山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

野心を持つ先生がいた時代

賄賂が欲しい先生

今となっては廃れてしまったが、かって教師の仕事が聖職とよばれたことがあった。現代でも学校の先生はどちらかというと善良な人が多く、野心とは縁が遠いような印象がある。しかし明治から大正時代のある時期までは野心を持ち、教師という立場を最大限に利用して利益を追求する先生も多かった。

『学生タイムス(学生タイムス社 明治三九(一九〇六)年十月)』 に、こんな記事が掲載されている。

他聞を憚る学校の電話口 まぼろし生

ハァ〇〇学校です。 水野は私です、あなたは 〇〇堂の横井さんーハハア、イヤ先刻は失礼しました、ハアハア成程、ハアさうですか、それぢや読本と物理と算術をつかへば三百出すといふのですか、併しね、〇〇館では読本だけで二百五十円出すと云つてゐるのですものナーニ、掛引などするものですか、全くですよ、もう少し奮発なさいな。 わたし共の学校は今年は生徒が非常に殖へる見込ですから、先刻お話したよりも恐らく余計に本も売れようと思ふのです、エさうですとも、せめてもう百ばかりお出しなさいな、さうすればあの三つ丈け定めてしまひますから、エ、ナニ、ハアハア歩し合って五十丈出す? さうですな、 さうすると三百五十だね、マァい〜や、まけておこう。それぢゃ早く一件を届けて下さい、ハアハア大丈夫です、殖へようとも減る気遣はありません、請合ひます、ハアハア、よろしい、ハァ、左様なら。

少し分かりにくいかもしれないが、これは電話で教師が教科書会社……あるいは書店……と交渉している様子を戯画化した文章だ。学校の先生が書店や出版社に、リベートを要求するといったことが昔はあったのである。

教科書採択を巡る贈収賄が大々的な問題となったのが、明治三五(一九〇二)年の教科書疑獄(教科書事件)だ。この問題が発覚する以前から、出版社と校長や教員、知事や視学官などの間で教科書の採択をめぐった贈収賄に関する行為が頻発していた。その事実が大々的に発覚したのが教科書疑獄で、二〇〇人近くが検挙され挙句の果てには文部省廃止論まで出たくらいの事件であった。これがきっかけとなり、翌年より教科書は国定制度となった。

教科書疑獄は電車の忘れ物がきっかけで発覚した事件で、その翌年には教科書国定化がなされていたりと、なにかと奇妙な点が多いのだが、それは置いておいて、とにかく学校の先生が教材の採択にあたって賄賂を要求しそうだと思われていて、実際にそんなことをする時代があった。

その一方で冒頭で紹介した教師は聖職という概念も、『他聞を憚る学校の電話口』の時代にはすでに存在していた。『教育私見(田中順信 著 田中信吉 明治三九(一九〇六)年)』では、教育の目的は生徒に良い感化を与えることにあるのだから、教員は豊かな学識を持つことは当然として、それなりの経歴を持った品行方正な人物であるべきで、だからこそ「教育は最高の聖職と見做さ」れているのだとされている。もっとも著者はそれに続けて、今の教育界は「敗者弱者の収容所」だと嘆いている。理想と現実は違うといった内容ではあるが、この時代には教師の仕事を聖職だと考える人がいたことは事実である。教員は完全無欠の模範的人物であるべきだから、職場恋愛など以ての外とされていたことなどは、分かりやすい事例であろう。

小学校教員は男女がお互に話して居たらモウおかしいのだ相(そう)だ。『現今の殺人的教育 栗山周一 著 二松堂書店 大正一〇(一九二一)年』

教員は聖職者であるべきで、不正などは一切許さないといった風潮があったものの、先生たちも大人しくしていたわけではない。野心を持って立身出世を目指す人々が多くいたのである。

腰掛けの先生たち

以前に学校に住む子供先生について書いた。

cocolog-nifty.hatenablog.com

これなんかは立身出世を目指す先生の典型だ。師範学校に行きたくない若者の記事からも分かるように、できれば教員ではなく立身出世をしたいと考える人々も多くいた。

cocolog-nifty.hatenablog.com

夏目漱石の『坊ちゃん』は正義感の強い男が教師になり大喧嘩をして街鉄の技手となる小説だが、最終的にあっさり教師を辞めている。教職は聖職とされているわりに現実を覗いてみると……といった側面や、教師も街鉄の技手も仕事の尊さは変りないといった当時の空気感がよく描かれているような物語であるような気がしないでもない。

