山下泰平の趣味の方法

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師範学校に行きたくない秀才たち

とある知識人が戦前は貧しい家の子供も優秀であれば、大学にすすむことができたなんてことを書いるのを読んだことがある。なにを根拠にそんなことを語っているのかよく分からないのだが、(条件が揃えば無料にならなくもない陸軍幼年学校などの可能性もあるが)おそらく学費が基本的には無償であった師範学校を念頭に置いた発言なのだろう。しかしこれはかなり雑な話で、貧しさや時代によっては高等小学校どころか、尋常小学校すらに通えない子供もいた。

もちろん師範学校経由で大学に進むことは可能である。しかしながら師範学校を卒業したのであれば、教育関係の職業に就くべきであるといった考え方が当時はあって、受験資格のある学校に願書を出したものの受付に門前払いをくらわされることもあった。(成功 成功雜誌社 明治四三(一九一〇)年 新年号)なんで受付にそんな権限があるのかって話になるかもしれないが、資料として残っているものは仕方がない。

そもそもであるが貧しい人間は無償の学校から進学先を選択しろというのが傲慢極まりない話である。現在に置き換えると毒親がいる貧しい家庭の子供は、防衛大学校か防衛医科大学校、あるいは公営競技の養成所に入ればいいとしているようなもので、考えが足りなすぎてヤバい。無料だろうが給費金が出ようが、嫌なものは嫌だというのが人間で、そんな学校に行くくらいなら学歴なんざないほうがマシくらいの判断力や矜持は誰もが持っている。もちろん戦前にも師範学校へ進めたとしても、絶対に行きたくない奴はかなりいた。

さらに付け加えると理論上は出来ることと、実際に可能かどうは全く異なる話である。確かに貧しい家のものすごく優秀な子供が、異常な強運の持ち主で、生れた時代のタイミングが合っていれば、大学に進学できなくもなかった。さらに『一日も学校生活をなさずして帝国大学を卒業し学資の称号を得る』(青年と職業 日本青年教育会 編 日本青年教育会 大正七(一九一八)年)ルートすらあった。まずは独学で専門学校入学者検定と高等学校予科検定に合格する。その次に帝国大学の入学試験に合格すればいい。入学後は授業に出ずとも、大学で試験をこなせば卒業可能というわけだ。

各種検定試験は現在の貨幣価値で五-八万円程度で、なんとか貯められない金額ではない。ただし試験は長期に渡って実施されるため、地方在住であれば宿泊費用が必要となる。これも野宿をすれば無料だ。学習のための参考書については、街中を駆け回り拾うか盗むかすれば十分である。さらにいうと当時の参考書はいい加減なものも多い上に勉強するのは面倒くさいので、超感覚的知覚(PSI)を得て全て当てずっぽうで書いて合格すればそれでよろしい。大学の学費も超感覚的知覚(PSI)を使い空き巣をして賄うことが可能である。

帝大を出るのは面倒くさいという人は、独学で博士になればいい。博士になるためには「博士会の候補者となるようにすればよい」(同上)だけである。実際に幕末のどさくさで上手く立ち回って博士になった奴がいるんだから出来ないことではない。幕末と大正七年では全く状況は異なるが、手段を選ばずタイムスリップでもなんでもしたら博士にでもなんでもなれる。なれないのは努力が足りないだけといえよう……というように、やろうと思えばやれるんだからやればいいだろという言説は、実現性を無視してしまえば成立するが、馬鹿の妄言でしかないので置いておくとして、実際に戦前の貧しい家庭の優秀な子供が、本当に大学に進むことができたのかというと、普通は無理なんじゃないのかなといったところである。

貧しい家庭の子供が進学する場合、戦前の複雑な学制はもちろんのこと、地域差や家柄といった個人の努力では越えようのない環境や、その時の校長や役所で働いている人々の性格、近所の人のとの関係、親爺が頑固かどうかなど、様々な要素がかかわってくる。試験を受ける貧家の子供の状況を描いた有名な作品『電報 黒島傳治』に今では想像もできない状況が描かれている。

