『異世界転生』がブームらしい。人間は生と死とを繰り返し、死後もなんらかの形で存続するという輪廻の概念がある社会で、異世界転生的な物語が作られるのは当然といえば当然だ。そして時代によっては、そういった物語が流行し多くの作品が生産されていく。今回紹介したいのは大正二年に書かれた『異世界転生』物と、そういうものが流行するような時代の気分についてである。
当たり前だが気分以外にも『異世界転生』がブームとなる要因は多くある。そして『異世界転生』物に類似する物語も、昔から時代の気分に応じて多く作られた。その辺りについても、軽く触れている。
異世界転生の原形
『異世界転生』物語とはなにか、『小説家になろう』の『「異世界転生」「異世界転移」キーワード設定の基準』では、下記のように定義されている。
主人公が「現実世界」から「異世界」へ転生もしくは転移する要素が存在し、主な舞台が「異世界」である。 https://syosetu.com/site/isekaikeyword/
この定義に従うと、物語の幅はかなり広くなる。そしてブームの渦中にある今は、まさに多様な作品が作られているはずだ。バブル期に調子コイいていたオッさんが現在に転生するもウザすぎてみなから半殺しにされるだとか、戦時中の模範少年が現在に転生したのでみなで保護しようとするが頑固すぎて話が通じないなどといった物語もあるのだろう。
ちなみに私は、日常的に異世界転生をテーマにした物語を楽しんでいるわけではない。何の気なしに絵をクリックすると異世界転生をテーマにした漫画が開いたので数ページ読む程度にしか触れたことがないのだが、そういった人間が考える『異世界転生』物語は、概ね次のようなものになる。
- 主人公が現在の記憶を持っている
- 現在の技術が存在しない世界に移動する
- 現在の技術を駆使して問題を解決する
このような作品の元祖を特定するのは難しい所であるが、文明人がなんらかの理由で未開の地へと流れ着き、土着の人々が抱える問題を科学技術で解決し、神として崇められるといったパターンの物語が、このような異世界転生物語の原形ではないかと私は考えている。例えばハガードの『ソロモン王の洞窟』には、次のような場面がある。
冒険に出た主人公たちは、色々あって原住民に捉えられ絶体絶命のピンチに陥る。しかし味方の一人が天文の知識を持っていたため、皆既日食が起きる正確な日時を知っていた。彼が「太陽よ消えろ」と言うと皆既日食で太陽が消る。皆既日食が終る時間も知っているため、そのタイミングで「太陽よ戻れ」と言うと太陽が戻る。これに驚いた現地の人たちは、彼らを神だと思い込んでしまう。
『ソロモン王の洞窟』の主人公たちが生活していた社会では、皆既日食が起きる日時はそれほど珍しい情報ではなかった。しかし原住民たちにとっては未知の知識であるから、使い様によっては神にすらなれてしまうよといった展開の場面である。『ソロモン王の洞窟』の他にも、時計やマッチ、薬品などを持った文明人が、未開の地で活躍するといった物語は多くある。主人公たちは転生こそしないが、自分が生きていた社会のテクノロジーを別の社会に持ち込み、様々な問題を解消していく。この点は『異世界転生』物語と共通しており、もといた社会では当たり前の知識や物質も、別の世界では特別なものであり、使い様によってはいわゆる『無双』できるといったストリーは、現代の異世界転生物語とほぼ同じ作りだといえる。
もっとも今となっては文明人が未開地へ殴り込みをかける的な作品は微妙な立ち位置で、野蛮人どもに俺らの宗教を教えてやるだとか、未開地へ近代兵器を持って行って占領したら金儲かるだとかの、文化相対主義とかなんも知らんというような文化的に著しく低い時代の思考を基にして書かれた物語ということになる。
ただしこれらの作品は、未だ人類の絶え間ない進歩を信じることができた時代の産物ではある。文明の力で悪いことは去り、先駆者たちがたどり着いた知らない場所から、良い出来事がやってくるという、期待に満ち溢れた時代があったのである。もっと先の時代に、我々の技術が十二分に通用する土地が宇宙なり地底なりに切開られたとしたら、未開地で最新のアウトドアグッズを活用して……的な物語が再び登場することであろう。
異世界転生と似た仕組み
『ソロモン王の洞窟』のような、我々にとっては当たり前の知識や商品を活用すれば、別の世界で大活躍できるだろうといった願望から生れた『異世界転生』物とは別のパターンとして、我々が誇るヒーローが別の場所で活躍したら面白いだろうといった発想で書かれた物語がある。
