山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

明治時代の苦学生を騙す貧困ビジネス

苦学生を失敗させて儲けよう

明治の三〇年あたりから昭和一五年くらいまで苦学が流行し続けた。苦学とは自ら稼ぎながら学資を得て学校を卒業することである。

戦前の苦学生は基本的に失敗する。なぜなら苦学を失敗させるような仕組みが、明治三五年には構築され長く維持されたからだ。世の中の至る所に罠が仕組まれており、多くの若者たちが騙され続けた。一種の苦学失敗システムとでも呼ぶべきもので、中でも多くの苦学生を苦しめたのが苦学者支援団体だった。

こわい

苦学者支援団体の仕組

苦学者支援団体はタコ部屋労働(地獄部屋)と就職詐欺、そして偽装サークルを組合せたような組織で、ここに入った時点で八割方苦学は失敗に終ってしまう。もちろん苦学者を狙ったタコ部屋も就職詐欺も偽装サークルもあったのだが、苦学者支援団体の仕組みは少し複雑だった。

彼らがどのように苦学生たちを騙していたのか具体的に紹介すると、例えばこれを読んでいるあなたが、明治三五年になんの当てもなく田舎を飛び出して、なんとか東京へとたどり着き途方に暮れている時に、『力行奮闘の苦学生は来れ 十分勉学の余暇あり 新宿北裏xx番地 苦学社』などといった張り紙を見つけ、これしかないとばかりに苦学社へ駆け込んだとしよう。ものすごく運が良ければ新聞配達でもしながら、その余暇に多少の勉強ができるようにはなれるだろう。

しかし運が悪いと次のようになる。

  • 保証金、あるいは会費と称し有り金を取られる
  • 金がなくなり身動きが出来なくなる
  • 肉体労働に駆り出される
  • 賃金をピンハネされる
  • 病気になって放り出される
  • そのまま死ぬか犯罪者になる

ようするにまずは保証金を奪い取り、苦学生が逃げ出したら保証金が儲かる、働きたいという奴は働かせてピンハネした上で、病気になったら追い出すといったシステムだ。

流石に昭和に入るとこのような状況は多少改善されてはいる。それでも次のような状態だった。

諸君等は、毎日の新聞広告を読むであろう。苦学生募集--身体健康なる田舎者に限るとの見出しで各新聞店の配達募集が、五六ヶ所必らず見受けられる

しかしそこで、苦学などできない。

朝な夕なの疲れ切った体に、強制的な勧誘があり、集金が月末から十五日頃まで続くし、その他に号外がある。 此等の目の廻るやうな酷使に、現在、幾人我等の仲間から学校に学んでゐる事実があらう。『文芸戦線 文芸戦線社 昭和三(一九二八)年一二月号』

まだまだ「田舎出の青少年は、正直で箕面目に働くし、それに使ひ易い、温順な奴隷」といった時代が続いていたのである。

まともな苦学者支援団体はあったのだが

もちろん普通に苦学者を支援する団体もあったのだが、あくまでそれは期間限定で存在したものにすぎなかった。

比較的まともなものとしては、学生たちが自発的に形成した小さな集団がある。一例を上げると明治二五年に新聞配達をしてた若者たちが、七人組を結成してた。『学生自活法 緒方流水 著 金港堂 明治三六(一九〇三)年』

当時の新聞配達人は苦学生が多かった。しかし昼間に学校に行く苦学生は、号外などが出た際に対応できない。そこで雇い主は、苦学生に学校を止めさせようと画策する。苦学生から学校を取ってしまったら「苦」しか残らないわけで、それに対抗するため同じ職場の苦学者たちが結成したのが七人組である。

