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一九二〇年の東京で貧しい若者が苦学に成功する方法・金子文子の場合 39000文字

一九二〇年の東京で貧しい若者が苦学に成功する方法

親ガチャなんて言葉がある。「どういう境遇に生まれるかは全くの運任せ」といった意味らしい。対義語は「実家が太い」で、貧困層に生れてしまうと、選択肢や機会が極端に少ないなんて問題もある。これらはずっと存在していたものではあるが、 SNS などで格差や個々人の能力や考え方が可視化されたことで、以前よりもずっとわかりやすい形で現われているように思える。

総合的に眺めてみると世の中良くなっているように思えるが、なにかから抜け出すために苦闘する若者たちがいる一方で、弱者に目を向けているようでいて見当違いの方向に突っ走っているような人たちもいる。なんだかよく分からない。

こういうことは昔からあり、かって貧しさから逃れるため自活の道を探し出し、上の学校へ進もうとする若者たちがいた。いわゆる苦学生と呼ばれる人々だ。この記事では大正期の社会運動家、アナキストの金子文子の苦学を題材に、一九二〇年の東京で彼女が卒業し成功するための方法を紹介していく。

金子文子はかって苦学生の一人であった。当時の東京で苦学をするのはただでさえかなり難しく、成功するのは千人に一人だと言われていた。金子文子は貧困層に属していた上に、育児放置に近いような扱いまでも受けている。そして女性でもある。当時はようやく婦人運動が盛り上り始めたかな……といった時代なのだから、まず成功することは難しい。事実、文子は苦学に真っ正面から立ち向かい失敗してしまう。

その一方で自分の持てる知力と体力と無神経さとアイデアで、苦学を乗り越えそれなりに成功を収めた若者たちもいた。彼らは文子ほど偉大ではないが、能天気でひたすら明るい。苦学という難関を突破するため人を騙す者もいれば、宴会で馬鹿騒ぎをする者もいる。偉大な仕事を残した文子と、ちょっと尊敬はできないような若者たちとを比較することで、見えてくるものがあるかもしれない。

もともとこの記事はちょっとした遊びのつもりで書き始めたものなのだが、何度か金子文子に失礼かなと思わなくもなかった。彼女の生き方は彼女だけのものであるからだ。そもそも後付けでああすれば良かった、こうすれば良かったと指摘するのは簡単で、愚か者のやることでしかない。

それでも書き上げてしまったのには理由がある。あまりに文子に自由度が少ないのである。

文子が虐待されて育ったという背景がある上に、当時の社会には貧しい女性が自由に生きるための制度もほとんどなかった。苦学を成功させるのは普通のやり方では絶対に不可能だ。怒りとも悲しみとも違う、なんともいえない気持になり、私も意地になってしまった。なんとか苦学を成功させるルートを探し出そうと、新たな資料を読み込み、いくつかの事例を参考にすることで、ようやく幸運を味方につければ、苦学に成功できなくもないかなといったルートを見付け出すことができた。

私の記事は基本的に長いのだが、今回も同じように長い。苦学の概念が変化している上に、時代によって難易度がころころ変わる。さらに文子の生涯がまた複雑で、解説がないとよく分からない部分が多い。ほぼ不可能を文子の希望を実現させるためには、奇妙な人物の異常な方法を紹介しつつ解説しなくてはならない。あれこもれもと詰め込むうち、結果的には四万文字近くなってしまった。こんなものを誰が読むのか分からないが、一人くらいは読破していくれるといいなといったところである。

内容に話を戻すとこれは大正時代の出来事であり、現代とは状況が違う。さらに金子文子は一種の天才で、一般化することもできないだろう。もちろん昔の問題を今に当てはめたところで、解消できることなどほとんどない。

ただかってこんな人たちがいて、こういうこともあったのかとでも思っていただければ幸いだ。

どうすれば金子文子は卒業できたのか

大正期の社会運動家、アナキストの金子文子は複雑な家庭に生れ、悲惨な少女時代を送る。無籍の時期があり、学齢に達しているにもかかわらず小学校へ入学できないような目にもあった。十六の頃に上京し一年ほど新聞売り子や女中などをし苦学をしていたが挫折、やがてキリスト教団体を経て社会運動へのめり込む中で、朴烈と意気投合し小結社「不逞社」を組織するうち二人は同棲生活を送ることとなる。

関東大震災による混乱の最中、皇太子暗殺の意図があったとして、二人は大逆罪と爆発物取締罰則の適用を受けた。朴ともどもに死刑判決、恩赦減刑により無期懲役となるも、その四ヵ月後に文子は獄舎で自殺を遂げた。

私には若い頃、社会主義や無政府主義、虚無主義などの書籍を好んで読んだ時期がある。金子文子の名前くらいは知っていたが、あまり興味を持つこともなかった。彼女の自伝『何が私をかうさせたか』も、ここしばらく苦学に関する資料を読み込んでいる流れで手に取ったものにすぎない。

確かに文子は魅力的な人物で、もしも若い頃に読んでいたとしたら、その人生に魅かれて止まなかったことだろう。

しかし今は少し違う。なにも死ななくてもいいじゃないかと思う。ことに戦前の苦学についてここしばらく調べていたため、もう少し情報を持っていたら彼女は苦学に成功し、学校を卒業できたのではないかなどとついつい考えてしまうのである。

金子文子の人生は、映画化され評伝なども多数出ているため、ここでは詳しく触れない。

ものすごく魅力的な人物だと認識してもらえれば十分だ。この記事で扱うのは金子文子の苦学であり、『どうすれば彼女は挫折せず卒業できたのか』だ。上京した金子文子は苦学に失敗した結果、社会運動に参加することになる。その選択については特に思うところはない。学校を卒業するよりも、ずっと偉大な仕事を成し遂げてもいる。そんな文子にとっては余計なお世話なのだろうが、その苦学のやり方は間違ってるよと伝えたくなってしまったのである。

文子関連の資料は多い。しかしここでは『何が私をかうさせたか 金子ふみ子獄中手記 金子ふみ子著 春秋社 昭和六(一九三一)年 』から得られる情報のみ扱い文子の苦学を検討した。

文子が体験し考え思ったことが重要だと考えたからだ。苦学を成功させる方法も、当時の文子が得られる情報源からとっている。いかに有用な情報であったとしても、昭和六年に書かれた書物は文子は読めない。読めないものを紹介したところで意味などない。

苦学と金子文子の状況と

日本における苦学は、時代によって意味合いが大きく異なる。

明治三十年以前の苦学は、無心になって学問に打ち込むといった意味合いを持っていた。一種の天才は別にしてまだまだ上の学校に進める人間が少ない時代で、エリートになろうという人物が、受験に合格するため一日に十時間勉強するといったものであった。

