山下泰平の趣味の方法

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かって学校に住む子供教師がいた

学校に住む子供先生がいた

明治時代、小学校教師の数が足りない時期があった。これを解消するため、小学校を卒業した後に資金の問題で進学が出来ない村一番の秀才の子供を、そのまま教師にしてしまう流れができた。

周囲の大人が勉強を続けたいのであれば代用教員になればいいのではないかとアドバイスをし、その気になった子供が学校に住み込みで働く。見方を変えると子供を騙して学校に幽閉し授業をさせながら、次の犠牲者を探すように見えなくもないが、とにかく日本にはこういった人材が求められていた時期があった。

一四歳で学校に住み込み働く少年の中には、大きな夢を抱く者もいた。今は小学校の先生だが、学資をためていずれ東京に出て出世しようという野心を持つ者たちがいたのである。当時は日本全体が成長への熱気に浮かれ、誰もが出世できるのだと思えるような時代であった。出世のための手段として上の学校を卒業するというルートが形成され、貧しい家庭からかなりの無理をして進学しようとする苦学生が誕生した。現在のところ学校に住んでいた子供先生たちは、苦学生として扱われてはいないが、彼らは十二分に苦学生としての資格を備えている。

ちなみにであるが、当時の苦学生たちの多くは挫折する。子供先生たちも同じく、やがては現実を受け入れて、そのまま教師として一生を全うする者もいた。かってそんな時代があったのである。

村の秀才の子供をそのまま先生にしてしまう……これは政策として打ち出された方針ではないものの、地方の教育は地方出身の若者が担うといったぼんやりとした感覚があった。そして地方の貧しい秀才たちが、ある時期に日本の教育を支えていたこともまた事実であった。

もっともいかに優秀であったとしても、一四歳で専任の教師になれるわけがない。基本的に彼らは代用教員として働くことになる。時期的に手続が間に合わず、時に助手といった曖昧な立場で、学校で過ごす子供もいた。今とは違い大らかな時代であった。

学校に避難する者たちがいた

代用教員の制度は諸事情で実家が困窮し中途で学校を退いた若者が、一時的に苦難を凌ぐためにも活用されていた。後に実業家となり政治家としても活躍した原脩次郎も、学問を続けたいが学資がなく進学できない若者の一人で、師から『君、そんなに勉強がしたいなら代用教員になつて勉強したらどうか。若し君がやる氣ならスグ周旋する』(原脩次郎先生 富岡福寿郎 著 弘文社 昭和一〇(一九三五)年)と促され、十四歳で代用教員として一時的に働いている。

今でも文学史に名前を残している作家の中にも、代用教員として働いていた人物も多くいる。石川啄木や尾崎翠も代用教員の経験者だ。彼らの中にはろくろく授業もしないトラブルメーカーもいて、大人たちからの圧力がかかりまくるも、子供たちからの絶大な支持を得ていたために任期を満了したものもいれば、本当の良い先生となって新しい知識を子供に伝え、後年名を成した元生徒が○○先生からの影響を語るなんてこともあった。

ここで考慮に入れておかなくてはならないのは、彼らは別に貧困や苦学とは関係ない世界の住人だという点である。もちろん一家が没落してしまったのだから、主観からすると十分に貧しいということになるのだろう。しかし彼らには人的ネットワークや、元は名家の一族でただの貧乏人とは違うという一種のプライドもあった。彼らはツテを使い就職することができるし、プライドがあるからこそ他人に頼ることもできた。

ある種の自信がない人間が、人に頼ることすらできず自滅していく風景は現代でも見られるもので、比較的恵まれた家に生れた者たちは、ある種の図々しさや傲慢さを発揮し、有利な条件で働けるように交渉することもできたのである。時には一度は失敗した父親が、異常な努力と運によって家運を盛り返すこともあり、そうなると彼らは当然のように、そうあるべき進路へと戻っていった。

そういったものが望めない貧しい家庭の子供の一部は、先にも書いたように代用教員として働き、それなりにやり甲斐を見出し、そのまま検定試験を受けつつ、やがては一人前の教師となった。その一方で、学校に住み着き大きな夢を抱いて資金を貯めるものもいた。