彼らが七人組を結成したのは、辞めさせられる際に新聞販売所の監督者をぶん殴ることが目的であった。ところが監督者は手下を使い彼らの動きを察知し、先手を打って七人まとめて販売所を辞めさせてしまう。一時は途方に暮れた七人組ではあったが、手分けをして様々な新聞販売所と交渉し、ようやく陸奥徳光の機関新聞『寸鉄』の配達人となった。これに安んぜず顧客を開拓し、その数は三百五十人となった。その後『寸鉄』は廃刊してしまうものの、彼らは『万朝報』と交渉し、開拓した顧客を紹介し有利な条件で迎え入れらた。賃金は他の配達人と変りなく、時間に関して多少の都合をつけてもらう程度の待遇ではあったが、七人組の面々はなんとか苦学を成功させることができたそうだ。

残念ながらこういった形式の団体は、学生たちが卒業すればその役割は終ってしまう。いかに優れた集団であったとしても、せいぜい数年で消滅してしまうのである。

義憤に燃えた男が苦学生のための組織を作るといったパターンもあった。大阪府西区幸町通五丁目饂飩の玉問屋「相生」の主人は「相生苦学生団」を発足し、「四十二年四月下旬始めて苦学生の饂飩売子を募集」したものの、集ったのは「何れも食い詰め者の堕落生ばかり」で閉口してしまう。これにめげることなく募集を続けていると、六人の比較的まともな苦学生が集まった。新築の借家を借り受けて住まわし「高等手打饂飩相生苦学生団体」と記した行灯つきの屋台も提供した。学生たちは夜にうどんを販売しながら、昼の学校に通うといったシステムであった。素人の商売ではあるが、真面目な苦学生さんたちだというわけで、病院で夜勤をしている人々が顧客になってくれたらしい。『善行大鑑 島内登志衛 著 六盟館 明治四三(一九一〇)年』

ただしこのような組織も長くは続かなかった。単純に採算が合わないケースもあったのだろうが、「何れも食い詰め者の堕落生ばかり」とあるように、苦学生の中にはかなりの割合で犯罪者が混っている。わざわざ苦学生の中から人材を採用するメリットはぼぼなかった。

名士などから支援をしてもらい設立された苦学者支援団体も、ほとんど失敗に終った。

有名な組織としては苦学社と、後に詳しく紹介する青年同気社がある。この二つは普通に苦学者を保護する団体で、学生の保護活動をする『苦学社』は確かに存在した。

しかし『苦学社』を名乗る全く別の組織もあり、そこに入れば最後、貧困ビジネスならぬ、苦学者ビジネスに取り込まれてしまう。ちなみに『苦学社』自体も時期によって学生をどう扱うのかが異なっていたらしく、ほぼ詐欺組織だとされている時代もあった。よって『苦学社』に駆け込んだ苦学生が苦学できるとするならば、

  • 『苦学社』が本物の『苦学社』である
  • 『苦学社』が苦学者を手厚く保護している時期であった
  • 世の中の景気が良く『苦学社』に仕事が提供されていた

といった条件を満たす必要があった。しかし苦学者支援団体が商売の対象としているのは、主になけなしの金を持って田舎を飛び出してきた若者だ。今よりずっと情報量が少ない時代である上に、まだまだ世の中のことをよく知らぬ純真な彼らに「こっちの『苦学社』は詐欺団体だか、こちらの『苦学社』は本物の『苦学社』で今は景気が良いためある程度までの支援が望めるだろう……」などといった判断ができるはずもない。

同気社はといえば1905年9月6日読売新聞に教員招聘の広告を出しており、1906年1月5日には苦学生を募集している。

読売新聞 1906年 1月 4日 朝刊 4ページ

ここから推測するに苦学者を集め共同生活をしながら生活費を稼ぎ、教師を招き入れ受験勉強をしようといった組織であったらしい。少なくとも1912年までは広告を出していることが確認できているので、そこそこ長く続いた苦学者支援団体なのだが、やがては運営する者と利用する苦学生の中に犯罪者が紛れ込み、苦学する者を騙し儲けることに最適化した団体となってしまう。こちらについては後述する。

誰も信用できない

神戸のお医者さんが運営する神戸学習院という苦学者保護組織があったり、京都の校長先生が個人的にものすごい頑張って苦学者を支援してたりといった極少数の例外はあるが、基本的に苦学生を支援しようなんていう団体は戦前にはなかった。

