山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

国立国会図書館デジタルコレクションを使えば生存している人類の中でなにかに一番詳しい人間になれるけど

「はてなブログ×codoc連携サービスのプロモーションのため、はてなからの依頼を受けて投稿しています」が普段通りの記事で、有料部分には愚痴のようなものが書かれている。

国立国会図書館デジタルコレクションは素晴らしい

国立国会図書館デジタルコレクションは素晴らしい。

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『国立国会図書館で収集・保存しているデジタル資料を検索・閲覧できるサービス』で、四〇万点程度の資料を閲覧することができる。これをものすごく分かりやすく言い換えると、古い書籍や雑誌が無料で読めるサービスだ。二〇二二年には「個人向けデジタル化資料送信サービス」(後述)や全文検索機能などが導入され話題となった。

最近の日本は社会として良いことがなさすぎて悪いのが普通だが、国立国会図書館デジタルコレクションのみ異常な良さで燦然と光り輝いているため逆に不安になってしまうくらいで、とにかく国立国会図書館デジタルコレクションは素晴しい。この素晴しすぎる国立国会図書館デジタルコレクションを眺めるうちに、なにか素晴らしいことをしてみたいと思う人が出てくるのは理の当然であろう。

しかしながら、そういった人向けの文書は今のところ存在していない。それではというわけで、そういったものを私が書いてみることにした。

私は二〇〇八年あたりから近代デジタルライブラリー(二〇一五年に国立国会図書館デジタルコレクションと統合)を使い始め、今もほぼ毎日のように国立国会図書館デジタルコレクションを利用している。私が書いた書籍で扱っている資料の七割程度は、国立国会図書館デジタルコレクションによるものである。

書いてくださいと頼まれているわけでもないが、これとこれについて書こうかなくらいのことを常に考えられるくらいの状態を今のところは維持できている。利用者としては、そこそこ使っているほうだろう。

そういう人間としてしみじみと実感していることがある。それは国立国会図書館デジタルコレクションが個人にもたらすパワーである。私が趣味で調べている分野について調べる人は少数ながら昔から存在しており、すでに発見できるようなことは残っていないようなものなのだが、国立国会図書館デジタルコレクションを利用するのとしないのでは、走って移動するのと車、あるいは飛行機で移動するくらいの違いがある。並外れた知能やセンスがなくても、国立国会図書館デジタルコレクションを使えば未到の領域にたどり着けてしまうのである。

もちろん走って飛行機を追い越すような異常者もたまにいる。しかしながら異常者が道具を使えば、さらに遠くに進めてしまうこともまた事実で、普通の人も異常者もありがたく国立国会図書館デジタルコレクションを使わせてもらおうといったところであろう。

とにかく根気のある人がコツさえつかんでしまったら、国立国会図書館デジタルコレクションを使って色々なことがきる。中でもそれ程までに労力がかからず、そこそこ満足感が高いのは、生存している人類で一番詳しい人間になることだろう。これは国立国会図書館デジタルコレクションが登場するまでは、なかなか難しいことであった。しかし今ではやろうと思えば、誰でもやれることになっている。

ちなみにであるが、"生存している"としているのは、過去の異常者を考慮に入れているからで、いつの時代も異常に知っている人間はいる。しかし異常に詳しい人間がこの世から去ってしまい、多くの人が忘れてしまった分野であれば、一番詳しくなれないこともないといった理屈である。

使い方は使えば分かる

一般的にガイド的な文章では、国立国会図書館デジタルコレクションとはなにかから始まり、検索はこうですよといった話になる。しかしここでは、そういったことは書かない。なぜなら普遍的でないことを説明しても意味がないからで、Web の UI はそのうち変化する。使い方なんてものは、使えば分かる。現状についていかに詳細に書いた所で、使わない人は使わない。そういったものを読んで使ってみるかとなったとしても、一回使ったらフーンで終りだと思われる。そもそも国立国会図書館デジタルコレクションは、普通に使いやすい。トップページにアクセスしたらだいたいのことが分かる。

国立国会図書館デジタルコレクション

ヘルプのページもわかりやすい。

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最近の日本は社会として意味なくわかりにくいシステムを構築しポイントを付与して喜ぶといったことが行なわれているが、なぜか国立国会図書館デジタルコレクションだけが異常なまでにわかりやすく、ポイントもない。国立国会図書館デジタルコレクションだけが良い理由は謎である。とにかく使えばわかる使いやすさとわかりやすさだ。

