山下泰平の趣味の方法

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夏目漱石『こころ』の K はなぜ先生をぶん殴り車夫にならなかったのか

大人になると読み方がかわる

夏目漱石による小説『こころ』は、名作とされている。

有名な作品なだけに、色々な人が様々なことを書いているが、誰もが否定できないのはとにかく面白く読めてしまうことだろう。『こころ』は新聞連載小説であるため、一日の掲載分の終盤には、次回への期待を煽られるようなことが書かれている。ついつい続きを読みたくなってしまうような構造で、このあたりは職業作家夏目漱石の面目躍如といったところであろう。

ただし漱石の初期作品とは異なり、『こころ』には書きながら考えているようなところも多く、細かい場所で綻びもなくはない。文句をつけられなくもない作品なのである。だからこそ色々な人が色々なことを書いたり言ったりしているわけだが、それでも楽しく読ませてはくれるのだから、名作かどうかは別にして優れた作品であることは疑いようがない。

私が『こころ』を読んだのは中学の頃で、幼稚な知能なりに面白く読み、それなりに感銘も受けた。その後の人生に、多少の影響もあったようにも思える。自分の中では大切な作品のひとつでもある。

しかしそれから長い時間がたち、私も大人になった。子供の頃に読んだ作品を、年齢を重ねた後に再読するとまた読み方が変るというのはよくあることで、私は無駄に明治大正時代の娯楽文化や、苦学無銭旅行について調べまくった結果、中学の頃よりも知能が低下してしまい K の発言を読むうちだんだん腹が立ってきて、ゴチャゴチャ言ってねぇで車夫にでもなって半分死にかけて悟りでもなんでもいいから開いてろアホがッ!! といった怒りを抑えることができなくなってしまった。

というわけで本日は K が希望するような人間になるためには、半分死んでしまうような苦学をするしかないのだが K にはそういう苦学はできないといった記事である。

『こころ』の K はどのような人間なのか

『こころ』について解説するのは面倒くさいため、まずは『こころ』を読んでいただきたい。

こころ (新潮文庫)

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無料で読みたい人はこちらから、本記事の『こころ』の引用も下記ページからしている。

www.aozora.gr.jp

小説を読むのが面倒くさい人は Wikipedia に解説がある。

こころ

Wikipedia の解説すら長いんだよ、お前は解説するのが面倒かもしれないが、俺は読むのが面倒だといった人もいらっしゃることだろうから、この記事に関係する部分のみ解説もしてこう。

K とは『こころ』の主人公である「私」が先生と敬愛する男の学生時代の親友だ。「私」は先生と読んではいるが、別に教員ではない。なにもしていない人である。先生と K は同郷で、子供の頃から仲が良かった。

K は浄土真宗の僧侶の次男で、実家には金があるが、なんらかの事情があって金のある医者の家に養子に行く。養家は医者を学ばせるため東京へ送り出すも、無事に帝大に入学した K は嘘をついて、自分が好きな哲学かなにかを学んでいた。

K がいかなる人物で、どのような希望を持っているのかは「こころ」にそのまま書いてある。

寺に生れた彼は、常に精進という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。

 

仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。

 

艱苦を繰り返せば、繰り返すというだけの功徳で、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅(めぐりあ)えるものと信じ切っていた

ようするに苦労をすればするほど良いといった考え方の持ち主で、悟りのようなものを開きたいと思っていたらしい。明治の文化に詳しくない人のために付け加えておくと、これは K 独自の理論というわけではない。苦痛を我慢すると人格が陶冶され、やがては立派な人物になれるというのは、当時としては珍しくもない考え方だった。

上京して三年目、K が養家先に手紙を出して、医学に興味がないので実は嘘ついて哲学のようなことを勉強してましたと白状したところ、約束が違うと仕送りを止められてしまった。金に余裕のあった先生は支援を申しでるが、「大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でない」と断わり、 K は夜学校で教師として働きながら帝大に通い出す。ところが貧乏生活に耐えられず K は精神を病み、先生から金をもらい下宿屋で同居生活することになった。そのうち色々あって大変なことになったというような人物である。