三十年以降になると貧しい家に生れた人々が自活の道を探りつつ、上の学校へと進もうとする時代になる。牛乳配達や新聞配達、車夫などをしつつ学校を卒業しよう若者たちが東京へと大挙した。苦学をする車夫がたまたま富豪に見出される……なんて小説が書かれたりもしていた時代で、水際立った才能がなくとも、誰もがやろうと思えば学問を収め立身出世することが出来るのだという感覚が発生し始めたのである。もっともその感覚はほぼ幻想で、苦学を成功させるのは難しかった。事実、ほとんどの若者が苦学に失敗した。

明治四十年を過ぎると、苦学はほぼ不可能になる。どうせ失敗するのだから、苦学なんか止めてしまえなんて声も大きくなる。にもかかわらず苦学は存在しているといった変な時代であった。この時代に高等小学校を卒業し、働きながら自力で中学を卒業、あるいは中学校卒業資格が得られる専門学校入学者検定試験に合格、さらに上の学校に進み卒業するといったルートを無事に終えることが出来た者は、恐らく 0.1% 以下ではないだろうか。

当時の書籍でも苦学に成功するのは「千分の幾パーセント(苦学する者へ 治外山人 著 苦学同志会 大正一四(一九二五)年)」「千人に一人(新苦学法 島貫兵太夫 著 警醒社 明治四四(一九一一)年)」とされている。もう少し具体的な記述のある『苦学力行の人 永田岳淵 著 富田文陽堂 明治四三(一九一〇)年)』では、牛乳配達をしながら中学校に卒業できたのは『四十名の苦学生(中略)目的を達せし者二名に過ぎず』『苦学者一〇〇〇人中明治四十一年度に於いて目出度く専門教育の学校に入りしもの僅かに三名に過ぎず』となっている。

もちろん専門教育の学校に入学して終りではない。苦学生は受験対策に絞りって学習するため、入学後の課題に対応するのが難しかったのである。卒業までできた人物は三名以下となるだろう。

金子文子が苦学を始めたのは『苦学力行の人』の十年後にあたる一九二〇年で、卒業までの難易度はさらに上っている。『新人物立志伝 苦学力行 大日本雄弁会 大正一一(一九二二)年』では「いわゆる苦学は絶封に不可能です」と言い切っており、その原因は「今では苦学生に対する世間の信用が薄くもなったし、諸物価も非常に高騰しているから、一文なしで東京へ飛び出して来てすぐにも仕事を得て、直ぐにも勉強しようと云ふことはかえって困難である」としている。それに加え不景気や住宅不足もあった。金子文子はこんな時代に苦学の世界に飛び込んだ。

実は文子が苦学を始めた数年後には、官費学校が増え検定試験の不備も是正されていく。苦学するには遅くて早いとも言える時期で、ようするに文子は絶対に不可能なことに挑もうとしていたのである。

ただし文子には、苦学するのに有利な部分がいくつかあった。

  • 頭がものすごく良かった
  • 旅費くらいは出してくれる家庭環境であった
  • 女子苦学生であった
  • 東京に比較的裕福な親戚がいて一時的にしろ無料で住める場所があった
  • 文章が書けた

頼りない要素ではあるが全てを活用すれば、低くはあるが彼女には卒業できる可能性があった。しかし圧倒的に不利な要素も持っていた。

  • 周囲に教育への理解がある人物がいなかった
  • 情報収集能力が低かった

『何が私をかうさせたか』を読めば分ることだが、彼女の文才はものすごい。このような文章力は苦学生をする上では有利に働く。しかし情報収集能力が低いのは、極めて不利な条件であった。彼女の情報収集能力が低いのは家庭環境に由来している。教育への理解がある人物がいなかったため、彼女の情報収集能力は低くならざるを得ず、それゆえに自分の能力を活かせなかったともいえる。これらについては後述することとして、その前に彼女の苦学に大きく影響した出来事について解説しておきたい。

実は金子文子には苦学を始めるずっと以前に、そこそこ高度な教育を受けるチャンスがあった。これを逃したことで、文子はますます苦学の攻略が難しくなってしまったのである。

小学校時代

文子は七歳の学齢になっても、無籍であることから学校へ入学することができなかった。無籍であった理由は、父親が母親と結婚を避け、逃げ続けていたからだ。

文子の父親は由緒ある家柄に誇りを持っており、山奥にある農家生れの母親を籍に入れたくなかったらしい。この他、恋愛関係にある叔母がいただとか、なんとなく気分じゃなかったなど、様々なつまらない理由があったようだ。しかたなく母親は、私生児として籍を届けようとするが、父親はこれを許さなかった。その理由は次のようなものだった。

「馬鹿な、私生児なんかの届が出せるものかい。私生児なんかぢゃ一生頭が上らん」

だったら籍を入れろよと突っ込みを入れたくなってしまうが、要するに父親は陳腐なプライドを持つ男で、難しいことも考えられなかった。現代の感覚からすると酷い話だが、昔であればなくもない話である。

プライドが高いだけに人並みに学校へは通わさなくてはならんとでも考えたのだろうか、文子は私立学校へ入学する。戸籍がないなどの事情がある子供向けの私立学校で、机はサッポロビールの空箱だった。

この学校では学費のかわりに、お盆に中元として白砂糖を二斤送る必要があった。どういうシステムなのか全く理解できないが、当時はそんなこともあったのだろうと納得するより他ない。

しかし文子の家庭は、二斤の白砂糖すら用意することができないほど貧しかった。これで彼女は学校に通えなくなってしまう。その後、母親の熱心な訴えが届き、文子は公立の小学校に通い始める。ここでももちろん、彼女の学習環境はあまり良くなかった。習字や美術、裁縫などの実技には道具がないから参加できない。鉛筆とノートすら手に入らず学校を休むしかない日もあった。

ある日のことである。文子が月謝が入った紙袋を教師に渡すと、中身が空っぽになっていた。職員室に呼ばれ教師や校長から買い食いでもしたのだろうと問い詰められたが、なにを言われても文子は知りませんと主張して自身の潔白を訴え続けた。母親が呼ばれ真相が明らかになる。酒飲みの父親(ややこしいがプライドの高い父親とは別の男)が月謝を抜きとっていたのであった。校長は文子の環境にいたく同情し、母親に次のような提案をする。

こんなしっかりした子をそんな境遇に置いとくのはかわいそうだ。どうだね。できるだけ世話を見てあげるから、いっそのこと私の養女にくれないかね。

多少の同情もあったのだろうが、疑いをかけられた際の文子の立派な受け答えや、相当に成績が良かったことからの提案だろう。これに対し母親は自分の手で育て上げたいからと断っている。

