ゴールデンカムイが完結した。せっかくなので全部読んだ。主人公がやたらに「俺は不死身の杉元だ!!」と叫ぶのを読むうちに、そういえば明治時代にも不死身キャラがいたなと思い出し、少し似ているところがあるなと、軽い気持で書き出したのがこの記事なのだが、またもや18000文字くらいになってしまった。これでもかなりはしょった所があるので、詳しいことが知りたい人は、途中で紹介している私の本を読んでいただければ幸いである。
令和の不死身、明治の不死身
ゴールデンカムイが面白かった。
面白い作品は、多くの人から愛される。それだけに気になるところが出てくる人もいるようで、色々な話もあるようだ。個人的には特に気になるところはなかったが、興味深い点はあった。主人公杉元佐一の不死身という設定である。
私は漫画が読むのが下手なので間違っているかもしれないが、杉元佐一の不死身は身体が丈夫、傷がなおりやすいといった体質だ(と思う)。
なぜに不死身なのかといった理由付けは登場しなかった(よね?)。
私は作品に対する解釈やツッコミなどを読むのが好きなのだが、杉元の不死身(傷がなおりやすい性質)は、普通に受け入れられているようだった。まあこういう人もいるよねくらいの感じなのだろう。このように受け入れられた明治時代の不死身のヒーローに粂平内(くめへいない)がいる。
久米平内とも表記されることもある粂平内は、江戸前期の武芸者で剣術に秀でた伝説的な人物だ。異常なまでの身体能力と特殊能力を持っているため、うっかり人を殺してしまうことも多い。時には遊び半分で人を叩き切ったりもする。
ある日のこと粂は人を殺しすぎたことをいきなり猛省する。
平内は、罪業のつぐないとして自分の石像を作らせて、浅草寺に埋め通行人に踏み付けさせた。やがて踏み付けるが転じて、文を付ける(ラブレターを出す)となり、今では縁結びの神様として浅草寺の平内堂にまつられている。
現代では知る人の少ない粂平内だが、江戸時代から物語の主人公として幾度も取り上げられている。明治以前の物語でも粂平内は時に不死身のキャラクターとして活躍しているが、ゴールデンカムイの杉元の不死身とは全く違う性質だ。明治以降の不死身とも質が異なる。この辺りが少々ややこしいので、まずは軽く解説しておきたい。
昔の不死身キャラたち
明治以前の不死身キャラもいろいろいるが、代表的なものをいくつか紹介する。
まずは設定上は不死身といったキャラクターだ。
『伊賀越乗掛合羽』の「不死身の武助」は、不死身だから刀が身体に通らない。この性質を活用し快適な毎日を送っていたが、ひょんなことから切腹がしたくなる。ところが不死身なので刀が身体に通らない。困っていると不死身であっても斬れる正宗の名刀が手に入り、目出度く切腹できましたというキャラクターだ。
絵本稗史小説. 第2集 博文館 大正6 大正六(一九一七)年
「不死身の武助」のように、不死身だが名刀ならば斬れるといったキャラクターは、そこそこメジャーな存在だった。そのようなキャラクターが登場する作品では、不死身だという設定を前提にして物語は進み、不死身を打ち破るための新たな設定を使い、不死身キャラを退けるといった構造となる。
『自来也説話』には携帯すれば不死身になる西天艸(さいてんそう)なる薬が登場する。鹿野苑[ろくやおん]軍太夫は盗み出した西天艸を携帯しており、不死身になっている。自来也は親の仇として鹿野苑を付け狙う青年に助太刀し、西天艸を手に入れる。自来也の特技は蝦蟇(がま)の術、もともと強いが西天艸で不死身となり、天下を狙って忠臣たちを苦しめるも、謎の法螺貝で撃破されるといったストーリーだ。
所蔵: The British Museum
「不死身の武助」とは異なり、不死身になるためのアイテムがあり、そのアイテムを打ち砕くためのアイテムを登場させて物語を面白くしているわけだ。