少し世慣れた若者ならば、社会的信頼のある組織が運営する支援団体ならば大丈夫だろうと考えたかもしれないが、残念ながらその選択肢も間違っている。

明治後半の信頼できる支援団体としては、社会鍋で有名な日本救世軍が運営する神田三河町「救世軍第一労働寄宿舎」があった。日本救世軍を創立した山室軍平は、苦学者としても有名で彼自身が多くの人に助けられて同志社で神学を学んだ。日本救世軍の発展に献身した社会事業の先駆者でもあり、常に貧しき庶民の側に立っていた良い人である。救世軍の活動がまともなものであることも言うまでもない。

救世軍が苦学者を支援してくれないのであれば誰が助けてくれるのかといったところだが、衝撃的なことに山室軍平の活動を利用して苦学者から金を奪い取る者がいた。その名も三木さんである。

三木さん……

「第一労働寄宿舎」は日露戦争後が終り職業難の時代が来ることを予想し、明治三八(一九〇六)年に救世軍が立ち上げたものであった。一晩五銭で宿泊できる上に安価で食事を提供し、仕事まで紹介してくれる施設である。本来は労働者を保護するための組織であったが、一時的に苦学者が宿泊し仕事を探すことも多かった。苦学立志会なんていうような、あやふやな団体とは比べものにならないくらいにしっかりとしたものであった。

『工業界 工業界社 一九一二年 十月号』によれば明治四五年、つまり大正元年の時点では月島にある「労働寄宿舎」は普通に労働者を保護する活動をしていたらしい。食事も出れば風呂もあった。

ところが『東都浮浪日記 北浦夕村 崇文館書店 大正二(一九一三)年』に描かれている大正元年の救世軍第一労働寄宿舎の様子は、かなりひどいものであった。ちなみに『東都浮浪日記』は変装した記者が世相を探るといった作品で、当時はそんなことが流行していた。

北浦が「救世軍第一労働寄宿舎」を訪れたのは、その惨状を訴える苦学生の投書がきっかけだった。あの救世軍が運営する寄宿舎なのだから、それ程まで酷いわけがないと思っていたのだが、実際に見てみると予想以上の汚さであった。

「土間からすぐ上がれる床の低い十二畳の一室で、踏めば足跡がゴボリと凹みそうな安畳、木賃宿でもまさかこれ以上の悪い品は使うまいと思われるその安畳は、どす黒く汚れてまず不愉快」で「畳の上に下駄箱が置いてあって、泥に塗れた古草鞋が五六足投げ込まれて」ている部屋に「十一人も十二畳の室に寝て降るのであるから、そこへ記者を加えると十二人」で宿泊させられた。風呂はあるが食事は出ない。昼間は追い出され、提供される布団も一枚というものであった。

当時に書かれたこのようなレポートは、差し引いてみなくてはならない部分がある。著者が上流の階層に属している場合、少し汚い程度の環境でも驚き、大袈裟に書いてしまうなんてことがあったのである。北浦はというと、小綺麗な木賃宿(当時汚いとされていた宿屋)に宿泊し、清潔すぎると驚いているくらいには汚なさに慣れた男なので、そこそこ正しい評価なのだろう。

とにかく「救世軍第一労働寄宿舎」は汚なかった。なんでこんなことになったのかといえば「救世軍第一労働寄宿舎」が三木さんに支配されていたからだ。三木さんは労働寄宿舎に集まった労働者を電信工事の現場で働かせ、一人あたり二銭の手数料を受け取っていた。だから苦学生が学問しながら働けるような職はないかと問うても、とにかく電信工事に行けとしか言わない。

いろいろある労働

なんでわざわざ救世軍にやってきて金を儲けようとするのか謎すぎるのだが、三木さんはコストカットにも意欲的である。綺麗にするより汚いほうがコスパが良いというわけで、労働寄宿舎は荒れ果てた状態、まともな人間が住めるような場所ではなくなっていた。