そんな娯楽物語も、明治時代にはすでにあった。日本の大豪傑がロシアで活躍する『源八郎物語』 や俊傑河井継之助の弟子丸井五郞吉が大海賊……ややこしいが犯罪者がヒーローの時代があった……となり、南洋へ渡りゴリラと対決し最終的に馬賊となってロシア軍を翻弄するなどといった『丸井五郞吉物語』などが存在している。
これらの作品は講談速記本、あるいは犯罪実録といったジャンルに属する作品だ。両ジャンルともに同じような物語ばかりだと批判されており、そういった作品を読み飽きた読者たちが新しいパターンの娯楽を求めていた。創作者たちが頭をひねり、昔の日本の大豪傑がロシアに渡り活躍したらどうだろうか……日本の犯罪ヒーローたちが海外に出て大きな仕事をしていれば……などと想像した結果、生れた物語だということになる。考えようによっては、いわゆるスピンオフ作品も、こういった物語の範疇に含まれるのかもしれない。こちらはずっと昔からあったのだが、明治時代であれば講談速記本で鬼小島弥太郎などを主人公とした作品が書かれている。
現在の『異世界転生』物で使われている、既存のエピソードを加工した上で、いくつも組合せ新しい物語を作り出す手法も、明治娯楽物語ですでに確立されている。物語のパターンが知られているため、雑な作りでも受け入れられる上に、細かな設定の解説も不要、読者たちも読みやすい。このようなシステムの下では、結果的に同じような作品が濫作されることとなるが、今と同じく『源八郎物語』や『丸井五郞吉物語』のような毛色の物語も誕生する。この辺について触れている良書が何冊かあれば紹介したいところだが、今のところは残念ながら良書は私が書いたものしかない。
この分野は日本の文化史で重要なので、そのうち誰かがもっと良いものを書いてくれると思うのだが、それは置いておいてもうひとつ面白い事例を紹介すると、かって新聞小説が頻繁に芝居となり演じられていた時代があった。その理由を明治三九年に役者の喜多村綠郞が、「新聞小說を劇として場に上す理由」で解説している。
「作の善悪を問わず」にしきりに新聞小説が芝居となるのは、観客がすでに「新聞の小説を読み」物語の「顛末をすでに知」っているためである。物語が破綻し「支離滅裂」であったとしても、物語のストーリーは「お客様の方が先刻承知」しているため、それなりに楽しんでくれる……といった分析で、なかなか良いところを突ているように思える。 『手紙雜誌』3(4),手紙雜誌社,1906-04. 国立国会図書館デジタルコレクション
新聞小説自体も一定のパターンがあり、読みやすい作りになっていた。「新聞小說を劇として場に上す理由」が書かれた当時は『海岸と気狂い』がブームになっていたようだ。
今となっては意味不明だが、新聞小説や新聞小説を原作とした芝居ともに、『異世界転生』的なライトノベルの仕組みそのままとしていいだろう。
「大海亀に跨って王冠を南洋の島に探る」
ようやく前置きは終り、今回紹介するのは『快男子 空拳突破 活人社編 活人社 大正三(一九一三)年』に収録されている「大海亀に跨って王冠を南洋の島に探る」だ。
『快男子』は当時の出世をしたい若者たちに向けた書籍で、社会的に成功した人々のエピソードで構成されているものの、雑誌に掲載され記事を寄せ集めた粗雑な作りの書籍である。作者は「活人社編」とぼやかされているが、ほぼ戸山銃声によるものだ。戸山銃声はマイナーな人物の中ではメジャーな存在で、相当に活躍した記者(新聞雑誌を編集をしながら、記事や評論、小説、あるいはエッセイを書くような存在)だ。彼の著書『人物評論奇人正人』は今でもそこかしこで引用されている。そのような実力のある人物が編集したのだから、本書は当てずっぽうで書かれたものではない。時勢に合せてある程度まではウケる要素を盛り込んだものとなっている。実際にそれなりに売れたようで、大正八(一九一九)年には表紙とタイトルを変更し、適当に扉絵を付け加えた上で、同内容の『裸一貫より成功せる成金の生立 蒼竜窟主人著』が三盟舎から再版されている。
ただし雑な内容であることも、また真実である。
「大海亀に跨って王冠を南洋の島に探る」も、子供の妄想のような内容で、わずか30ページ弱の長さしかない。普通は言及されることのないような作品だといえよう。それをあえて取り上げるのは、当時の気分がよく出ているからだというわけで、作品の概要を紹介してみよう。