そんなわけで使い方などは解説しないが、ひとつだけ国立国会図書館デジタルコレクション特有のことを書くとするならば、事前に国立国会図書館の利用者登録の本登録についてである。国立国会図書館デジタルコレクションでなにかをしてみたいって思っている人は、意味が分からなくてもいいので、今すぐ国立国会図書館の利用者登録の本登録をしておいたほうが良い。

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手続きは面倒くさい。しかし登録すると「個人向けデジタル化資料送信」が利用可能となり、比較的最近の資料が利用できるようになる。具体的には次のようなものが読める。

月刊消費者 12月(328) - 国立国会図書館デジタルコレクション

本登録するためには本人確認書類が必要な上に、登録までに(現状では)一週間ほどかかったりするので、さっさと済ましておいたほうが良い。なにかしようと思った時に大切なのは勢いで、ジャンジャン使うぜってなった後で、国立国会図書館の利用者登録の本登録に時間がかかってしまい、勢いが弱くなったら最悪だと思われる。

生存している人類で一番詳しくなれないこともない時代

最高に素晴しい国立国会図書館デジタルコレクションだが、もちろんできることと、できないことがある。例えば国立国会図書館デジタルコレクションを使い、医師国家試験や司法試験に合格することは難しい。しかし生存している人類の中で、なにかについて一番詳しくなることはできなくもない。

あなたが趣味で鶉(うずら)をペットとして飼育をしているとすれば、生存している人類で一番詳しくなれる可能性は高い。

国立国会図書館デジタルコレクションで "鶉 飼育" で検索すると、2023年6月5日現在だと検索結果は 257 件ある。

検索結果 - 国立国会図書館デジタルコレクション

まずは全て目を通し、重要だと思われるものを読んでしまう。趣味で鶉を飼育しているのだから "啼き鶉" "鶉飼" など別の検索語を思い付くのだろうから、それも読む。うずらの飼育ブームの際に『うず(づ)ら』なんて雑誌が発刊されていたのだななんてことも分かってくる。

『うずら』1(1)(1),うずら社,1918-05. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1499297 (参照 2023-06-21)

この時点で生存している人類の中では、戦前の鶉事情について、そこそこ詳しくなっているはずだが、残念ながら一番詳しいと断言することはできない。なぜなら世の中には色々な人がいるからだ。異常な情熱を持って、デジタル資料に留まらず、紙資料を収集しフィールドワークで聞き取りなどしながら、戦前の鶉の飼育方法を調べまくっている人間がいてもおかしくない。残念ながら国立国会図書館デジタルコレクションでは新聞が読めないのも、少々弱いところだ。

しかしながら、ありがたいことに、人間には好みというものがある。資料を読み続けていると、やがて興味が絞られてくる。ペットとして鶉を飼育していて、戦前の人々がどのように鶉を愛していたのかに興味を持つことができたのであれば、その周辺の文書を読み続ける。

良いデザイン

収益のある鶉の飼育法 - 国立国会図書館デジタルコレクション

調べれば調べるほど面白くなってくるはずなので、国立国会図書館デジタルコレクションでまかなえない部分は、古書や実地調査で補完するということになってくる。そんなことを五年も続ければ、戦前の日本における愛玩動物としての鶉に対する人間が持つ気持ついては、生存する人類の中では、(ほぼ)一番詳しい人間になっているはずだ。

趣味で鶉をペットとして飼育をしていない人間が、同じことをしたとしても、鶉をペットとして飼育をしている人と同じくらいにまで詳しくなることはできない。鶉に対する経験値と愛に圧倒的な差があるからだ。欠片ほどでもいいから、経験や興味、そして愛のあることを対象として調べるほうが有利なのは当然のことである。