坊ちゃんは学校を去っており、見方によっては敗者の物語となってしまうのだが、現実の世界では立派な教員として働きながらも、立身出世の野心を捨てていない一筋縄ではいかない人々がいた。そんな先生たちが登場する『底抜け倶楽部 叉狂 著 有終閣書房 大正一(一九一二)年』を紹介してみよう。

『底抜け倶楽部』はいわゆるユーモア小説ではあるものの、前書きで作者は「記するところ、悉く著者の見聞したる事実談」だが「少々誇張誇縮したる点」もあるかもしれないとしている。一定の事実が描かれているとしてもいいだろう。

小学校校長の家に集る教師たちの会話が『底抜け倶楽部』の主軸となっており、登場人物の一人伊奴先生は代議士志望の先生で、夜学の法律学校に通っていて「代議士に打って出るんだと威張ってる」という設定だ。物語の中では、法律の知識を使い理屈を言う役回りを与えられている。面白いことに伊奴先生は『他聞を憚る学校の電話口』のように、書店から綴方筆記帳(参考書のようなもの)の売込みを頼まれ「強制的に生徒に買わ」せている。ここから読み取れる特筆すべき点は二つある。

  • 代議士を目指す法律に詳しい先生が登場しても不自然ではない
  • 法律に詳しい先生が生徒に強制的に生徒に教材を買わせている

あくまで『底抜け倶楽部』は事実を誇張して描いたユーモア小説だ。しかしユーモア小説を読む層が、代議士を目指すような先生も、書店からなんらかの賄賂をもらい、生徒に教材を売ったりしそうだと考え、そんなキャラクターを自然に受け入れてしまう時代があったということになる。

もう一人野心を持つ先生で、医師を志望している根津先生の手法はさらにあからさまで、資産家の子供を利用し金儲けを目論んでいる。彼は成績があまり良くない資産家の子供を見付けると、とりあえずは成績に劣等を付ける。

この辺りは当時の事情も絡んでくる話で、普通の先生ならばお金持ちの子供には優劣をつけ、親からなんらかの付け届けを期待する。しかし根津先生は一枚も二枚も上手であった。

劣等の成績を心配した親が、お店の番頭に反物をもたせ根津先生の家へ使いにやると、先生は「実は私の専門は医学でして、教師は一事の腰掛けにやっている次第」だと吹聴する。今後は学習のみならず、衛生上からも指導しようというわけだ。通知表で衛生についてちょろちょろ書いた上で、成績を操作して「優等」を付けると喜んだ保護者がお礼にやってくる。やがては専属の家庭教師ということになり、夏には厨子の別荘へついて行き骨休みをする……といったことをやっている。こちらも今の感覚だとちょっと信じられないようなお話だが、昔はこういうことがよくあったようで、

一時大阪の某学校教員の如きは受持児童の家庭に起居寝食して、食客同様な有様で其の児童が、

「先生は宅では召使ひのやうだ」

と口外する迄に至ったと言ふ事もあった。

或いは家庭教師だなどと言っては入り込んで、父兄の前には頭の上らぬやうな不始末を演じて、教師の権威を全く地に落して終ふやうな例が、しかも頻々として伝えられて居る。

『過去より現在へ : 十ケ年の教員生活 波多野光雨 著 戸取書店 大正五(一九一六)年』

これらの行為を最適化していくと、一教員の収入は校長を越えてしまうこととなる。こちらも当時の状況がかかわってくる事項なので、軽く解説しながら収入に最適化した教師の行動を紹介していこう。

そもそもであるが、校長の職務として『交際』が重要事項としてあった。またもや『底抜け倶楽部』からの引用となるが、校長は「交際は大にやるべし」で「今の世の中は難でも彼でも運動」の時代であった。『底抜け倶楽部』の校長は、ひと月の間に月に区長と学務委員に二回、区会議員三人と市会議員二人に一回訪問をしている。手ぶらでというわけにはいかないので、手土産のひとつも必要となってくるため、そこそこの出費となってしまう。

