この記事では明治時代の若者たちがいかにして無銭旅行を成功させたのか、その手法を中心に2万文字かけて解説している。
無銭旅行があった
明治の二十年あたりに無銭旅行という概念が発生した。
明治の無銭旅行は突如としてあらわれたものではない。その登場以前には、徒歩旅行が流行している。鉄道などの公共交通機関が整うにつれ、旅行は苦労を伴わないものになっていった。そんな時代に、鍛錬やつぶさな観察を目的としてあえて徒歩で旅行するのが徒歩旅行だ。これは速度によって失われたものを取り戻そうといった試みで、技術に対する反発でもあった。
同時期に無銭ブームも起きていた。無銭修学や無銭商業など、持たざる若者たちが世の中に打って出るための手法が、世の中に溢れ出ていた。これは生まれがどうあろうとも、自分の力でなんとかできるんだという、若者たちの思い込みと希望によって誕生したものである。無銭ブームに熱狂した若者たちの一部が、勢い余って徒歩旅行へと飛び出してしまい、それが転じて無銭旅行となった。
この他にも無銭旅行が流行する要素はいくつもあった。
国威発揚の動きが広がるにつれ、冒険旅行が流行し始めた。世界を巡り日本の偉大さを知らしめて、ついでに無人島を発見し領土にしてしまう、そんな無茶なことを夢想する若者たちが幾人もいた。国内でも深山幽谷で未知の植物を発見し、医療に役立てようと旅する者たちもいた。やがて無銭冒険旅行と称する人々が登場するが、その実態は無銭旅行とはとうていいえない。どうしても冒険旅行は大掛りなものになる。資金を確保するためには、スポンサーを探さなくてはならない。そこでキャッチーな無銭旅行を利用したのである。ちなみに冒険旅行に赴いた有名人としては、矢島保治郎や中村春吉などがいるが、両者ともに無銭旅行と称していた。
観光旅行といおうか、風景を発見するための旅行とでもいえばいいのだろうか、日本の風景を発見し観光を作り出そうといった流れもあった。名所旧跡ではない日本の風景を、純粋に楽しもうといった旅行だ。もちろん例外もあるのだが、明治以前の旅行は信仰と深く結びついたものだった。伊勢参りなどが分かりやすい事例で、基本的に旅行はお参りのためといった建前があったのである。お参りではない近代的な観光旅行は、志賀重昂の『日本風景論(明治二七(一八九四年)年)』から強い影響を受けている。『日本風景論』で志賀は日本三景や近江八景ではなく、気候や地形などを観察し美しさの理由を考察している。これによりそのままの風景を観たいといった要求が生れた。
冒険旅行、観光、あるいは風景発見旅行にまつわる動きは複雑で、国威が発揚したから冒険旅行で、観光を成立させたいから風景を発見するというように、綺麗な形に当てはめることはできない。例えば『日本風景論』には登山の手法に関する記述があり、アウトドア活動の促進にも一役を担っている。ここから冒険旅行へと導かれた若者たちがいて……といったように、かなり混沌としている。『風景論』とアウトドアに関しては、後に事例も紹介するが、とにかく明治の中頃にこういう流れがあった。
そして何時の時代も若者たちは、未知のものに憧れ創作をする。誰も成し遂げたことがない旅行を作り上げようという気運が高まり、無銭旅行にも独自の工夫が加わっていく。無銭旅行とは別に断食旅行なんてものもあり、断食旅行と無銭旅行が交ざりあい鍛錬旅行を決行するものがあらわれた。度胸を鍛える夜間遠足、異文化を知る乞食旅行など、様々な旅行法が発案されていく。このような熱気と混乱の時代の中で流行したのが無銭旅行なのだから、その概念が曖昧になるのも仕方がない。
もっとも今でも若者たちはバックパックを背負い、無銭旅行に旅立つことがある。しかしこれまたややこしいのだが、明治から戦前にかけて行なわれた無銭旅行とは少し意味合いが違う。ここも理解しておかなくては話が分からない。
無銭旅行とはなにか
明治の若者たちが語る無銭旅行は曖昧である。その曖昧さを強引に整理しつつ、まずは失なわれてしまった無銭旅行を定義しておく。無銭旅行を成立させる要素をリストにすると、次のようなものになる。
- お金を持たずに旅行をする
- お金は使うが野宿をする
- 木賃宿を利用して旅行をする
- なるべくお金を使わず旅行をする
運賃を払っていないのから交通費に関しては無銭旅行、一時的に無銭で過したのだから無銭旅行といっても差し支えはない、木賃宿に宿泊するから無銭も同じである……そんな解釈が許されていた。木賃宿とは格安の宿屋、基本的に汚く食事は別料金となっていた。
無銭旅行の目的は様々であった。気分転換はもちろんのこと、身体トレーニング、ある種の武者修行のような意味合いを持つ無銭旅行もあった。友人に俺は無銭旅行をしたのだと、自慢したいがために無茶な旅行に出るものもいた。
木賃宿への宿泊も話の種になった。木賃宿は下層階級の人々が宿泊する施設であり、学生や文化人が宿泊することはほぼない。そんな宿にとまったんだと、自慢気に話す無邪気な若者たちが当時はいたのである。
無銭旅行の複雑さに拍車をかけているのは、旅行者の生い立ちや生活している環境が深くかかわってくる点だ。これによって、無銭旅行の目的が二つに分かれる。『娯楽のための無銭旅行』『人生をかけた無銭旅行』である。これらを『無茶な無銭旅行』と『慎重な無銭旅行』と言い替えることもできる。