今から二十四年前、1890年あたり、つまり日清戦争前のお話、シドニーからシンガポールへと向かう船のデッキを、主人公水野廉が物思いに沈み散歩していると、愚かな西洋人たちから日本を馬鹿される。怒った水野はロシア人を成敗しようと短剣を抜くが、その勢いに恐れた臆病な西洋人たちはみな逃げ出してしまった。
これを見ていたのが、イギリス人と日本人の間に産まれたメニタで、水野の勇ましさに感動し声をかけた。メニタが私は父も母も失ってこれから身寄りの者がいるシンガポールへ向かう途上ですと語ると、私も天涯孤独の身、シドニーで店員として働いていたが雇い主が破産、成功を期して海外へ飛び出したのだから、成功しなくては日本には帰れない、どこかで功名を挙げなくてはと水野は応える。恋というのは不思議なもので、なぜか二人は猛烈に魅かれあうのだが、残念ながら船が暗礁に衝突し火炎を上げて沈没してしまう。これで水野とメニタは離れ離れに、メニタがどうなったかは不明、水野は巨大な亀の背中に乗って未開地へとたどり着いた。
疲れ果てた水野がヤシの木の下で休んでいると、銃声が響き渡り、銃や槍で武装した現地の人々に取り囲まれる。外部からの侵入者を排除しようといった様子で、絶体絶命のピンチである。水野はシドニーで働いていた際に様々な言語を学んでいたため、現地の人と会話を試みると幸いにも言葉が通じた。
亀に助けられここに来たと語る水野に、現地の人々は困惑する。そんな中で水野がなんの気なくポケットを探ると、非常用のヨードなどの薬が入っていた。そこで水野は私は医者だと語り、怪我人を治療してやると、薬を知らない現地の人々は大絶賛、彼らは水野を神として崇めることとなった。
神になった水野は、人を殺したり傷つけたりするのは良くないことだと現地の人を教育した上で、島を征服し亀島と名付けた。島内で油や蝋を生産し、珊瑚や真珠などを採り近隣諸国と貿易し、島は徐々に富みはじめる。そうこうするうちに、日清戦争が起き日本人の真価も世界に認められてきた。時に水野は官版で置きた西洋人たちとの小競り合いを思い出し、微笑むことがあった。
ある日のこと、イギリス商船が飲料を求め亀島にやってきた。水野は慇懃に彼らを迎えて持て成し、自らの来歴を語ると、船長がシンガポールにも似た話があるという。メニタは英国船に助けられ、シンガポールで独身生活を送っていたのである。これを聞いた水野は早速連絡を取り、彼女を亀島の王妃として迎えた。そして今も亀島の中央には、日章旗が翩翻と翻っている。めでたしめでたしといった物語となっている。
現地の人々が銃を持っているのに医療に対する知識に欠けている点は多少の疑問は残るが、状況によってはあり得なくもないのだろう。しかし短刀で人を殺そうとする頭のおかしな水野になぜメニタが魅かれるのかも謎であるし、亀に乗って未開の島に上陸している時点で、大正時代の今時の子供を騙すこともできないような物語としか言い様がないだろう。それでもこのような作品を読み、気分が良くなるそれなりの年齢の若者たちが、当時はいたのである。
不可能なことをやれと言われる気分
『快男子』は、大正二年の出世がしたい若者たちに向けた書籍だと書いた。しかしながら、大正二年の若者たちは能天気に出世ができると考えていたわけでもなかった。「大海亀に跨って王冠を南洋の島に探る」は、そんな気分にしっくりくるものであった。
基本的に当時の若者たちは、矛盾した方法で社会に順応することを求められていた。もちろん現代でも若者は矛盾にさらされている。学校では禁止されていた化粧が、社会に出ると身だしなみとして必須のものとなり、指示に従うことがよしとされる教育を受け、指示待ちが批判される社会で働くなどといったことは、よく言われていることだろう。大正時代の矛盾はというと、なんといっても立身出世である。
戦前の立身出世は明治あたりに発生し、今もその感覚は多少は残っているといったもので、時代によって意味合いが変化していく。立身出世を構成している要素も多く、それぞれの階層で受け取り方も異なるといった複雑な概念だ。書籍で換算すると軽く十数冊分くらいの情報量がある上に、私も全てを把握しているわけではない。あくまで個人的な感想だが、立身出世とそれにまつわる諸々にケリを付けてないから社会にダメな部分が大量に残ってるものの、ケリをつける難易度が高すぎるため、個人でどうこうできる話でもないなとも考えている。とにかく複雑かつ面倒くさいものなのだが、ここでは強引に超圧縮した解説で済ましてしまうことにしよう。