時代とジャンルで区切ると簡単に詳しくなれる

鶉はもちろん、なにも愛していない人は、ジャンルに加えて時代で区切ってしまうと人類で最もに詳しくなりやすい。

国立国会図書館デジタルコレクションに登録されている書籍の中で、明治三七年に出版されたものを抽出してみると検索結果は 「3,578件」になる。

検索結果 - 国立国会図書館デジタルコレクション

流石にこれを全て読むのは厳しいため、日本文学の小説のみを指定する。

少ない

検索結果 - 国立国会図書館デジタルコレクション

そうするとわずか「138 件」となる。

これを全て読んでしまえば、明治三七年に出版された日本文学の小説で国立国会図書館デジタルコレクションに登録されているものについては、生存する人類の中では一番詳しいとしてもいいだろう。ちなみに私が読んだものは三〇冊前後なので、少くとも私よりは詳しいと断言することはできる。

素養、学識、予備知識

一番詳しくなれるとは書いたものの、実はちょっと難しいところもあって、例えば文学なんてなにも読んだことがない人と、筑摩書房の明治文学全集を読破してる人とでは、明治三七年に出版された小説で国立国会図書館デジタルコレクションに登録されているものを全部読んだ結果は違ってくる。鶉の飼育と同じで、好みによって読み取り解釈する場所も変わってくるからだ。この事例の場合なら、日本の演芸史を真面目に学んだ人などは、かなり良い読み方をするような気がしないでもない。

基本的に難しいことを考え、解釈するためには、素養や学識、予備知識が必須となる。そういったものがあればあったで、こういった形式で批評しなくてはなどといった型に固執してしまうといった弊害もあって、そこを克服するためにはまた別の訓練が必要となってくるのだが、そういった高い水準の話は置いておいて、私も不規則な方法ではあるものの、文系の基本のようなものは身に付けているつもりだ。しかし国立国会図書館デジタルコレクションというか、デジタルライブラリの面白いところは、なにも知らなくても読むことだけは読めてしまう点だ。

これまでだと、成功雑誌社の成功を読もうとすると、古書を集めるか復刻版を読むしかなかった。復刻版の本体価格は736000円+税で個人が手を出せるものではない。

www.fujishuppan.co.jp

ところが今では国立国会図書館デジタルコレクションで一七三冊は読めてしまう。

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何も知らなかったとしても、読んだら読めるわけで、とにかくすごい。異常に読んでる人とそうでない者とでは、明白な差が出る。もちろん予備知識はあったほうが望ましいのだが、面白いことに読み続けていると、その分野の体系のようなものが構築されてしまう。

例えば手薄な研究ジャンルの作品を五年ほどかけ三千冊ほど読みながら疑問点を調べ続けていれば、既存の成果と遜色ないような、なにかを生み出すこともできなくもない。もちろん研究の成果として認められるのか、それが正しいか誤りなのかはまた別の話である。しかしなにかを生み出すことができてしまうし、時には知らない人間のほうが面白いことを思い付くこともあるはずだ。デジタルライブラリーの登場以前から、独学ながらもそれなりに読んだり勉強してきた私としては、内心ちょっと認めたくないことではあるが、事実は事実なのだから仕方ない。

その上で、論文を書きたいのであれば、作法を習得しなくてはならないし、それなりの訓練も必要となる。当たり前といえば当たり前なのだが、この辺りは素養がないと間違えてしまいがちなところで、面倒くさいかもしれないがルールはルールなのだから仕方ないといえよう。

色々あるが絶対の事実として、読んでいる奴は強い。私は格闘技に詳しくないのでよく分からないが、体重が38キロの人間がいかに技を極めたとしても、体重120キロの筋肉の塊みたいな人に勝つのは難しいというのに似ている。究極までいくと高速に動作する巨大な重機に勝てる人間がいないように OCR の精度を上げ AI に読ませるのが最強に強いわけで、私も考えるのが面倒なので早いとこそうなってくれと願っているものの、今の延長線上だとちょっと難しい気はしている。これは技術的な問題というよりも文化の問題で、結局のところ解釈というのは、人間の価値観を変化させることにすぎない。それを人間が受け入れることができるのかどうかということになるわけだが、話がズレていくのでこの話はここで終りで、とにかく読んでいる人に読んでいない奴は勝てない。

デジタルデータとアナログデータ

これも素養や学識なんかともかかわってる部分だが、デジタルデータとアナログデータは明確な違いがある。いまさら紙の本の暖かみがどうのこうとのといった話をするつもりはない。すでに紙書籍と電子書籍の差異は少なくなっている。ほとんどの本が、電子書籍化を前提に作られているのだから、当たり前の話である。国立国会図書館デジタルコレクションに収録されているような書籍であっても、別にデータとしての違いはない。