なぜ大変なことになったのかといえば、「自分一人ぐらいどうかできなければ男でない」と言い放ったにもかかわらず、結局は先生の援助を受け入れたからで、明治時代の普通の人格が破綻した貧しい若者であれば援助を申し出た先生をぶん殴り、車夫か新聞配達か、効率を考えるなら牛乳配達をしながら牛肉の行商をするのがお勧めだが、とにかくなんでもいいから働きながら学校に通うことで K とは違う方向に大失敗して人生を破綻させていたはずだ。苦労の種類によっては「艱苦が気にかからなく」なったはずである。

K が夜学校の教師をしながら苦学をしていたのは、明治の二八から二九年あたりのことになる。何度も書いていることなのでこの記事では詳しく触れないが、明治の三十年を過ぎたあたりから苦学は不可能になってくる。一般的に流通している明治時代の地方から出てきた貧しい若者が、新聞配達をしながら大学を出るといったイメージは、ほぼほぼ嘘だと思っていただきたい。

K が苦学をしていた時代はといえば、『少年園 第八〇号 少年園 明治二五(一八九二)年』「地方の靑年に告ぐ」で書き手が「如何なる困難にあふとも一志を貫」くと出京した地方の若者が「同一闇黒の裡(うち)に陥りて」失敗してしまうと嘆いている。

「地方の靑年に告ぐ」の記述の通り、基本的には苦学は無理な時代ではあるが、工夫をすればなんとかできなくもないといった時期である。ただし人格と身体は破壊されてしまう可能性が高い。実際に強引に苦学を実行することで、変な人格を手に入れた人間のサンプルもある。こちらは後に紹介することとして、基本的に失敗してしまう苦学をすることで、人格は破壊され悟りに近い状態になる若者がいたのである。「精進」をして悟りのようなものを開きたい K にとって、苦学は最適な行動だといえよう。

K のような苦学生はたまにいた

そもそもであるが K が実家なり養家なりに謝罪しておけば、面倒くさいことにはならなかった。それをしてしまうと『こころ』が成立しなくなってしまうのだから、謝罪しないのが当たり前だが、実はここの部分は不自然ではない。

明治時代の学生は基本的にバカであり、今も学生は概ねバカなのだが、具体的なバカさを紹介すると『こころ』と少し時代は異なるものの『新公論 大正元年 九月号』の「学校に出ぬ学生」に K のような苦学生が紹介されている。

  • 父兄の補助を仰げば相当の学資を得るにもかかわらず、そんな事は面倒臭いと力む人
  • 親が死んで兄の代になったが嫂の仕打ちが気に喰わぬから兄から学資をもらわぬと云う人
  • 養子になれば立派に大学迄卒業させてやると云うのを振り切った人

彼らは苦学生といえば苦学生なのだが、「父兄に頭を下げれば、金が来ると云う心があるから、普通一般の苦学生と其の心理状態が余程変っている」。この感覚は、以前に書いた記事に登場する学生たちに近いかもしれない。

cocolog-nifty.hatenablog.com

余談になってしまうが「学校に出ぬ学生」は、漱石作品によく出てくる文系の学問を修めたものの、なにもしていない人々、いわゆる高等遊民の気持を理解するためのヒントにもなる記事である。

当時の文系の学生の中には、大学で真面目に勉強したところで、別にたいしたことにはならないと考える者たちがいた。なぜなら真面目に勉強だけをしていた文系学生の就職先は、限られていたからだ。『こころ』でいうと有力者のツテもなさそうな主人公「私」の就職先は、教師くらいのもので、作中でもそのように描写されている。

大学は就職するために行く場所ではないだろッ!! と思う方もいらっしゃることだろうが、学ぶ喜びといった部分も明治時代は怪しいところが多く、現代からすると幼稚な水準の分野も多い一方で、試験はなかなか難しかった。難しいだけなら良いのだが、教授が気に入るような解答をするために、授業中の発言を逐一記録し暗記しなくてはならないといった試験もあった。これなどは学問など関係ない、単なるご機嫌取りである。

外国語を習得する、あるいは政治学を学び政治家になるなど、分かりやすい結果を手にした者なら話は変わってくるのだが、学ぶことは学んだがなにを学んだのやら分からないといった正直な感想を持つ若者も多くいた。漱石の描く高等遊民のような存在が出てきた一番の原因は、就職難ではあるけれど、なにがなにやら分からないといった気持から、そうなってしまうものもいたのである。