明治時代は、誰もが立身出世できるとされている時代であった。この誰もがというのも、微妙なところがあって、時代によっては貧乏士族、あるいは資産のある平民ということになるのだが、このような細かい解説を入れていくとものごい長さになるため、今後は雑に解説することにして、ものすごい雑に解説していくと、若者の多くは立身出世に失敗する。それでもなんとなく俺ならできるんじゃないのかなと、若者たちに思わせてくれるような時代であり、苦労をして社会的に高い地位につき、故郷に錦を飾りたいという野心だけが拠り所の貧しい若者たちが幾人もいた。
彼らが立身出世する手段はいくつか用意されていたが、代表的なものに苦学があった。苦学とは貧しい家に生れた子供が、苦労をしながら大学を出て出世をするといったものだ。苦学をしようという層は幅広かった。資産家の息子が私は苦学生だと語ることも多くあったし、貧しさが原因で小学校に通うことすら危うい子供も苦学して大臣になろうと思うことがあったが、基本的には支援者なしに独立自活し学問を修めることが苦学とされ、自分の力だけでなんとかすることが素晴しいのだと称されていた。
ところが当時の日本には働きながら学ぶ学生向けの労働なんてものは、ほとんどなかった。「やれ何々の学校出て、高等文官の試験を受けるんだとか、大臣になるんだと」「何んにも知らずに、ぽつねんと上京して、苦学をしようなぞと思っても、迚も出来ない」のが本当のところであった。「新聞記事などでみる苦学の立志者」には、「皆な必ず隠れたる援助者のある」のが本当のところであった。『立志成功苦学の裏面 深海豊二 著 須原啓興社 大正五(一九一六)年』
『苦學生々活の十年間/高山鐵石』(成功 新年號 成功雑誌社 大正二(一九一三)年)で苦学成功の条件は以下のようになっている。
- 中学卒業以上の学力あること
- 毎月郷里より五円以上の学資の補助あること
- 身体の強健なること
- 目的を一定し、意志堅固にして堅忍不屈なること
当時は中学を出て郷里からの援助がある時点で中流以上の家庭、あるいは没落はしているが人的ネットワークを使える環境で、独力でもなんでもない。ようするに無一文で東京に出て大学を出て出世するなんてものは、架空のストーリーに過ぎなかったのだが、それを真に受けてしまう子供が多くいた。
なんの後ろ楯もない苦学は、ほとんど実現不可能なほど困難なものであった。一九〇五年あたりには「東京にて無一文苦学して目的を達せし者ありとせば千万に一二のみ」くらいの難易度だとされている。『成功 第八巻 一号 成功雑誌社 明治三八(一九〇五)年』当時の人口は4600万人であるから千万に一人だとすると、苦学に成功するのは年間で46人になってしまい、いくならんでも少なすぎるように思えるかもしれない。しかし苦学の定義を厳密にしていくと、私が知る限り成功した人間はゼロ人である。
一般的に苦学に成功する確率は、百人に一人とされている。一般ってどこの一般だよという話になりそうだが、面倒くさいのでここでは全体的な一般だとしておくが、とにかく一般的に百人に一とされている根拠となるのは、「専検(大学入学資格が得られる専門学校入学資格検定試験の略称)の合格率だ。
確かに専検はかなりの難易度の試験ではあった。それに加えて働きながら学ぼうという貧しい家の子供は、まず試験対策するための教材を手に入れることができなかった。図書館に行っても無駄で、東京ですら『そうでしゃう。本のない方は図書館などへ参りますけれど、図書館では思ふやうにら見れませんで、借り出すといふのも容易でありません』(各種商店主人店員苦心談 原田東風 著 大学館 明治三八(一九〇五)年)といった状況であった。詐欺師による出版物も流通していたため、苦労の末に参考書を手に入れたとしても、完全に意味がないといったことすらあったのである。
もちろん安くはない受験費も必要で、さらに試験は数日に渡って実施されるため、場合によっては宿代も用意しなくてはならない。専検を受験している時点で苦学者としては成功している部類であり、受験すら出来ないといった層を含めると「千人中に一人位しか目的を達する者は出来ないのであつて、あとの九百九十九人までは、悉く失敗に終るものなのである」くらいが妥当な数字だろう。『現代の修養 : 立身成功処世要訓 宇野共次 著 大興社 昭和一(一九二六)年』