一方の教師は「家族も少ないのに、校長のやうな交際費といふ奴がいらぬ」。『教育者秘帖 馬城麓 著 大同館書店 昭和九(一九三四)年』その上に、校長は面子を立てる必要があったが、教師はというと「面目や位置なんて、てんで考慮の外にて、家庭教師の出稼ぎでも、自宅指導でも平気」ですることができた。「それらは、自分の学校での報酬の二倍三倍、あるひはそれ以上である」。運良く「貴族院議員某氏とか、何何社長某氏とかいふやうなところの家庭師をうまく探」せば、「少くても五、六拾円位の謝礼」は期待できたのである。

昭和に入ると試験地獄という言葉が使われるようになり、入試に合格するための競争は熾烈なものになってくる。その対策として教師が「家で入学試験準備指導」をし始める。家庭教師と合せると「学校の月給なんて問題になら」ないくらいになり、校長の収入を越えてしまうというわけである。

以上、収入を上げるために画策する先生たちを紹介してきたが、それとは別の方向に進む者たちもいた。徹底的にやる者、やるだけやって満足する者、そして教育の世界から去る者である。

教育に人生をささげる先生と北海道から東京を目指し徒歩旅行する先生

まずはやるだけやって満足した先生として、『水の流れと 小野賢一郎著 実業の世界社 大正五(一九一六)年』に登場する、房太郎という先生を紹介しておきたい。作者小野賢一郎は代用教員を経て新聞記者となり、かなりの出世をした人だ。戦時中に活動していたこともあって、現代的な感覚では屑野郎のようなこともしているが、とにかく房太郎は彼の竹馬の友である。

小野と房太郎は明治の三六年あたりに十六歳で小学校の代用教員となった。やがて小野は代用教員を辞して、朝鮮へ渡って新聞記者となり、房太郎は父母を養いながら代用教員を続けた。代用教員の収入のみでは満足な生活ができず、房太郎は学校が終ると菓子を売り歩いたという。「先生が菓子を売るといふので子供がぞろぞろ後からつづいていた」そうで、ずいぶん仕事はやりにくかったことだろう。

その後、房太郎は両親とともに北海道に渡り仕事を転々としていたが、ある時に親を捨て苦学をしようと決心する。この当時、次のような漢詩を口にしつつ、苦学の世界へと赴く若者たちが多くいた。

男児立志出郷里

学若不成死不還

いわゆる苦学者というわだが、房太郎は普通の若者とは少し違っていた。徒歩で上京しようとしたのである。なぜに徒歩なのかというと、こちらも当時の事情がからんでくる。

明治の三五年あたりから徒歩旅行と無銭旅行が流行した。便利な鉄道が広がるにつれ、徒歩での移動が若者たちの間で見直され、鍛錬としての徒歩旅行が発生した。歩くことで肉体を鍛えつつ、鉄道旅行では見過してしまう風景を発見し知見を広げようといった流れがあったのである。その上をいくのが無銭旅行は、金を持たずに徒歩で旅行する。これは徒歩旅行によって知見を広げ肉体を鍛え上げ、無銭で移動することで強靭な精神力をも得ようというものであった。

苦学志望者の中には、無銭苦学旅行とでもすればいいのだろうか、苦学を成功させるために無銭旅行で己を鍛え上げようとする者たちもいた。上京のための資金を貯めるのは時間がかかる。それならお小づい程度の金を懐に無銭旅行し、道すがら自らを鍛え上げて苦学に耐えられる心身に鍛え上げたほうが効率が良いといった手法である。合理的にも思えるが、これに成功した者はほとんどいない。なぜなら無銭旅行で上京することがまず難しい上に、苦学の難易度は千人に一人が学校を卒業できるかどうかというもので、難易度が高すぎるからだ。苦学、無銭旅行の定義をどの程度まで厳しくするか等、なかなか判断に迷うところも多いのだが、私が探した限りでは理想的な無銭苦学旅行の成功者はゼロ人だ。

少々話がズレてしまうが当時の苦学には、学問の追求といった意味合いは皆無だった。学校を卒業、あるいは資格試験に合格し、収入の道を得ることが苦学の成功だとされていたのである。そこで頭の良い若者の中には、苦学をすっ飛ばして成功だけを得ようとする者たちがいた。彼らの中にも無銭旅行をしたついでに成功しようと考える者がいた。いわば無銭出世旅行とでも呼べばいいのだろうか、とにかくこの旅行は無銭苦学旅行よりも現実味のある行動で、何人かの成功者を見ることができる。