これらの不死身キャラは神話などに登場する不死身キャラ、例えばイーリアスのアキレスの弱点がかかとであるというのに少し似ている。今でもそのまま面白く感じる人もいることだろうが、お前が勝手に作った設定と設定を勝負させて喜んでるだけだろとも思う。舞伎のようにビジュアル面などで演出しなくては、現代では通用しそうにない物語だ。
ついでなので江戸時代の粂平内も紹介しておくと、半分神様といった存在であった。山東京山による『久米平内剛力物語』の平内は仁王の化身で、鉄砲が当っても無傷である。
絵本稗史小説. 第2集 博文館 大正六(一九一七)年
神の化身だから不死身ってどういう理屈なんだよとツッコミを入れたいところだが、近代以前の物語なんてものはこんなものなので、ヘーそうなのかと納得しておけば十分だろう。
もうひとつ、我慢強いから不死身だという強引なキャラがいる。実際には不死身でもなんでもなくて、殴られても痛いと言わないから不死身とされるくらいのショボい能力である。
だから彼らはもの凄い勢いで殴られると普通に痛がる。
甲源一刀流祖人逸見多四郎 西尾麟慶 講演[他] 朗月堂 P113 明治三二(一八九八)年 1899
少し毛色の違うのが、死ぬのが怖くないから不死身に近いといったキャラクターである。江戸時代、死次第(しにしだい)、命不入(いのちいらず)などと刺青を入れた侠客がいて、彼らは以下のような雑な価値観で生きていた。
侠客腕の喜三郎 揚名舎桃李 口演[他] 中村日吉堂 明治三二(一八九八)年 1899
以上、紹介してきた明治以前の不死身キャラと、粂平内やゴールデンカムイの杉元の不死身は全く違う。杉元や平内の不死身を、読者が次のような形で受け入れているからだ。
- 不死身だが神ではない
- 不死身だが不思議な現象ではない
- 不死身の人間は存在する
なぜ明治時代の読者が不死身をこのように捉えたのかといえば、理屈で考えたからだ。物語自体、近代以降と以前で質が大きく異なってしまう。この辺りについて詳しく知りたい人は、私の著書を読んだら分かると思われる。
とりあえず、
- 一時的に合理性が向上しすぎてしまい
- 例えフィクションであったとしても迷信などの類を受け入れてくれない読者がいたため
近代的な不死身の定義が必要となったとしておこう。ちなみに先程紹介した「死ぬのが怖くない」侠客も明治に入ると近代的な不死身の能力を持ち始めるのだが、それについては後述する。
理屈の世界における不死身
粂平内に近代的な不死身の設定が追加されたのは『粂の平内 雨柳子 著 敬文館 明治三八(一九〇四)年』以降となる。雨柳子は三宅青軒の変名、すでに忘れ去られているが三宅青軒は日本の娯楽小説の世界でほぼ初めて、超人的な能力を理屈で解説した偉大な作家である。もちろん粂の強さについても理屈で解説している。
粂平内がなぜ強いのか、肉体的な強さに関しては生得の才能がある上に厳しい修行をしたからだとしている。江戸時代のように、神の化身といった理由では、明治人は納得しないのである。
加えて平内は気合で相手の動きをとめる、いかなる攻撃をもかわすという特殊能力を持っている。これについては独自の工夫をし、柳生但馬守などの達人から極意を授けられて得たものだ。
いかなる攻撃もかわすことが出来る理由については、以下のように解説されている。
今の心理学で説明すると、人体には五官の外に内官と名付けるものがある。これは五官に感じないでも知るところの働きで、(中略)、思いも寄らぬ夢を見て、その夢が正夢であるが如きは皆是れだ。
第六感で攻撃をかわすといった説明だ。気合で人間の動きを止める能力は、次のような解説となっている。
雨柳子は物好きからこの理屈を研究した。その結果は、彼の『催眠術』と同じことだと知った。
瞬間的に催眠術で動きを止めるといった理屈、今から見ると稚拙な解説ではあるが、なんの説明もなく強い主人公が主流の時代にあってはかなり斬新であった。先にも書いたように、明治人は理屈が好きで思いの外に合理的だ。『粂の平内』には、平内が御百度参りをする場面がある。そこでも以下のような但し書きが添えられている。