もう少し優秀な人材、現代ならば研究者としての資質を持つ人物の中にも、大学には残りたくないが、他のこともしたくないと考える人がいた。漱石自身もおそらくそれで、彼の場合は異常な能力があったため、自分で小説家という職業を作り上げてしまっている。

漱石以前にも小説のみで飯を食う人物はいたが、一定以上の社会的な地位を得た上で安定した収入が見込める生活を送る小説家はほぼいなかった

しかしそんなことは、誰でも出来ることではない。だから漱石作品の登場人物のように、なにもしないといった選択をする人がいた。

「学校に出ぬ学生」では、学校に見切りを付けてほとんど通学せず、新聞記者として働きながら、取材と称して名士に面会を求めることで人的ネットワークを作ろうする学生が紹介されている。当時の新聞記者は半ばゴロツキのような者もいたため、取材を申し込んだとしても門前払いされてしまうことが多くあった。しかし『〜大学在学中』と名刺に書いておくと、面会を許してくれる可能性が上がる。取材のついでに顔を覚えてもらい、就職につなげようといったものである。彼らは普段から文章を書いているため、試験で論文を求められても余裕でパスできる……当時の論文なんてものはいい加減なものだった……から、授業になんて出なくてもいい。そんな学生たちがいたのである。

もっとも融通の効かない K にそんなことが出来るはずもない。夜学校の先生になり学校に通うというのは、そこそこ合理的な判断だったといえよう。

夜学校の先生になったのは合理的な判断ではあった

K が帝大に通っていた時期を断定するのは難しいが、おそらく明治の二五-三〇年あたり、夜学校の教師の給料はといえば学校にもよるが、およそひと月八円から十五円、あるいはもう少し多いかもしれない。『こころ』には次のような一節がある。

それから大学の制帽を被ぶっていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれどもその頃の大学生は今と違って、大分だいぶ世間に信用のあったものです。

先生や K が学生だった当時は、まだ帝大生は世間から将来有望の若者であると目されていた時代で、ある種の援助のような形で仕事がもらえることもあった。K も夜学に加え、翻訳などの仕事をもらえば、それなりに余裕のある生活を送れていたはずだ。

養家が医者だというのも有利な点で K は医者の家で住み込みで働くこともできた。昔は雑なので、医学について見聞きしたことがある程度の若者が、薬剤師のようなことをしていたのである。私が知っている事例では、鯨の解体作業をしていた若者が医者に助手として雇われていたというケースがある。

苦学生がひと月暮すためいくら程度必要だったのかというと、幸いなことに『自活苦学生 苦学子著 大学館 明治三六(一九〇三)年』に「七年以前の生活費」つまり明治三〇年前後の生活費が書かれている。

  • 米 一円六五銭
  • 室代 五〇銭
  • 月謝 七〇銭
  • 副食物 四五銭
  • 薪炭油 三〇銭
  • 草鞋 二〇銭
  • 合計三円八〇銭

この書籍の作者苦学子は、かなりの貧しい家の出で K とは違い本格的な苦学生だ。当時の帝大の学費は年間で二五円程度、苦学子の月謝は七〇銭とそこそこ安い。おそらくこれは卒業したところでなにもならないような私立の学校で、当時はそういう学校が多くあった。

室代も五〇銭とかなり安く、異常な汚さの部屋に住んでいたことであろう。Kは「北向きの湿っぽい臭いのする汚い室」に住み「食物も室相応に粗末」なものを食べていた。「約一年半の間、彼は独力で己を支え」たものの、生活苦から感傷的(センチメンタル)になってきて「自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っている」ようなことを言い始める。それを心配した先生が自分の下宿に K も住まわせ、色々と面倒くさいことになってしまうわけだが、これらはあくまで裕福な家庭に生れた先生や K の感想だ。絶対に苦学子のほうが不味いものを食っているし、小汚い部屋に住んでいたはずだ。

不快感や苦痛は、個々人が育った環境によるところが大きい。貧しい人間にとって天国のような環境が、ある人にとっては汚く不快な住居であったとしてもなんの不思議もない。K の苦悩は K だけのものであり、他人がとやかく言うことではないのだが、明治時代の苦学生の中には常に激怒している凶暴な奴らがいた。金もなくギリギリの生活をしているにもかかわらず、なぜか無駄に柔道などの武芸を習っている者もいて、かなり危険である。