三木さんは冷い

ちなみに『弱者の友 救世軍の慈善事業一班 救世軍日本本営 明治四四(一九一一)年』によれば一年間で宿泊したのは10231人、労働に出たのが7985人でほぼ8000人である。8000人の全てを電信の工事現場に送り込むことは不可能だろうが、宿泊料とあわせると年間600円程度、当時の新卒のサラリーマンの年収よりも少し少ない程度のお金になる。

もちろんこれは救世軍の運用資金となるはずのものだろう。しかし三木さんは宿泊者相手にダブ屋や古着屋のようなこともしており、全く信用できない。その何割かは懐に入れていたのではないのかとついつい疑ってしまう。そもそもなぜに救世軍で金を儲けようとするのか、本格的に分からなすぎて三木さんが面白くなってくるのだが、苦学生や若者にとっては笑い事ではない。救世軍なら安心だろうと労働寄宿舎に助けを求めた若者たちが、三木さんとかいう訳の分からない奴に痛め付けられるというのは、あまりに酷すぎである。

さらに悪いことには、この寄宿舎は来るものは拒まず去るものは追わずといった状態だった。北浦はこれが一番に悪いとしている。家庭環境も悪くなく前途有望だが、ちょっとした出来心で家出をした若者たちもこの寄宿舎にやってくる。北浦は彼らを説得した上で実家に連絡し、適切な進路を示してあげるのが、本当の社会活動だとしている。しかし三木さんの方針は、とりあえず電信工事に行けというものであった。当然ながら過酷な労働で身体を壊すものや、悪い友人に誘われ犯罪に手を染めてしまう者たちも出てくる。これでは堕落者の製造工場ではないかというのが、北浦の理屈だった。

三木さんの評判は悪い

北浦はこの状態を山室軍平に直訴し、驚いた山室は寄宿舎の改善に乗出す。畳を変えた上で、やってくる若者の身元確認の徹底、そして三木さんを結婚させることで宿舎に家庭的な気分を提供するなとど寝言を吐かしているのだが、まず三木を放り出してしまえよといったところである。

救世軍なら大丈夫だろうと思っていたら三木さんがいて酷い目にあってしまうというのは、単純に面白く個人的には好きなのだが、一応は救世軍と三木さんを弁護しておこう。

そもそもであるが労働寄宿舎は労働者のための組織である。さらに当時は「労働者は甘やかすと付け上がる」といった考え方があった。これが正しいか誤っているかは置いておくとして、三木さんがとにかく働けと叱咤激励したのには、そんな考え方が背景があった。そして苦学生には気位の高い者も多かった。労働者のように扱われた彼らが、三木さんに激怒するのは当然のことでもあった。

続いて救世軍だが『東都浮浪日記』に山室軍平は寄稿して、寄宿舎が汚くなってしまった理由や、今はすでに問題点は解消したことを説明している。自らの行いを反省し、改善した上できっちり説明するというのは、なかなか出来ることではない。山室軍平だからこそできたことなのだろう。確認のため『人道 人道社 大正二(一九一三)年 十二月号』に掲載された「救世軍の勞働寄宿舍と獨立奬勵制度 風聞生」を読んでみると、カウンセリング制度の充実や貯金の奨励、規則の厳密化など確かに多くの点が改善されていた。ついでに三木さんも三木さんなりに反省し、そこそこ真面目に働いていたようだった。

ただしこの改善によって、苦学生が潜り込むなんてこともできなくなってしまった。苦学生の投書によって施設が改善され、結果的に苦学生たちの選択肢が減ってしまったというのは、少々皮肉な結果にも見える。

ちなみにであるが、三木さんというのは仮名であり、こちらは北浦の情であろう。

意図せず発生した苦学者ビジネス

苦学者ビジネスにはピンハネを主体とするものあったが、苦学者の中には理屈っぽいものもいる。特に法律を多少なりとも勉強している奴はうっとうしい。さらに一応は学校に通っていた者の中には、武術の授業を受け暴力的になっている奴すらいる。こういった輩が理屈をこねたり怒ったりするため色々と邪魔くさい。効率的にやるのであれば、若者から保証金を奪い取った後に、さっさと追い出してしまうのが一番だ。支援を求める人間は大量にいるため、保証金で手っ取り早く利益を上げるだけでもなかなか良い商売になった。