こんな一文からも、御百度参りなんて意味がないと考える人が多かったことが窺い知れることだろう。三宅が強さを理屈で解説しているのも、その時代の雰囲気に合致したものであったというわけだ。
ちなみに江戸時代の粂平内は、全ては仁王の申し子だからで押し通しており、特に修行もしていない。五俵(三百キロ)の米俵を片手で持ち上げながら手習いをしただけだ。
明治にはこういった物語なんて、馬鹿馬鹿しくて読んでいられないという人たちがいたのである。
それでは不死身はどう解説されているのかというと、意外なことに次のようにあっさり流されている。
弓馬剣道で鍛え上げると、骨硬く肉緊りて丸で鉄のようになった。打たれても痛くない。傷をしても直ぐ治る。「平内は藤身だ」と言ッて、仲間の少年に恐れられた。
これはゴールデンカムイの杉元と同じように、傷の治りが異常に早い人として処理されているのであろう。
理屈っぽい読者が不死身はあっさり受け入れているのには理由がある。驚異的に傷の回復が速い人がいることが、広く認識されていたからだ。『中外医事新報 日本医史学会 明治一三(一八八〇)年』の松村虎之助「不仁身トハ何ゾヤ附余ノ一例」は辞書から不死身(不仁身)の意味を抜き書きしている。
続いていくつか事例を列挙している。
長いので要約すると侠客の小鉄は酒の肴として自分の肉を切り取ったものを提供し、喧嘩で斬り合いをして大怪我をしているにもかかわらず風呂に入った後で酒宴を催した、驚きですねぇ‥…といった内容だ。続いてもちろん痩せ我慢で不死身を気取る者もいたが、痛みをあまり感じることがなく、異常に回復力が高い人物がいることは確かであるといったことが論考されている。
大アジア主義者の頭山満もよく似た体質の持ち主で、事故で一度落してしまった指を布で巻いてくっつけておいたところ、つながりはしたが角度がおかしくかえって使いにくかったため、再度切り落としたなんて豪快なエピソードが残っている。こういった超人じみた回復力を持つ人々のお話が、当時は広く流通していた。
そういったものを見聞きしていた明治の理屈っぽい人々は、粂も異常に回復力が強い人間なのだろうと解釈することができた。当時の人にとって、平内の特殊能力は理屈なしには受け入れられないが、不死身はすんなり納得できる設定だったということだ。これは現代の読者たちが、杉元佐一の不死身を自分なりに解釈し受け入れているのと構造的には同じであろう。
このような知識が流通すると、不死身の侠客たちのキャラクター設定が変ってしまう。かっては我慢強さや気骨が理由で不死身だった侠客を、杉元や平内のような異常に傷の回復が速いキャラクターとして読者が受け取るようになるからである。社会の状況が変化した結果、既存のキャラクターの性質が変ってくるというのは、現代でもよく見る風景だろう。
『粂の平内』とゴールデンカムイとの違いとしては、不死身の設定がほとんど活用されていない点を挙げることができる。先に紹介したように、粂平内には全ての攻撃をよけることが出来る上に、気合で人間の動きを止める能力があるため傷を負うことなどない。つまり物語を構築するにあたって、平内が不死身である必然性はないということになる。このことから三宅は、ちょっとした形容詞として『不死身』を使っただけの可能性も高い。
ところがである。粂の『不死身』は、明治の娯楽物語の世界でさらなる進化を果すこととなる。
盗作される粂平内
粂の『不死身』がどうなるのか紹介する前に、三宅青軒の粂平内のその後について解説しておく必要があるのだが、話は少し複雑になる。
『粂の平内』はそれなりの人気が出たため、明治四二(一九〇九)年に別の出版社「三芳屋」より、装丁と組み版を変えて再版された。そしてその一年後に『粂の平内』を引き伸ばし、四部作にした作品が出版される。
豪傑粂の平内 玉田玉秀斎 講演[他] 岡本偉業館 明治四三(一九一〇)年