当時、家出をして東京まで無銭旅行をし、出世をしようと望む若者たちがいた。彼らの家には経済的な余裕がなく進学が許されない。だから無銭旅行で東京にまでたどり着き、学問を修めて出世をしようと試みた。この無銭旅行に失敗してしまえば、野垂れ死ぬか犯罪者になるかしかない。こういった無銭旅行は苦学ブームとも深く関連している。苦学については金子文子の失敗と卒業を題材として記事にしてある。
普通に進学できた学生たちはというと、ちょっとした娯楽、あるいは退屈な学生生活を彩る刺激として無銭旅行に赴いた。このように無銭旅行には失敗した時に回復可能なものと、修復不可能で人生が滅茶苦茶になってしまうものがあり、両者には埋めることができない差があった。
面白いのが娯楽のための無銭旅行と、人生をかけた無銭旅行では、前者のほうが過激になる傾向があることだ。気分転換、あるいは他人に自慢するための旅行は大胆な行動に走りがちで、失敗が許されない旅行ならその行動は慎重になる……ということなのだろう。
今では忘れ去られているが、このような無銭旅行が確かに存在し、多くの若者たちを魅了した。この記事では若者たちがいかに無銭旅行を成し遂げたのか、その手法について紹介していく。
若者たちは無茶をする
先に無銭旅行を『娯楽のため無茶な無銭旅行』と『人生をかけた慎重な無銭旅行』の二系統に分類をした。
まずは若者たちが『娯楽のための無茶な無銭旅行』をいかに成功させたのか、その手法から紹介していこう。
短期間だから無銭旅行ができた
食料を携帯し、二日程度で済む旅程を歩く。夜は野宿すれば無銭旅行の完成である。最も簡単で安全な無銭旅行だ。現代でも名前が残っているような偉人たちも挑んだ旅行法で、下記の記事で正岡子規、夏目漱石、芥川龍之介の事例を紹介している。
無銭旅行の基本といったところである。
人を殴ったり投げたりしたので無銭旅行ができた
明治三五年に『錬膽夜間遠足』を提唱した早田玄道という男がいた。
ある日のことである。早田は夜間に旅行をすれば、金もかからず暑くもなく、奇妙な事件や事故に遭遇しやすいから肝っ玉が鍛えられるのではないかと考えた。
早田は勢いのある男だ。思い付いた当日に晩飯を済ましてしまうと、夜間遠足の素晴しさを証明するためそのまま旅に出る。旅程は東京都台東区から静岡県浜松市まで約250キロ、もちろん徒歩の旅行である。
玄道はバンカラだから、計画性などない。そのまま夜通し歩き続けると神奈川に、夜明け前に友人の家まで辿り着くと、ドンドン戸を叩く。驚いて出てきた友人に夜間遠足の趣意を語りながら、朝飯を食べるとグーグー眠るが、平日だから知人は仕事に出なくてはならない。夕方になると目を覚まし、帰宅した友人と晩飯を食べ酒を飲み、良い気分で出発する。友人からすると迷惑でしかない。
こんな調子で旅行を早田は続けていたが、ひょんなことから無銭旅行になってしまう。
宇津ノ谷峠あたりを歩いていると、泥棒と出会ったので投げとばし、泥棒を追跡していた刑事三人もうっかり気絶させてしまったため、早田は拘留されてしまうが身の潔白を証明し保釈される。そのまま歩き続け大井川を渡ったころには二十時間以上睡眠をとっていなかった。流石の早田も眠くなってしまい、空小屋に無断で入り込み、眠ろうとするが蚊に刺されてたまらない。仕方がないので集めた芝草に火を付け蚊避けにし、ぐっすり眠っていると小屋が焼けている。ヤバいとばかりに外に出ると、小屋は焼け落ち荷物も金も失なってしまう。展開が早すぎてよく分からないが、このトラブルが原因で夜間徒歩旅行が、夜間徒歩無銭旅行となってしまった。
お金がなくては食事もできない。目的もなく駅をブラブラ歩いていると、スリが上品な奥さんの財布を抜き取るところを発見する。これまでの行動からも分かるように、早田は異常に強い。当然のごとくその場で掏摸を取り抑える。お礼にと奥さんが料理屋でもてなしてくれたので、夜になるまで暴飲暴食、酒の勢いで無銭夜間遠足に出発する。
それから数時間ほど歩き、浜松あたりで空腹を感じ始めるが、偶然にも洞穴で宴会をしていた運の悪い若者たちを発見、棒を持って躍り込むと脅しつけ飯と酒を奪い取って旅行を続けて神奈川に到着、見事に『錬膽夜間遠足』を成功させている
早田の無銭旅行法は、犯罪者をとっ捕まえ若者たちを威すといったもので、一般人では実現不可能といえよう。
普通にお金を使って旅行をした
明治の四〇年代あたり、後年政治家となる山口政二は学帽をかぶり、ステッキの先に目覚まし時計をひっかけるというスタイルで無銭野宿旅行を実践している。一日に十二銭を使って飯を食べ、田舎なら神社、都会なら小学校で野宿をしている。実は学帽をかぶっていることが重要な要素なのだが、これについては後述しよう。
そもそも無銭で旅行するのは無理だろという現実に立脚した手法で、こちらは誰もが実行可能な手法だといえよう。
その辺の野菜や動物を食って旅行をした
宮崎来城は中国にも渡り国士として大きな仕事もした旅行の達人である。その友人石井補天も同じく旅行に一家言を持つ男であった。そんな二人も無銭旅行に挑んでいる。『無銭旅行 宮崎来城 著 大学館 明治三四(一九〇一)年 』は明治三四年に出版されているが、宮崎たちが無銭旅行に出たのは恐らく明治二〇年代であろう。
無銭旅行に出ると決めた宮崎と石井の二人は、知人たちにから寄付を集め、無銭旅行の資金とした。東京から木曾山中を巡る無銭旅行で、酒約三リットルが入った大瓢箪と、宮崎は小刀、補天は備前長船の短刀を携えて旅に出る。
この旅行で二人は基本的に寺や木賃宿、友人宅に宿泊している。旅費が底をつくと備前長船の短刀で狸を倒し、ヒキガエルをとっ捕まえて焼いて食う。イナゴも食べたが不味かったらしい。