学校に住み成功した若者たち

学校に子供が住む前提として、宿直の制度があった。

一八八二年あたりから高等学校に御真影(天皇陛下の写真、あるいは絵画)が下付されはじめ、一八九〇年の教育勅語発布後、文部省によりその謄本がつくられた。一八九二年あたりからその謄本とともに、宮内省から御真影が全国の学校に配布された。それらを保管するために校内に設置された奉安殿、あるいは奉安庫に保管され、祝祭日の儀式の際には御真影を掲げ校長が教育勅語を奉読した。美談の一種の定番として、校舎の火事が燃え広がり奉安殿から、御真影を勅語を救い出すため火の中に飛び込んだ校長や教員のエピソードがあった。御真影と勅語を燃やしてしまった罪滅ぼしに、切腹をする校長すらいた時代だった。その評価や好悪は別にして、小学校をメディアとして活用し、視覚と音で天皇制国家を構成していくのは、なかなか格好の良い政策ではある。

とにかく大切な奉安庫が校内にあり、それを守るための役割が宿直だ。一定以上の収入と安定した家庭がある者ならば、誰しも職場に泊まりたくはない。そこで新人の代用教員が宿直として学校に住み着くといった状況が発生したのである。

後に教育評論家となる渡部政盛は、小学校を卒業後、一七歳で準教員の試験に合格し学校に住んでいた。『近所の人達は、年の若い可愛い先生だと云ふので、何に彼れとなく面倒を見て呉れた。最初私は伊藤先生の所に合宿したが、その頃は学校の裁縫室に寝泊りしていた。 炊事は小使に見て貰った。 心易くなった児童の母は、一日おおきにおかずなどを持って来ておいて行かれた』そうだ。俸給が七円、宿直料が一円五〇銭の生活で、これは都会へ出る資金になった。その後、渡部は順当にキャリアを積んでいき、教師の経験を活かして教育評論家となっている。『青年教師時代 渡部政盛 著 東洋図書 昭和一二(一九三七)年』

教育関連の物書きとなった小林金太郎は「君はまだ若いんだから、常宿直をしてくれたまへ」と依頼され、「いろいろの点でかえって都合がいいことと思って承知」している。『楽しき教壇 :訓導生活二十八年の記録 教材社 昭和一八(一九四三)年』「宿直室には、蜘蛛の巣のかかった裏板から石油ランプがぶら下っていた。赤くなった畳のあちこちが、ただれた口のようにあばんとあいていた」といった様子でそれほど綺麗な部屋ではなかったようだ。時に生徒が「先生。これ、葉っぱ漬け持ってきたの」と漬物の差し入れもあった。宿直料ももらえる上に、仕事はといえば「午後の五時と十時に校舎の内外を巡視する」くらいのもので、なかなか楽しい生活だったらしい。

学校に住んで進学した若者の中には、見事に帝大を卒業した者もいる。『実業の世界 実業之世界社 明治四三(一九一〇)年 十二月一日号』で苦学の人として紹介されている中村周治だ。

中村は小学校を卒業後、千葉県長生郡の私立長生学校で中学卒業程度の学問を修める。しかし学資が得られず、進学できなかった。やむなく検定試験を受け凖教員の資格を得て教師となるも、諸々あって上の学校に進もうと決意する。明治四一年に東京の中学に出て、正規の中学卒業の資格を得たものの、勉強のやりすぎで心身を損ってしまう。そこで中村は骨休めもかねて、田舎の小学校で教員生活を送ることにして、「例の如く校舎に自炊し」た。ここで「例の如く」となっていることに注目しておきたい。要するに校舎に住み自炊して生活することは、「例の如く」と表現できるくらいに一般的なことであったということである。

田舎だから空気も良い上に「金はひたくても使へぬ」。運動がてら学校の敷地で野菜を作る。そんなこんなで「病は日ならずして平癒する、十三円の月給は殆ど丸残りとなる。勤務僅か七ヶ月の君は六十円の貯金を得」た。再び東京に出た中村は当時のエリート校一高に合格、牛乳配達をしながら苦学をして明治の四五年に卒業している。

卒業した中村

http://museum.c.u-tokyo.ac.jp

その後に帝大に入学し、見事に弁護士になったという成功物語で、学校に住む先生の成功例としてはひとつの頂点に達している。付け加えのようになり二人には申し訳ないが、先に紹介した教育関連の世界で成功した渡部や小林も、学校に住み成功した事例としてもいいだろう。