後之粂乃平内 玉田玉秀斎 講演[他] 岡本偉業館 明治四三(一九一〇)年
最後之粂乃平内 玉田玉秀斎 講演[他] 岡本偉業館 明治四三(一九一〇)年
豪傑粂乃鉄扇斎 玉田玉秀斎 講演[他] 岡本偉業館 明治四三(一九一〇)年
『豪傑粂の平内』シリーズはいわゆる講談速記本だ。講談速記本はもともと講談の口演を速記し物語として出版したものであったが、この時代になると口演なしに仕事にあぶれた新聞記者などが直接物語を書くなんてことが多くあった。講談速記本である『豪傑粂の平内』も三宅の『粂の平内』を講談師が弁じているように書き直した作品で、ようするに盗作だ。
なぜそんなことをするのかとえば話を作るのが面倒くさいからである。当時は印税といった制度もなく、作った作品は買い切り、時間をかけているとコストが合わない。自然に粗製濫造となり、時には盗作もやむなしといったことになる。恐らくだが、本作を作成するにあたって、三宅に許可すら取っていないはずだ。現代の感覚だと盗作だが、当時はあやふやな時代であり、なんだかんだでこういうことも許されていた。ただ講談は本を読む芸であるから、盗作ではなく講談を速記しただけだと言い張れないこともない。
冊数が分かれているのは講談速記本の定番のフォーマット(だいたいページ数が同じだった)に合せたからだ。収入を確保するためか、読者の人気に応えたのか、引き伸ばしもなされておりオリジナル作品と比べ二倍の長さとなっている。
作者は講談師の玉田玉秀斎となっているが、こちらは一種の屋号のようなもので、実際には玉田家の親類縁者や知り合いなどが複数人で作品を手がけていた。一種のプロダクション形式ともいえよう。初めて漫画制作に分業体制を導入したのは株式会社さいとう・プロダクションとされているが、そのずっと以前に娯楽作品の分野で同じようなことがなされていたのはなかなか面白い。
面白いことに盗作して作った玉田版の『豪傑粂の平内』も大正時代に盗作されてしまい、『粂平内 小金井蘆洲 講演 博文館 大正七(一九一八)年』として出版されている。
数カ所ほど表現が変更されてはいるものの、ほぼ同じ内容である。無断で出版されたかどうかは不明だが、この時代には講談速記本のストーリーを販売するような仕組みがあった。当時の博文館は超一流の出版社であったため、なんらかの許可は取っていたのかもしれないが、こちらもあやふやかつ謎の仕組みで、必ずしも作者や講談師にお金が入るわけではなかった。
余談になるが後にこの仕組みを巡り講談社と講談師によるトラブル「講談師問題」が起きる。これは講談社の雑誌に提供する講談速記を一手に牛耳ろうとした速記者による事件であった。とにかく金を儲けたい速記者が善良な講談師を煽りまくり、他社からの物語を掲載するのであれば今後は講談師は雑誌に講談速記を提供しないと脅しをかけたのである。なぜに速記者が威張っていたのかはよく分からない。先にも書いたように、すでに物語を書くにあたって速記者は必要ない時代に入っていたのだから、おそらく嘘ついたりデカい声を出しまくったりしてなんとかしていたのであろう。盗作の件といい全体的に曖昧で粗雑すぎるように感じる人がいるかもしれないが、事実として全てが雑で荒かった。当時は講談速記本なんてものは取るに足らない下等な文化とされていたため、このように扱われていたのである。ついでなので事件の結末を書いておくと、速記者の脅しに対し講談社は「それじゃいいです」と断わり、普通に新聞記者や小説家に物語を書かせて今に至っている。そりゃそうですねといった感じである。
話を平内に戻すと、この時点で三宅の「粂の平内」はすでに四度も再利用されているわけだが、大正七年には玉田版の『豪傑粂の平内』が、立川文庫向けにリライトされて出版されている。こちらは『豪傑粂の平内』を手書けた玉田一族による仕事で、一度は引き延ばされた『粂の平内』が立川文庫版では再び半分になっている。つまり三宅青軒によって書かれた四〇〇ページの『粂の平内』を、講談速記本では合計八〇〇ページにまで引き伸ばし、引き伸ばされた講談速記本をもとにして二〇〇ページ程度に短縮した立川文庫版の作品が書かれており、なにやってんだかよく分からない。