その他、補天は米を携帯し空き缶でご飯を炊いている。米がなくなると田圃から米を盗み、ビール瓶を活用して精米すると、今度は濡らしたハンカチに包んで米を炊いた。米が手に入らない場合には、大根などを盗んで食べる。当時は大らかな時代で、盗みが見つかった場合も、無銭旅行をしていると正直に事情を打ち明ければ許してくれるお百姓さんが多かったようだ。農作物を盗む旅人向けの謎のルールを持つ者もいたらしく『冒険旅行 : 少年立志 湯浅観明 著 実業之日本社 明治三九(一九〇六)年』には村の中でならば蜜柑を食べてもいいが、村外に出たら食べてはならないという理屈を持つ人物が登場している。
ついでながら書いておくと、実はハンカチで米を炊く手法は『日本風景論』に登場する方法で、他の書籍でも類似のエピソードを何度か目にしたことがある。日本風景論に影響を受けて旅行へ出掛け、ハンカチを活用して米を炊いた若者たちが幾人もいたのだろう。
もっとも動物を捕獲し農作物を盗みながらの無銭旅行は、現代では完全な犯罪だ。実行するのは難しい手法とするより他ないが、限られた道具を使いサバイブするというのは、現代のキャンプやアウトドアの源流といってもいいだろう。
コミュニティーの親分を殴り倒して旅行をした
またしても宮崎の旅行、こちらも明治二〇年代の話である。
暇を持て余した宮崎は素鉄という男とともに、乞食の格好をして旅行をする『乞食旅行 宮崎来城 著 大学館 明治三十五(一九〇二)年』を発案し実行した。乞食(現在とはかなり意味合いが変わる)のコミュニティーに潜入し、元締めを暴力で屈伏させ弟子にしてしまった。
思った以上に住み心地が良いからと旅を止めてしまい、そのまましばらく定住している。最早無銭旅行から旅行は消え、暴力だけが残った形だ。
先に登場した早田もそうだが、本格的な無銭旅行に出る者は身体が頑健なものが多い。宮崎も十四歳の時に嵐の中で船から振り落されるも20キロ泳ぎきり生還し、水切り(回転をかけた石を水面に投げ跳ねさる遊び)では筑後川(145.455メートル)の対岸まで投げることができた。水切りのギネス記録は120メートルらしいのでちょっと怪しいものの、宮崎が異常な身体能力を持っていたこと可能性も否めない。
無銭旅行したと言い張った
『無銭修学 池田錦水 著 大学館 明治三五(一九〇一)年』にはこんな記述がある。
「周防を辞して東都へ入る。その間はもちろん無銭旅行をしたのであるが、そはここにしばらく語らぬであろう」
「しばらく語らぬ」としているが、最後まで読んでも無銭旅行についての言及はなかった。なぜ書かないのかといえば、恐らく実際に無銭旅行をやってないからなのであろう。無銭旅行はコンテンツとして人気があった。だから無銭旅行をしたと嘘をつく者がいても不思議ではない。
嘘をついて他人に迷惑をかけて旅行した
伊藤銀月は若い頃から旅行が好きで『旅行者宝鑑 伊藤銀月 著 博文館 明治四一(一九〇七)年』なんていう旅行のノウハウ集のような本まで出している。それなりの企画力を持った人でもあり、萬朝報で『百字文会』なる企画を立ち上げている。百文字以内で名文を書くといった投書欄で、今のSNSにも通ずるところがある。
そんな伊藤の無銭旅行のスタイルは、はったりでごまかしつつ、他人に迷惑をかけまくることというものだ。
日本が日清戦争に勝利した前後、若者たちの中は、無意味な熱気に浮かされ俺にもなにか出来るのだと考える者たちがいた。若き日の伊藤もそんな若者の一人で、なにかをしたいといった思いに駆られていたのだが、実際のところ文章を書くくらいのことしか出来なかった。それでもなにかしたいというわけで、明治二八年に行きの旅費だけ持って京都東山若王子の山荘で休暇中の軍人荒尾精をいきなり訪ね、あることないことしゃべり散らかし、いずれ大きな仕事があれば連絡するという約束をとりつけた上に、帰りの旅費十円までもらう。
当時の十円はそこそこの大金で、食事付の旅館に六十銭もあれば泊まることができた。三円もあれば汽車で新橋までたどりつける。途中何度か弁当を買ったとしても四円もあれば十分に東京に帰ることができたのである。
ところが伊藤は京都で六日ほど残金が一円二十銭になるまで遊び歩いてしまう。この金で東京まで歩いて帰らなくてはならない。この旅行の難易度は、それほどまでに高くない。木賃宿へは一泊三銭五厘、二銭も出せば大量の芋が買えた。簡単に帰れるわけではないけれど、できないこともないかなといったところで、宮崎であれば鼻歌まじりの旅行であろう。
伊藤の無銭旅行は、失敗しても死ななければ問題はないものであった。実は一円二十銭で東京まで帰るか『宿屋に居りて国元へ電報を打たんか』と伊藤は迷っている。つまりこの旅行は酔狂でする旅行であり、あくまで娯楽でしかない。
伊藤は丈夫な身体を持っており、木賃宿に泊まりつつ、京都から東京までを踏破する。
途中の宿屋で絵師を間違えられ素人絵を描いた代価として、とある木賃宿では「手前共などへはお泊まりなさりそうのない御方がお出でなすったので、始めから家業の上の御客としずに、親仁を尋ねて下すった珍客として御取扱い申しました。宿料をいただくならご飯はこちらから上げられないのです」と無料で飯と寝床を提供してもらっているが、取り立ててかわったところのない旅行だ。