ただし中村にかんしては、留意しておくべきことがある。記事において中村周治は苦学の人として紹介されているものの、当時の苦学生としては恵まれた環境にいたという点である。そもそもだが苦学生ならばまず私立の中学に通うことはできない。貧しい家に生れた村の秀才たちは、小学校卒業程度の学力しかもっていない。年齢も学力も足りず準教員の試験に合格することなど出来ないから、彼らは代用教員になるしかないというわけだ。

残念ながら苦学の難易度や、苦学それ自体について現在流通している情報は、少し不十分だといわざるを得ない。かって私は金子文子の苦学について書いたことがある。

cocolog-nifty.hatenablog.com

十分すぎるほどに困難な状況ではあるものの、文子の苦学も苦学生全体として見ると難易度はそれ程ではないといった状況だ。もちろん中村も苦労はしていて、彼が牛乳配達をしていた時期の生活は以下のようのものであった。

午前三時起床。

午前三時半より同七時まで牛乳配達。

午前八時より午後三時まで第一高等学校通学。

午後四時より午後八時まで学科の復習及牛乳場の掃除。

午後八時より午前三時まで睡眠。

かなり過酷な生活ではあるが、こちらも疑い出せばきりがない。すでにこの時代になると、牛乳配達は苦学生向けの職業ではなくなっていた。専業で牛乳配達を行い家族を養う者も増加したため、競争が激しくなり苦学生が片手間にできる仕事ではなくなってきていたのである。『新公論 新公論社 大正一(一九一二)年 九月倍号』の『苦學生の新聞配達 盤山生』では「牛乳配達や活版職工などは共数は僅少なるのみならず苦学生を標榜しながら通学などをして居るものは皆無である」と、苦学生の定番の職業であると思われていた「新聞配達で成功したものなし」ともされている。ようするに牛乳配達をしながら一高に通うなんてことは、絶対に無理な話であった。

それならなぜに中村が牛乳配達で生活を維持できていいたかといえば、おそらく仕送りがあったことと、地元で培った人的ネットワークを活用できたからだろう。さらに少々意地悪な見方を付け加えると、この記事自体が中村のスポンサー探しを目的としたものである可能性すらある。こういう苦労をしている苦学生がいますという記事が出ると、支援をしたいという成功した人間がまだまだいた時代でもあった。

散々ケチを付けたおいてなんなんだが、ここで間違えてはならないのは中村の苦学は事実であり、普通の一高生に比べると十分に苦労をしているという点だ。中村には非凡な学習能力や、人を引き付ける魅力、計画を実現に移すだけの戦略があった。それに加えてある程度まで恵まれた環境に生れ、十二分に苦労をしたからこそ帝大を卒業できたのである。ここまで条件が整っていた中村にとっても、苦学を乗り越えるのは難しいことであった。

失敗してしまう学校に住む子供たち

残念なことに学校に住みついた貧しい家に生れた、そこそこ秀才程度の子供たちのほとんどは失敗してしまう。

『自活苦学生 苦学子 著 大学館 明治三六(一九〇三)年』の著者苦学子は、まさにそこそこの秀才であった。優秀な成績で高等小学校を卒業するも、貧しい家庭に生れたため進学することができない。なんとか学問を続けたいと考え、十五歳の時に選択したのが代用教員であった。月に三円の俸給から二円は実家へ仕送していたが、『野菜青物は村民の送るところ、薪炭また学校の弁ずるところで、購うものはただ米と味噌のみである。これを以って僅僅一円の金、予が生命を繋ぐに十分であった』としている。彼は三年を費やして五円……現代の貨幣価値なら八万円程度であろうか……をためている。三年を費やして貯金が五円というのは少ないような気がするかもしれないが、当時の事情を鑑みると妥当といったところで、貧しい家に生れるというのはそういうことであった。苦学子はこれを学資にして苦学をしようと出京したが当然のように失敗し、東京で職を転々とし七年を費やしたがどこの学校も卒業できなかった。その経験を活かして『自活苦学生』を書いたというわけだが、その後に彼がどうなったのかは分からない。

