戦前の苦学は不可能
諸事情があり、戦前の苦学を調べ続けていた。
田舎の貧しい家庭に生れた若者が家出をして、無一文で東京にまでたどり着き、新聞牛乳配達などで学費を稼ぎ出す。なんとか学校を卒業し見事に出世する……といった物語が明治期に好まれた。本格的に苦学を調べる以前の私が持っていたイメージも、そういったものであった。
しかしながらそんなことを実現させた者など、ほぼいない。なぜなら難易度が高すぎるからだ。そうはいっても俺なら苦学を成功させられそうだけどな、なんてことを思う人もいるかもしれないが、絶対になにがあっても完璧に1000000000%の確率でお前に苦学を成功させることはできない。事実、当時も同じようなことを考え苦学の世界に突入した多くの若者が、みるみるうちに脱落していった。
確かに戦前に苦学はあり、苦学をする者もいた。しかし苦学ですら選ばれた者でなくては基本的には実現できないものであり、そうでない者たち、つまり無一文で東京にまでたどり着いて新聞配達でもしようという若者は、別の手段で自己実現を達成するしかなかった。
今のところ私が出している結論は、空想の上で貧困からはい上がる苦学生は多くいたが、現実の世界では苦学に成功する人類はほぼいなかったというものである。このような事実を無視し、明治大正時代の苦学とか余裕だろと思っている奴がいるかもしれないと想像するだけでイライラしてしまい怒りを抑えることが出来ないし絶対に許すことはできないというわけで、その超絶難易度に説得力を持たせるために、今回はこいつが無理なら誰でも無理だろといった人物を紹介していきたい。
金子文子でも苦学は不可能
以前にアナキストの金子文子の苦学を記事にした。
文子による文章を読めば分かるのだが、彼女はある種の天才である。そして(本人の記述を信じるのであれば)たいていの人類よりも、頭は良いといえる。苦学者としては、家庭も貧しくはなかった。そんな金子文子ですら、苦学には失敗している。
文子で無理なら誰もできないでしょと言いたいところなのだが、彼女には女性であるという一般的には不利だと考えられる要素がある。ただしここは難しいところで、女性であることが苦学を成功させる利点となる局面もある。その辺については上の記事を読んでもらうこととして、今回は男性の中から文子と同じくこいつで無理なら誰もできないだろというような二人の苦学失敗者を紹介していく。
一人は超能力を持つ教祖である田中守平、もう一人は昭和の怪物と呼ばれた希代の詐欺師の松尾正直、後の伊東ハンニである。
残念ながら両者ともに金子文子よりは頭は悪い。しかし霊能力なら守平の勝利、嘘をついた数なら伊東の圧勝で、さまにこいつらでも駄目なら全員苦学に失敗するだろといったところである。
超能力があっても苦学は不可能
まずは教祖である。
太霊道の創始者田中守平は、三ヶ月程度の断食を経て霊的能力を得たという男だ。太霊とは時間空間を超越し有無を超越したもので、太霊道は物、心を超越し、宗教、哲学、科学の全てを包括したものである。色々と意味不明だが、とにかく田中は様々な病気を治療し、予言することができる。霊的能力だけでいえば人類史上最強の苦学者であるが、そんな彼ですら明治三三年に上京し苦学に失敗している。
太霊道主元伝 宇宙霊学寮 編 太霊道本院 大正七(一九一八)年
田中守平は、明治一七(一八八四)年に美濃恵那郡岩群の庄屋の家に生れた。物心がつくころには実家は没落し、十分な教育を受けることもできなかったが、六歳の時には透視能力を得て遠方で起きた出来事を知ることができた。八歳で未来予知ができるようになり明治二四(一八九一)年の濃尾地震の発生を的中させている。翌年には当たり前だが九歳になり、本年明治二七(一八九四)年の夏には日清戦争の開戦があると予言し、こちらも見事に当てている。
明治二四年に八歳で、明治二七年で九歳になっているのはチンケな嘘をついているからなのだが、そんなことはどうでもいいとして、この時期は気分が落ち込むことが多く外出することも少なかった。暇なので雑誌の投書などを繰り返すうちに、なぜか田中は熱烈な愛国者となる。