その旅行から一年間は友人の下宿を渡り歩き、無銭旅行の体験談を語り続けて暮す。友人からすれば迷惑極まりない話であろう。そのうち台湾に荒尾精が滞在しているらしいとの情報を得る。呼ばれてもないのに伊藤は海外で大活躍しようと妄想し、友人たちから金を集め再び行きの旅費だけ持って台湾へ渡たものの、残念ながら荒尾はペストで死亡していた。どうしたものかと困っていたところ、旅館を経営していた日本人がなぜか伊藤を買いかぶり、台湾で事業を立ち上げようと勧誘される。伊藤は地元の名士で友人の小西伝助に連絡し、二百円を送ってもらうと帰国、小西の家を訪れてさらに三百円を引き出す。これを元手に資金集めに奔走するわけでもなく、金持ちの知り合いの家に行きこれから台湾で事業を始めるのだからと、芸者を集め一ヶ月ほど宴会を続けて全てを失い、再び無銭旅行へ出掛けるわけだが、完全体の愚か者である。
ここで伊藤は実家に戻るしか手段がないと気付き、東京から故郷の秋田を目指して歩き出し、途中で土方や足尾鉱山で働きつつ、『田舎の大尽らしい家を見ると、飛び込んで事情を訴え、飯を食わしてもらうか金銭の合力を受け』て、こちらの無銭旅行もなんとか成功する。
伊藤がなぜに人に迷惑をかけまくりつつも、なんとか無銭旅行を成功させることができたのかというと、はったりの力である。実家へ帰る旅行へ出る前の描写に、こんなものがある。『懐中(ふところ)の書籍(ほん)を重なったままつかみ出すと、ミルトンの表紙の金文字がきらりと女の目を射る』。無銭徒歩旅行に、ろくろく読めないミルトンの洋書なんてものは必要ない。ここが伊藤のはったりで、洋書を読むような人間が木賃宿に泊まりますとよといったアピールである。ちなみに土方として働いた初日に、伊藤はこんなことをいっている。
『あまり栄耀栄華をし飽きたから、洒落に土方をしてみようと思って、わざわざ宇都宮くんだりまでやって来たのさ。泥棒もやったし人殺しもやったんだけど、土方だけはこれが皮切りなんだから、そんな意地のよくない尻穴の狭い真似をしず、知らない者は知らない者のように、こうするもんだああするもんだって、親切に教えてくれ。なァ、同じ亜細亜洲の人間ぢゃないか』
予 伊藤銀月 著 文艸堂 明治四四(一九一一)年
現代人からするとなんでもない内容だが、当時のあまり知的でない人からすると、こいつはただものではないと思わせるに十分な内容であった。
『女殺しッて云ふ面ぢゃァねえや』お仕着せ一銚子(夕飯時についてきた酒を飲む男の意)は、やや新米野郎の受けがいいのを猜む様子。
『もっとももっとも、女殺しなんかは僕の柄に無いこッた、犬殺しか豚殺しが身分相応、豚殺しだ、豚殺しだ』
自ら罵って自ら首肯く自分。
『本当に面白い人』
親分と二人で別に離れて飲んで居る姉御が、酌をしながら微笑んで云う。
予 伊藤銀月 著 文艸堂 明治四四(一九一一)年
以上が伊藤銀月の無銭旅行だ。こういった人間はわりといたらしく、評論家の大町桂月はこんなことを書いている。
無錢旅行可也。されど無錢ならば飽くまで無錢にて旅行をなすベし。乞食やかたりの真似をして、他の錢を取りて旅行するは、われ取らず。
大正青年訓 大日本勧学会 大正六(一九一七)年
働きながら旅行をした
先に紹介した伊藤銀月は旅の途中で、土方や坑夫として働いてみたりしている。とはいえ当時の伊藤は世間知らずで、はったりで周囲の人を困惑させつつ、しばらく身を寄せた程度のことでしかなかった。宮崎来城も旅の途中で働いているが、流石に旅の達人だけあって養蚕などの一時的に人手が必要となる季節労働を選んでいる。これだと数日、適当に働いてもなんだかんだでそこそこお金を稼ぐことができてしまう。
無銭旅行向けの労働として最適とされていたのが行商旅行で、当時のお得情報紹介本「少年青年大宝典 : 智識錦嚢 勝永徳太郎 著 尚文館 大正一(一九一二)年」では「無銭旅行というも一厘も金がいらぬと云うのではない」のだから「行商をやるより他ない」としている。行商旅行の達人としては白眼子をあげることができるが、こちらは『慎重な無銭旅行』で紹介している。
丈夫だから普通に無銭旅行ができた
明治二十五年あたりに国府種徳は、友人とともに能登半島を一周する無銭旅行に挑んでいる。知人と二人で十日間を「宿舎に就かず、昼夜兼行す、米飯は食わず」旅行するというもので、つまり宿屋に泊まらず、昼夜を問わずに歩き続け、白米も食べないというルールである。まだ無銭旅行といった言葉がなかった時代で二人はこれを銭なし旅行と称していた。
普通に考えたら無理だと分かるだろといったルールであり、バカが立てた計画だとしか言い様がないが、二人は異常に丈夫であった。このルールを守りつつ九日間は旅行を続けた。最終日に友人の家で宿泊してしまい失敗したとしているものの、九日も続けられたのだから十分であろう。
残念ながら短文のため詳しい内容は不明、流石に飲まず食わずではなく、米飯限定で食べなかったのだろうが、とにかく馬鹿で身体が丈夫なら大抵のことは実現可能だという事例である。
鴎影記 国府種徳 (皐東) 著 内外出版協会 明治三六(一九〇三)年
中学生は仲間だという荒い戦略で失敗しながら旅行をした
明治三九(一九〇六)年に鳥取中学の徳田貞一は、ふと思い付き無銭旅行に出た。その戦略はかなり荒い。中学生は自分の友人だという考え、中学生がいる家に行って宿泊し無銭旅行をするといったものである。
この計画はいくらなんでも雑すぎた。この地域のあそこの家に中学生がいるという情報を得た徳田は、なんの予告もなく訪問し無銭旅行をしているから泊めてくれと依頼した。見知らぬ中学生の来襲に「K君はひどく狼狽し」「むつかしい顔を」した。そして「出来るだけ視線を他にそらし」徳田を追い出してしまう。これでようやく徳田は「中学生ということを、自分の友人という風に誤解していたかもしれない」と気付いたのであった。