よく分からないことがもうひとつあって、小金井蘆洲による『粂平内』を出版した博文館と三宅青軒はつながりがあった。三宅は博文社の主力雑誌の編集長を勤めたことがあり、小説も何作品か出版している。自分の作品を元にした講談速記本を盗作した作品が、かかわりの深い出版社から出ていたことに、三宅は気付いていたのかどうか……これについては調べようがない。ちなみに粂平内は映画にも進出し一九一一年から一九二五年の間に日活を始めとする映画会社によって一〇作が創られている。内容については未見のため、こちらも不死身の設定は活かされているかどうかはよく分からない。戦前の作品ばかりで、少なくとも国立映画アーカイブには所蔵されていない。このように相当に人気のあったヒーローも、100年足らずで忘れられてしまうのである。
ダラダラと余計なことを書いてしまい話が大幅にズレてしまったが、この話の中で重要なのは玉田一族がプロダクション制で物語を製作していた点だ。彼らは不死身キャラ粂平内を扱った経験を、後発の作品で活かしはじめるのである。
平内の不死身の活かしかた
先に講談速記本は基本的には粗製濫造だとしたが、創作者の良心なのだろうか、盗作であったしても多少なりとも作品をより良くしようといった意志が感じられることがある。粂平内もそこかしこを改良していて、なるほどと感心してしまったのは、一度だけ不死身の設定を活かしている点だ。三宅青軒の不死身は単なる形容詞に近いものであった。ところが玉田一族は不死身に必然性を加えたのである。
どこで活かしたのといえば、平内の修行時代だ。三宅青軒は平内の肉体的な強さについて、才能とトレーニングが理由だとしていた。玉田一族はというと、トレーニングの内容に踏み込んで解説している。
その内容はこうだ。平内の父親は真野長親、大坂城で百人勇士の取締りをしていた豊臣方の残党である。基本的に講談速記本の世界では、豊臣方の残党は基本的に強い。その強い父親が平内を豪傑にするため考案したのが、約四〇メートルの崖に放り込むというものであった。
落された平内は登ってくる。また放り込む。これを一日に五度ほど繰り返す。
『獅子の子落とし』というのがあるが、あれをマジにやってしまうという無茶苦茶なトレーニング法だ。崖から落しておいて科学もなにもあったものではないのだが、実はこのトレーニング法には当時の科学的な知見が折り込まれている。トレーニングの落す回数が制限されているのである。
この当時はユージン・サンドウによる、鉄アレイを使った筋トレが普及し始めた時代で、過度なトレーニングは無駄だと知る人もいた。
サンダウ式体育法詳解 鈴木篤三郎 述[他] 快進社 明治三八(一九〇五)年
無闇に数をこなせば筋力が発達するものではないと、玉田一族のメンバーも知っていたのだろう。
このトレーニング内で不死身の設定がどう活かされているのかといえば、約四〇メートルの崖に放り込まれてしまうと普通の人間は死んでしまう。しかし平内は不死身であるから、崖から落されても死にはしないと科学的な解説がなされているのである。
豪傑粂の平内 玉田玉秀斎 講演[他] 岡本偉業館 明治四三(一九一〇)年
不死身だからこと苛烈なトレーニングに耐えることもでき、常人では到達できない強さになったといった理屈である。
残念ながら不死身の設定が活かされるのは、この場面が最初で最後だが、偉大な作家三宅青軒ですら不可能だった「不死身設定を活かす」というすぐれた仕事をやり遂げたことは素直に褒めたたえたい。
この勢いで玉田一家は、さらなる不死身キャラを創出する。早速紹介したいところだが、そこには主人公たちのパワーインフレに対応するという意味があった。よく分からないと思うので、まずはパワーインフレした主人公を紹介ながら解説していこう。