本人も認める苦学生の狂気

暗黒の青年時代 原田東風 著 大學館 明治三五(一九〇二)年

苦学子が凶暴であったとしたらという仮定の話になってしまうが、K の不満がその耳に入っていたとすれば、お前は苦労をしたいんじゃないのか、いくらでも苦労させてやるから金をよこせとぶん殴っていたことであろう。

当時の苦学生が苦労をしたのは、中学を卒業できないからだ。中学を卒業すれば進路の選択肢が広がり、上の学校に進めば進むほど社会に認められる場面が増えていく。優秀かつ口が上手ければ、見ず知らずの他人から援助を得られることもあった。すでに帝大に通っている K が「自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っている」ようなことを中学卒業のため必死になってる苦学生の前で言ったら、ぶん殴られて半殺しにされたとしても仕方がないくらいにすぐ人を殴る苦学生がいた。

金持ちを殴る苦学生
墓参と懺悔 梅田又次郎 著 山陰日日新聞社 大正九(一九二〇)年

K とは違い苦学者たちは、別に苦労をしたいとは思っていない。ただ学校を卒業して出世したいだけなのだが K より苦労している。それなら苦労をしたいお前が苦学をすればいいだろと、苦学生に殴られても仕方ないというのが、多くの人が出す結論であるといえよう。

苦労すれば強い人になれる

冒頭にも書いたように『こころ』は、思わず続きを読みたくなってしまう物語として、優れた作品であることは疑い様がない。しかし中年以降の読者の中には K や先生の行動や考え方に一種の幼さを感じてしまう人もいることだろう。

Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。

これなども子供っぽい理屈で、窮屈な境遇にいれば強い人になれるわけもないし、疲れるだけだろがと言いたい所だが、多くの中年が持つ陳腐な人生観など圧倒的に超越している人間はいて、先にも書いたように苦学から発生する苦痛を活用し本当に強い人になった奴がいる。その名も桜井鏘爾である。桜井は『成功 四月号 成功雜誌社一九一二年』の「苦學生人生觀」を書いた男で、肩書は苦学青年社監督となっているが苦学青年社なる団体の情報を得ることはできなかった。

「苦學生人生觀」の冒頭で桜井は「進歩せる苦学生の代表者として、予は最も適当の人物であろう」と自身満々に語っているのだが、とにかく面倒くさいことを止めて苦学をしようといった思想の持ち主である。これを桜井は簡易生活と呼んでいる。

まず「衣の如きは、それを警察で許可するならば、メリケン粉の袋に穴を明けて着用して居ても、それでも差支へがないと思って居る」とのことで、K が理想とした苦労をした結果、強くなった人だといえる。食に関しても「肉食を廃し、続いて穀食を廃し、菜食を廃し、最後には藁の如き物を常食」することで完全な簡易生活が完成するとしている。このあたりはディオゲネスの影響も多少はあるかもしれないが、桜井単独でそこにたどり着いた可能性もなくはない。

ちなみにであるが私は簡易生活についてもそれなりに調べている。

だから断言できるのだが、桜井の目指していることは簡易生活ではなく、異常な人間の生活である。「衣食住についてとかくの贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考えて」いた K も、メリケン粉の袋に穴を明けて着用し藁を食う桜井を見たらドン引きしてしまう可能性が高い。

桜井が言うには苦学生の間では一種の宗教のようなものが発生しており、それは「自分と云ふものは絶対でない」というものであった。「自分といふものは一種の集合体」で「社会や学校や会社や銀行等」と同一の構造をしている。死とはその集合体が解体することであり、「団体解散してもそのメンバーは無くならぬ」。だから「死といふ事は、風がプーと吹いて来たものが、バタリと止んだ」のと同じだというのだが全く意味が分からないし、苦学生の発言を読みまくっているがこんなことをホザいているのは桜井だけである。

しかし『こころ』の先生や K に対して感じてしまう幼さのようなものは、桜井にはない。苦労をしすぎておかしくなったのだろうくらいの感想であろう。

桜井は「悲惨なる人生と地球の運命」についても考えており、「悲惨なる人生に、自己の後継者を残し置くことは無意義」だから子供はいらない。そもそも「早晩地球は破壊の時代を迎ふるに相違」ないのだから子供を作る意味もないとしている。それなら苦学も意味がないと思うのだが、桜井の真意は不明だ。