この記事は大正時代の気分について解説しているわけだが、先程の資料は昭和のものとなっている。どういうことなのかというと、単純に明治時代に発生した感覚が昭和になっても続いていたことを意味しているにすぎない。この昭和にまで続く苦学のイメージは、もともと明治維新から学制が整えられる明治二〇年あたりまでに出世してしまった人々の経験を基にしたものであった。
あくまで明治二十三年当時の一個人……つまり作者藤田鳴鶴……の感覚になるが、当時は知力を磨いているのは「貧乏氏族」であり、「富貴の人の多くは知力を研磨」していない時代であった。『観風叢話 上篇 藤田鳴鶴 金港堂 明治二三(一八九〇)年』日本に近代的な学校がまだない時代にあっては、既得権益を持つ人々がわざわざ大学を出て学士になるメリットなんてなかった。それゆえに、貧しいものにも最高学府を卒業できるチャンスがあった。この状況は学校が良いものだとそれるようになると変化していき、やがて資産家たちは子息を名門学校に入れたがるようになっていくのだが、一時的に貧しいものが学ぶといった時代があったことは確かである。
こういった感覚を元にして、学問を極めるためには貧乏なほうが有利だといった考え方も流布していた。貧乏人は物資に乏しいため娯楽が少ないから、学問に集中することができるといった理屈である。『学問の応用 民友社 明治二九(一八九六)年』
それでは明治二〇年までに貧しい家に生れた子供、例えば貧農の三男坊が苦学をして大学を卒業していたのかといえば、そんなわけがない。異常に記憶力と運が良い貧乏士族の息子が、創成期の大学を卒業し出世したといったところが実情だ。加えて初期の貧しい大学生たちは、働きながら学ぶ苦学生ではなく、給付金(今の奨学金)で生活していたからだ。残念ながら奨学金をもらっている時点で、理想的な苦学者とはいえない。なぜなら苦学生は独立自活しなくてはならないというルールがあったからだ。ちなみに学校に通いながら働けるような職業が登場するのは、翻訳など一時的なバイトは別にすると、明治二〇年以降のことになる。
苦学者の思想の源となったのは、福沢諭吉の『学問のすゝめ』、中村正直の『西国立志篇』、そして松村介石の『立志之礎』といった当時のベストセラー作品だ。今となっては『立志之礎』がマイナーなのは、『学問のすゝめ』のような「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」や『西国立志篇』の「天は自らを助くる」といったキャッチコピーがなかったからである。ちなみに現代人が楽しく読める内容となっているのは『学問のすゝめ』のみで、後の二冊は意味不明といったところであろう。
『西国立志篇』の「天は自らを助くる」は知らない人のほうが多いはずだが、この考え方が多くの苦学者たちを失敗に陥れた。「天は自らを助くる」は徐々に単純化され、他人の援助を一切謝絶せよといったスタイルに転じていく。なんでそんことになるのか意味不明だが、そうなっているのは事実なので仕方がない。事実、苦学者にアドバイスをする場合、苦学生は「他人に依るを潔しと」しないが、それは「偏狭たるを免れない」。穏当に上京し成功している「知人先輩の許に赴き」助けを求めよといったところから、アドバイスを初めなくてはならなかった。『東京諸種食客奉公人住込実験案内 原田東風 著 大学館 明治三八(一九〇五)年』
一切の援助なしに苦学を試みようとする若者たちの支えとなったのが通俗道徳で、これは誠実な人柄の勤勉で職務に忠実な人間が質素な暮しを続ければそのうち出世するといった雑な思想だ。「私は只だ世の中を正直にして渡れば、何とかなるものと信じて居りますから、そう御心配には及びませぬ」(墓参と懺悔 梅田又次郎 著 山陰日日新聞社 大正九(一九二〇)年)くらいの考えで、無計画に東京へと飛び出す若者たちがいたのである。このような道徳を守り続け、それなりに平穏な人生を送る人もいることであろうが、残念ながら犯罪者に騙され酷い目にあう人もいることもまた事実だ。ちなみに梅田は「世の中を正直にして渡れば、何とかなるものと信じ」すぎ、後藤新平を殴打したり日本軍に喧嘩を売ったり、共産主義者を用語したりしたものの、処刑にもならず人生なんとかなっているのだから完全に運次第だといえよう。