明治のパワーインフレ
基本的に講談速記本の主人公は粂平内のように強いのだが、同じような強さの主人公たちばかりでは読者は飽きてしまう。しかし先にも書いた通り講談速記本の作者たちは、あまり凝った物語を作ることができなかった。なぜならコストが合わないからだ。それゆえに、なるべく少ない労力で面白い物語を作ろうとするのだが、そんな中で生れた手法のひとつとして、さらに強くするといったものがあった。十人力の主人公より一万人力のほうが面白いだろといった荒い手法である。大正時代にもなるとインフレしすぎて、火に燃えず水に溺れず百万の敵にも勝つ主人公が登場している。
怪傑金剛不動丸 猶存園生 編 博多成象堂 大正六(一九一七)年
ここまでくれば近代国家もブッ潰せるわけで、主人公がピンチになることがなくなってしまう。これだと物語にならないので、話を面白くするための、さらなる工夫が必要となってくるというわけだ。流れとして『粂平内』の事例を紹介しておくと、こちらは武器を変えるという手法で対処している。
粂平内が引き伸ばしされていることは先に述べたが、三巻までは文体を変えながら原作のストーリーを忠実に再現している。人気が出てしまい出版社から要請があったのだろう、追加でもう一巻を書いている。ところが物語の結末は人を殺しすぎた平内は不殺を誓い、平和な世の中向けの鉄扇術を考案するといったものであった。武器が刀ではなく鉄扇になったことで目新しさは加わっている。しかしひとつの大きな問題があった。
豪傑が出てくる講談速記本は、悪人が出てきて豪傑が叩き殺すといったストーリー構成となっている。
そのような物語に、人が死ぬような活劇をストーリーに入れられないのはかなり厳しい。これどうすりゃいいんだよ……といったプレッシャーからだろうか、創作者たちはヤケになりめちゃくちゃな話にしてしまうのである。
粂の平内は、基本的には人を殺しはしない。それではどうするのかというと、悪人の片腕を切り落とすと地面を引きずり回し、気絶したら水をかけて正気に戻し、再び地面を引きずり回すといったことを始めるのである。たまたま片腕を切られた人間が丈夫だから生きてはいるが、普通の人間であれば死んでしまうだろう。しかし生きているから、問題はない。そしてたまには殺す。
さらに粂の平内は、自分の出身である津和野藩と毛利家の喧嘩を納めるために、鎧を着て馬に乗り軍勢を率いて合戦を始めてしまう。物語では喧嘩は人殺しの元凶であるのだから、これを納めるための合戦なら仕方がないと説明されているが、平和な江戸時代に合戦をしてしまうのはいただけない。さらに平内は戦場で毛利家の悪い豪傑とその仲間たちを、殺してしまうのである。
何様[なんじょう]たまりましょう、大力無双の鉄扇斎に一締めやられて、右内は目玉飛び出し、七穴より血潮を吐いて無残の即死を相遂げた。
鉄扇斎は早速の早業、肩に引っ担ぎ、微塵になれと投げ付けた。何かはもって堪るべき、井上治部は向こうの岩角へ当って、これまた無残の最後を遂げた。
豪傑粂乃鉄扇斎 玉田玉秀斎 講演[他] 岡本偉業館 明治四三(一九一〇)年
講談師と速記者が不殺の設定が面倒くさくなったのだろう、この後もうっかり人を殺している。
いくらなんでも設定が荒すぎるわけだが、悪いことばかりではない。史実も原作もなく、設定すらもすっ飛ばしてしまったことで、偶然にもオリジナルかつ面白いだけの物語に仕上がっているのである。講談速記本としては名作のひとつとしてもいいだろう。
さらなる不死身キャラの登場
『豪傑粂の平内』の二年後、玉田一族は次の作品を書き上げた。
『豪勇菊池隈若丸 玉田玉秀斎 講演[他] 此村欽英堂 大正一(一九一二)年』
『豪傑菊池三郎光政 玉田玉秀斎 講演[他] 此村欽英堂 大正一(一九一二)年』
『豪傑菊池武勇伝 玉田玉秀斎 講演[他] 此村欽英堂 大正一(一九一二)年』
