山下泰平の趣味の方法

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怪しい史実はあるけれど

概ねこれが妥当でしょうといった過去に起きた事実(史実)に対して、それは嘘ではないんでしょうかといった疑問が出たりする。一般的にこういう話になった場合、ほとんどの場合は嘘ではないんだけど、それじゃ怪しい資料は皆無なのかっていうと、そういうわけでもない。

今と同じく昔も嘘をついてる奴はいて、そういう人が書き残したものを正しいことが記述されている資料として扱うと、誤った資料で史実を偽造しているということになる。しかし嘘をついてる奴の経歴と書いた時期の仕事の内容を調査し、当時の人間の一般的な感覚に触れる機会が多い位置にいて、経歴からこのあたりの事情は正しく理解できたはずだと認識した上で検証し、怪しい資料を当時の特定分野における一般的な人間の考え方の事例として扱うことはできる。面倒くさい話だけど、瑣末な分野……例えば大正時代の受験雑誌の読者投稿欄を担当していた嘘ばかり書いてる編集者の書いた著書の扱いなど……ではこういうことがある。

この分野では正しいことを書いてるはずだけどこっちは怪しいみたいな人物もいて、この本は面白いけど内容は怪しい部分があると思う。

著者の原田道寛は今でいう新聞記者兼ライターのような仕事をしていた人で、記憶が曖昧だけど中断した新聞小説の穴埋めとして日本刀関連の小話を書いたものが、この本の原稿はもとになってると思う。子供向けの講談本なんかも書いているので、日本刀に関する小話は大量に持っていたんだろう。自伝を読む限りでは、下級士族の家の出で軍人になった知人はいるけれど、小さな頃から日本刀に親しんでいたような様子はない……といったところから、ちょっと信用できない内容なのかなといった判断になる。

ただこの人が書いた下層社会のチョイ上あたりに場所で生活していた明治中頃あたりの人々に関する記述は信用できる。なぜなら原田自身がそういう場所で暮していた時期があるからだ。その一方でそれより下の階層に関しては、弱いものに肩入れする性格もあって微妙なところがあって……というようなこを考えながら私は資料を使ったり使わなかったりするんだけど、まあ妥当でしょうといった資料を扱う際には、妥当であるという判断に至るまでの筋道については解説はしない。私が好きな資料は曖昧なものが多い上に、瑣末なことしか調べていないので、そういうことを解説し始めると異常に長いものになってしまうからである。そのかわりに近い情報や資料を一緒に紹介して、妥当なんだなと各自に思ってもらえるようは心掛けている。

私は過去のことを色々と書いてはいるものの素人な上に、調べているのは瑣末な部分でしかないわけだけど、一般的に妥当だとされている巨大な事件が嘘だなんてことは、ほぼないんじゃないかなとは思う。少なくとも特定の大事件を嘘だと覆すことは、個人の活動レベルでできることではないと実感くらいはしている。

ただ絶対に捏造や誤謬はないとしてるのも微妙な姿勢ではあって、当時の人が読むとこれは誇張した冗談だなと一瞬で理解できる部分が、事実として扱われているケースはなくはない。その一方でそういう方向から指摘している人はあまりいないので、普通に生活する分には過去の事実とされている事柄は事実だとした上で、考えたり行動するのが良いのではないのかなといった感想である。