超難易度の無銭苦学旅行に出た房太郎はというと、当たり前のように失敗してしまう。

仙台までは無事に着いたが、「停車場で夜を明かさうとすると駅員に追払らわれたり、辻堂に寝たり、口入屋で一飯を恵まれたりし」てようやく風呂焚きとして雇われたものの、両親に北海道へ呼び戻されてしまう。房太郎はこの時のことを、「考へて見れば若気のいたりさ、あの頃はあんな突飛な事をやって見たかったんだね。今にして思ふと彼の時、徒歩でなしに汽車で東京にいつていたら今頃は都会生活をやっているかも知れない」と語っている。

しかしやってみたかった「突飛な事」をしてしまった房太郎に、不満はなかったらしい。北海道で「小学校の生徒を五六十預って、夜は村の青年に講義をし」ており、「田舎にいて俺ほど親に孝行してる奴はあるまい、両親とも何の不安もないからね。女房ももらえもらえというが、親が死んでからだ。他人入らずのほうがいい」と語っている。もともと十六歳で親を養っていた男である。その境遇に満足していたことであろう。

次は徹底的にやる先生だ。『至誠純情の小学教師 石川栄八君 三浦藤作 著 秀山堂文庫 昭和四(一九二九)年』は倫理学者、児童文学作家とされている三浦藤作が、若くして亡くなった「非凡なる凡人」石川君の思い出を書いた作品だ。石川栄八……以下三浦に習って石川君とする……は、タイトルの通り至誠純情の小学教師であった。石川君がなにをしたのかというと、タイトル通りに至誠純情の小学教師として一生を全うしたとした言い様がない。三浦は「非凡なる凡人」としている。

石川君は明治一三年の十月四日に愛知県の鹿島に生れた。高等小学校を卒業すると一時的に雇教員として働いた後に愛知県第一師範学校へ進学、明治三五年には卒業して塩津小学校で正教諭となる。小学校でテニス部を設立し旺盛に活動、卒業生を集めた校庭会を組織し文集を出した。今では珍しいことでもないのだろうが、この活動により塩津小学校は模範校として評判となり、その業績が認められ母校の愛知県第一師範学校の訓導(教師)となる。

石川君の主な業績はというと、具体的な話はあまり出てこない。親切に後進の者を世話したこと、誠実であったこと、元気で磊落であったことなど、そしてとにかく熱心であったらしい。

「小供を一時間教えるには教材を二時間研究しておかなければうまく教わらん」が口癖で、放課後は成績の悪い生徒を指導、校事務も担当するので基本的には毎日残業、日曜日は教育関連の勉強会や会合、教材のために新聞雑誌の切抜きや書籍からの書き写し、教育系の雑誌への投書にも熱心で、同じ雑誌の愛読者からの手紙も毎日のように届き当日のうちに返信、時には教師を志望する若者を同居させ受験の指導までしている。現在では教職はブラックだと言われているが、部分的には上まわってしまうような仕事量だといえよう。

石川君が教育に熱心であつたことは、実に驚ろくべきものであった。学校のことと云へば、血眼になって騒ぎまはつた。少しでも教育に悪声を放つやうな者があれば、極力これを攻撃し排除しなければやまなかった。学校のことを悪く云ふ者があれば、心から怒ってしまった。不真摯な教員や、職務に不忠実な教員を見ると、大いに憤慨してこれを罵倒した。学校の仕事をするのが如何にも面白さうに見えた。教授細目の研究、教授案の作製、さうしたことも石川君にはみな愉快な日課であった。極めてつまらないやうなことでも、真摯に努力した。少しもお座なりに共の場を糊塗してゆくといふやうなことはなかった。

その仕事に熱中し過ぎ、あまりに無理をした為めに、健康を誇つて居た身も、遂には共の組織を弱め、機能に障害を生ずるやうになった。

石川君は徹底的に仕事に打ち込みすぎたため、身体を壊し三十六歳でこの世を去ってしまう。身体を壊してしまうほど、熱心すぎるのも考えものだが、とにかく石川君は教師としての仕事を全うした。