ただし、その時代の形式のようなものは、デジタルデータだとよく分からない。紙の本で十分に消費した上で、国立国会図書館デジタルコレクションを利用する人は問題ないが、国立国会図書館デジタルコレクションのみでなんとかしようという人は、その辺りを認識しておいたほうが良いだろう。

このあたり少し分かりにくいため、一例として一冊の本を紹介したい。河岡潮風の『五五の春』だ。

表紙

私は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な資料は、基本的には購入しない。この本は間違えて購入してしまったもので、せっかくなので事例として紹介してみようとわけである。

『五五の春』は河岡が二五歳となる記念に出版した書籍で、五月に発売されるも、七月にはこの世を去っている。

背表紙

図版は多く、装丁は美しい。

図版

デジタルデータでは、こういった部分は伝わりにくい。それでは伝わらなければ問題なのかといえば、別にそういうわけではない。表示が汚すぎて読む気が失せるといった問題はあるが、別に文字が読めれば問題ない。

ちょっと困るのは、その本がどういう位置付けなのか理解できないといった点であろう。当時の書籍を触ったことがある人ならば、『五五の春』は真面目な本にありがちな作りだと分かる。こういうことは当時の書籍を触ったことがあれば、デジタルデータからでも読み取れないこともない。ただ、知らない人はよく分からない。分からないと効率が悪くなり困るわけだが、困ってる事に気付くこともできないということもあって、ようするに実物は触っておいたほうが有利だといえば有利だ。

しかしこの『有利だ』というのも、私が古い感覚の人間だからこそ思うことで、デジタルライブラリーのみで素養を身に付けた人間がどう思うのかは分からない。今後そういう人が出てきたら、詳しく話を聞いてみたい。

ちなみに『五五の春』は、値段のわりに凝った作りになっている。おそらくこれは、博文館に貢献してくれた河岡を励ますといった意味もあったのであろうが、先述の通り河岡はこの本が出版されたひと月後に亡くなっている。こういったこともデジタルデータから読み取ることは難しいが、こちらはなんとはなしの物悲しさを感じられるかどうかの話であって、分からなければ分からないで問題はない。

詳しくなっても意味はない

一般的にはものすごく知っている人には価値があると思われがちだが、誰も興味を持たない変なことについて知っていたところで意味はない。なぜならそんなことは、誰も知りたくもないからだ。私も色々と調べたいことを調べてはいるが、戦前の清掃とスポーツの関係について他人に話をしたことなどはない。なぜなら誰も興味がないからである。

さらに人気のあるジャンル、学問の対象になっていることなどは、国立国会図書館デジタルコレクションで調べるよりも良いルートが用意されている。だから無理して国立国会図書館デジタルコレクションでなんとかする必要もない。ようするに普通の人が国立国会図書館デジタルコレクションを使って生存している人類で一番詳しくなれる分野というのは、他人が興味を持たないようなジャンルであり、金にはならない分野だということになる。

先にも書いたが他人の興味が持たないジャンルは詳しくなっても意味がない。それじゃそんなこと調べなきゃいいのではないかといった話になってくるわけだが、自分だけ面白ければそれで十分である。なにに興味を持つのかは個人の勝手であって、興味もないのに他人が興味を持つから調べようということこそ真に意味のない行為であろう。

全てに明確な意味などなく、人生にもあやふやな意味しかないわけだが、大人なら誰でもそんなことは知っていて、厳しい現実に折り合いを付けながら生きている。今は無邪気に毎日を遊び暮しているお子さまたちも、いつかこの現実に直面し、打ち拉がれ一度は倒れてしまうのかもしれない。しかしうろたえながらもやがては毅然として立ち上がり、力強い一歩を踏み出すわけで、全員立ち上がったので話を続けると、他人が興味を持たないようなジャンルに詳しくなったとして、どうするのかっていうと、そこからは人次第としか言い様がない。普通にしたいようにしたら良いと思われる。私の場合はインターネットで他人が一切興味のない事を強引に眼球に刻みつけるというような活動をしていて、この文章もそういった活動の一環なわけだが、これが私の普通である。