もうひとつは修養で、様々な経験をしつつ書物を読み、人格を高めると同時に断食や運動などをして身体を鍛え上げるというもので、一言で説明すると「人の体には、未知の力が秘められている。鍛えれば鍛えるほど、それは無限の力を発揮する(光戦隊マスクマン)」ということになる。修養には通俗道徳も混ざってくるためややこしいのだが、できる人はいるかもしれないが、普通は無理であろうといった手法である。
運良く苦学を終えたとしても、彼らが求めていたものが得られたわけではなかった。なんらかの文句は出るもので、しょせんは他人の助力で卒業しただけだなどと罵倒をされた。さらに苦学生は性格が悪い、我々エリートとは違う、あるいは苦学生は雇いたくないといった人々もいた。
或る会社で「苦学生出身者は重用しない」と言ったとか聞く。此れにも一面の真理がある。あまりコセコセした人物は指導的地位に向かないからである。 銀行実務懸賞文集. 第13巻 大阪銀行集会所 編 大阪銀行集会所 昭和一二(一九三七)年
これを避けるためには圧倒的に豪快な人物になるしかない。そこで無一文で故郷を飛び出し徒歩で東京を目指す若者たちが登場する。『天は自らを助くる』に従って、援助を一切受けず無一文かつ徒歩で東京を目指し、飯もろくろく食わず贅沢もせず旅中どこかで雇ってもらい、勤勉かつ忠実に働く。こうして旅を終える頃には心身ともに鍛え上げられ『修養』することまでできてしまうわけだが、旅行は当たり前のように失敗してしまう。
この他、時代が下るにつれて、絶対不可能な課題が理想的な苦学生には課せられていく。様々な資料から誰も文句を言えない理想的で正真正銘の苦学生を割出してみると、『今の貨幣価値で五千円ほどの金を持ち東京から最低でも200里(600キロ)程度離れた田舎の家を飛び出し、時に野宿や断食をして心身を練磨した上で、なんとか徒歩で東京までたどり着き、独力で自活の道を探し出し働きながら学校へ通う。他人からの助勢は一切謝絶し、中学、高等と帝大と正規のルートで進学(留年などはアウト)し続けた上で、帝大を主席で卒業しなんらかの職を得て国に貢献』しなくてはならないのだが、矛盾に満ちた実現不可能な課題であり、これを達成した人間など一人も存在していない。
多少は戦前の苦学に詳しい人なら、師範学校や陸軍幼年学校があったのではと思われるかもしれない。ただし師範学校は人によっては「其当時の僕の胆を奪うには酒を飲まさぬといふよりも殺すといふよりも、退校させ師範学校へやるといふのが一番の戦慄」(こころの華 5(11) 竹柏会大日本歌學會鶯蛙吟社こころの華発行所 竹柏會出版部 明治三五(一九〇二)年)というようなものであったし、陸軍幼年学校には身体検査があり、苦学をしたいというような病気になりやすい貧しい家庭の子供が入学するのは難しかった。
情報がギチギチすぎるためなにがなんだかよく分からないかもしれないが、ようするに「大海亀に跨って王冠を南洋の島に探る」を読むような若者たちは、実現不可能な理想はあるが、どうしろっていうんだよといった気分を持っていたと考えていただきたい。
感覚は長く続く
異常としか言い様がないのであるが、絶対に成功させることが不可能な苦学は、明治三〇年あたりから昭和の初期、つまり五十年ほど存在し続けた。苦学が残った理由はいくつかある。苦学を構成する『修養』自体が(あくまで当時としては)より良い社会を構成するために役立つものであったことや、数年に一度くらい「そこそこ不可能な苦学」を達成する異常者(頑健な身体を持ち3年焼き芋だけ食い続けて学校を卒業する)が登場したこと、苦学を煽り立てると金が儲かる人々がいたことなど、なんとなく納得できるような理屈はいくらでもでっち上げることができる。ただ実現不可能な苦学を、単純かつ素直に眺めると、一度形作られた感覚は長く続くということになるだろう。
またもや話が逸れてしまうが、許していただきたい。電子ゲームをピコピコと表現することがある。ゲームにまつわる音楽をピコピコと呼ぶこともあるようだが、これは複雑なので置いておいて、今時ハードウェアの制約上、ピコピコしか音を出せないゲームなんてものは、意図的に作ったものを除いて存在しない。それでもピコピコは、今もギリギリ残っている呼称ではある。
もともとピコピコは、小さなものが動いている様子を示す擬音であった。やがて無線機が受信する音をピコピコと表現するようになり、ピコピコとなる電子音などというようになる。ピコピコブザー、あるいは目覚まし時計などの製品も登場する。ジョージ秋山先生の『ピコピコロボベエ』のピコピコはコンピュータの音を示しているのか、ブザーなのかよく分からない。
