諸事情があり、戦前の苦学を調べ続けていた。色々なことが解ったのだが、その中で最大の驚きは、学問をしたい苦学生は(ほぼ)いないという点であった。ちなみにここでいう苦学生とは、小学校を卒業したものの家が貧乏で進学できず、働きながら学問をしようと決心した…といったような人物である。
戦前の若者たちが苦学をするのは、基本的には立身出世が目的で、良い大学を出て良い会社に就職し、良い生活をしようという単純明快なものであった。時代によって「良い会社」が「政治家」であったり「官吏」であったりの違いはあるが、学問による出世が可能な社会に属する若者であれば、一度は思うようなことであろう。
そのような目的とは異なり、純粋に好きなことを学びたい、追求したいといった欲望を満たすために苦学をする若者もいるのだろうと、私は勝手に考えていたのである。
戦前の野心のある若者たちは、基本的には世俗的な成功をしたいと考えていた。戦前の日本は、信じ難いほどの成長をした。その原動力のひとつが、立身出世をしたい若者たちの欲望であった。
それとは別に戦前には、無欲恬淡、栄利聞達(ぶんたつ)を事とせず……などといった価値観があった。学問は出世のためにするものではなく、自己を高め世界に貢献するためにするのであるといった考え方だ。学問を極めるため大学にすすみ、運良く学者になれればそれでよし、失敗したとしても貧乏な生活を送りながら細々と学問を続けたいといった貧しい家庭の子供がいても、全く不思議ではなかった。
ところがそんな人間は、見事に一人もいなかった。一人くらいはいそうなものだと思う半面、彼らが楽しく学ぶことよりも立身出世を選ぶというのも理解できなくもない。なぜなら学問をするという概念があやふやであった上に、苦学が過酷すぎたからである。
苦学の目的
基本的には苦学者は『男子(男児ではない)志を立て郷関を出づ。学若し成らずんば死すとも帰らず』と豪語し故郷を出る。男子の志がなになのかといえば、出世をして故郷に錦を飾ることだ。それ以外にはなにもない。随分とショボいように感じてしまうが、それが事実なのだから仕方がない。
一例として、成功したい青年が読む雑誌『成功』の読者質問コーナーに掲載された質問と回答を紹介してみよう。
問
一、理学者になる最初の手続及学校等を問ふ。
二、生来 「メキシコ」にて親友と共に金儲をするのと、理学文学等の博士になりてよりと何れが家計上よきか。
岡山県の岸 水裏生
答
理学者になる手続などと云ふものあらう筈なし。学校は帝国大学理科大学などあり。
第二は愚間にも程あり。
親友と「メキシコ」で金儲けをするのか、理学者になるのとどっちが得かといった質問で、「愚問にも程あり」と切り捨てているのは酷いような気がしないでもないが、現代に置き換えると「なんかネットで世界的にバズって金を儲けるのと東大の教授になって儲けるのとどっちが簡単で得か教えろ」的な雑な内容で、愚問であることは事実なので仕方がない。『生来』は『将来』の誤植であって欲しいものだが、おそらく誤字であり、「水裏生」が理学文学等の博士になるのはまず不可能、どちらかといえば親友と「メキシコ」で金儲けするほうが成功する可能性があるのだろうが、ようするに「水裏生」は理学文学等の学問をしたいわけではない。なんとなく偉くなりたいくらいの考えしかなかったのであろう。
注目すべきなのは、理学か文学、どちらが自分の好みなのかすら「水裏生」が考えていない点である。別に彼が水際立った馬鹿であったわけではなく、一般的な水準はこんなものであった。
学校は卒業したいけど学問も研究もしたくない若者
『実業の世界 明治四四(一九一一)年 六月十五日號』の「牛乳配達となつて苦学せる僕の経路」という記事は、まさに学校は卒業したいけど学問も研究もしたくない若者によるレポートである。筆者の大江力は没落した一族の息子で、家はそれなりに貧乏であったが、様々な人々から知遇を得ることができる立場であった。旧制の第一高等学校に入学しており、当時としては超エリート、かなりの知的水準なのだが、意味が不明瞭な選択をしている。
父親が逝去し進学ができなくなってしまった大江は、知り合いの紹介で行橋製作所に就職し、製図の見習いとして働いていた。しかし「一日も、学問をしたいと言ふ念は、私の頭を去つた事はなかった」。