それではどうなったのかというと、幸運なことに彼は学生帽を被っていた。当時は今よりずっと学生が大事にされた時代で、多少の犯罪ならば将来のある身なのだからと許してもらえることもあった。
『大学生とがんもどき : 五十五年の体験より得た人生哲学 岩崎善衛門 著 春秋書院 昭和一三(一九三八)年』
さらに学帽を被っていることで、各地の学校で援助を求めることもできた。山口もステッキの先に目覚まし時計をひっかけるといった怪しい風体で無銭旅行をしていたが、小学校で野宿を許されている。これも学帽の効果で、それは一種の免罪符であり通行手形のような役割も果していたのである。
伊東のはったりとよく似ている話だが、学帽を被っていたり洗練された内容の会話ができる人間は、一定以上の地位がある家の者なのであろうと、それなりの扱いを受けることができた。少々残酷な話になるが、後述する『人生をかけた慎重な無銭旅行』に赴く若者たちの多くは、そういった免罪符を持っていなかった。それゆえ無銭旅行もより厳しいものになった。
十一国無銭旅行記 徳田貞一 著 古今書院 P192 昭和一一(一九三六)年 1936
早めに失敗したから死なずに済んだ
明治四四(一九一一年)年に乳母車を押して日本全国を巡ろうと考えたのが園田水然であった。
八千キロを踏破する冒険無銭旅行であったが当然ながら失敗した。
日本橋を出発したのは七月二八日、乳母車には旅行に必要な荷物と懐中電灯と探検電灯を各30本が入っている。探検電灯は謎だがとにかく電灯を行商しながら日本全国を巡る予定だ。ちなみに当時の懐中電灯の値段は一ダース十-十二円程度(『金儲けの秘訣 : 不景気知らず 勝永徳太郎』)、仕入れに六〇円ほど使っているということになる。現代の金銭に置き換えると四〇万円程度、八千キロを踏破するには少々厳しい値段だが、六〇個の電灯を全て売ったところで八〇万円程度にしかならない。かなり厳しい旅行になることは明確だ。
そもそも懐中電灯にそれほど需要があるとは思えない。売れるかどうかも怪しい上に、そもそも重量のあるものを乳母車に積載し八千キロを踏破するのは少々無理がある。
実際のところ懐中電灯はほぼ売れず、金に困った際には時計とジャケットを質入れしている。
八月十二日には、園田も乳母車を押しながらの旅行は無理だとようやく気付き、知り合いに売り払う。売れない懐中電灯も実家に送り返してしまった。
実はこの旅行は雑誌の企画で、乳母車を押して日本を一周するといったコンセプトであった。園田水然はどちらかといえば上流の家庭の息子であったらしく、各地の親戚や知人などの世話になり旅行をしている。資金に行き詰まれば実家が送金してくれるような良好関係でもあり、続けようと思えば旅行を続けることもできた。雑誌の企画であるから、支援者も多くいた。しかし乳母車ありきの冒険無銭旅行なのだから、乳母車がなくなってしまえばただの旅行である。企画としては成立しない。結果的に仙台あたりにたどり着いたところで園田の連載は終っている。
残念な結末ではあるものの、乳母車を押し旅を続けていたとしたら、いずれ死ぬか大怪我をしていたはずだ。実際に園田は何度か危いめにあっており、早めに失敗したから死なずに済んだということになるだろう。
成功 成功雑誌社 一九一一年十-一二月号
普通に強盗をして逮捕された
ただの強盗である。
朝日新聞朝刊 大正一五(一九二六)年
慎重な無銭旅行
無銭旅行の派生として出世旅行とでもいうようなものがあった。
ほぼ無一文で家から飛び出し、心身を鍛え上げながら都会へ移り住む。都会では働きながら学問を修め、やがては一人前の人間へと成長する。このプロセスをひとつの旅行として捉えたものが出世旅行、いわゆる慎重な無銭旅行だ。
この旅行は深く人生に結び付き、生き方を変えてしまうようなものであった。しかしこれに成功したものは少ない。わずかにいる成功者の中で、記録を書き残しているものはさらに少ない。それでも現時点で何人かは確認できている。
というわけで慎重でなくては成功できない無銭旅行を紹介していこう。
失敗した人々の末路
先に慎重でないものが出世旅行に出発してしまうとどうなってしまうのか、ひとつの事例を紹介しておきたい。
出世旅行に成功した者の数は少ないと書いたが、残念ながら失敗してしまった人の記録も少ない。なぜなら彼らにはものを書き残す余裕がなかったからである。しかし少ないながらも、彼らの末路の記録も残っている。人生をかけた無銭旅行に失敗したらどうなるのか、『どん底社会 小川二郎 著 啓正社 大正八(一九一九)年』に登場する青年を紹介しよう。
両親が亡くなり、兄のやり方が面白くないと「なんの的(あて)もなく」家を飛び出した青年は一円も持っていなかった。そこで鉱山で四ヶ月ほど働き、ようやく東京へとたどりつく。しかし知人もいない。こういう人間が行き着く先はタコ部屋だ。就職の際に保証金と仕事に必要な服装などをあわせて一円程度を立て替えてくれるのだが、飯代、宿代などを引かれると給料はわずかに四円である。仕事に必要な足袋などを購入し、酒でも飲んでしまえばいくらも残らない。ちょっと頑張れば抜け出せないこともないが、頑張れない人はここで一生を終えてしまう。無銭旅行に失敗し、そんな人生を送った人々がいた。先に登場したただの強盗たちも、出世旅行の脱落者であったのかもしれない。