『至誠純情の小学教師 石川栄八君』において、教育雑誌への投書を続けた芳賀矢一に言及されたことが、石川君の活動のハイライトとなっているが、そんなことは瑣末なことのように思える。本作は著者の三浦と石川君の交流や人格への賞賛と少しの批判、そして石川君の日記や川柳なので構成されているが、正直なところ優れた作品とはいえない。書こう書こうと思いながら、何年も手を付けられないうちに、石川君に関する資料も散逸していたことも内容が不十分になってしまった原因のひとつであったようだ。しかし不完全な資料をもとにしてでも、本作を書かずにいられないような気持に三浦をさせたのが石川君の熱心で、そこに石川君の活動の価値があったいうことになるのであろう。

野心を持つ先生は去っていき……

先に引用した栗山周一による『現今の殺人的教育』は、当時の教育への痛罵に満ちた書籍であった。

現今の教育は成って居ない。到る所に私の所謂殺人的教育が行われて居る。教育者は官僚に殺されて居り、被教育者は自覚なき教員に其の新芽をつみ取られて居る。今の教育なんかは一度破壊してしまばなければ駄目である。

というように激しく当時の教育界を批判している。栗山は一種の天才で歴史の分野で一定の業績を残しているような人物だが、学校では授業数が少ない音楽教師をしていた。職場での出世を捨てて、己の研究に活路を見出したというわけだだが、やがては教育の世界を去ってしまう。『至誠純情の小学教師 石川栄八君』の三浦も教師を止め、外部から批判する立場を選んでいる。

こうして元気の良い先生たちは少なくなり、失敗をすることを避けようという傾向が強くなっていく。『教育者秘帖』の利益を最適化する先生を紹介したが、著者が同僚の教師に成功の秘訣を質問すると、一般的な教員は一様に「五年間真面目に勉強しておけば、それから先は何も勉強しなくつても充分、勤(つとめ)の事はやって行けるから、それからあとはうまく交際するのですね」という答えたという。「真の教育家としての成功の秘訣が聞きたいのだ」と補足すると、「今時、そんなかたくるしい教員になっていたら怨(たちまち)ち首になってしもう。僕等は先ず食って行かなければならんし、今後の生活の保証もしておかねばならぬではないですか。」という返答であった。失敗しなければ生活はしていけるといったスタイルで、少し今の日本と似ているようにも感じてしまう。

このように仕事をする人々が、自分を納得させるため聖職といった概念が広がっていったんじゃないのかなというのが私の推論なのだが、ここから私の思い込みに基いたお話になる。

野心のある先生が去っていき、大人しくなってしまう状況は、児童文学の世界と似ているように感じられてしまう。戦時中の児童文学は別にして、基本的に過去の児童文学は漂白されたものが多かった。このあたりのニュアンスが分からない方は、実際に昔の児童文学を読んでみると理解できるかもしれない。

www.kinnohoshi.co.jp

その一方で子供が好むある種の残虐や粗暴な要求を満たす作品も提供されていた。私の興味の範囲であれば立川文庫などの子供向け講談速記本であろう。

熊を殺す鬼勘兵衛

雑な殿様ギャグ

鬼勘兵衛 : 豪傑 凝香園 著 博多成象堂 大正四(一九一五)年

このような雑で乱雑な児童向け作品は文化的な価値がないとされ、長年打ち捨てられてきた。しかしそのんな娯楽物語を楽しんだ子供たちの中から、大人になり創作の世界に足を踏み入れる者たちが出てきた。それが現在の日本のエンタメ文化にもつながっているわけだが、そのあたりのことは私の書籍に書かれているので興味のある人は一読していただきたい。

漂白されたものもあるが、建前上は存在しないゴミゴミとした雑多な作品もありましたというのが児童文学の世界で、それなりに健全な形に落ち着いていたのかなと思えなくもない。

先生に話を戻すと現在では教材の採択にあたりリベートを要求する先生は、基本的には存在しない。先生をやりながら、政治家になるため生徒の成績を操作するなんて人もいないだろう。文科省を廃止しろと激怒し実力行使する先生もニュースに登場したりしない。それはそれで健全なんだろうけど……などと、教育の世界と無関係な私は思ってしまうわけである。