高等小学校を卒業後は一時的に医者の家で働くも、医者が例えとして語った「一万人の病気を治すためには一万人を殺さなくてはならない(失敗しなくては成功もない的な意味)」を言葉通りに受け取り、人殺すんなら医者とか意味ねぇだろと激怒して辞職、裕福な親戚の養子になるも読書を禁じられまたもや激怒して家を飛び出すなどするうちに、一五歳あたりから国のことを考えすぎた結果、政治の話をすると「頗る精神に異常を呈(同上)」するようになってしまうが、明治三三年に一六歳で助教師となった。
当時の事情なんてものは多くの人は知るわけがないと思われるので一応は書いておくと、田中には苦学者としては文子と同じくそこそこ有利な条件が揃っていた。まず没落したとはいえ庄屋の息子であり、有力な親戚までいた。かって貧乏な農家の息子が東京に出ようとすると、村八分に会う、悪い噂を流される、普通に殴られるなどの妨害を受けることがあったのだが、守平はそのような難を避けることができた。
没落した家の息子というのも、当時の苦学物語につきものの設定だった。本人の認識としては没落しているが、実際のところ中流以上の家庭であり、援助を受けつつ期間限定で労働し上の学校に進学していく若者がいた。彼らが苦学の苦労話を大袈裟に語り、それを聞いた人々が独力学問をおさめた感心な苦学者として称賛するといったことが多くあった。後述するが田中守平の語る苦学にも、多少の演出が入っているようだ。
話を続けよう。明治三三年の五月、守平が学校で働き始めてひと月目に、東宮殿下慶事の祝宴が学内で催された。その際に田中は、挨拶代わりに三時間ほど演説する。内容はといえば、校長と役人、文部省の悪口に加え、現代教育の弊害というものであった。おめでたい席で新入社員が三時間に渡り悪口を言い続けるというのは、現代人からすると奇妙な行動に見えるかもしれないが、明治の時点でも完璧な奇行である。
その後も田中は校長や役人に喧嘩を売り続け職場の地位を危うくした上に、愛国心から祝日に鎮守の守に子供を集め、内地雑居(外国人居留地を定めず自由に国内に住まわせること)に反対する演説をした。先述したように守平には政治の話をすると「頗る精神に異常を呈」するという特徴があった。そんなわけで、こんな奴に子供を教育させるのはヤバいのでは?と気づく村人も出てきて、様々な人々から攻撃を受けるようになってしまう。
そのような毎日を送るうち守平はだんだん腹が立ってきた上に、とにかく国のために働きたいという気持も強くなり、九月には郷里を飛び出し上京して苦学を開始することとした。行き当たりばったりの行動のようにも見えるが、事実その通りで死ぬ気でやりゃいけるだろうといった雑な計画だった。
太霊道主元伝 宇宙霊学寮 編 太霊道本院 大正七(一九一八)年
出郷時の所持金は五円七〇銭、旅費などで金を使い、東京にたどり着くと残金九十銭になっていた。今の貨幣価値だと七千円くらいのものだろうか。田中は当時を回想し、一〇月下旬まで……つまり一ヶ月間は職が見つからなかったとしているが、当時の東京ではこの金額で一ヶ月間生存することはできない。犯罪者になるか死ぬかの二択である。
犯罪せずに死なない方法として焼き芋を食うというものがある。当時は薩摩芋の値段が安かった。薩摩芋のみを食い続けて旅行すれば、安価で旅行できるという薩摩芋旅行を考案した若者すらいた時代であった。
松代勧業 (64) 松代勧業協会 明治四〇(一九〇七)年
しかし今と異なり、当時は情報を手に入れることが難しい。まず東京で飯を食うなら薩摩芋が安いといった知識が必要となる。例えば東京で販売されている安い食物を知らない苦学者は、散々駆けずり回った末に車夫からようやく次のような情報を得ている。
無銭修学 池田錦水 著 大学館 明治三五(一九〇一)年 1902
これに加えて焼き芋屋も探さなくてはならない。なんの情報もなく上京した初日に、薩摩芋の安さを知った上で焼き芋屋を捜し出すことは、なかなか困難なことだった。
焼き芋の値段は小さいのが八本程度で2銭から3銭、一日に二食食べるとして六銭程度は必要となる。つまり田中が薩摩芋のみ食い続けていたのだとすれば、一五日間はなんとか食事をすることはできるのだが、それ以降はほぼなにも食えない。