そこで福岡工業学校に入学し、牛乳配達で学費を稼ぎ卒業した。卒業後は知人のツテを使って藤田分工場に入社し、ワイヤーロープの研究をすることになった。ワイヤーロープの研究は十分に学問であり、この時点で「学問をしたいと言ふ念」はかなっているわけだが、なぜか「折りがあったら学問を続けたい」と考え続け、同郷の華族の援助を受け一高の生徒となり、大正五年に京大法学部を卒業し出世をしたようだが、ちょっと行動に整合性がないように感じられる。
あくまで推測になってしまうが、大江は秀才あるいは一種の天才ではあったものの、彼にとっての「学問」も「水裏生」とあまりかわるところはなかったのだろう。
一高に入学するような若者がこれなのだから、もっといい加減な奴らの認識が雑なものであったことは明白である。
独立自営の嘘
大江力は「金をくれるものも」「学資を貢いでやろうと云う者もあったが」全て「謝絶した」としている。文末でも「苦学生として、最も苦痛に感ずるのは、乞食書生と同視して金銭を寄贈される事であつた」と独立独歩で学問をしていることを強調している。当時の価値観として、苦学は独立自営でおこなうもので、他人からの助けを期待することは禁物だとされていた。だからこそ援助を受けたことはないと主張しているわけだが、実際のところ没落前の人的ネットワークを駆使し、同郷の華族を援助まで受けている。
これは仕方のないことで、「新聞記事などでみる苦学の立志者には、みな必ず隠れたる援助者(立志成功苦学の裏面 深海豊二 著 須原啓興社 大正五(一九一六)年)」がいた。実際のところ独力で苦学をして学校を卒業するなんてことは、ほとんど不可能な時代だった。『成功 大正二(一九一三)年 新年號 苦學生々活の十年間 高山鐵石』で苦学に失敗した若者が、苦学の成功の条件を書いている。
- 中学卒業以上の学力あること
- 毎月郷里より五円以上の学資の補助あること
- 身体の強健なること
- 目的を一定し、意志堅固にして堅忍不屈なること
これにひとつ付け加えるのであれば、分かりやすい天才、あるいは秀才であることだろうか。将来有望だと人に思わせることができれば、同郷の成功者から援助が見込めるからだ。ちなみに当時の中学校への進学率は一割以下、それを卒業できている時点でかなり恵まれた環境だといえる。小学校をようやく卒業して家出して苦学をしようというような人間に、成功する見込などほぼなかったのである。
ところがである。極々まれに、本当に独力で学校を強引に卒業してしまう異常者が登場してしまう。
そりゃ続かないよねっていう話
戦前の私は苦学をしましたといった文章は、そのまま受け取るわけにはいかない。苦学をしたと主張する者の多くは「隠れたる援助者」がいるのだが、世間体の都合上、または文章を面白くするため独立自営で苦学をしたと書きがちだからだ。ようするに貧乏な家を飛び出し自分の力だけで学校を卒業するといったイメージは幻想、あるいは建前であり、実現不可能なことなのだが、時にそれを真に受けて本当にやってしまう若者も出てくる。彼らがどのような生活をしていたのかといえば、
- 午後の八時に地方版の新聞の分類
- 販売所への手配を済ませる
- 午後の十時半にに新聞がすり上がるまでの三十分、勉強するか雑談
- 十一時から配達
- 夜中の四時前後帰宅
- 朝七時に起床し飯を炊く
- 朝食後に学校
- 号外が出ると新聞社から呼び出されるのため、学校を出て号外を配る
(成功 明治三九(一九〇六)年 三月号 余の東京苦學生活 苦學山人)
これで収入は月に九円(今の貨幣価値だと8万円程度か)程度である。新聞配達での苦学は運任せのところがあって、配達所によっては苦学生の通学を積極的に妨害することもあった。真面目に学校に通われると睡眠不足となり配達の効率が悪くなる上に、号外が出た際に学校に呼びに行くのは面倒くさいからだ。運良く苦学を奨励してくれる配達所に入れたとしても、病気なったら終る。苦学山人も「余は幸いに一度の病気にもかからなかったが、もし病気にでも取付かれたらそれが最期で万事水泡に帰する」と語っていくらいだ。
このような苦痛に堪えるのは、立身出世をしたいからに他ならない。昭和二(一九二七)年の『独学者の使命と其の進路』では、日本人は「学問」を「いわゆる立身出世の道具に使うとする傾向が非常に多い」として嘆いている。