若者がスペースインベーダーに興じる様子をピコピコと表現している文例は、一九七九年には存在している。同年のトラック野郎・熱風5000キロで三番星の桶川玉三郎(せんだみつお)がスペースインベーダーの偽物を捕まされるといったトラブルに巻き込まれている。
このことから相当に一般的なものにはなっていたような気がしないでもないが、私が電子ゲームに詳しいわけではない上に、今まさにゲームの歴史の雑な検証が話題になっていることもあるので断言はしないが、ここでは仮に1980年にはゲームをピコピコと呼ぶ人がいたとしておく。
それではゲームがピコピコではなくなったのはいつくらいのことかというと難しい話になってくるわけで、ブザー音以外の音を表現できるようになった時点ですでにピコピコではないような気がしないでもないのだが、当時生きていたゲームをしない層にとってはファミコンもピコピコであったことだろう。PlayStation は流石にピコピコではないはずだから、一九九三年をピコピコ消滅の時としておこう。雑な仮定続きで申し訳ないが、ゲーム自体をピコピコと呼び続ける人間自体が雑なので、そこそこ妥当な判断だと思えなくもないことであろう。
とにかくゲームがピコピコになってから今年で四三年、ピコピコとなるゲームの存在感が薄くなってて三〇年、つまりゲームがピコピコであった期間は一三年しかない。そこから先は惰性でピコピコと呼ばれているとすると、三十年程度はピコピコという旧弊が続いているということになる。
このように一度定着してしまった概念は、思いの外に長く続く。
苦学もよく似た状況で、千八百九十年あたりに登場した苦学だが、流石に昭和一六(一九四一)年になると『数年前であれば苦学と云ふのが相当多くあつて、新聞配達、牛乳配達、或は政治家、辯護士の家に書生になつて学校へ行き、 天晴れ立志伝中の人となりたいと云ふ所謂一時代前の少年の憧れの的となつていた考へ方が、非常に少くなつて来た』。しかし『苦学と云ふ事が当人達にどれ程の意味を持つものか、自分の能力とか熱意とか云ふものは一向お構ひなしである。苦学をして何になるの云えば、高文を取りたいとか、外交官になりたい。 なぞと云ふのである。中には前にも一寸述べたが、どうしても新聞配達か牛乳配達をしないと苦学と云ふことにならないと信じている』(家出する子供たち 田寺政夫 著 春陽堂 )子供が少数ながらも存在していた。
「大海亀に跨って王冠を南洋の島に探る」の気分
ようやく「大海亀に跨って王冠を南洋の島に探る」の気分を紹介することにする。
物語は日清戦争前に置きた日本人と西洋人の小競り合いから始まっている。この時には、まだまだ日本は東洋の一小国に過ぎなかった。しかし水野は亀島で奮闘し、日本は戦争に勝利した。その結果、水野は補給にやってきたイギリス人船長と対等の立場でやり取りできるようになったのである。というわけで読者たちは、俺たちは努力の結果、一流国の仲間入りした日本の国民だぞと盛り上ることができる。
本作で西洋人が徹底的に愚かで最終的には水野に庇護される存在に描かれているのも当時の気分を表わしていて、ある時期までは道義心に劣る西洋の人々を我々が導いてあげなくてはならない(もちろん、本当にそうなのか、それができるかどうかは別のお話)といった機運があったのである。
ちなみにこれは知らなくてもいいことだが、かってはこういう部分は帝国主義がどうのこうので雑に処理されていた。しかし戸山銃声はページを埋めるために「大海亀に跨って王冠を南洋の島に探る」を書いただけであるし、こんなものを読んで喜んでる奴らは自分の生活をマシにするのが精一杯で国威を高揚させる余裕などあるはずがない。阪神ファンが最近の阪神は強いし俺らも勢い強くなってきたくらいの気分の問題で、日本が一流国になったから俺らも一流だと考える若者がいたくらいの解釈が妥当であろう。このあたりは色々あるのだが、主人公の水野はシドニーで働き失敗し、無人島で成功している。こちらも当時の気分がよく出ている。
先に苦学は異常な難易度だったと紹介したが、当たり前だが当時の人々もそれに気付いており、東京で苦学をするよりも海外に行ったほうが成功する可能性が高いと考える者も普通にいた。明治三八年にはすでに、日本で働きながら上の学校に進学するのは無理だから海外で学べというガイドブック『新渡米[正] 出版協会 出版協会 明治三八(一九〇五)年』が出版されている。