知識をお金にするというのであれば、別のやり方も多くある。ただしどうしても短期的にしか通用しない手法となるだろう。私は年々普遍的なこと以外には興味がなくなってきていて、十年くらいしか通用しないようなことはしたくない。そういうことをしたい人は、まだやり方は残っているので、そういう方向で考えたら良いと思う。

少し残念な話もしておこう。一年かけて生存している人類の中で一番詳しくなったとしても、同じことを誰かがすれば同じくらいに詳しい人間が登場してしまう。同じことをした人間が、国立国会図書館デジタルコレクション以外の情報ソースにあたり、さらに調査を続けるとあっという間に詳しさで負けてしまうことにもなる。しかしながら、そんなマイナージャンルで勝ち負けなんてものは、どうでもよすぎる話であって、色々あるがひとつだけ私が思うのは、人生で一度くらいは「これは生存している人類の中で私が最も知っているな」と思えるくらいにまで、時間を浪費してなにかを調べてみるのも悪くないということだ。悪くないということは良いのだから、それでいいのではないだろうか。

他人の意見はあまり参考にならない

長々と書いてきた上で、今更このようなことを書くのは微妙な話ではあるのだが、自分がかかわっている分野に大きな変化を起こすような新しいテクノロジーが出てきた時には、他人のいうことを聞くのは止めたほうが良いと思う。つまりこの記事も無視したほうが良いということになるが、正直なことを書くとその通りかなと思う。

この記事では国立国会図書館デジタルコレクションを使い、生存している人類でなにかについて一番詳しくなれないこともないと書いている。しかしこれは、実利的なアドバイスではない。なにかを調べて知るということは、私にとって優先度が高い。だからそういうことを書いているわけだが、人によってはなんの魅力もないような行為で、そんなことよりも毎月二万円くらい儲かるほうが重要といった価値観の人もいることだろう。

昔のコンテンツを使って小金を稼ぐというのは、(今のところは)ちょっとした工夫でできるようなことで、国立国会図書館デジタルコレクションのコンテンツを Kindle Unlimited なり Youtube なりで配信できる形式に変換しアップロードするプログラムを書いて、一万冊分くらい流したらしばらくは毎月三万円くらい儲かるかもしれない。これは今さっきちょろっと思い付いたことでしかなくて、真面目に考えたらいくらでも方法はあると思われる。

私はそのような行為には普遍性がないので興味を持てないし、人類規模で見ると害悪となる行為なのでやらないほうが良いと思うが、そういうことに興味がある人は、私のいうことは無視してやったほうが良いということになる。

私にしても好き勝手やっているし、人の言うことなんて無視している。基本的に国立国会図書館デジタルコレクションを利用する人は、文化や学問の場に近い人が多い。しかしそういった人の話はあまり役に立たない。たまにこんなに面白いものを、そこまで退屈に使えるのも逆にスゲーなって思ったりすることもあるくらいだが、これも私の使用方法や嗜好と違うだけの話で、人間は自由なのだから個々人が好きに使えばいい。

もっというと国立国会図書館デジタルコレクションを使って、過去を捏造しようと思えばできる。これは基本的には馬鹿げた行為で、なにか言いたくなるわけだけど、そういう人は国立国会図書館デジタルコレクションがなくても捏造する。それならテクノロジーで捏造の速度を上げ、捏造に飽きさせたほうが人類規模で見ると効率が良いということになりそうではある。

様々な人間が生きているわけだが、みなに共通する思いは、この素晴しい国立国会図書館デジタルコレクションを維持できるくらいの国力を保っていこうということで、脱税は止めようとか政治家が馬鹿みたいことしてたらなんとか説得するとかそういう感じで、あとは自由にやるのが一番だと思う。

言うまでもないことではあるけれど、日常生活を送る上では、他人の意見を参考にしたほうが効率が良いことが多い。だから誰もが他人の意見を普通に受け入れ生活している。しかし自分の分野に、別の分野から新しいテクノロジーがやって来た場合、同じ分野の人々の意見は多く役に立たない。ある分野のプロフェッショナルも、別の分野では単なる素人で凡庸なことしか言えなくなってしまうのは当然である。それじゃ他人からなにも学ばなくてもいいのかっていうとそうでもなくて、続いて学ぶなら選びましょうといった話である。