苦学子は失敗してしまったにしろ、貧しい子供教師にとって、学校に住むというのは一種の非公式な福祉であった。例えば農家の子供であれば、家を離れることで労働や古い人間関係から逃れることができる。もちろん貧しい家の子供であるから、苦学子のように実家に仕送りはしなくてはならない。それでも家賃は無料な上に、教師としての評価を得られれば生徒の両親から野菜やおかずの差し入れなどもあり、僅かながらも貯金ができたのである。

寂しいことに、失敗してしまった学校に住む子供先生の記録はあまり残っていない。当たり前の話であるが、成功した者は自分の経験を他人に披露したがるが、挫折してしまった者は多くは語らない。少ないながらも残っている記録の中で、私が好きになった教師を一人だけ紹介しておきたい。

『行商旅行 大学館 明治三六(一九〇三)年』の著者白眼子は、行商をしながら学資を稼ぐ学生である。彼自身は筋金入りの苦学生で、これまで紹介してきた苦学者などとはレベルが違う。この記事では扱わないが、苦学の技術に関しては白眼子は非凡なものを持っていたとだけ認識しておいてもらいたい。

普段は東京の学校(おそらく早稲田大学)に通いながら学資を稼ぐため行商をしている白眼子であったが、夏季休業を迎え行商をしながら旅行をすることもできるのではないかと思い立ち、そのまま旅に出た実録が『行商旅行』だ。商品は文房具であるから、基本的に学校や役所を探し行商をすることになる。

本郷の下宿を出て二日目、宿屋を出て(おそらく宇都宮付近の)とある村で、白眼子は小さな学校にたどりつく。生徒数は六十人くらい、教員も一人しかにいないような学校である。ひと商売するかと小使部屋に行き六十ばかりの爺さんに声をかけると、今は授業中だから少し待ってくれとの答えであった。授業が終るまで暇つぶしに学校を見学しようと運動場に出て小さな校舎の窓からのぞいてみると、七〇畳ほどの教室に机や椅子が隙間もなく並んでいる。教室には一四歳から七歳くらいの子供が八〇人ほどいて、「眼鏡をかけた、優しそうな」三〇前の先生が一人で授業を受け持っていた。

「クラスは三つに分れて」いて「習字をするもあり、算術を稽古するもあり」で教室は混沌としている。「それを何から何まで一人で受け持つて居るのは、その困難さこそと察せられる」が、先生は平然として「自在に駆け回」り、「手を取って習字を教えれば、彼方に行って文字を教え、あるいは読書の講義、あるいは算術の説明と縦横自在に」教えているではないか。その様子に白眼子は「余程の敏腕家」だとの感心するしかない。

授業が終ると、敏腕家の先生は、白眼子を小使い部屋の変りのないような狭い職員室に招き入れる。奥にある八畳ばかりの部屋が先生の書斎兼寝室で、煤けた本棚、その上に置かれた花瓶には白百合、古い机には二三の書籍と筆立てなどが乱雑に置かれていた。この先生は学校に住む子供先生が、成長した姿であった。

筆や硯をいつくか売った白眼子が席を立とうとすると、先生は少し休んでいけと渋茶を出してくれた。雑談をするうち話は転じて東京の学校の話になると、先生は矢継ぎ早に質問をしてくる。問われるままに答えるうちに、先生は『遠慮せずに宿っていきたまへ。迷惑かも知れぬが、君も書生のことなれば、汚いことや不自由位は辛抱が出来るだらう。これは僕の方から頼むのだ。いろ聞きたいこともあるのだから』と言い出した。

実はこの先生、学校に住みながら、未だに東京への遊学を夢みていたのである。「先生は遊学の念もっとも盛んに、何時かはこれを決行せんものとの野心であるが、なにを言ふにも土地の不案内やら学費の欠乏やらに、そのうちそのうちとして、ひたすらに時節の至るを待ちつつ」田舎の学校で先生を続けていたというわけだ。

先にも書いたように、白眼子は一種の苦学の天才であった。郷里の中学に通っていた頃には、富山日報の読者投稿欄の常連で文才があった。実家が没落した後も冷静に状況を分析し、あえて苦学生が少ない地元に留まった。