文子にとって、ここがひとつのターニングポイントだったように思える。

当時は教育に対する理解が低く、進学させられなくもない家庭環境の相当に優秀な子供であったとしても、中学ではなく高等小学校に進学させる家庭が多かった。中学校の卒業資格を得れば、貧しくとも官費で教育を受けることは可能である。将来の立身出世よりも明日の働き手が欲しいといった家庭もあれば、下手に学問をし都会に飛び出されてはといった心配をする両親もいたのである。残念ながら高等小学校を卒業したところで、特に選択肢が増えるわけではない。高等小学校卒業後、自活しながら中学校卒業資格を得るためには、相当の苦労が必要で多くの苦学生が挫折していった。時に死亡する者もいたほどだ。

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死ぬ苦学生

実行の苦学 相沢秋月 著 相沢秋月 大正一二(一九二三)年

強盗になり他人に迷惑をかけまくる苦学生もいた。

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迷惑すぎる苦学生

読売新聞 朝刊 一九一三年九月二十五日

下宿先で自殺されると迷惑である。まして苦学生と言い張る強盗に襲われたら最悪だ。ここまでいかずとも、借りた部屋を滅茶苦茶に汚す乱暴な苦学生も多くいた。特に台所を汚す苦学生は多かったらしい。

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汚い苦学生

苦学する者へ 治外山人 著 苦学同志会 大正一四(一九二五)年

そのため文子が苦学を始めた時期には、苦学生は自炊禁止、あるい苦学生自体お断りなんて物件が急増していた。

「そうですか、それであなたは苦学生ですか」

私は一寸まごついた。何んとなく嫌な感がこみ上るのであつた。「遊学」といつて見ようか。否、一層素直に出る方がよい。

「はぁ苦学をして居ります」と、思ひ切って言つて、さてその気配を窺つた。

『はてな、そうですか。そいつは困つたね、あの何んです、苦学生の方なら貸間は困ります。 どうも御気の毒さまで」頭を右に左にかしげてはしきりに困つた風をする。

『苦学する者へ』

社会の構造的な問題でもあり、苦学生だけを攻めるのは公平ではないが、どうしようもない若者がいたことも確かであり、なんともいえない状況ではあるものの、とにかく苦学生への風当たりは強くなっていった。

話を元に戻すと、文子の周辺人物には教育に理解のある人間はほぼいなかった。それだけでなく、女子に教育を受けさせることに積極的な時代でもなかった。そのような環境で上の学校へと進み卒業するのは、かなり難しい。校長であれば教育への理解も最低限はあることだろうし、教育制度に関しても熟知しているはずだ。校長の家に養女として行っていれば、その後の人生は大幅に変っていた可能性がある。

ただしこれもあくまで可能性にすぎない。なんどか書いているように、これは昔の話である。現在の校長と比べれば、教育への理解度や知識量はかなり低いはずだ。文子が満足できるような進路を示せたかどうかは怪しい。

ちなみに母親の自分で育て上げたいというのは、その時はそう思った程度のもので、この数年後には文子を女郎家に売ろうとしている。酷い母親だと考えてしまいそうになることだろうが、結局のところ知識量の少なさゆえに起きた悲劇にすぎない。文子によると母親は「母には眼に一丁字もなかった」つまり読み書きが一切できなかったらしい。そんな彼女にとっては女子が教育を受け立身出世することなど想像すらできず、女郎になって玉の輿に乗るルートのほうがずっと現実的だった。そういう時代がかってあったのである。

幸いにも女郎の話はお流れになり、文子は学校に行ったり行かなかったりの生活を送る。それでも優等の成績を取っているのだから、相当に優秀な子供であったのだろう。しかし教師に付け届け、つまり金銭や物品を贈ることをしなかったため、免状や症状はおろか通知表すら渡してもらえなかった。それに加えて教師からの迫害もあった。普通の生徒の親からの付け届けすらある、まして複雑な家庭の無籍の子供の面倒を見てやっているのだから、付け届けくらいは当然だといった感覚であったのであろう。今では考えられないが、家庭環境がよくない家の子供に、教師がいやがらせをするなんてことが当時はままあった。

みなが普通に通う学校へ、自分は満足に行くことができない。十分な実力があるのに、通知表すらもらえない。こんな経験から、文子は教育へ憧れと反発を持つようになった。これは苦学の際に、どちらかというと悪い方向に働いている。

優秀であるがゆえの悲劇

その後、文子は朝鮮で数年間生活することになる。朝鮮に移住し成功した父方の祖母から養女に欲しいという申し出があり、尋常小学校はもちろん女学校に進学させ、成績が良ければ女子大学にも入れてやろうという話であった。祖母はかなり裕福な暮しをしており、家族は安心して文子を託す。ようやく戸籍も取り満足に学校に通えるようになった。

朝鮮に来るまで文子は、尋常小学校一年生を半年、二年生を五ヶ月、三年生を四ヶ月足らずの教育を受けただけであったにもかかわらず、村立の小さな尋常小学校に四年として通い始める。田舎で生徒も少なく、その年に三年生に生徒がいないから四年生でというような話であったらしい。ちょっと無茶があるが、文子は異常に優秀だった。

尋常小学校の二年の頃には六年の教科書を読みこなし、三年の頃には高等小学校の学科が理解できた。数学も小学生の問題なら悩んだことすらなく、八桁程度の数字なら暗算できた。祖母が文子を養女にしたのも、その優秀さを見込んでのことであろう。

ところがその優秀さゆえの悲劇が起きてしまう。祖母が文子に毎日一時間の復習を命じたのである。しかし文子にそれは必要なかった。その日に学校で習ったことを復習するなんて、馬鹿馬鹿しくてやっていられない。どうせならもっと難しい本が読みたいと言う文子に祖母は激怒し、教科書以外の本など必要はない、学校の復習をしろと言い放つ。

わかりきっていることを復習するのは苦痛でしかない。だから文子は復習時間に遊びほうけていた。それを祖母が見付けては怒る。文子は抵抗する。あの子はどうにもならないとなる。日がたつにつれ扱いが酷くなり、最終的には女中として働かされ、ついには酷い虐待をされるようになってしまった。

優秀な子供に適切な教材を与え、その才能をより伸ばすことは合理的だが、祖母たちはそれをしなかった。なぜなら彼女たち一家は、教科書以外の本が必要だとは考えていなかったからだ。祖母の一族が文子に望んだのは、とにかく女子大学を卒業することであった。

実はこの祖母には、ひとつの成功体験があった。叔母に女学校を卒業させた上で、祖母が見込んだ相応に身分のある官吏へと嫁にやったのである。成り上がりの一家が上級の学校を卒業させた娘を、名家に嫁がせ家の格式を上げる……そんなことが当時はあった。

祖母のサポートもあって、男は朝鮮で山林と田と畑を持つ地主となり、高利貸しもしていた。今や祖母の一家は、地域では一番という位の生活を送っている。この地位をさらに盤石なものとするため、祖母は文子も立派な家に嫁入りをさせる、あるいは婿をとらせようとしていた。そのために女子大学を卒業しなくてはならないが、学問なんてものはいらなかったのである。