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貧乏な家の子供が進学しようとすると、村ぐるみで妨害される時代があったのである。『電報』はあくまで小説ではあるけれど、これは普通にあった風景で、とある教育評論家が若い頃に「準教員」の試験を受けた際に、村中で次のような反応があったそうだ。

「あのような稼ぎ臭ひ子が出たのではあの家もおしまひだ」、「日中長い着物を着て書物など抱へて歩く者はノラ(註、なまけもの)と云ふものだ」、「ビツキ(註、蛙のこと)の子はビッキではないか。受からないのが当り前だ」

それだけでなく親が債権者から呼び出され、「利子さへ持つて来られない癖に書生の真似などさせるは止したら宜からう」と怒鳴り付けられたりもしている。(青年教師時代 渡部政盛 著 東洋図書 昭和一二(一九三七)年)

たまたま学校の校長が先鋭的な考え方の持ち主ならば、師範学校への推薦くらいはしてもらえるのだが、こちらも校長の気分次第でしかなく運の要素が強すぎる。ようするに「戦前は貧しい家の子供も優秀であれば、大学にすすむこと」なんでできたはずもないのである。さらに先にも書いたように、師範学校には絶対に行きたくないといった層がいたことも忘れてはならない。無料だろうがなんだろうが、嫌なものは嫌なのだから仕方がない。

今となっては師範学校に行きたくない感覚を説明するのは難しい。教師になりたくないという単純な理由もあったのだろうが、教育には興味があるものの教師にはなりたくない者や、師範学校自体に嫌悪感があるという若者たちがいた。一例として師範学校へ行った明治時代の若者の雑感を紹介すると、「師範学校は面白くない 個性も認められず、自由も興へられない。 」(同上)といったものであった。

もう一人、大正四年に姫路師範学校を受験した若者も紹介しておくと、師範学校二部入志願の件で「山内校長先生(現明石中学校 長)を訪問した」が、実は「その志願を心から喜んで居なかった」。「父や兄に勧められて願書が出」したまでである。あくまで推測であるが彼は自分の能力にそれなりに自信があり、師範学校程度に入ったところで……といた思いがあったのであろう。だから受験にも次のような態度で臨んでいる。

恐らくこんな呑気な受験は無からう。 受験準備とては殆んど皆無、二月何日かに受験。 岡山から姫路まで車中退屈のあまり持合せた物理や最も不得手な化学の参考書を見た。 これが試験準備だつたらう。 所が登計らんや、こんな科は受験科中にない。それを僕は少しも知らなかつた。 否知らうとせなかつた。こんな調子での受験。果して不成績。然しそれでも八十幾人の受験者中の三十四名かの入学者の仲間に入つてゐた。(姫路師範三十年の教育 兵庫県姫路師範学校同窓会 編 兵庫県姫路師範学校同窓会 昭和六(一九三一)年)

合格したくないから手を抜いたのに、合格してしまった……と読めなくもない内容だ。『子供は嫌がるが長男だから余所にも出せないから師範学校に入れて置こうと無理やりに入れられた者も少くあるまい。(小学教育の根本改造 友納友次郎 著 目黒書店 大正九(一九二〇)年)』というように、面倒くさいしとりあえず師範に入れとけといった親も多くいたようである。その他、そこそこ裕福な家の子供が兄に「師範学校の二部に入って教師になれ」と強いられたものの、どうしても師範学校に入りたくないと上京し、新聞配達をして苦学をしたケースもある。(鷄を養ひ芋を嚙りて苦學せる予の經路/眞鹽丑之助)