もっとも当てずっぽうで旅に出て、たまたま幸運に恵まれ奇跡的に無茶な無銭旅行で人生を変えるものもいた。しかし多くの人間は失敗する。人生を変えてしまうような無銭旅行に成功するものは、「なんの的もなく」家を飛び出したりはしない。綿密な計画の上で無銭旅行に挑んでいる。
行商をしながら旅行をした
白眼子は明治三十年代に苦学を成功させた男である。そこにはもちろん無銭旅行の要素はあるのだが、そのやり方はかなり地味だ。
「苦学行商案内 学生自活」によると、彼はとある地方の学校に通う身であったが、なんらかの理由により学費が欠乏していた。無計画な若者ならそのまま東京に飛び出してしまいそうなものだが、白眼子は慎重であった。地方で卒業できないのなら、東京でもやはり卒業はできない。そう考えた白眼子は地方に留まることにして、学生行商団体へ入会する。これは学生たちがまとめて品物を発注し、数名で小間物の行商を行うといったものであった。まずは行商のノウハウを学ぶことにしたのである。
しかし所詮は学生たちが組織する団体だ。思っていたほどには儲からず、やがては学費どころか行商の資金すら危うくなってきた。すでに白眼子の懐には五〇銭しかない。これでなんとかしようと熟考した上で、牛肉の卸問屋と交渉、牛肉の行商に着手する。牛肉を三斤(1.2kg)買うと、行商へと出掛ける。初めてのこともあって、売れ行きははかばかしくなかったが、なんとかこれを売り切り十二銭五厘の利益を得た。ちなみに当時の牛肉は六百グラムで十八銭、百グラムあたり三銭だから、今の値段でいうと四百円あたりだろうか、思ったよりも安価である。
彼が牛肉の行商を選んだのには理由があった。学校が終ってすぐ行商に出掛ければ丁度晩ご飯時だから需要があるはず、その上学業との両立もできるだろう……と考えたのであった。この目論見は的中し五十銭から少しずつ資金を増やし、見事に地方の旧制中学を卒業した。
牛肉の行商でためた金で上京、恐らく早稲田大学に入学し、今度は筆墨の行商で見事に卒業したらしい。らしいというのは白眼子が慎重な男で、細かな個人情報を一切書いていないからである。
これだけ書くと無銭旅行なんてしてないようだが、実は十二分に行商のノウハウと多少の資金を蓄積した上で、行商旅行というものに出ている。日々の疲れを癒すために、行商しながら旅行をするというもので、この気晴らしがなければ大学卒業にこぎつけることは難しかったかもしれない。行商旅行の詳細については、簡易生活関連の書籍に詳しく書いたので省略するが、行商によって経済の感覚が培われたのだろうか、大学卒業後に白眼子は経済関連の知見を持つ記者として活躍している。無銭旅行の効果は十分にあったといえよう。
行商旅行 白眼子 著 大学館 明治三六(一九〇三)年
苦学行商案内 学生自活 白眼子 著 大学館 明治四〇(一九〇七)年
雑誌で知り合いを作っておいて旅行をした
一九〇〇(明治三三)年に安岡夢郷は横須賀から大阪へ無銭旅行を成功させて世に出ている。これに関しては苦学関連の記事に詳しく書いておいたが、もう少し追加情報を加えておきたい。
中村武羅夫によると、「明治三十年代ごろまでの文学青年で、投書の経験など一度も知らないという人は、おそらくひとりもいない」状況で、「投書に依って見出されて、地方の文学青年がわざわざ招かれて、一躍記者の位置を与えられるというような例も、敢えて珍しくはなかった」としている。(明治大正の文学者 中村武羅夫 一九四九年)
安岡はまさにこの手法で出世旅行を成功させている。明治二九(一八九六)年あたりから彼は雑誌に投書を始め、その名前を売っていた。しかし横須賀で文章の仕事はなかなかなく、家庭の状況も面白いものではない。そこで安岡は大阪を目指すことにした。なぜ東京ではなく大阪なのか、叔父がいたからだ。一時的に身を置ける場所がない東京に出ても成功は覚束無いと考え、先に大阪で活動し後に東京へ進出するという選択をしたのである。
しかし安岡は一六歳で放蕩を始め、「女郎も買えば芸者も買う。怪しい銘酒屋にも出入りすれば、矢場の女に冗談も言い、芝居の楽屋で壮士役者と交際もすれば、人足と同宿して同じ鍋の飯も食い、一膳飯屋から木賃宿に立ってカブトもやった。勘定の踏み倒し、女郎屋のむま(馬)、酌婦からの建て替え、高利貸との往復告訴もあれば、義理の悪い借金もあったという工合に堕落の方面にかけては殆ど卒業している位であった」ため金はない。
僅かな金をかき集め、まずは横浜の小島烏水邸を訪れ今後のことを相談した。小島は当時『文庫』という雑誌を運営しており、安岡は投書で常連であった。ちなみに小島烏水は志賀重昂の『日本風景論』に触発され登山を始め、日本登山界の先達とされている人物だ。文章の世界で相当に名は売れていたが、正業として銀行員を続けていた。そのような慎重な人物だから、安岡の無謀をいさめたが、安岡は無視して旅を続けた。
実はこの旅行には、裏のテーマがあった。旅をしながら見聞を広げ、後の創作活動に活かそうと考えたのである。そのため旅程は汽船で四日市、京都までは汽車、京都から大阪まで四三里を徒歩で行くというものであった。出世のための無銭旅行に飛び出す若者たちの中には、旅費すら調べていない者も多い。安岡はといえば放蕩をしていただけに世慣れている。十分なものではなかったが、節約すれば大阪にたどりつけるくらいの旅費は用意していた。
ところが安岡はトラブルに巻き込まれ、計画が崩れてしまう。
