竜峡も似たり寄ったりで、大正時代の田舎の貧乏な家に生れた成績の悪い三男坊が、苦学をすると東京に出てそのような生活を、例え短期間であったとしても手に入れたのであれば、それはそれで良かったねと私は思ってしまうのである。

学校

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