宿代なんてものも出せるはずがないから、野宿ということになる。しかし東京に慣れていない地方出身者がそんなことをすれば、たちまち浮浪罪で逮捕されてしまう。
さらに基本的に当時の貧しい家を飛び出した子供は、健康状態が悪いという点にも言及しておきたい。食うや食わずで東京にたどり着いた貧しい若者が、不潔な環境で貧素な食事を続けていると、容易に病気になってしまうわけだが、なにをどうしたのか田中は某伯爵家が新聞広告で書生を募集しているのに応じ、数十人の中から選ばれ学校に通うこととなる。しばらくは平穏な日々が続くが、そこの娘にほれられてしまい養子にならないかという打診を受け、またもや激怒して家を飛び出し再び二ヶ月ほど無職となったとしているが、これらのエピソードは全体的にかなり嘘くさい。
守平の記述を信じるのであれば一日六銭あたりの食事をし、警察に捕まらないように野宿生活を続けたにもかかわらず、特に病気にもならずピンピンしていたことになる。この時点でおそらく嘘をついている可能性が高いのだが、それでも嘘だと断言できないのは、後に田中が九〇日間断食しているからだ。田中守平なら、この苦境もなんなく乗り越えられたのかもしれない。
某伯爵家の書生になったというのも、おそらく嘘であろう。田中が苦学をしていた時期には、書生になるためには基本的に縁故が必要となっていた。もちろん例外もあり、身形が綺麗である、どこか品がある、知性が感じられるなど、他人を魅了するような性質を備えていればなんとかならないでもない。しかしもしも田中が芋を食い続け野宿をするような生活を続けていたのであれば、身形はかなり汚くなっていたはずで、書生になどなれるはずがないのである。まして娘にほれられ養子を打診されるわけがない。ようするに全体的に嘘だと思われるのだが守平は超能力があるため断言することはできない。
仮にこれが嘘であったとして、なぜこのような細かい嘘をつく必要があったのかといえば、当時は苦労をすればするほど良いとされていたからだ。守平に限らず、このようなちょっとした演出をする者は多かった。
その後、守平は大蔵省印刷局(内閣統計局の下級職員)で勤務しながら諸学校を経て、日本大学と、東京外国語学校に通い始める。なんでもないことのように思えるかもしれないが、この時点でかなりの偉業だ。当時の苦学者は基本的に学校に入学すらできずに脱落していく。入学したとしても堕落して犯罪者になるケースや病気で死んでしまうこともあった。
働きならがら二つの学校に通うのは無茶があるように思えるが、これは苦学者がよくやることで、学校に入学するまでに時間を費やしてしまっているため、通常のルートで進学した人間に追い付くため無茶な学び方をする者が多かった。外国語を習っているのは、田中は愛国者で外交にも強い興味があったからだろう。日本大学で試験対策をして文官にでもなり、学んだ外国語を活用し海外に打って出ようとでも考えていたのかもしれない。
守平は苦学者として、無理のある生活を三年ほど続けたそうだ。
朝七時に局を出て八時から十一時まで英学会に居て、十二時に帰って二時まで寝て、三時から五時まで数学院に行って六時に帰って八時には局へ出掛ける都合で、正午十二時から二時迄と、午後六時から八時迄の間を眠るものの正味三時間くらいのものだ。時々十日も寝続けて見たい気がする。
食事は基本的に焼芋と木村屋の食パン、三時間の睡眠で働いているのだから、苦学者としてのレベルはかなり高く、このままいけばまがりなりにも苦学は成功したことだろう。ところが運の悪いことに日本とロシアの関係が悪化してしまった。
何度か書いているように、田中は異常なまでの愛国者であった。そんな彼がロシアの態度が失礼すぎると激怒し、もう戦争をしてロシアを叩きのめすしかないと考えるは当然であった。しかし自分は一介の苦学生にすぎず、どうすることもできない。一体どうしたらいいのかと考えに考えた田中が出した結論は、明治天皇に直訴するというものであった。一気呵成に上奏文を書き上げた田中は、明治三六(一九〇三)年十一月十九日に「憂国の少年田中守平謹しんで陛下に上奏し奉る」と絶叫しながら明治天皇に駆け寄るも残念ながら逮捕されてしまう。