こういった目的であれば、内容はどうあれ復習を一時間させるというのも納得できる。文子は頭は良かったものの、祖母が望むような大人しい性格ではなかった。貧しい暮しを続けていたため、立ち振舞いも洗練されてはいかなったはずだ。祖母にとって一時間の復習は、自分の命令に従う良家に相応しい娘にするための、行儀見習いのような位置付けだったのかもしれない。文子はそれに抵抗してしまい、祖母は文子は役に立たないと判断した。

祖母は強烈な人間で、割り切りがすごかった。彼女にとって自分に従わない文子は余計物でしかない。少しでも養育のコストを下げるため彼女の行動を制約した。服や靴が汚れるから外に出るのは駄目、他人と遊ぶのも駄目、気に入らない学科がある日には学校にすら行かなさい。習字や美術、裁縫などの実技の授業も、十分な道具を与えない。これは後々まで尾をひいて、文子は裁縫に拒否反応を示すことになる。

孫にこんな仕打ちをするというのは現代人の目から見ると完全に狂っているのだが、かって因業婆さんと呼ばれるような人物がいて、この祖母もそういう人間であったのだろう。一応は高等小学校までは卒業させているのだから、まだマシなほうかもしれない。それほど酷い時代があり、酷い人間がいたのである。

文子にとってかなりの痛手であったのは、本だけでなく、雑誌や新聞を読むことすら禁止されていたことだ。

「どうもふみに本を読ませると、その方にばかり気をとられて、うちの仕事はそっちのけになって困る。黙ってりやいい気になつて増長しやがるんだ。これからは一切本を読まさない事にしよう……」

文子の行動を見るに、知識欲は旺盛で読めるものはなんでも読むし、学べるところから学ぶといった姿勢であった。そんな性質の人物が本や雑誌、新聞を読むことを禁止された時、することはひとつで、手に入ったものを隠れて片っ端から読むしかない。当然ながら読みたいものを選ぶ、必要な知識を選択し手に入れるといった経験には欠けている。その結果、どのメディアにどのような情報が掲載されているのか、感覚的に理解することができなかったように感じられる。

これもこれから苦学をしようという人間にとって、致命的な痛手であった。

文子の痛手

文子には二度のチャンスがあった。ひとつは校長の申し出、もうひとつは祖母の思惑である。これを逃したことで彼女の苦学は難しいものになってしまう。すでに情報収集能力の低さを指摘しているが、それに加えて次のような要素が加わってしまう。

  • 他人への反発
  • 焦り
  • 手仕事への嫌悪

校長の申し出を断ったばかりに、彼女は優秀であるにもかかわらず、大人たちから不当な扱いを受け続けた。主体性を持たず外部に流され続ける母親が原因で、ついには因業な祖母の家へと文子は追い遣られてしまう。これでは他人に不信感を持ってしまうのが当たり前で、彼女は普通の人々と信頼関係を結ぶことが難しくなってしまった。後に紹介するが文子が反発し嫌悪して止まなかった人々の中にも、実は味方がいたのである。

他人への反発に関連するのだが、楽に苦学をするための必須のスキルとして愛想がある。愛想があれば客商売が可能となり、職業の選択肢が増える。行商で大学を卒業した男は次のようなことを語っている。

愛嬌をたたえて、お世辞を云うか御機嫌の一つも取る必掛けで居なければならない

『苦学行商案内 学生自活 白眼子著 大学館 明治四〇(一九〇七)年』

文子も行商に挑戦してはいるものの、残念ながら失敗している。白眼子のいう「愛嬌をたたえて、お世辞を云うか御機嫌の一つも取る必掛け」がなかったのであろう。

彼女が焦りすぎたのもあまり良いことではなかった。祖母の家で二年間、彼女は女中として働かされている。女中の仕事に学ぶところは皆無であり、この間も彼女は本を読みたくて仕方がなかった。

若い生命はぐんぐんと延びたがる。けれど何一つこれを伸ばしてくれるものがない。私は遣やる瀬せない焦燥を感じる

焦りよって最短で進学できる検定試験の合格という道を選択してしまうのだが、異常に難易度が高くこれを実現するのはほぼ無理であった。

そして実技の授業を受けることが出来なかった経験によって、手仕事へ嫌悪を持ってしまった。この感覚も文子の苦学の邪魔をした。それでなくとも、当時は手仕事は下等なものだといった感覚があった。これは戦後も残っており、社会的な地位のある栄養士の中には、調理なんて下等な仕事は私はしないといった人が数多くいたそうだ。社会的な地位を確保しているのであれば、それでも生きていけるのだろうが、女子苦学生が高収入を得て効率よく働くためには、なんらかの技能を習得していることが望ましかった。

一連の不運によって、文子には不利な条件が揃ってしまった。そんな中で彼女がいかに苦学に挑んだのか、引き続き紹介していこう。

文子の上京

高等小学を卒業後、文子は祖母の家で女中として二年間働き日本へ戻る。色々あって父方の家族と同居することになり、実科女学校の裁縫専科へ通わされていた。これまでの経緯から裁縫には興味を持てないし、優秀な文子にとって学科はレベルが低く馬鹿馬鹿しかった。不満を溜めた文子は無断で学校を止めてしまい、いよいよ苦学を決意する。彼女の最初の計画は次のようなものであった。

考えた末、私は県の女子師範にでも行つて、学校の先生になり、先づ経済上の独立を図ってから徐(おもむろ)に、自分の好きな学問をしようと思った。なぜなら師範に行くと官費で勉強が出来るので、うちからの補助が極少くてすむからであつた。

女子師範は高等小学校を卒業していれば、試験を受けることができる。入学すれば学費は官費でまかなえるから、このルートはかなり現実的なものであった。文子は頼りにしていた叔父のもとを尋ね、願書へ保証人の印を押してくれと頼むも断られてしまう。

実は文子の父親は、叔父の財産目当てに文子と結婚させようと水面下で画策していた。叔父もその気になり密かに婚約が成立していたのだが、文子はこの時期に軽い恋愛感情を持った青年と、ちょっとしたデートを繰り返していた。これに怒った叔父は婚約を破談にしてしまう。そんな時に願書に印鑑を押してくれと頼み、断わられたというわけだ。叔父以外にも親類縁者もいるのだから、交渉の余地はあったと思うのだが文子は現実的なルートをあっさり諦め、東京へ出て苦学することを決心する。もちろん学問への憧れもあったが、環境から抜け出したいといった意図も強かった。彼女は家族を評して次のようなことを書いている。

  • 父のひとりよがりや、虚栄心や、さもしい見栄や、けちな量見
  • 自分の子を見捨てて自分の生活の安全をのみ求めた母
  • 祖母のけちと因業とに無限の憤りを感ぜずにはいられない
  • 親切は、祖母も叔母も爪つめの垢あかほども持ち合わせてはいなかった