ここでは便宜上『菊池物語』としておこう。実は『菊池物語』の主人公菊池三郎は、不死身ではなく無駄に強いだけのキャラクターで粂平内以上の化け物である。その母親ですら身長は二メートルほどあり七五〇キロ程度の重量物ならば持ち上げることができる。
菊池はといえば、もともと異常な身体能力を持っていたのだが、平知盛の子孫のもとで修行をしたことで無敵となる。武芸十八般は当然として、未来を予知できる上に、空を飛ぶことも可能だ。ついでに猿飛佐助よりも忍術に秀でている。十一歳の時には切り殺した死骸二十人分と生きてる人間二十一人を引っこ抜いた大木に括り付け、持ち上げながら空を飛ぶように走っている。
さらに数十人程度であれば、見ただけで半殺しにすることもできるため、ダメージを受ける要素がない。パワーインフレもここまで進むとすごいが、平内と同じく不死身であったとしても意味がないのである。
平内で不死身設定を活かせなかったことが念頭にあったのだろうか、本作で玉田一族は新たな不死身キャラを考案する。その名も「不死身の藤太」、パワーインフレに対応するためのツールとしても利用されている。
不死身の藤太は元盗賊で菊池に殺されそうになるが、謝罪しまくって許してもらったついでに家来というか友達になる。理由は不死身なのが面白いからである。
藤太は武芸はさっぱりだが不死身であり、殴られても痛くはなく多少は斬られても無傷といった曖昧なキャラクターとなっている。キメ台詞は「不死身の藤太を知らんか」で、『俺は不死身の杉元だ‼』に似ていなくもない。
「ナニ、不死身……スルト切られても痛くないのか」
「ヘエ、少々位い何ともございません」
ただし本格的に殴られたり切られれば死んでしまうらしい。
「俺が霧島山で引っ捕えた時、痛い痛い、お助けと云っておったぞ」
「それは痛くなくっても、あのように云わないと殺されちゃァ、幾ら不死身でも堪りません」
不死身の藤太は玉田一族にとっては使い勝手の良いキャラクターであった。彼が活躍するパターンは次の通りである。
(野武士は藤太を)ブンブンと所嫌わず打ち殴る。不死身の藤太は少(ちっ)とも痛くないから平気なもの、
「サア殴れ殴れ、不死身の藤太を知らねぇか、痛くも何ともないぞ。肩の支えが止まって結構だ」
いくら野武士でも、こんなに云われては張り合いがない。
「オイオイ、待て待て、不死身の藤太と云って居る。左様な奴を殴った所で仕方ない。斬り殺して仕舞えい」
「オオよかろう」
と、五人は一度に一刀抜き話した。これを見た藤太は、素早くムクムクと起き上がり、
「ウワー切られちゃア堪らない。勝手にさらせ」
とバラバラと掛出して、
「サア、今度は若様の番で……」
悪人が登場すると藤太が飛び出し殴らせる。藤太が平然としているため悪人たちが斬り掛るので、菊池が登場するといった流れである。現代の目から見ると他愛のないギャグパートだが、玉田一族にとっては使い勝手の良いキャラクターだった。なぜなら引き伸ばしができるからである。
不死身の藤太に飛び掛かり、首筋掴んで何なく捻じ伏せ、
「サアどうだ。吉川家の侍大将溝口半平太を知らんか……」
「なんとでも勝手に云え、幾ら殴っても痛くないぞ、不死身の藤太を知らんか」
「エエッ、不死身の藤太……然らば殴っても痛くないはずだ。此の上は真っ二つにあわしてくれん」
と、ズラリ一等引き抜いた。この体見たる隈若丸は、パッと半平太に飛び掛り、一刀もぎ取り、又も何なく投げ出す。
菊池はあまりに強く、悪人に負ける要素がない。彼一人なら勝負は一瞬で終ってしまうが、藤太を挟めば行数が稼げるという完璧なシステムとなっている。
本作はこの他にもパワーインフレへの対策がなされていて、それは強さを面白さに転ずるという手法だ。例えば菊池は身長が十一歳で身長百八十センチ近くあるのだが、それを逆手にとりこんなことを言わせている。