蛇足になるが、守平は直訴の前日に記念写真を撮影している。
ここでは守平が裸足であることに注目しておきたい。服に関しては郷里から持ち出した一張羅を着ていたのであろうが、金欠でそれに見合う履物が用意できなかったかもしれない。だとすれば何度か嘘をついている節はあるにしろ、守平は苦学生の一人であったとしてもいいだろう。
とにかくこの格好で守平は直訴をした。苦学を止めて直訴というのは少し飛躍しているような気がするが、この時代には類似の直訴事件がわりと起きていた。代表的なものとしては明治三四(一九〇一年)に田中正造による直訴であろう。これは足尾鉱毒問題を訴えるためのもので、田中は狂人として扱われ釈放された。
明義 3(6) 明義雑誌社 1902-06
続く明治三五年五月一三日には岩手県の菅原熊之助(五十一歳)が皇后陛下に借金の申し込みをしようとして身柄を確保されている。熊之助は地元で詐欺師のようなことをしていた男で、鉄道規則違反と植物毀損罪、その他諸々で禁固刑になるところを逃げ出して、にっちもさっちもいかなくなり皇后陛下に金を借りることを思い付くに至った。
ちなみに直訴の直前に、またもや足尾の住人が直訴に来たのかと疑った巡査が尋問したところ、あまり関係なさそうなので放置していたら借金申込みの直訴をしたらしい。菅原熊之助も狂人として扱われ郷里に引き渡すことになったのだが、家族及び親類縁者、近所の人々から引き取りを拒否されている。その後どうなったかは不明だ。引き取り拒否は少し薄情な気もするが、彼らもこの事件に巻き込まれてしまい狂人の家族として新聞に掲載されてしまっているのだから、怒る気持も分からないでもない。
朝日新聞 朝刊 1902 5月 15日
続いて五月の二十三日には長崎で海老名要吉が皇太子に直訴しようとし、こちらも事前に阻止されている。逮捕された当初は足尾鉱毒事件に関する直訴だと語っていたらしいが、実は土地売買で大損をしてしまい、いろいろあって逮捕されそうになりイラつきまくった末の直訴であった。菅原の借金も含め、皇族の人からすると、直訴するならもっとまともな内容にしてくれといったところであろう。
田中正造が直訴をしたのは六一歳、菅原熊之助は五一歳、当時としては完全な老人で、田中正造などは相当の覚悟をした上での行動だった。菅原も年齢も年齢で逮捕されたら終りだし、イチかバチか皇后陛下に借金するという意気込みはあったはずだ。海老名要吉にしろ、土地で騙されかなりイラついた勢いで直訴をしている。
田中守平はといえば十九歳で、まだまだ将来の希望がある中での直訴であった。もちろんロシアにはムカついてはいた上に、多少の勝算は見込んではいたのであろうが、それにしても並外れた度胸の持ち主だといえる。
直訴の結果、田中守平は田中正造と同じく精神錯乱者として扱われたものの、上奏文は新聞などで広く公開されることとなった。その主張が当時の国民たちの声を代弁するようなものであったため、雑誌や新聞で田中をかばうような内容の記事が掲載された。そのためか不敬罪は適用されず、誇大妄想狂として家族に引き渡されることとなった。故郷に戻った田中守平は九〇日の断食をしたことで、さらなる霊能力を手に入れ、予言だけでなく難病の治療も可能となり、体系的に霊能力を得ることができるメソットを創出する。
その後、あれよあれよと信者は増え続け、最盛期には三万人、こうなると苦学する必要もなくなり、結果的に苦学には失敗することとなった。
松尾正直の苦学
次は詐欺師である。
松尾正直は、作家にして相場師、出版社の社長であり社会運動家、そして大詐欺師といったなんとも捉え所のない人間だ。小さな詐欺で逮捕された際に伊東ハンニと改名し、時効になるまで見事に逃げ切った。残念ながら後に別件で逮捕されてしまうのだが、それは置いておいて、彼はスケールが大きいんだか小さいんだかよく分からない人間だ。
蒋介石氏に告ぐ 伊東 阪二 新東洋社 昭和九(一九三四)年
とりあえず現在の貨幣価値で数十億を相場で儲けてもいるし、蒋介石とスターリンをブッ殺そうともしている。
獄中記 伊東 阪二 新田義貞公研究会 昭和一六(一九四一)年