このような手法で成功するための重用な要素として、「救世軍第一労働寄宿舎」のように宿泊所を汚くするというものがある。都合の良いことに苦学者や労働者の支援団体だと言い張ると、効率よく部屋を汚くすることもできた。

木賃宿は法律があるため色々と制約がある。例えば「宿泊人住所氏名等ヲ様式ノ帳簿ニ自署又ハ代署シアリヤ」で宿泊者の氏名と住所を把握しなくてはならないし、「便所及客室等掃除ヲ怠ル者」は罰せられる。ところが支援団体はボランティアだからなにをしても許される。さらに都合の良いことに苦学生自体が汚かった。

汚い苦学生

苦学する者へ 治外山人 著 苦学同志会 大正一四(一九二五)年

苦学生の多くは金も常識もない未成年たちである。金がないから基本的に汚い。常識がないから無茶もする。もちろん掃除なんてする気もない。部屋が汚くなるのが当たり前だが、そんな部屋に長く滞在することなど出来ないため、入れ替り立ち替りやってくる若者たちから保証金を得ることができるといった構造だ。

この汚い追い出しシステムが完成した例として、先に紹介した青年同気社(同気社)の様子を紹介しよう。設立当初は国語教師を招聘し、食事も出していた青年同気社であったが、業務形態を徐々にスリム化していく。小汚い建物の中に小汚い苦学生を閉じ込めピンハネをするビジネスモデルを経て、最終的には小汚い建物の中に小汚い苦学生がいるだけといった状態になってしまう。

『成功 成功雜誌社 明治四四(一九一一)年 四月 余が悲慘なる苦學生活回顧 杉本卯月』によると建物の外見は、「立派な家とは思の外、神田区〇〇小路の横町の細い路次の奥の奥で、見苦しい家の前に『青年○○会』と言う看板が掛かってい」るといった状況だった。中では「三方は破れ障子に囲まれた穢い四畳半で、薄暗いランブの影で労働者の如な男が三人横にて豆をかりかり言はせながら何か語り合ってい」る。「十時頃から寝床につきましたが激しい蚊軍の攻撃て如何しても眠る事が出来」ない。

別の時代の同気社に関するレポート『新仏教 新仏教徒同志会 明治三九(一九〇六)年』「世の苦學生に警告す(同気社)」では、「ゴ足の踏所もなく、放歌高吟、騒ぎ廻りて居るのは、耳を聾せんとする。」「書籍もとても読めず、筆硯はあれども書く場所が無い」とされており、とにかく汚くうるさいといった環境だ。

同気社を利用するための価格は時期によって異なるが、初期費用がおおむね二円、宿泊費は一晩五銭前後となっている。木賃宿と似たり寄ったりの値段であるが、布団は木賃宿より汚い上にサービスも悪い。

とにかく汚ない

一応は仕事の斡旋もしているが、実は「土方の親分に頼めば、人夫には何時でも使用して呉れる」『新仏教』同気社を経由することで紹介料を奪われるというシステムであり、全く利用する価値のないサービスだといえよう。

とにかく同気社は普通の感覚とまともな知性を持つ人間が耐えられるような環境ではなかった。というわけで同気社から逃げ出す者が続出する。

昨日希望に輝きし一青年は、今朝悄然として去り、朝に入社、夕に退社、多くも四五日にて初めの元気に引替へ、追剥(おいはぎ)にでもあった人の如くに、孤影恨然として去り行くを見るのである。『新仏教』

同気社への入れ代わりは激しい。入退所者が一日に十人程度、これで二〇円は確保できるのだから、悪い商売ではなかったのだろう。

同気会

『実業の世界 明治四三(一九一〇)年十二月十五日号』の「立派な苦學方法の實例 粕谷惣吉」で、苦学生同気会について投書をしている若者がいる。こちらも似たり依ったりの組織であった。