安岡は兵庫に向かう船中で、大阪訛りの女と下総生れの女に出会った。下総の女は義母にいじめられ、家を飛び出し下女として働いていた。ある日のこと広島の姉からこちらで面倒をみようという手紙とともに、十円の旅費と二三枚の服が送られてきた。そこで女は広島へ向かうことを決意する。何気なく同僚であった大阪の女に話をすると、彼女は三晩続けて母親の夢を見たので下総の女と同行すると言い出した。大阪の女は悪人というわけではないが遊びが好きだった。母親の夢というのはもちろん嘘で、下総の女の旅費を使って伊勢参りをするつもりでいる。別に遊びが好きでもない、ただ広島に行きたいだけの下総の女からしたらたまったものではない。
内心不安で仕方なかった下総の女は、たまたま出会った安岡に相談を持ち掛けた。なぜ安岡に相談したのか、その時に船内にいたのは下品な商人と健脚を誇る歩いた距離しか語らない意味が分からないオッさんで、一番まともそうなのが安岡であったからだ。旅費に余裕のない安岡だったが、なんとなくこの女を救ってやろうと考えた。
船内で知り合った一行は、兵庫の高砂町で宿をとる。安岡はさっさと逃げろとアドバイスするが、下総の女はどうにも煮え切らない。翌朝になると大阪訛りの女がもう一泊すると言い出し、下総の女は困惑する。このままずるずる滞在すれば、旅費はなくなってしまう。
ここから少し不思議な話になる。女二人はなぜか髪結い屋へ行き、旅館で商人たちとともに帰りを待っていたが、なんとなく嫌な予感がした安岡は突如として旅館を飛び出し髪結い屋へ向かう。すると偶然なのだろうか、二階から下総の女がこちらを見ている。手招きして呼び寄せて、早く逃げろと説得すると、下総の女は涙ぐみ感謝をするが、まだ迷っている。これは旅費を貸しているなと見て取った夢郷が問うと、果してその通りであった。安岡の嫌な予感も的中していた。髪結い屋で大阪の女は、四日市で奉公し客取りでもしながらゆるゆる進んでいこうと下総の女を説き伏せていたのである。偶然に偶然が重なってこの事実を知った安岡は、言語道断だと激怒する。
とにかく安岡は下総の女を助けるつもりだが金がない。女にももう金がない。そこで安岡は姉から送られてきた着物を売って旅費を作ってやり、旅慣れない女を草津駅まで送り届けて別れている。現代人にとってはなんでもないような話に思えるが、当時は着物ひとつ売るにも証明証が必要だったりでかなり面倒くさかった。放蕩をしていただけに安岡はこの辺りの交渉事に長けていたのであろう。
安岡は大阪駅の乗り継ぎが複雑なことを心配しているのだが、そこまで同行はしなかった。安岡の目的地も大阪ではあるものの、草津からブラブラ歩きで大阪までと決めている。だから草津で別れる。ここまで女の為に奔走したのに、決めたことは曲げないところは面白い。もっとも安岡の持ち金は二十銭銅貨が二枚である。大阪までは行けばそれで終りで遊べない。遊べなければ創作の材料が得られないのだから、安岡としては当然の選択であっただろう。
安岡はとりあえず木賃宿で宿泊、そこで下士官候補生と東京の苦学生に出合い若者どうしで気炎をあげて盛り上がり、宿泊費は二五銭、栗津ヶ原を経て横須賀の友人に葉書を出し、大津に出ると逢坂山の蕎麦屋で一銭五厘の田舎蕎麦を食べた。
と、ここまでは良かったが、山崎で小雨、京都で大雨、雨宿りをしていたが濡れならが歩くことに決め、飛白の単衣にシャツ一枚、ボロボロの麦藁帽子で歩き出す。五条大橋、鴨川濁流、東山曖昧。淀の手前で晴れる。交番で道を聞き、ヒーロー(タバコ)を買って6銭で食事、これで素寒貧、無銭旅行の始まりである。
夜道を歩きたくないからと、野宿か寺で泊まろうと思っていたが、どうにも都合のよい場所がない。夜通し歩き続けて午前二時三〇分に天満橋に到着、真夜中のことで誰もいないから橋の上で寝る。夜が明けて難波にある叔父の家に向かおうとするが、難波がどこにあるのか分からない。腹は減る。足は痛い。イチカバチかで人力車に乗り叔父の家へ向い、叔父に朝から二五銭を払わせている。
大阪で小林天眠が運営する関西青年文学界の人々を尋ね、三村薫風の紹介で、八月二二日に和歌山実業新聞で働くことが決った。そこで四〇日ほど働き小笠原社長の厚意で神戸又新日報の三面記者となり、新聞連載小説でヒットを飛しメディアの世界へと進出、ついには東京に出て記者としての本格的な活動を開始、後には満州にまで渡っている。
ちなみに安岡はこの旅行での経験はもちろんのこと、和歌山の情景なども創作に活かし、記者としての地位を確立させた。まさに出世のための無銭旅行といったところである。
『かたかげ 安岡夢郷 鳴皐書院 明治三五(一九〇二)年』
彼らはどこにたどり着いたのか
今や明治大正時代の無銭旅行は、夢物語のようなものになってしまった。宮崎来城や早田玄道のような無茶な手法で旅行するのは不可能だ。しかし彼らの熱狂は今もどこかに残っているように思えてならない。
少々古い事例だが、関西大学学報に平井三朗によるエッセイ『学生時代を想う』が掲載されている。昭和三〇年一一月に七十周年を迎える関西大学による特集号だ。平井は昭和二年から卒業する八年まで、休暇の度に無銭徒歩旅行をしたそうだ。その動機は奇妙であると同時に、明治時代の無茶な無銭旅行に挑戦した人々と少し似ている。