さらには「日本国家の幸福を図る為めに、外国を滅亡させても構はぬ」などと書いた上で、おそらく苦学者を保護する団体であろう「苦学青年社」の監督であるにもかかわらず、「東京に苦学生保護の慈善団体ありと思ふは、大なる間違い」と断じて締めているが、全体的に苦労をしすぎておかしくなったのだろうといった結論である。

桜井の発言で『こころ』に関連するものとしては、仲間うちで呼吸法の実験をし「我々仲間では、藤田式の調息法が一番好評」だったという報告だ。藤田式の調息法とは、藤田霊斎による息心調和の法で、なんか色々すると健康になる呼吸法である。

こいつはこいつでヤバそう

心身強健之秘訣 実験修養 藤田 霊斎 三友堂 明治四一(一九〇八)年

本物の苦学生は病気になったら終る。『成功 成功雜誌社 明治三九(一九〇六)年』に掲載された記事「余の東京苦學生活」の筆者である苦学山人も「余は幸いに一度の病気にもかからなかったが、もし病気にでも取付かれたらそれが最期で万事水泡に帰する」語っており、苦学生にとって病気はなんとしてでも避けなくてはならないものであった。しかし苦学生には金がない。ただし呼吸はする。どうせ呼吸をするのであれば、呼吸法で健康になれば金のかからないではないかといった発想である。この他、布で皮膚をこすりまくって肌を鍛え上げる乾布摩擦や、冷水を被って全身を鍛える冷水浴などの金がかからない健康法を愛好するものもいた。『こころ』の冒頭で先生が海水浴をしているが、実は海水浴も人気の健康法だった。死んだつもりで生きて行こうと決心した先生が、海水浴をしているのは少し面白い。

ちなみにであるが苦学山人の生活は、午後の八時に起床し新聞の分類作業、汽車で販売所へ手配した上で、三十分ほどの休憩時間を勉強にあてて、午後十一時から配達で家に着くのは夜中四時、七時に起床して飯を炊き朝食後に学校といったもので、三時間弱の睡眠で収入は月に九円程度、これを明治三四年から三七年まで続けている。資金的にもギリギリの生活だから、病気をしたら全てが破綻してしまうというわけだ。『こころ』の K がちょっと汚い部屋に住み少し不味い飯を食ったくらいで「自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っている」ように考えていたのは、仕方がないところもあったにせよ、苦学者からすれば世間知らずに見えてしまうことだろう。

苦学の世界は二つあった

この記事では血の気の多い苦学者がやって来たら K はぶん殴られるといったことを書いてきた。私の書き方の問題もあって、K の苦悩なんてものは大したものではなく、すぐに人をぶん殴るような凶悪な苦学者こそが本当の苦労をしているというように読めてしまうかもしれない。しかしそれは明確に誤りだ。苦労や苦痛、そして悩みなんてものは、本人がどのくらい苦しいのかが問題で、苦痛に優劣なんてものがあるはずもない。

例えば『こころ』で先生が遅刻をしそうになる場面がある。

私は寝坊をした結果、日本服のまま急いで学校へ出た事があります。穿物も編上などを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出したのです。

遅刻をしそうになった先生は、焦って準備をして大急ぎで学校に行くという行動をとった。実に普通だが苦学生(と言い張っている頭のおかしい奴)の遅刻は次のようになる。

なにがあったんだ……

墓参と懺悔 梅田又次郎 著 山陰日日新聞社 大正九(一九二〇)年

遅刻といった小さな出来事ですら、普通に急ぐものと馬で老婆を踏み倒すものがいる。苦悩や苦労に差が出てしまうのは当然だ。

そもそも苦学は、二つの世界を持っていた。

ひとつは K のような苦学、在学中に仕送りを止められてしまう、あるいは試験に落第し実家からの学資を得られなくなり、働きながら入学試験に挑戦するといったものである。実家との関係性や運不運、あるいは自業自得の行動によって苦学の世界に放り込まれた若者たちで、彼らは貧困層というわけではない。労働もするけれど、基本的には試験に苦しむ若者たちだ。