絶対に師範学校に入りたくない眞鹽

師範学校は明治五(一八七二)年に設立し、昭和二七(一九五二)年には名称が変更された。およそ八〇年は存在していたわけで、その評価は時代や地域によって大きく異なる。以下、師範学校と高等師範学校が混りあっていて少々分りにくい記述となっているが、大きく師範学校と教育者が置かれていた環境として読んでいただきたい。

明治時代の前半、師範学校を卒業した先生が少ない地域であれば、「師範学校の生徒は、多くの人々から畏敬せられて居た。」(石川栄八君 至誠純情の小学教師 三浦藤作 著 秀山堂文庫 昭和四(一九二九)年)し、「其時の青年が最も光栄に思ふた、師範學校(墓参と懺悔 梅田又次郎 著 山陰日日新聞社 大正九(一九二〇)年)」なんて記述もある。また知的な職業が少ない地域では、「師範二部に入って小学校の本科正教員となるのが、村人としては一番賢い方(帝大選科・選抜高卒検定独学受験法 藤崎俊茂 著 大明堂書店 昭和一(一九二六)年)」であった。

その一方で師範学校に入学すると人格が破壊されてしまうといった評価があった。これが問題となり師範学校のさらに上の高等師範学校廃止論まで出たほどである。

高等師範学校出身者には所謂教育者気質とでも称すべきか、一種妙な気質がある。 角心に思ふことあるも露骨に発表せず、己れの弱点の他に知らるを恐るるものの如く、何事にもハキハキせず、鋒芒(ほうぼう)を現はさす、隠忍して居る。

外間より見れば如何にも卑怯者の如く、偽善者の如く薄気味の悪き人間の如く、何となく癖にさはる人間の如く見えるのである。 或る人などは高等師範学校止の理由は他にない。 卒業生の何となく厭な気質を持て居る点にあると公言して居る。 (自由人となるまで 川村理助 著 培風館 大正一一(一九二二)年)

こういう人格になってしまう師範学校には、入りたくないと思う若者がいるのは不思議ではない。また卒業後の評価も微妙であった。

其の當時(明治三五年あたり)、師範学校へ入学するのは、中々むつかしいことであった。師範学校は、他の学校の学生・生徒から非常に軽蔑されて居たにも拘らず、志願者が頗る多かつた。(田舎教師の手記 三浦藤作著 帝国教育会出版部 昭和三(一九二八)年)

とあるように時に軽蔑される傾向があったらしい。ちなみにであるが、夏目漱石の坊ちゃんでも、師範学校と中学校の喧嘩が描かれている。

教育の専門教育を受けているにもかかわらず、型にはまった師範学校卒の先生の授業より、遊びながら私立大学を卒業した先生のほうが生徒のウケが良いといった声もあった。教師としての実力も、次のようなものだとされていた。

学識は大学出身者に及ばず、気魄は私立学校出身者に及ばず、教授の手腕は文検合格者に及ばず(新仏教 新仏教徒同志会 明治三九(一九〇六)年 一二号)

そんなこんなで廃止論まで出た高等師範学校だが、設立して時がたつと微妙な立ち位置になっていた。

もともと高等師範は中等学校に有資格の教員が不足したことからできた。帝大出身者は中等学校で教員をするのを嫌がった。私立大学が出来、教員の資格が得らるる事となり、帝大出身者も飯が食えぬ様になって教員志願者が多くなった為、不足であつった中等教員は俄にあまる事となった。(男女学校評判記 太田英隆 (竜東) 編 明治教育会 明治四二(一九〇九)年)

これによって学閥ができ、醜い権力争いが起きただけでなく、学閥の世界に属さない教師までも影響を受けた。戦前には上の学校に行けない貧しい家庭のいわゆる秀才の子供が、知的欲求を満たすために代用教員となることがあった。彼らの中には教師として働くうち、教育に目覚め苦労して検定試験を受けながら、やがては正規の教員になる者もいた。検定試験経由で教師になるのは、私立大学を卒業するよりもずっと難易度が高い。そんな彼らが、学校出の教師たちから排斥されるなんて状況があったのである。それゆえに子供に教育することを愛しながら、教師という職業を嫌悪して教育評論家になるものや、私塾を開く人もいた。この他にも教育関係者が副業で金を稼げないように追い込まれていくなど、様々な状況があるのだが、どっちにしろ私も師範学校には入りたくない。