既得権益を守り見栄を張ることに必死な祖母や、財産を得て虚栄心を満たすための道具として自分を扱う父親、そしてどこまでも無知な母たち、そんな自分にまつわる環境が文子は嫌で嫌でたまらなくなっていたのである。

さらば父よ、叔母よ、弟よ、祖母よ、祖父よ、叔父よ、今までの関係に置かれた一切のものよさらば、さらば、今こそ私たちの分かれる時が来たのだ。

こうして文子は東京に向った。

幸運な上京

文子が東京へと飛び出した時の状況は以下の通りであった。

  • 旅費は十円(七万円弱あたり)
  • 東京には洋服屋で成功している大叔父がいて居候ができた
  • 大叔父は比較的まともであった

楽に学問ができるわけではないが、最低の条件ではないといったところだ。『小学校を出でゝ如何に進むべきか 岡田蘇堂 著 秀康館 大正一〇(一九二一)年』によると、東京に出る前に用意すべき資金は五十円とされている。これは職を探し出すまでの期間、宿で寝泊まりし下宿屋を探した後に職を探すための資金だ。すぐに働かずとも仕事が見付かるまで居候する家がある文子は、比較的恵まれていたとしてもいいかもしれない。

文子の時代には、無一文での上京は危険で絶対に避けねばならぬこととされていたが、旅費もなにも持たず故郷を飛び出し、東京を目指す苦学生たちは絶えなかった。時代は異なるが『少年立志 冒険旅行 湯浅観明著 実業之日本社 明治三九(一九〇六)年』の主人公は明治三十七年七月二十二日に豊前(今の福岡県)を出発し東京を目指している。

なぜそんなことを思い立ったのか。ある日のこと学校から帰ってくると姉が泣いている。不思議に思い話を聞くとこうである。彼らの父親はなんらかの事情があったのだろうか、松山の兵営から逃亡し未だに行方不明、この汚名を晴らさなくては祖先に顔向けできない。どうかお前は頑張って勉強し、立身出世をしてくれよと姉は語る。おそらく姉は毎日の勉強を頑張ってくれよと言ったのだろうが、弟は思い込みが異常に激しく、どうせ勉強するならと東京に行くことを決意する。予算は友達から餞別にもらった三十銭(今の貨幣価値で三千円程度)で、福岡から東京まで歩き続けるという計画だがどう考えても無謀である。

途中で労働をしたり、畑の野菜を無断で食ったり、友達になった侠客に紹介状を書いてもらい、各地のヤクザの家に宿泊しながら彼は無事に東京へと到着しているが、実に五ヶ月もかかっている。上京後は旅行中に作った人脈を使って、なんとか新聞配達をしながら苦学をしていたらしいが、その後どうなったのかは不明だ。

上京に成功しても安心はできない。無一文の青年の中には、眠る場所を探し歩いているところを浮浪罪で逮捕されたり、人買いに騙され探鉱へ売り飛ばされたりしてしまう者もいた。苦学者を騙すための組織すらあった。

苦学生にデビューした文子はというと、幸いにも大叔父が彼女を快く受け入れてくれた。上京前に新聞から求人情報や学校の情報などを集めてはいたが、文子は大叔父に事前連絡すらしていない。多分大丈夫だろうで上京している。文子の上京は、たまたま運良く上手くいったとしていいだろう。

文子の戦略ミス

学問をしたいと語る文子に、大叔父はミシンでも覚えて堅気な商人と結婚したほうがいいとアドバイスをする。しかし文子は独力ででも学問をすると宣言し、立てた計画は次のようなものであった。

  • 大叔父の家を出てなんらかの方法で金を稼ぎ生活する
  • 女学校卒業資格(大学・専門学校へ進学できる資格)を得られる検定試験を受ける
  • 女子医専を卒業し医療関係の職につく

これを読んだ瞬間に私はまず無理だなと感じてしまった。先にも書いたように金子文子が苦学を始めたのは一九二〇年のことである。不景気もあって、まず生活するのが難しい。かって苦学生の定番の職業に車屋や新聞・牛乳配達があった。しかしすでにそんな職業で苦学することは不可能に近かった。文子の十年前に苦学をしていた男は、こう言い切っている。

通学的苦学は、新聞配達では、出来ぬ 苦学十年 松尾正直 著 国民書院 大正六(一九一六)年

松尾正直は後に伊東ハンニと改名した男で詐欺師のような国士のような芸能プロデューサーのような変な男なのだが、とにかく平気で嘘をつくという特徴を持っている。一度は嘘が切っ掛けで、投獄されたこともあるほどだ。ただ苦学に失敗していることは事実なので「通学的苦学は、新聞配達では、出来ぬ」は彼の実感であろう。善悪はどうあれ歴史にその名を刻んでいるような男なのだから、相当に頭はまわったはずだ。それでも苦学に失敗しているのだから、どれほどの難易度なのかが伺い知れよう。

すでに紹介したように明治三十年あたりだと、苦学生が富豪に見出され大出世をする夢のような物語が出版されていたが、もはやこの時代には現実に目を向けろといった主張が増えてきていた。

専門学校、高等学校、大学に学ぶには少なからざる学資を要する事で中産階級以下の家庭では困難な事である、中学校さへ満足に修学の出来ない家庭ではより以上の学校を望む事は無謀である、然らば中学校は卒業したがより以上の学校へ学ぶに充分の学資の無い者は如何にすべきか、苦学と云ふ事も各官立学校では不可能と云つてよい。

小学校を出でゝ如何に進むべきか 岡田蘇堂 著 秀康館 大正一〇(一九二一)年

運良く自活の道を見つけたとしても、検定試験の合格は難しい。冒頭でもその難しさに言及しているが、合格者は数パーセントにすぎない。女子医専の試験、授業はさらに難易度が上がる。

文子の場合、入学したとして授業料が払えるかどうかも怪しい。『男女職業案内 成功秘訣 東京生活研究会編 大声社 大正九(一九二〇)年』によれば女子医専の入学金は十円、授業料が一年に百円、実習費二十円、卒業試間料十円、そして卒業までに四年かかる。開業に際し必要な資金は千から二千円、技能を持った女性ですら、まともな職業で働いて得られるのは、ひと月およそ三十-四十五円あたり、新聞売り子なんかで学費を稼ぐのは絶対に無理である。

正直なところ文子が最初に考えた現実的なルート、官費で学習できる師範学校の試験も、当時の彼女の実力では合格は難しかったように思える。文子は確かに優秀だが、受験にはテクニックも必要だ。また当時の試験は多少なりとも字の上手さも合否に影響した。これも習字の授業を受けず『単に字が不味いばかりでなく、筆と云うものが使えない位である』文子には不利かもしれない。もっとも文子の直筆を見る限り、文字が下手とも思えない。文子の謙遜なのか、私に文字の美醜の区別がつけられないのかは謎である。