私は苦学の体験記を多く読んだが、不思議なことに学ぶ楽しみについて書いているものは、ひとつもなかった。これも「学問をしたい苦学生」がいなかったことと関連するところで、彼らにとって学ぶことは苦痛と強くつながっていたのだろう。苦痛(苦学)の後に楽(立身出世)がくるというわけだ。
余談になるが苦学生の多くが失敗してしまう理由もここにある気がしている。不愉快な労働をしながら、苦痛でしかない勉強をしなくてはならないのだから、失敗するのが当たり前である。
楽しく学ぶコミュニティーの可能性
実のところ、苦学を成功させたとしても得られるものは少なかった。純然たるエリートなら別であるが例え大卒であったとしても就職できない時代がやってきて「当分最も役に立たぬものは大学卒業生である。次は中等学校卒業生である。而して最も役に立つものは、小学校卒業生である(卒業生労働論 秋守常太郎 著 東洋経済新報社出版部 大正一三(一九二四)年)」などといったありがたくない評価が下されることもあったほどだ。
実は明治時代にはすでにそのような現実を直視し、「苦学生が(学校を卒業するために)費やすところの労力を他の方面に向って尽したら、それこそ大成功をみるであろう」(立志之東京 渡辺光風 著 博報社 明治四二(一九〇九)年)と気付いている者も多かった。
それなら学校の卒業なんざどうでもいいから、勝手に自分で勉強をしようというような人間が出てきてもいいように思えるのだが、「学問をするという概念があやふやであった」り、学問が苦痛と強くつながっていたため、多くの若者は楽しく学ぶなどといった感覚を想像し、実行に移すことができなかったのであろう。
それでも私は楽しく学ぶコミュニティーが形成される可能性はあったのではないかと考えている。ここからは私の妄想に近い話になってしまうが、今しばらくお付き合いを願いたい。
苦学と同時期に、無銭旅行がしきりに行なわれた。これは金を使わないで、旅行をしようというものであった。雑誌の読者投稿欄で無銭旅行仲間を集う者もいた。
さらに先鋭的な提案もされていた。「文庫 明治三二年 6月号 文庫記者ならびに寄稿者愛讀者諸氏に諮(はか)る 肥前、澁江響」である。
旅行は「相応の蓄え」がなくてはできないものである。まして学生の身分では旅行はなかなかできないわけだが、旅行をして学ぶところが多いのは学生時代だという矛盾がある。机上の学問でなく、実地のものとするためにも旅行は大切だ。そこで愛読者たちで「旅行同好会」を結成し、会員の旅行者に自宅を無料宿泊所として提供することを提案したい。これなら容易に無銭旅行ができるだけでなく、各地に点在する愛読者たち同士の交流も盛んになる。そこに住んでいる人間から、地域の名所旧跡風俗等の解説もしてもらえるのだから、これほど良いことはない……といったアイデアであった。
この提案がなされた同年に「迷信の日本(八浜督郎 編 警醒社 明治三二(一八九八)年)」が出版されている。作者の八浜は、いくつかの神社に趣いて絵馬や請願紙に書かれた願い事を収集し分析した結果を記述している。まだまだ荒く雑ではあるが、手探りで民俗学のフィールドワークのようなことをしているのである。
『田舎青年 山本滝之助 (田八男児) 著 山本滝之助 明治二九(一八九六)年』で提唱されているのは、苦学すら実効できない田舎に住む若者は、鶏を飼えというものである。「雞の二三羽は縁の下にても銅」うことができる。卵を売って小遣いを稼ぎ「雑誌の二三種」を買うことはできるではないかといったものであった。
この三つの事例を組合せるとどうなるのか、鶏を飼育し小遣いを稼いだ地方の青年たちが、雑誌を通じて「旅行同好会」を結成し、若者たちが各地で手探りで民俗学のフィールドワークのようなことをする。その結果を同人誌にでもまとめ共有すれば、奇妙な形をした謎の学問が発生していたのではないか……というのが私の妄想だ。
当たり前の話ではあるが、技術的には可能なことと、実際に作られ運用されたことは、全く別のお話だ。それは十分に理解しているつもりなのだが、それでも私は戦前に立身出世のための苦学の世界とは別の場所で、野蛮で乱雑な学問のようなものが形成されていた可能性についてついつい考えてしまうのである。