苦学の基礎知識的なお話になってしまうが、戦前に苦学をするにあたって中学を卒業するのが最も難しい。先に紹介した中村のようなサポートがあるなら別であるが、競争の激しい東京に出てしまえば、ほぼ確実に苦学は失敗してしまう。

しかし時代によっては、地方に留まればまだ希望が残されていた。東京では当たり前にいる苦学生も、地元では珍しい。そのため地方で苦学をすれば、見ず知らずの人々が同情してくれたのである。

ここが実に難しいところで、当時の野心を持つ若者は、どうあっても早く東京に出てみたい。その熱量を抑え込み、あえて地方に留まるというのは凡人ではできないことで、これだけでも白眼子がいかに戦略的に行動していたのかがよく分かる。

ちなみに白眼子は地方で行商と牛乳配達を兼業し、地元の中学校を卒業している。行商の商材は牛肉で、その戦略も世間知らずの学生としては鮮やかなものだった。

  • 牛乳配達をしながらその御得意先を広げた
  • 当時牛乳を飲むような家庭はある程度の余裕あった
  • 滋養物について感心も持つ家庭が多かった
  • 牛乳配達をする家庭に滋養物の牛肉を販売した

こうして白眼子の地元の中学を卒業し、東京では商材を変えて文房具を販売した。そして気分転換のために出た行商旅行で出会ったのが、この先生であった。

二人は晩飯を共にし、話は夜中まで続いた。白眼子は「あたう限り、予の知れるだけの経験を語」った。そして「一夜の談話は早や十年の知巳の如くに二人の仲を結んだ」のであった。翌日、先生は付近の小学校と役場に紹介状を書いてくれた。白眼子は厚意を謝して行商旅行を続けた……と話はこれだけである。

敏腕家の先生はどうなったのか

ここからは私の想像の話になる。

この夜に白眼子の語った知見は、当時としては最新のものだった。事実彼は当時リアルタイムで経験したことを、四年後に『学生自活 苦学行商案内 白眼子著 大学館 明治四〇(一九〇七)年』として出版している。四年後の東京で通用する知識なのだから、地方で実践すれば十分に成功する見込がある戦略であったはずだ。

白眼子の話を聞いた先生は、八〇人の生徒を同時に教える「敏腕家」であった。東京や学校の事情には詳しくないことから、おそらくであるがせいぜい高等小学校を卒業し、そのまま学校に住みながら検定試験を受け、教師として働いていたのであろう。当時の田舎はまだまだ閉鎖的な社会であり、職業による差別もあった。行商をする白眼子に渋茶を出し、世間話をしているところからみるに、新しい考えを吸収しながら働く平等主義者であったことが伺える。都会で学んでいるだけでなく、当時の若者としてはかなりの知見を持つ白眼子と対等に会話をしており、そこそこの知的水準の持ち主であったとしてもいい。

最新鋭の知識を持つ白眼子から、敏腕家の優秀な若者が情報を得たという形になるが、おそらくであるが東京遊学はかなわなかったことだろう。白眼子が学校にやって来た時には三〇近い年齢で、今ならまだしも当時としては東京に出て遊学するには年をとりすぎていた。

戦前にとある教師が長い年月をかけ東京帝国大学を見事に主席で卒業したお話が、美談として長く語られてはいたが、長い年月をかけて卒業したところで、就職先などはなく人生が大きく変化するわけでもない。仮に敏腕家の先生がこの後に東京に出たとしても、せいぜいなんらかの検定試験に合格し、なんとか別の職業に就けたかどうかといったところであろう。

この年齢でまだ東京に出たことがないことから、先生の生活は相当に苦しかったはずだ。敏腕家の先生が教室で縦横自在に生徒たちを指導する様子から、教育の仕事を嫌っているとも思えない。やがて彼もまた現実を受け入れ、あるいは教育の仕事に意義を見出し、教師を続けたのではないだろうかと思う。

ようするに敏腕家の先生は苦学を開始する前に挫折をした人間となるわけだが、個人的にこの先生には好感を持っている。なぜなら冒頭で書いたように、日本にはこういった人材が求められていた時期があり、彼から日本の教育を支えていたからだ。敏腕家の先生は苦学などせずとも、十二分に仕事をしたのだと私は考えている。