文子が師範学校経由ではなく難易度が上る検定試験を選んだ理由は、卒業までの時間が惜しいからだろう。詰め込み式で学習し短期間で検定試験に合格し、大学入学までの期間を短縮する試みで、先にも書いたように多くの苦学生がこれに挑戦し、多くの学生が挫折した。結果的に文子もその一人になってしまった。

そもそも住む場所を提供してくれている大叔父の家を出るというのも良い選択肢ではない。文子が自活の道を捜し出すまでの一ヶ月、大叔父は住居を提供してくれている。家にいてミシンを習う世話もしようとも語っている。なにも出ていくことはないのである。さらに服屋で成功している大叔父の家で居候する可能性があるのであれば、一時的に通っていた裁縫学校で技術を習得しておけば良かったのではないかと考えてしまう。

自分の能力に自信もあったのだろうが、現状を彼女は知らなかったように思える。あくまで推測だが文子は苦学関連の書籍や雑誌を一切読まず、苦学の世界に進んでしまったのだろう。彼女が選んだ職場からも、それが伺える。

何かいい苦学の道がないかと、あてもなく市内をぶらついて居ると、ふと私は、「苦学奮闘の士は来れ……蛍雪舎」というビラが電柱のそこここに貼ってあるのを見た。田合から出て来たての私である。それを見ると私は鬼の首をでも取ったやうな気がした。苦学奮闘の士は来れ!私は口の中で繰返した。ことに蛍雪舎と云ふ名前が気に入った。そして私は早速その蛍雪舎を尋ねて行った。

すでに書いたように、この時代は苦学生を騙して働かせるといった組織が多くあった。電柱に貼られたビラを頼りに職を決めてしまうというのはいかにも危険だ。幸いにも蛍雪舎は完全な悪徳組織というわけでもなく、そこそこ悪徳あたりの組織で、苦学生に新聞の売り子をさせ、住居と食事を提供、多少のピンハネをしつつその費用を除いた給料を払うといったシステムであった。蛍雪舎の主人は倫理観に欠ける人物としては、文子に親切だった。働いているのは男ばかりだからと、自分達の住居の一部屋を提供、食料から布団代まで込み込みでひと月一五円、売り場も最も人通りの多い場所を提供してくれた。各種学校への入学金を貸してもいる。食費居住費込み込みとはいえ収入からひと月一五円というのは少し高い気がしないでもないが、少しぼったくりくらいのものだ。

さらに彼女はこんなことを書いている。

事実ここには、白旗新聞店のために、働くことによって学校に行っている一団の苦学生がいた。(中略)苦学生が白旗氏によって勉学の便宜を得ているのも事実だが、同時にまた、白旗氏が苦学生によってその生活を支えられているのも事実だからである。そして私の見たところでは、白旗氏はむしろ与うるよりは取る方が多過ぎていたように思う。

白旗新聞店がどの程度の悪徳業者であったのかは、判然としない。文子の主観でしかないからだ。ただ学校に行っている一団がいるのだから、それほど待遇が悪かったとは思えない。それに加えて早稲田大学の哲学科を卒業した古参の社員もいたくらいなので、人によっては居心地の良い職場であった可能性すらある。

白旗新聞店とは業務形体が異なるが、当時の新聞配達の給料はおよそ十五円(朝刊のみ)、食事付きの宿泊所がひと月十二円、夜具などは自弁が基本である。新聞売りはといえば大正五年だと百五十枚を売るとだいたい五十銭あたりの利益、文子の時代では百枚で二円の売り上げ、雨の日は売上が落ちるはずだから、ひと月どの程度稼げていたのか不明ではある。毎月十五円を引かれて、お小遣い程度は残るかなといったところだろうか。そう考えると高いような気がしないでもないが、夜具は無料であった様子なのでこんなものかなと思わなくもない。

白旗新聞店との比較のため、本格的な詐欺組織をいくつか上げてみよう。『小学校を出でゝ如何に進むべきか 岡田蘇堂 著 秀康館 大正一〇(一九二一)年』に苦学生から保証金を騙しとる組織が紹介されている。

書生募集の張り紙を見て尋ねてみると、条件が非常に良い。しかし大切な資料を取り扱うため保証金が必要だという。背に腹は代えられないと支払い住み込みで働き出すと、仕事量が多くとうてい学校どころではない。話が違うと辞めようとすると、保証金は返さない。ようするに詐欺である。

『成功雑誌 成功雜誌社 明治四四(一九一一)年 四月号 余が悲慘なる苦學生活回顧』に登場する青年△△(伏字)会はもっと酷い。青年△△会は苦学生を援助する団体と称しているが、実質的にはタコ部屋である。この組織は苦学生から保証金一円と寄宿料を徴収し入会させる。こんな会に入るような学生だからそれほど資金を持ってはいない。入会した後はその日の食費にも事欠くようになる。仕事は青年△△会が紹介してくれるが、過酷な肉体労働中心で、夜は疲れきってしまい苦学なんてしている余裕などない。

抜け出すために金をためるのがまた難しい。雨が降ると仕事がなくなってしまうのである。しかし飯は食わねばならないから、やがて金はなくなり青年△△会を出ることができなくなる。最初に自由に動くための金を奪っておいて、ギリギリ死なない程度に賃金を与えるといった上手いやり方で、苦学生にとっては最悪の組織であろう。ちなみにこの会の主催者は前科のある人物で、当時は詐欺罪で入獄していたとのことである。

白旗新聞店はといえば、保証金を取るのではなく入学費用を貸してくれて、売りやすい場所を担当させてくれている。もちろん辞めにくくするためだとか、女性の新聞売り子のほうが売上がいいなどの計算はあったはずだが、苦学生誘拐専門の男から文子を助けたりもしている。それだけではない。苦学に関する知識に欠ける文子にアドバイスすらしているのである。

店主は私に、女学校に通えとしきりにすすめた。けれど私自身は女学校にはもうこりごりしていたし、第一女学校に通うくらいなら何もこんな苦労をしなくてもいいと思った。

文子は上京前に集めた新聞の切抜きをもとに、正則英語学校、研数学館、二松学舎へ通い検定試験の対策しようと考えていた。店主が文子に女学校を進めたのは、そんなことをするのは無理だと知っていたからであろう。私も新聞売りをしながら、三つの学校に通うのは難しいだろうなと思う。事実、文子の見通しはかなり甘く、時間が足りず二松学舎には一度も通えなかった。店主のアドバイスは正しかったのである。

このような状況からみるに、店主は文子の志に好意を持ちそれなりに優遇してくれていたと考えるのが自然で、苦学者を労働力として活用する悪徳店としてはかなりの優良店であったのだろう。しかし文子は半年ほどでここが嫌になって飛び出してしまい、借りた入学費用を叔父に払わせている。その後の彼女については、冒頭で紹介した通りである。