デカいがあくまで子供だから可愛がれと、プレッシャーをかけるというギャグだ。この他、強すぎる主人公によって発生する矛盾をも活用している。講談速記本の強いキャラクターはだいたい武術を修めるのだが、無駄に強いので素手で殴れば一般人は死んでしまう。だから修行に意味がない。この状況に対し、次のようなセルフ突っ込みを入れているのである。
武芸なんて関係ないと宣言しているわけだ。
また、これだけ強いならなんでも出来るのではないだろうかといった疑問は、主人公になんでもさせて解消している。
基本的に講談速記本は事実という建前の上で書かれている。それゆえ菊池自身が天下をとることはできない。そんなわけで菊池は秀吉に天下をとらせ、あとは暇潰しをしているといった設定になっている。暇潰しの内容はというと、一般人や大名を脅しつけ金を奪うというものだ。
菊池はこの活動を寄付と読んでいるが寄付の意味が変っている。
この他、情け深いがために徳川侍を片っ端から殴り付けるなどといった活動にも勤しんでいる。
「菊池物語」を小説として読むと、その品質はそれほど高くない。しかしギャグの質は、現代でも十分に通用するものとなっている。狙ったものではないのだろうが、パワーインフレの結果、ライバル不在になった菊池に滅茶苦茶させることで、高度なお笑い物語を創作してしまったということになるのだろう。
創作者たちの善意は続く
以上長々と明治から大正初期のどちらかといえばクダらない物語を紹介してきたが、こういった作品を読み思うことがある。それは創作者の良心、あるいは創る喜びについてである。
確かに現在のエンタメ作品と比べると、明治の娯楽作品はいかにも稚拙だ。何度か書いたように、当時の創作者たちの環境は劣悪だった。稚拙になるのも当然だといえよう。
それでもである。細部に仕組みを入れ、なんとか読者を楽しませようとする姿は、今の創作者たちと変わるところはない。劣悪な環境下で粗製濫造を強いられたとしても、創作者たちは物語を面白くするため、多少なりとも工夫をする。読者のために最新の知見を入れることも忘れない。生きている間にむくわれることはないのだが、それでも彼らはそれをする。良心なのか、喜びからなのか、あるいは彼らにも彼らなりのプライドがあったのか、今となってはよく分からない。ただその形跡が残っているばかりであるが、ここに一種の普遍性があるのではないかと私は考えている。
私が漫画を読むのが下手くそなので理解しきれていない点も多いはずが、ゴールデンカムイにもありとあらゆる工夫がなされていることくらいは分かる。現在の最上のエンタメ作品に、明治の創作者たちの物語は遠く及ばない。しかし創作する思いのようなところには共通するものがあるようにみえる。
もうひとつだけ、個人的な意見を書かせてもらいたい。ゴールデンカムイにおけるアイヌの描写に、多少の批判はあるようだが、作中に差別され、和人が搾取しているようにも見える描写もいくつかあった。私は以前にゴールデンカムイには『人間の醜いある部分が徹底的に漂白されているような雰囲気』『行動には善悪があるのだけれど、基本的には善人しか登場しない』といった特徴があるとしたことがある。
ゴールデンカムイに触発されて明治四十三年に書かれたアイヌのヒロインと不死身の豪傑が旅する講談速記本を24000文字くらいかけて解説することにした - 山下泰平の趣味の方法
今もそのあたりの印象は変っていない。だからアイヌに関する描写が、あのようになっているのは当然だと感じられる。より踏み込んだ内容にするのであれば、物語の構造自体を変更する必要がでてくる気がしないでもないが、それだとこれほどまでに人気が出ることはなかったかもしれない。ついでに私も未読で終ったかもしれない。
さらに加えると「菊池物語」は国威の高揚の流れの中で創作された物語であった。菊池一族は朝廷の忠臣として知られており、天皇陛下の人気すごいし菊池家の隠れた豪傑の物語を書いたら売れるんじゃねぇか……くらいのモチベーションで書かれたのだと思われる。こちらも断罪しようと思えば出来るのだろうが、私には面白話を書いてくれてサンキューくらいのことしか言えない。