正しくはないんだけど、なかなか伝わらないし面倒くさいのでこう説明しておこうというようなことはわりと多い。
例えば科学的な判断というのは、雑に説明すると、
- その時点で得られるデータから
- その構造や性質などを調べ
- 実証的、論理的、体系的に考え
出した結論で、その時点ではまあ妥当くらいのものでしかない。データの量や状況が変われば結果も変わるのが当たり前で、変わらないとしたらそれは科学的ではない。だから今の時点では科学的にこれが妥当なことも、もうちょい後にはまた違う判断になるかもしれない。
しかしながら今のところは妥当なのでこうしますみたいなより正しい説明をすると、現状だと理解できない人のほうが多いというのが一般的な認識になっている。なので科学的に正しいですといった説明になる。
文化の面でもこういうことはあって、例えば自虐史観がどうのこうのっていう話は、基本的には馬鹿なこと言ってないで寝ろくらいで処理される。私も雑談でそういう話題になったら、そうですねぇ……みたいな感じで流す。
しかし実際のところ(この名称が正しく事象を表わしているかどうかは別にして)自虐史観はある。しかしこれはニュアンスを説明するのが難しい。1945年から1947年あたりに出版された書籍の前書きを300冊分くらい読むと、当時の感覚みたいなものが多少は分ってくるんだけど、そんなことする暇人はほとんどいない。だから自虐史観とかクダらねーこと言ってんじゃねぇよみたいな表現になる。しかし実際には、そういった感覚は確かにある。
こういったことは個別の話題で喧嘩したところで意味がない。興味のある人に穏やかに説明して分ってもらい、判断する必要のある人はなるべく正しい判断をし、興味のない人はまあ妥当っていうんだから妥当なんだろうなと安心するといった社会を形成するのがまともなやり方なんだけど、これも面倒くさいのでまあ現状でいいかってなってるんだと思う。