厳しい苦学界

文子の行動は危うく軽率だと思う一方で、仕方がないかなと感じもする。私は文子が苦学生向けのガイドブックを読んでいないはずだと書いたが、たとえ読んでいたとしても役に立たなかった可能性が高い。なぜなら苦学に関する書籍や記事は玉石混交であったからだ。すでに私はそこそこの数の苦学本を読んではいるが、ここで引用している内容が全て正確かどうか自信がない。それほどまでに正しい書籍を選ぶのが難しいのである。メディアリテラシーの低い文子が正しい本を選ぶのは至難の技だといえる。

もっとも全ての著者に悪意があったわけでもない。苦学本はその性質から、どうしても著者の体験から割出した内容になってしまうが、書かれた時にはすでに内容は古くなっている。明治三十年代の苦学の経験は、大正九年には通用しない。現役苦学生が書いたものもあるにはあるが、見栄を張りたいのか、ちょっと格好をつけた内容になってしまう。そもそも文章が下手すぎて読むに耐えないといったものもある。酷いものだと古い内容をそのまま掲載し、最新版として販売することすらあった。

入学案内はいろいろあるが、どうかすると数年前のものをそのまま収録したものに表紙だけ取りかへて『大正十年版』とした様なのも随分ある。それは商人の窮余の窮策であるが、学校のすでに存立しないものは無論として、授業料その他も全然違い、また規則程度とも全然相違を来し居れるものを麗麗しく『十年版』に取めて居るのがあるから、これ等はよくよく注意してほしいと思う。

東京の苦学生 附・自活勉学法 出口競著 大明堂書店 大正一〇(一九二一)年

より酷い事例としては、学生を騙すため出版された書籍がある。学生バイトが書いた『東京苦学成功法』は、まさにそんな書籍のひとつだ。『東京苦学成功法 枯水 著 博友社 大正三(一九一四)年』の著者は、知人のツテで良家の書生として中学校へ通っていたにも関わらず、悪友から遊廓で汁粉屋でも出そうと誘われ学校を止めてしまい、あっさり苦学に失敗している。つまりこれは失敗している人間が書いた本で、そんなものを読んだところで苦学に成功する見込はない。もちろん内容もかなり怪しい。東京に出るなら二十円の資金が必要と書かれているが、この時代にその金額ではほとんど余裕はないはずだ。これはおそらくどこかの本に書かれていた内容の孫引きで、近い時代の苦学本であれば『実地東京苦学案内 岡本淡山 (正一) 著 学静舎 明治四四(一九一一)年 』も上京資金は二〇円としている。

この書籍はさらに興味深い特徴を持っている。すでにこの時代には上京し苦学するのはよくよく考え、なるべくなら避けろとしている苦学本が多い。しかし『東京苦学成功法』は「貧家の青少年は東京に出でて苦学せよ」と高らかに宣言している。内容はというと、どの本にでも書かれているような事柄と著者の個人的な事情、続いて英語を勉強しろといったそれほど外してはいないが、あまり役にも立たないといった実に微妙なアドバイスで終っている。煽り立てるだけ煽りたてたにしては、尻窄みの内容だ。

こんな構成にしているのには理由がある。最後の広告欄に掲載されている帝国富強会の講義録を際立たせるためだ。帝国富強会の講義録は金儲け必勝法といった内容で、冒頭で盛り上げておいてがっかりさせ、新たな希望を提供しているというわけだ。ちなみに帝国富強会の会長はこれを足掛かりにして詐欺組織を作り、後年、詐欺、横領、公文書偽造で実刑を受けている。ようするに『東京苦学成功法は』は苦学生を騙すために作られた書籍なのである。

このように苦学の世界には、わけの分からない人物が多い。明治四十年代に雑誌『中学世界』で読者からの質問に答える学事顧問をしていた男は、高等小学校卒業で中学に通ってはいない。もちろんそれなりの調査はしていたのだろうが、この男も後年詐欺で逮捕されている。

この記事だけでも何人もの詐欺師のような、そうではないような人物が登場することからも分かるように、これが苦学の世界であった。何度もこの時代に苦学はほぼ不可能だと書いてきたが、苦学への憧れはまだ色濃く残っており、若者たちを東京へと駆り立てた。そしてそんな若者を騙そうとする人々がいたのである。いかに頭が良いとはいえ文子はまだまだ十七歳、しかも情報収集能力に欠けている。混沌とした苦学の世界には、罠がそこかしこにあったのだから、文子が正しい情報を得るのは難しかった。

苦学の真実

苦学をするにあたり、文子はこう語っている。

経済上の独立を図ってから、おもむろに、自分の好きな学問をしようと思った。

好きな学問を選択するためには、学問について知らなくてはならないのだが、実は苦学関連の書籍には学ぶ喜びについて言及しているものはない。入学試験に合格した喜びが描写されるくらいに留まる。学問領域の解説などもほとんどない。商学が就職に有利くらいの情報しか得られない。

基本的に苦学ガイドブックは次のような構成になっている。

  • 上京する意義
  • 著者の体験談
  • 物価など
  • 職業紹介
  • 各種学校の紹介

苦学者向けのガイドブックの目的は、自活の道を得て卒業をすることにある。学問の意義などどうでもいいのである。このことからも、当時の苦学が出世のための手段でしかなかったことが理解できる。

そして文子は女性である。苦学をして卒業した後、お金持ちの息子と結婚するのが最も出世できる現実的なルートということになる。これでは因業な祖母や、姑息な父親が示したものとほとんど同じだ。

文子が女子医専を選んだのは、そんな構造から逃れるためかもしれないが、先に書いたようにこちらは普通の苦学の方法で実現できる選択肢ではなかった。

嫌な社会

彼女が上京したのは、学問への欲求もあったが、それよりむしろ自分の環境がすっかり嫌になったことが要因であった。しかし東京にもよく似た嫌な人たちが住んでいて、社会全体が文子を圧迫してくる。これじゃ昔と同じじゃないかと、一足飛びにアナキストになったというわけだが、実は他のルートもいくつかあった。

ただ文子の性格を考えると、かなり選択肢が減ってくる。先に師範学校は現実的な選択だとしたが、こちらも後に不満を持つことになるはずだ。なぜなら師範学校は少し馬鹿にされていたからである。夏目漱石の坊ちゃんでも、この件に関して言及があり、中学校と師範学校の生徒が乱闘するシーンが登場する。

中学と師範とはどこの県下でも犬と猿のように仲がわるいそうだ。なぜだかわからないが、まるで気風が合わない。

裕福な階層が大部分の中学校と比べ、師範学校の生徒は貧しい階層に属している。師範学校を出て進学したとしても、だから師範出は……と馬鹿にされてしまう傾向があった。ついでに書いておくと検定試験上がりの人々も、中学校を卒業し高等学校というルートの人々に軽蔑されることが多かった。社会全体がこういう調子であった。