ただし結局のところなにがしたいのかは謎である。例えば彼がプロデュースした歩きダンスの歌は大ヒットとなった。しかし歩きダンスがなんなのかは不明である。
蒋介石氏に告ぐ 伊東 阪二 新東洋社 昭和九(一九三四)年
おそらく歩くように簡単にできるダンスくらいの意味で、松尾自身が身体を適当に動かしダンスのようなことをしていたといった証言が残っているが、とにかく肝心の歩きダンスがなんなのかは不明だ。
松尾は色々なことを書いたり話したりするのだが、歩きダンスと同じくそれがなんなのかは謎で、ようするに目立ちたいくらいの野望しかなかったようも思える。そういう人間であるから、松尾正直の苦学がいかなるものであったのかも謎である。資料は残っているものの、その場の思い付きによる言動が多い上に、平然と嘘をつくため、なにが本当なのかが分からない。それでも「苦学実験物語」「苦学十年」などの書籍を書いているので、本人の中では苦学をしたと思っていたことだけは確かなのであろう。
「苦学実験物語」と「苦学十年」の他、彼の自伝的なものに「東洋の花伊東ハンニ」がある。自伝だから実際にあったことが書かれているはずなのだが、それぞれ内容が異なる。例えば「苦学実験物語」と「苦学十年」では親孝行な息子として描かれているが、「東洋の花伊東ハンニ」では養子であったため家を飛び出したということになっている。苦学シリーズは大正時代に書かれており当時は親孝行がウケたが、昭和九年の「東洋の花伊東ハンニ」ならドラマチックな境遇のほうがウケた……くらいの理由で記述を変えているのであろう。このようにジャンジャン嘘が変化してくのだから、なにがなんだか分からない。こいつが嘘をつけばつくほど本名の松尾『正直』が面白くなるのは良いのだが、なにが本当なのか分からないのは物事を検証する際に困ってしまう。
さらにどうでもいいことを紹介すると「苦学実験物語」では西洋料理のレシピに五ページほど割かれている。苦学をするために屋台形式の洋食屋を推奨する流れでレシピが登場しているので不自然さはないものの、その内容はちょっと不可解だ。チキンチャップやポールポークトマトスチウなどが紹介されているが、そもそもろくにまともなものも食べたことがないような苦学生が、こういった料理を屋台で提供するのは不可能である。
なんでこんなことを書いたのかと不思議に思ってしまう人がいるかもしれないが、松尾は剽窃も得意としており、実はこの部分は『独立独歩金儲策 菅原 誠 二月堂 明治四三(一九一〇)年』からの剽窃だ。
さらにいうと松尾は鍋焼きうどん屋をしながら苦学をしていたとしており、その経験談を書いているのだが、こちらも『独立独歩金儲策』からの剽窃であり、こいつは嘘ばかりつくためとにかく油断ができないが、「苦学実験物語」に苦学生へのアドバイスとして下記のようなことを書いているのだから大笑いである。
そもそも苦学自体が、本当だかどうか分からない。当時は苦学をしたと公言すれば、有利になることがあったからだ。苦学をした者に対する反応を、おおまかに分けると以下のようになる。
- 苦学をしたが学校を卒業せずに成功した→賞賛されがち
- 苦学をせずに正規のルートで学校を卒業し職についたが、苦学をしたと言い張る→賞賛されがち
- 苦学をした末に正規のルートを通らず学校を卒業し、まともな職に就いた→馬鹿にされがち
1.は苦学をしていたが途中でなんらかの才能が開花し、学問を止めてしまったといった状況で、田中守平の苦学もこのケースに該当する。このような人物に対しては、学校は卒業をしていないが苦学をして一定以上の素養があるといった評価が下されることが多かった。
2.の場合は小学校→高等小学→中学……という正規のルートで大学を卒業したエリートとしての価値の上に、苦学をした苦労人だといった評価が加点された。ちなみに苦学をしつつ、正規ルートで学校を卒業するのは絶対に不可能だ。好意的に見ても「本人にとっては苦学」であったケースもあるのだろうが、ほとんどは評価が欲しい単なる嘘つきということになる。
3.の検定試験などを使い上の学校へ進学した人物は、あいつは苦学上りだから教養に乏しく功利的で好ましくないといった反応をされることがあった。エリートがいる環境では、苦学者たちの評価は高くなかったのである。
