山下泰平の趣味の方法

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西和彦さんのエッセイに影響を受けてたことを思い出した

最近 MSX という単語を見ることが多い。

camp-fire.jp

私が計算機に触り出したのは遅く MSX と X68000Z の区別も曖昧なくらいだ。しかし『西和彦』という名前を何度も見るうち、そういえばこの人が書いた文章に、私はかなり影響を受けだんだよなと思い出した。

その文章が掲載されていたのは岩波書店の無料雑誌(波?みたいなタイトル)で、書き手はものすごく優秀な学生が集る学校に通っていて受験勉強なんてものはできて当たり前、むしろ難しい本を読み友達と雑談し自慢することで知的な基盤を作ることができたといったニュアンスの内容だったと記憶している。著者は西なんとかとさん、略歴にアスキーという見慣れない名前の会社が書かれていたことは覚えていたので、あれは『西和彦』さんの文章だったのかと改めて思ったというわけである。

当時の私がいくつだったのかは曖昧だが、あやふやな記憶だと高校一年生くらい、読書はしていたが成績は悪く、優秀ではない学生が集う学校に通っていた。そんな時に西なんとかさんの文章を読んだところ、そこに出てきた書籍の多くはすでに読了しているものばかりだったので、優秀な高校に通う学生もそんなものなのかと思い安心し、そのまま今に至るといったあやふやな記憶である。

なんとなく気になったので、あれは本当に西さんの文章だったのだろうかと思い調べてみると、岩波書店の無料雑誌のタイトルは『波』ではなく『図書』だった。

www.iwanami.co.jp

私が高校生だった期間は1993-1996年なので、その期間の目次のリストがあればなと思いながら検索してみると、西和彦さん自身が執筆・著書リストを作ってくれていた。

www.nishi.org

おそらく私が読んだのは『図書 1996年4月号P.32「若い日の読書」』だと分かったのだが、なんと本文まで掲載されていた。かなり興奮する一方で、ちょ.っと再読するには抵抗があった。多くの文章を読んだ人なら分かると思うのだが、かって感動した文章を再読すると、思っていたほどでもないな……となってしまうことがある。最近だと堀田善衞の『インドで考えたこと』がそれだった。

当時はものすごい感動して、色々な人にお勧めした本であったのだが、今読むと「そっすね……」みたいな感想だった。私にお勧めされて読んだ人らの中に、困惑した人がいたらごめんねというわけだが、西さんの文章もそうなるのではないかと思いつつ、好奇心に負けて読んでしまうと、思っていたのとは違っていたものの、確かに私はこのエッセイから感銘と影響を受けていた。その部分を要約すると次の通りである。

予備校の学生寮にいた当時、同室の三人仲間たちと受験勉強に勤しむ一方で、文庫本や新書をむさぼり読んだ。もちろん浪人生であるから、思う存分に読書三昧といった生活はできない。大学に入学したら、あの本も読みたい、この本も読みたいと語り合う日々であった。

ある日のこと友人の一人が「岩波文庫と岩波新書が値上がりする」と聞き付けてきたことがきっかけで、三人で書店へ行き購入できるだけの書籍を買ってきたことがある。その数は100冊以上にも及んだが、浪人生だからという理由で仲間で申し合わせをし一週間に一冊とルールを決めて読み進めた……

その他、大きな書店で本をまとめ買いする経験と自分が購入した書籍を分類する素晴しさについて書かれている。良いエッセイなので本文を読んでいただきたいといったところだが、私の記憶とはかなり違っていた。

まずこのエッセイには書名が出てこない。おそらく百冊購入したという部分を読み、自分はもっと読んでいるなと思ったのであろう。

あと完全に忘れていたのだが、

大学に入学したらあの本も読みたい、この本も読みたいと言い、しかしそれのできない浪人の身の上の悲しさを自分たちで勝手に嘆いていたりした。

 

受験が目の前に迫っている受験生という立場で考えると、入試の邪魔になるような本は読まないで合格までがまんしなくてはいけない

という部分を読み「俺は我慢するの嫌いだし我慢せずに読んだほうが良さそう」と思った記憶が蘇えってきた。当時の私は大学の制度やレベルを知らなかった。国立は国から金が出る(給料みたいな感じ?)が国に逆らえなくなるみたいな水準の知識しかなかった。流石に今は国立大学も学生に給料を出してないとは知っているが、とにかく読書時間を減らさずに、上手いことごまかして試験で点を取って、偏差値が高い学校に合格したらそれでいいんだろくらいの考えで、その頃は変な問題を出す無駄に偏差値だけ高い受験の方式(英語以外は本を読んでりゃ合格できた)があったこともあり、そのまま入学してしまった。競争みたいなのに参加せずに済んで楽チンで良かったくらいの感想で、本当に西さんには感謝しかないが、こんなことで感謝されても感情は無であろう。

あと西さんのエッセイに出てきた「書籍の多くはすでに読了しているものばかりだった」と思い込んでいた部分は、私が中学生の頃だろうか、灘中で実施されていた銀の匙を一年かけて教える授業が話題になったことがあり、それを受けて「銀の匙」くらい一時間もあれば読めるだろと思ったことと交ざって作られた嘘の記憶なのであるような気がする。

お前が雑に読むのと灘中学の優秀な先生の授業とはレベル違うだろと言いたいところではあるが、今の私は昔の文化を調べているものの、個人の記憶なんてものは曖昧で信用できないことは多いなと感じることが多い。

今回もかなりいい加減な記憶ではあったんだけど、ぼんやりしたものが多少は明確になったことは良かった。良かったのは良かったのだが、思い出した記憶というのも実際のところどうなのかは分からない。だだ私も含めて多くの人は、無意識のうちに曖昧なものを曖昧なまま受け入れて、生きているんだろうというのが感想である。