『先ず動機の第一は私が入学して見ると大阪を中心の都会育ちの学生が大部分で実に打算的で利己的で而も惰弱な学生の多いことであつた』。『ひと飛びに登れる親和坂をシンドイシンドイと云つて遂には地獄坂の別名を奉ったり、僅かの距離でも歩こうとしない。実践力の乏しく口弁の徒の多いことには一驚した。これでは国家のためにもまた彼等将来のためにもよくない。これはどうしても都会の学生を鍛えてやらねばならぬと痛感した』平井は関西大学の学生たちを『先ず歩かせ』『意思の鍛練を積ます』ことを決意する。そのために『自分が実践躬行の範を示し、直接間接彼等を鍛えながら更に自覚を促』すために無銭徒歩旅行に出ることにした。
さらに平井は無銭徒歩旅行を通じて、『関大を全国の人に知らしめるように努力』することにした。ちょっと意味が分からないが、『入学した以上は関大を母校とすることになるので微力ながらも』大学に貢献しようと考えたのであった。『自分の学資は自から稼がねばならぬ実情にあったので汽車旅行と云うようなととは望むべくもなく、また価値もない』から、無銭徒歩旅行を選択したというわけである。『只持てるものは体力と意思力と年間春夏冬の休暇があるのみ』で、『これらを有効に駆使して無銭徒歩旅行を実践することに決心』した。そして『全国を歩き廻って一人でも多く、また僻地の一角にも関大の存在を知らしめ』たそうだ。
平井の行動にどの程度の効果があったのかは分からない。しかし清々しいまでの独善性や思い込みの強さ、そして結局のところお前が楽しみたいだけではといった突っ込み所があるのは、明治の若者たちの精神を受け継いでいるようにみえる。
たとえそれが幻想であったとしても
一方の慎重な無銭旅行、出世のための無銭旅行をした若者たちはどこへいってしまったのだろうか。
『旅順攻囲決死隊 凝香園 著 博多成象堂 大正二(一九一三)年』の主人公茨木憲一郎は、二千キロ程度の物質なら持ち上げることができる怪力の持ち主だ。この物語には、いわゆる出世のための無銭旅行が登場する。金沢生れの貧しい家に産まれた茨木が、空気銃で雀を撃ちつつお金を稼いで無銭旅行をなし、軍人として成功するといったストーリーである。
彼が出世のための無銭旅行を成功せれることができたのは、本人の超人的な能力は当然として、二つの偶然の要素があった。ひとつは金沢の富豪の娘を助け交流を持ったことと、嘉納治五郎の知遇を得たことである。『旅順攻囲決死隊』は主人公が大砲を振り回し、敵兵を打ち砕くような子供向けの講談本である。
こんな荒唐無稽な物語ですら、なんらの援助もなく東京で成功するストーリーにはできなった。それではあまりに説得力がなさすぎるからだ。出世のための無銭旅行は、それほど難しいものであった。
一円も持たずに家を飛び出し、心身ともに鍛えつつ、東京で苦学をして学問を修め出世する、そんな無銭旅行を成し遂げた若者なんて、実際のところほとんどいない。大正に入ると難易度はさらに上り、それはほぼ幻想となる。『中等学生の家出に関する調査 大阪府中等学校校外教護聯盟 [編] 大阪府中等学校校外教護聯盟 昭和八(一九三三)年』によると志を持って東京に出てきた若者で、すんなり就職できたのは2割にすぎないとしている。働きながら学校に通うこともほぼ不可能に近い。
それが幻想であることを知らずに、無銭旅行へと飛び出す若者たちを眺めていると、なんともいえない気持になってしまう。しかも私が知ることが出来るのは、書き残せた若者たちの旅行だけだ。数多くの若者たちが幻想に挑みかかり、道半ばで脱落していったことは想像に難くない。
イメージの中の出世のための無銭旅行では、誠実さや勤勉さが求められ、独立独力で自活することが求められる。しかしなんの援助もなく、そんなことができるはずもない。あくまで私が調べた範囲だが、苦学に成功している若者の多くは、多少なりとも実家や親類縁者からの援助があったようだ。完全な独力で苦学することなんてほとんど不可能に近かく、貧乏な家に生れたとしても、勇気を持って断行し真面目にやれば、いつかは出世することができるよという優しく残酷な物語でしかなかった。
以上で無銭旅行を成功させるための手法を紹介してきた。最後にひとつ、推測まじりのまとめじみたことを書いておきたい。
無茶な無銭旅行、慎重な無銭旅行を調べはじめてかなりたつ。そして最近になり、ようやく気づいたことがある。それは抜け参りの形が変ったものが、無銭旅行なのではないかということだ。主人や親などの許可を得ず、奉公人や子どもたちが家出して伊勢神宮を目指すのが抜け参りだ。抑圧された生活を送り耐えに耐えた末に、若者たちは旅行を通じて自己を開放させた。
脱け参りに関連し御蔭参りというものもあった。こちらは六十年周期で数度流行した伊勢神宮への集団的参拝だ。神符の降下をきっかけに、全国各地から群集が集団で参拝した。熱狂的な最期のお蔭参りは一八三〇年、宮崎来城が無銭旅行に出たのは、偶然にもその六〇年後あたりである。
伊勢神宮という行き先を失った明治の若者たちは、自己鍛錬や純粋な遊び、そして出世といった行き先を創造したように私には見える。無銭旅行を通じて白眼子や安岡夢郷は記者になり、後年それなりの活躍を見せている。不可能だから止めろと語る大人たちを無視して旅立ち、そこそこながらも成功してしまう彼らの気合が私は好きだ。
その一方で失敗をした人々の中にも、無銭旅行によって地元からのしがらみや抑圧から開放され、人生をかけてもよいほどの喜びを感じた若者がいたはずだ。なにも分からないままに切符を買い、噂で聞いたことしかない汽車におそるおそる乗り、出発した瞬間に無限の希望を感じた者もいたことだろう。そんな彼らの感情の動きは確かな事実であり真実だ。もしも無銭旅行が抜け参りの役目を担っていたのだとしたら、彼らはその時点で成功していたのだと私は思うのである。