松尾正直の場合は1.のケースに該当するため、評価を得るための嘘である可能性もなくはない。あるいは単純に苦学本が売れるから苦学本を出した可能性もある……このように疑い出せば全てが信じられない人物だということになってしまうのだが、とりあえず彼の苦学を紹介していこう。
松尾正直は三重県鈴鹿郡加太村の米穀商の三男として生れた。一時はかなり裕福な暮しをしていたが、父親が相場で失敗したため、一家は名古屋へ移り住む。
松尾正直は家計を助けるために小学校を中退し、露天で桃を売り始める。松尾には、かなりの商才があった。桃の表面の産毛を取り見た目を良くしたことで、そこそこの評判となる。さらに毎日同じ場所で売ることで常連客がつき、子供が商売しているということで人々が勝手に『こども屋』と呼び商売繁盛であったそうだ。この商売で儲けたお金で本を買い、独学するといった日々を送った。
その後、将来性があるだろうと思い写真屋で働くも半年で辞め、十二歳で画家の谷藤龍麟の弟子にな。松尾の画力は数ヶ月でみるみる向上、一三歳となり松尾龍正として活動し一定の評価を得たとしているが、こちらはどう考えても嘘であろう。ちなみに谷藤龍麟なる画家は、実在している。
大日本絵画著名大見立_807036 :: 東文研アーカイブデータベース
ピンポイントでこんな嘘をつく必要はないはずであろうし、住み込みなり通いで、ちょろちょろ手習いをしたくらいの事実はあったのかもしれない。
その後、無学であることを悲観し日本画家を止めてしまい、今のノリタケ、日本陶器会社で働く。松尾は十三にして部長となり、転写方法の技術改革を起し賞金をもらう。日本陶器会社の福利厚生は当時としては手厚いもので、寄宿舎には図書館もあって十分に勉強ができた。この時期に松尾は大日本国民中学会の講義録で独学をすすめていたのだが、日本陶器会社に奨学生制度があることを知り、応募をしたところ当然のように候補として選ばれるものの、最後の体格検査で進学不可となってしまう。
その後上京した松尾は、新聞配達や、鍋焼饂飩屋や、行商などで食い繋ぎながら社会的な地位のある人々の家を訪れ出世の糸口を探した後に、十九歳で旅僧となり大津へ向い新聞記者となるや業績を上げまくり、ついには新聞社の主筆にまで上り詰めたとしているが、いくら大正時代とはいえ十九歳で新聞社の主筆になるのは不可能なので嘘であろう。
こうして見るとほとんど苦学の要素はなく、嘘だけが大量に存在しているわけだが、何度かは学校に行こうかなと考えたりもしているので、これも苦学といえば苦学ではある。松尾は苦学には失敗してしまったが、「大日本国民中学会の講義録」で学習した上で、多くの書物を読み込み大卒にも負けない学力を得たとしている。
ちなみになにをどうしたんだか分からないが「大日本国民中学会」の会長である尾崎行雄に松尾正直は支援を受けている。だからこれすらご機嫌を取るためのお世辞で嘘かもしれない。
一時期の松尾は作家としてやっていこうと考え、その時に出したのが「苦学実験物語」「苦学十年」であった。作家としては失敗し故郷に戻り詐欺を働き逮捕されるも、先に書いたように伊東ハンニに改名した上で逃亡し、再び東京に舞い戻った。
松尾は十代のかなり若い頃に、苦学生として隈本有尚の勉強会に潜り込み知遇を得ていた。隈本有尚は夏目漱石の坊ちゃんに登場する山嵐のモデルとされており、大学予備門時代の正岡子規の『数学の先生は隈本(有尚)先生であつて、数学の時間には英語より外の語は使はれぬ制規(きまり)』で授業をし、数学はできるが英語の出来ない子規を落第させたりもしている。
明治、大正時代は迷信を嫌い、科学を好む時代であった。田中は自分の太霊道を科学とし予言もしたが、隈本有尚は学者であるから、その占いは科学として受け入れられていた。科学である隈本有尚の予言はかなり評価されていた。隈本は当時たまにいた化け物みたいな人でもあった。
隈本は教育家でもあったので、苦学生だと言い張る若き日の松尾に好感を持つのは自然である。その上、松尾自身は不思議な魅力を持つ男であった。大正時代に入り予言を止めていた隈本であったが、詐欺罪を働き逃亡中の松尾に頼まれ予言をしてやる。松尾はあの隈本大先生の予言だと投資家たちを煽り立てて資金を集め、結果的に相場で大儲けをしたのであった。