他の分野から学ぶ

「なにか」について、国立国会図書館デジタルコレクションで調べることに決めたとして、最初に参考にすべきなのは「なにか」の専門家ではない。

国立国会図書館デジタルコレクションのデータを大量に読む場合、人間は基本的に液晶画面に表示されたものを読むことになる。長時間読めば読むほど良いのだから、液晶画面を長時間使い続けている人間から学ぶべきだということになる。世の中で最も液晶画面を見ている人の属性はといえば、ゲーマーかプログラマで、私もものすごく参考にしている。

彼らの思想や行動様式から学ぶところも多いのだが、手っ取り早いのはハードウェアを購入することだろう。もちろん国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧する行為と、ゲームで遊ぶこと、プログラミングすることには差が多い。モニタでいえばマルチモニタはほとんど役に立たないし、高速駆動のリフレッシュレートも大量に読むことにはあまり寄与しない。それでもモニタを見て操作をするといった共通点はある。

そして国立国会図書館デジタルコレクションを日常的に閲覧している人間よりも、ゲーマーやプログラマーの人口のほうが多い。国立国会図書館デジタルコレクション専用のディバイスは販売されていないが、ゲーマー向けのディバイスは日々開発されている。それならそれを使いましょうといった考え方だ。ちなみに私が使っているのはゲーミングマウスと優れたキーボード、そしてレンズである。

私は昔の人間なのでショートカットを覚えていて、あまりマウスは使わない。しかしブラザのタブが大量に出てきたり、リンクを高速で押したりする際には精度が求められる。そんなわけで、ゲーミングマウスを使っている。

別に普段は必要ないのだが、気合が入りまくり五十くらい資料を平行して読む場合には、ゲーミングマウスがあったほうが望ましい。

閲覧した結果をメモしたりするためのキーボードは静電容量無接点式のものを使っている。あまり疲れない。

モニタは4Kの適当なものだが、ゲーミングレンズを使用している。

www.owndays.com

よく分からないのだが、このレンズは『[b.u.i:ビュイ]レンズ』とよく似た仕組みのようだ。

aoyamaopt.co.jp

『[b.u.i:ビュイ]レンズ』は以前に使っていたことがあり、確かに目の疲れはかなり低減された。ただしわりと高価なのと、販売している店にまで行くのが面倒で使うのを止めてしまった。幸いなことに今はゲーマー用のレンズとして販売されており、値段も半額以下となっていたため、知ったその日に購入したのだが、『[b.u.i:ビュイ]レンズ』に近い感覚で目の奥の異常な痛みがかなり減少した。

机や椅子も真面目に選定していくと、一日に十時間くらいなら、余裕で国立国会図書館デジタルコレクションを閲覧可能になる。調べている対象の専門知識を学ぶのは、こういった環境を構築してからでも遅くはないだろう。

もうひとつ、使ううちにどうしても学ばなくてはならいことも出てくる。私の場合は国立国会図書館デジタルコレクションを利用するため、次のことについて調べた。

  • IIIFマニュフェスト
  • 永続的識別子
  • DOI

これらについて全く興味がなく、正直なところ、あんまり意味や意義は分かっていない。しかし調べた結果、次のようなことができるようになった。

  • 書誌データを得る
  • 画像をダウンロードする

1mmも興味もないし知りたくもないが、分かると快適に閲覧できるというものを学ぶか学ばないかは、数ヶ月単位ではそれほど差は出ないが、十年くらいの幅で見ると大きな違いになる。世の中には興味がなく嫌でもあるが、学んだほうがお得ということがあるのである。

さらに付け加えるなら直接的なメリットがある訳でもなく、私もそれほど知ってるわけでもないが、デジタルライブラリーや、オンライン教育、そいて図書館の歴史にかんする書籍を読んでおくと、多少は心のささえになるような気がしないでもない。

上で紹介した二冊はものすごく昔に読んだものなので、今この時点で適切なものを各々が選んでいただきたいが、こういうことを知っていると、多くの人がアクセスできるように作られているデジタルライブラリーは正しい存在であると確信を持つことができ、自分は正しいものを正しく使っているのだと思うことができる。そんな風に思えることが、思いの外に重要になることもなくはない。人生なんていうのは、そういうものである。

というわけで、一通り書きたいことは書いてしまったが、せっかく有料機能があるので、以下に別に人に伝えたいわけでもないし、役にも立たないようなこと、ようするに愚痴のようなものを書いてみた。

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