もうひとつ、経済的な理由から絶対に進学なんて出来るはずもないのに、学校に行こうと苦学をする若者たちの世界があった。彼らの中にはナメられたら終りだと身体を鍛え喧嘩を売りまくる者もいれば、桜井のように苦労をしすぎた結果、変な人格を手に入れる者もいた。あるいはダイナマイトを使って進学しようとする者もいた。

こんな荒い計画が首尾よく行くわけないだろ……
教育の欠陥が生みたる犯罪少年の告白と個性調査 黒田源太郎 著 広文堂書店 大正八(一九一九)年

彼らにとっては、試験以前に都会で生存することの難易度が高く、入試にすらたどりつけない者もいた。入試の費用が用意できないのは普通として、そもそも試験や教育の意味すら分かっていないといった人物すらいた。生活を安定させれから試験を受けると計画し、生活が安定しないまま苦学の世界から脱落していく者も多かった。苦学生と言い張ってはいるものの、嘘をつきまくり他人から金を騙しとったりしているだけではないのか……といった人物もいた。

彼らは K のような苦学生とは別の世界で生きていて、両者が交わることはほとんどなかった。実は先に紹介した『暗黒の青年時代』の原田は K が帝大で学んでいた時期に、新聞配達をしながら苦学をしていた。二人が運悪く出会ったついでに K が妙なことを口走っていれば殴られた可能性はなくはないが、原田は警察を見ると興奮して喧嘩をうるという悪癖があった。

なんで怒っているのか?

拘留されることも度々であったらしい。

なぜか退学にはならない

そんな彼が K に出合う可能性などなかったといえよう。これは K がなぜ先生をぶん殴り車夫にならなかったのかの解答でもある。養家と実家との関係が悪化したように見える K であったが、結局のところ酷くて苦学の世界からは遠く離れた場所にいたのである。

夜学の先生になるという K の計画は非現実的なものではなかった。ただし K が苦学に失敗しなければ物語は進まない。だから K は苦学に失敗する。しかし物語の都合上 K は一般的な価値観を超越したような性格でなくてはならなかった。そんな人物が苦学に失敗してしまうのは、冒頭で軽く触れた物語上の「綻び」ようなものなのであろう。

そもそもの話をすると「こころ」は当時としては知的水準が高めの若者に向けた小説だ。K をぶん殴りながら叱咤激励する本格的な苦学生など、出てくるはずもないのである。

先生と K の旅行

今回『こころ』を再読したところ、ずいぶんと読み方が変ってしまっていた。登場人物の考え方が幼なく見えてしまう……これは漱石がそう書いているからなのだが……ことについては、当たり前なのだからなにも思うところがなかったのだが、自分が変ってしまったなと感じられたのは房州旅行の場面だ。

私は友人と目的のない娯楽のためだけの旅行をしたことがない。そもそも旅行を楽しむといった感覚すら鈍い。そんな人間だからこそ思うのかもしれないが、二人の旅行に強くひかれてしまった。

私は突然彼の襟頸を後ろからぐいとつかみました。こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど好い、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。

 

Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。ところが私の胸にはお嬢さんの事が蟠かまっていますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。私は私で弁解を始めたのです。

自分がそれなりに優秀だと考えている若者たち特有のやりとりも、なんだか羨しい。旅行限定の気分のようなものも、実に良かった。

こんな風にして歩いていると、暑さと疲労とで自然身体の調子が狂って来るものです。もっとも病気とは違います。急に他の身体の中へ、自分の霊魂が宿替えをしたような気分になるのです。私は平生の通りKと口を利きながら、どこかで平生の心持と離れるようになりました。彼に対する親しみも憎しみも、旅中限かぎりという特別な性質を帯る風になったのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、また歩行のため、在来と異なった新しい関係に入る事ができたのでしょう。その時の我々はあたかも道づれになった行商のようなものでした。いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。

私自身はこのような旅行をしたこともなく、今後もすることもないのだが、漱石自身は友人たちと房州旅行をし紀行文『木屑録』を残している。漢文で書かれているためかなり読みにくいのだが、訳文「漱石の夏やすみ」が出版されている。

『木屑録』は正岡子規にあてて書かれたもので、そこかしこから子規を楽しませようしている……あるいは子規に自分の才能を披露しようとしている……のが読みとれる。K と先生との関係とはまた違うものだが、共通するところもなくはないような気がしないでもない。