その金で雑誌「日本国民」を創刊、面接にやって来た帝大生に威張り、与謝野晶子に唄を作らせ、川端康成に小説を書かせたりしている。
日本国民 (6) 日本国民社 日本国民社 昭和七(一九三二)年
やがては松尾の思想を帝大生が語るといった状況も発生した。
そのうち人はハンニをウルトラオシャカサンと呼ぶようになる。
最早苦学をして学校を出る意味など消滅してしまい、結局松尾の苦学も失敗に終ってしまう。雑誌は失敗し色々な人を騙しつつ、反戦運動などもしたが、敗戦後にもよく分からないことをして金を儲けており、なんだかよく分からない。苦学関連の人物で詐欺師は何人もいるのだが、松尾正直と比べると小さい。
二人の共通点
田中と松尾の苦学には、共通するところがある。この二人は必要があれば、大学を卒業していたのではないかという点だ。
田中の場合はロシアに激怒し大学卒業するより天皇を説得したほうが早いといったイカれた結論を出してしまったが、ロシアさえ余計なことをしなければ、そのまま苦学を続け学校を卒業していた可能性はなくもない。田中を上奏に駆り立てたのはロシアであるものの、卒業するよりも突飛な行動で世間の耳目を集めたほうが出世に近いとも考えていたのかもしれない。確かに日本大学を卒業し、外国語を習得した上で、文官になったとしても教祖になる以上の出世は望めなかったはずだ。
松尾はよく分からない人間で、その全貌もよく分からないのだが、行動原理はものすごい金を儲けてものすごいこと格好良いことをするというものであったような気がしている。だから彼にとって学歴なんてものは、苦労してまで得るほどのものではなかった。必須であったとすれば、金を得た後になにをしてでも大学を卒業するか、あるいは学歴詐称でもしていたはずだ。松尾にしてみれば、それくらいのことは朝飯前であろう。それよりも金を払って難しい文章を書かせて自分のものとして公表した上で、私は独学ですがこのくらいのものは書けるんですよとしたほうが、ずっと格好が良いという判断だったのであろう。
何度か記事にしているように、苦学の難易度は異常なまでに高い。
若者特有のある種の熱狂がなくては、実現するのは不可能だ。しかし彼らが苦学をする目的は出世でしかない。苦学の途上でそれに意味がないとわかってしまえば、みるみるうちに情熱は冷めてしまはずだ。そうなると当然のように苦学は失敗に終る。
貧しい家に生れた子供が苦学を成功させるためには、並外れた能力が必要だった。労働しながら学校を卒業するために、短い学習時間で難しい試験に合格する一種の特殊能力が必要である。そして苦学生の生活は、衣食住の全てが汚い。そのため伝染病にかかる者も多かったため「鉄石の体力では危険である。少くともダイヤモンドやゴールドを兼ね合わせなければなら」なかった。(一大帝国 一大帝国社 1916 08)もちろん行動力や度胸も必要だ。そしてそういった人間の中には、苦学の途中で大卒の初任給以上に稼いでしまう者もいた。
上の記事でも書いたことだが、苦学生は「錦衣を着飾ッて帰ッて来るのだ」くらいこのことしか考えていなかった。ようするに苦学生たちは、学問自体になんの価値も見出していないのである。それに加えて明治の四〇年あたりになると、大卒だろうと就職できない時代になり、学歴の価値が低下してくる。それゆえに苦学する意味などないと気付いてしまう若者たちも多くいた。すでに大卒より稼いでるんだから、苦学なんて面倒くさいことなんて止めちまえと思うのは普通の考え方であろう。
今回紹介した田中や松尾は常軌を逸した性格と才能の持ち主であり、一種の傑物である。松尾と田中は、それぞれ日本の歴史に名前を残した人間で、彼らを対象として書籍も存在しているくらいだ。
そんな二人なのだから苦学をして学校を卒業するよりも、冴えたやり方を思い付くのは当然すぎる結果であった。もちろん彼らは例外的な人間ではある。しかし商才のある若者が苦学のために牛乳配達をするうち、酪農の世界で名を成すなどといったケースは多く存在している。私はここに苦学が抱えていた、大きな矛盾があったと考えている。