室内に入って四辺を見回すと、畳は擦れ、障子は破れ、恰も木賃宿の如き座敷には、どう善意を持って見ても到底学業に従っているとは受け取れない四五人の男が、寝そべったり胡座をかいたりして、卑猥極まる言を口にしていた。

食事は一食五銭で提供すると張り紙がしてあるが、金を払っても飯は出してくれない。「各自勝手な所へ行って勝手に食う」というシステムであった。

苦学生同気会の省力化は究極にまで至っており、ここではピンハネのための職業の斡旋すらない。「職業は各自適当と認めたものを、勝手にやってください」といったルールである。ようするに木賃宿より高い値段で木賃宿より汚い場所に宿泊できるというサービスで同気社と同じく利用する価値は皆無である。当然ながらみなすぐに出ていくわけで、面倒くさいことをして小銭を稼ぐより、保証金を奪って追い出すほうが楽だろ程度の志で運営されおり、このあたりが苦学者支援団体の最終形態なのだろう。

苦学生の逆襲

酷いといえば酷い話だが、苦学生たちも黙ってやられていたわけではない。何人もの苦学生が反逆に出ている。

先程、同気社の様子を紹介したが、あの文章は雑誌に苦学生が投書したものだ。ようするにこんな悪徳業者がいるから気を付けろと、苦学生の同志に知らせようとしているのである。救世軍の第一労働寄宿舎の惨状が分かったのも、苦学生による投書がきっかけだった。

もうひとつ、汚い部屋に適応してしまい社内ベンチャーのようなものを立ち上げる苦学生たちがいた。同気社には五十人程の古参が住み着いており、新しくやってきた苦学生の物を盗み生活していたのである。

こんなことしてないでさっさと家に帰れよ

すでに明治の三九年には同気社には「成功」という用語があった。「人の物をゴマカす事、盗む事、質入れする事等に彼等は成功という代名詞を使用しているのである。」

そのような環境だから「下駄や洋傘や傘や帽子などは、一寸も目が離せない。居眠りして居る暇にも無くなるのだから恐ろしい。」物を盗まれて係に訴えても「君が意気地がないからだ」と冷たい答えだ。『新仏教』こんな奴らは警察に突き出してしまえば良さそうなものだが、そもそも同気社を運営しているのは「前科犯の悪漢で、其当時も詐欺取罪とかで入獄中であった」男である。『成功 明治四四 四月』通報したら自分が逮捕されるといった状況なので手出しが出来ない。

ようするに同気社は犯罪者が用意した汚い部屋に汚い苦学生(泥棒)が住んでいて、新聞広告で田舎の善良な若者を募集し、やってきた若者から詐欺師が保証金と宿賃を払わせた上で、寝てる間に泥棒が若者の荷物を盗むといった異常な場所になってしまったのである。流石にこんな組織を維持することは難しい。そんなわけで同気社は、おそらく一九一二年あたりには消滅してしまったのだろう。

まとめのようなもの

今回は苦学失敗システムのひとつ、苦学者支援団体を紹介してきた。現代人からすれば、雑すぎて成立しないような商法ではあろう。しかし貧しさゆえに、情報量も経験値も少ない若者は簡単に騙されていく。そもそもであるが苦学の支援を犯罪者がしているのがおかしな話で、普通に国がやれよといった感想である。支援しないにしろ、同気社などはさっさと叩き潰せとしか言い様がない。

少し面白いのは、苦学生たちもやられるばかりではなく反逆している点だ。投書くらいは誰でも思い付きそうではあるが、汚い環境に順応してしまい泥棒となり、内部から組織を破壊してしまうというのは、運営していた犯罪者もちょっと予想できなかったのではないだろうか。雇い主をぶん殴るため七人組を結成した若者たちも気概も今となっては微笑ましい。

これに類したケースとして、詐欺集団に騙された友人の仇討ちのため、自ら詐欺集団の中に入り込み、新たに出会った二名の仲間とともにものすごい迷惑をかけて逃げ出した苦学生などもいるのだが、こちらはそのうち紹介できたらと考えている。