なぜ師範学校がこんなことになっていたのかは謎だ。あくまで個人的な推測になってしまうが、軍隊式の教育がなされていたことと、教師という職業の微妙な立ち位置に、その一因があるのかなと考えている。

師範学校の仕組みは海外の先行事例を参考にして形成されているのだが、師範学校とその卒業生は「国家の干城」だという考え方があった。「国家の干城」とは国を守る武人や軍人を意味する言葉で、「師範学校は他日忠良なる民を教育すべき重任に当る教育者を養成する国家機関」であるから、「軍人が国家の干城として奉公するのと」同じであるという考え方である。(京都府師範学校沿革史 京都府師範学校 編 京都府師範学校 昭和一三(一九三八)年)もともとは教育は重要であるくらいの意味で使われていたのであろうが、これを雑に認識する人間がいて師範学校で軍隊式の教育を施すということになってしまった。

当たり前すぎる話だが、良い軍人を育てる教育と良い教師を育てる教育は全く異なる。効率だけを考えるのであればある時期までは、軍隊式の教育を施すのは有効な手段であったのかもしれない。しかし時間がたつうちにそれは形骸化してしまい「外間より見れば如何にも卑怯者の如く、偽善者の如く薄気味の悪き人間の如く、何となく癖にさはる人間」(自由人となるまで 川村理助 著 培風館 大正一一(一九二二)年)を育てがちな教育機関になってしまった……というのが私の推論だ。

もうひとつ、教師という職業の微妙な立ち位置についてである。

先に紹介した「師範学校の生徒は、多くの人々から畏敬せられて居た」「其時の青年が最も光栄に思ふた、師範學校」などといった評価にもつながるのだが、ある時期まで地方では師範学校さえ卒業できれば将来安泰だといった感覚があったらしい。ところが学閥によって出世ができなくなったり、副業が禁止になったり、就職難で上の学校の卒業生が教師になることで自分の学歴や経歴が見劣りするものになったりで、自分が考えていたほど出世ができないというようなことが起きてくる。これによってヘソを曲げてしまい偏屈な人間になってしまう者もいて、資格試験の場で嫌がらせをする校長や教師もいたようだ。

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狭い世界での見下しあいなどもあったようで、例えば高等師範に進むと小学校の教育に従事することは出来ない。だから子供を教育したい人間は、高等師範への進学は諦めるしかない。

お前が上の学校行って勉強してえ気持もおとつつあんはようく知つてゐるさ。しかし、おとつつあんは、お前をほんとうの子供の教育者にしてえと思って、師範学校さ上げたんだ。いつも話してゐるとほり、子供の教育はすべての教育の土台で、非常に大切な仕事なんだから、お前はどこまで小学校の先生になってもらひてえんだがな……(楽しき教壇 訓導生活二十八年の記録 小林金太郎 著 教材社 昭和一八(一九四三)年)

ようするに師範学校では小学校向け、高等師範では中学を対象にした教育を施していたということになるのだろうが、教育をするための技術や教授法は年齢によって異なるのが当然である。小学校教育と中学教育で上下がつけられるようなものではないが、かって小学校教師は下等、中学教師は上等なんて格差もあった。個人的には馬鹿馬鹿しすぎてお話にならない状況だなと思えてしまう。

師範学校を含めた戦前の教育は謎が多く、制度についてのみ調べれておけば、ふーんで終ることなのだろうが、個々人の感想や気持をたどっていくとなんだかよく分からなくなってくる。ただ分からないものは分からいので、そういうものなのかなといったところで納得している。