その一方で「空想において行はるも、事実に於て行はれない」ような記述で満たされた苦学生向けガイドブックは多く出版され続けた。それらは「千人のうち、九百九十九」までは失敗してしまう手法を紹介するものであった。「貧家の子弟が、苦しみ、身を傷つけてまでも、学問する必要は何処にも無い」のだから、別の方法で成功しろという主旨で書かれたのが新苦学法だ。著者は苦学するよりもチャンピオンになるほうが簡単だと考えていたようだ。
新苦学法 島貫兵太夫 著 警醒社 明治四四(一九一一)年
『新苦学法』が書かれた十数年後、確かに日本人の金メダリストが登場している。その中には苦学をしなくてはならないように思える人物もいないでもない。誰も達成したことがない苦学をするよりは、チャンピオンになるほうが確かに成功する確率は高かった。
『新苦学法』の著者島貫兵太夫は、苦学者を海外へ送り込む活動をしていた人で、その活動の結果、福島県河沼郡勝常村から海外に行くもの続出するという珍事までおきた。知り合いのいない東京に出るよりも、勝常村の出身者が多くいる海外へ出たほうが、成功する確率が高いといった理屈であった。
ただし海外で成功しようというのも、苦学の世界とよく似てている。密行をして海外で成功した伝説的な人物に憧れ、時代錯誤な方法で密行を企て失敗する若者や、移民を希望する人々を騙す詐欺会社の登場、近代化が整うにつれて上っていく海外渡航の難易度など、ほぼほぼ苦学の世界と同じである。水野も二十四年前、一八九〇年前後であったから、比較的容易に渡航でき失敗することができたわけだ。
水野が一度失敗していることにも注目しておきたい。なんとなく苦学をしてみたいという若者は、ふわっと成功したいと考えていた。彼らがあやふやに成功したいなと考えるのは、現状に不満があるからだ。社会がまともに運用されていて、不満なく一生を終えられるのであれば、成功したいなどとは考えない層である。
苦学よりも海外で成功する可能性のほうが高いと、彼らに語ったところで意味はない。周到な準備をした上で面倒な手続をクリアして海外に行き、過酷な労働をしながら貯金をしろと言われても、やる気など微塵も出てこないからだ。それよりも今日中に家の有り金を掻っ攫い、東京に出て苦学するといった短絡的な方法のほうが魅力的だった。面倒くさいことを抜きにして成功したい若者にとっては、それが不可能であったとしても、家出をして東京に出て新聞配達をして苦学するほうが、手軽で現実的だったのである。昭和に至っても『どうしても新聞配達か牛乳配達をしないと苦学と云ふことにならないと信じている』子供がいたのは、そういうことである。
彼らが海外に出るとしても家出をして横浜に行って密行き、海外でリンカーン(リンカーンは苦学者の代表として扱われている時代があった)みたいなことをするくらいの雑な計画を立てるくらいが関の山で、彼らは海外進出もいいけれど苦学のほうが手近だろと考えたかった。苦労をして海外に出たであろう水野が、失敗していることは、彼らにとってやっぱりそうじゃないかという慰めになったのであろう。
今も昔も若者が恋が好きなのは変らない。だから水野はメニタと恋に落ちる。ただし今の水野は新天地を探し出し、なんとか成功しなくてはならない。そんな中で都合よく船は沈没、亀の背中に乗って無人島で大成功、メニタを王妃に迎えることなる。ここで重要なのが水野は無人島で、特に新しい技術などは身に付けていないことである。たまたま現地の言葉が話せただけで王にまで上り詰めている。この場面にも当時の若者たちの、俺たちも出世した奴らもそれほど変りはない、亀の背中に乗るような機会がないだけだといった気分が反映されているのである。
雑な理解ではあるが現在の『異世界転生』の物語からは「私たちの持ってるものも悪くはないよ」といった気分が読み取れなくもない。ようするに大正二年も、そのような気分が存在していた。ただし「なんとなく俺ならできるんじゃないのかなと、若者たちに思わせてくれるような時代」でもあった。亀のような物語が濫作されなかったのは、そのあたりに原因があった。
基本的に私は過去の出来事と今の出来事をくっつけて、似てるだのなんだの語るのは意味のないことだと考えている。それでも現在の『亀』が『異世界転生』物語がウケてる構造と、少し似ているところは興味深い。