それだけではない。『小学卒業後の立志成功宝典 首藤司誠 著 司誠堂代理部 大正五(一九一六)年』によると、学校を出るなら東京だといった傾向もあった。

一言して置くが諸君の中には中学校及び各専門学校共東京に在る校が一番よいと思ふて居らるる様であるが、其れは誠に誤つた観察である。地方の学校とて決して東京の中学校に劣るものではない。東京の私立学校などよりかえって進歩して居るものがあるのみならず、東京は全国を通じての文化の中心であると共に堕落の中心でもある。

学問するなら東京が一番といった感覚である。この他、細かな階層分けが数多くあった。そんな下らない価値観に文子は怒っていたわけだから、たとえ学校で学んでいたとしても在学中にやはり革命だとなってしまうかもしれない。

もっとも上京して苦学をしようと決意した文子自身も、そんな価値観から逃れられてはいないのだが、とにかく文子がまともに苦学をしたところで、結果は祖母や父親が画策したルートと似たり寄ったりの結果になる。残念ながら当時の社会にあった普通の選択肢では、彼女を満足させることはできなかったのである。

しかしその上で、彼女には苦学を成功させるルートが残っていた。

女性の苦学は難しい

実はこの記事を書こうと思った当初、文子に最適だと考えていたのは、力行会の援助で海外へ行くというものだった。

力行会とは苦学生の援助と渡米の推奨をしていた組織である。牧師の島貫兵太夫が明治の三十年代に設立した団体だ。島貫は生涯に渡って救世軍の支援を続け、初期社会主義者たちとの交流もあった。文子の行動と重なる部分も多い。

島貫兵太夫は魂を救うためには、貧乏人に金儲けをさせなくてはならないと考える超現実的な男であった。かなり早い時期に苦学の矛盾に気付き、学問をしたくないのであれば大学など目指さず働いて成功すればいいと喝破している。文子の祖母がそうであったように、学校を卒業することは上の階層へ行くための手段だと考える人々もかなりの数いた。それなら自分の実力のみで成り上がったほうが早い。島貫は苦学生が学校を卒業するよりも、むしろチャンピオンを目指すほうが現実的とまで主張している。

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これはこれで無理だろ感がある

新苦学法 島貫兵太夫 著 警醒社 明治四四(一九一一)年 1911

力行会の活動により、ある時期に福島県河沼郡勝常村から海外に行く者が続出した。海外で成功した村の出身者が何人か出て噂が噂を呼んだ形であった。(力行奮闘録 島貫兵太夫 著 日本力行会 明治四四(一九一一)年)

戦前には東京よりも海外に出たほうが、成功する可能性が高いと考える人たちもいたほどで、それはある意味では正しかった。

文子は優秀な上に胆力もある。彼女の記述から推測するに、語学習得能力にも秀でていたようだ。海外で雄飛するのがベストな選択だと考えていたのだが、資料を読むうち文子の希望を満たすのは難しいことが判明した。

当時の力行会の方針は、海外で十分に生活できる教育を受けた女子と海外で活躍したい男子に家庭を持たせ、成功の可能性を上げるというものだった。結婚させるために学問させようという祖母の一家からは追い出され、財産目当ての婚約も意図せずブチ壊してしまった文子なのだから満足するはずがない。

基本的に当時の女性が教育を受けようとすると、今よりずっと大変だ。しかし女子苦学生が、男子苦学生より容易に学ぶことができた時期もあるにはあった。『自活苦学生 苦学子 著 大学館 明治三六(一九〇三)年』によれば次のような利点があったらしい。

  • 学費が二-三円ほど安い
  • 裁縫、編み物などの内職ができる
  • 電話交換手の仕事もある

ただ文子の時代には、状況は変っている。それに加えて社会の構造上、女性の苦学は不利であった。たとえば金子文子がいくら努力しても、日本で弁護士になるのは不可能だ。制度上、女性が弁護士になることはできなかったからである。私は冒頭で女性の苦学生は有利だと書いたが、普通に苦学をするのであれば、実はちっとも有利ではない。

ただ文章を書ける女性苦学生なら話は別で、成功への道は残されていた。そして文子は文章が書ける女性苦学生であった。彼女が卒業するための手段は残されていたのである。

私に考えられる方法はあと二つだ。ただしどちらの方法をとるにしろ、しばらくは大叔父の家に居候しなくてはならない。しかし文子はこんなことを書き残している。

私の願いは、独立して自分のことは自分でするということだ。この願望は、私以上の私の心から出る不可抗な願いだ。せっかくだが私は大叔父の忠告に従うわけには行かない。

気持はわかるのだが当時の社会にあっては「独立して自分のことは自分でする」ために、しばらく大叔父の家ですごす他ないのである。

文子が最初にしたほうがいいこと

『何が私をかうさせたか』に登場する人物としては、大叔父はかなりまともな人物である。

彼の忠告に従って、しばらくはミシンを覚えることに時間を費やす。大叔父の方から『いっそ俺のうちにいて、ミシンでも覚え』と提案しているのだから、ミシンを用意し裁縫学院に通わせるくらいのことはしてくれだろう。

当時、ミシンを使って内職をしたいと考える女性は多くいたが、まずは本体を購入しなくてはならない。月賦だと毎月四-六円を二年払い、中古なら五〇円あたりからあったようだ。ミシンの習得は速成の講習会なら四週間で授業料と材料費合せて十円程度である。(シンガー裁縫院) 女性苦学生がこれを用意するのは難しい。なんとか内職を始めることができたとして、人口密度が高い場所だとミシンの音がうるさいと、苦情がくることもあったらしい。まだまだ女性が独立して暮すのは難しい時代で、ミシンで内職をするだけでもこの難易度だ。

ところが文子はこれらの難問を、すんなり通過できる環境にいた。これを使わない手はない。

ミシンの内職で稼げるお金は『自活之指針 三谷素啓著 自活の指針社 大正六(一九一六)年』『貯金の出来る暮し方 研究実例 現代家政研究会編 金成堂書店 大正七(一九一七)年』などをみると、月収は三〇-四〇円程度、学校に通いながらそこまでの収入を得ることは難しいかもしれないが、苦学のための強い武器になるはずだ。

それよりも文子にとって重要なのは、自分を認めてくれる人がいる環境で、しばらく落ち着いて暮せるという点である。

詳しくないため深入りはしないが、育児放置された人々や、そのサバイバーたちと同じ問題を抱えていたようにも感じられる。朝鮮から故郷に戻った後、彼女は父親、母方の祖母、叔父の家と、三つの家庭を渡り歩いている。たらいまわしにされていたわけではなく、彼女の意志でそうしているのをみるに、心の底から安心して暮せる場所がなかったように思える。

成長した環境を考えると仕方がないことだが、文子には他人に対する信頼が欠如しているわりに、並外れた要求をするような側面があった。白旗新聞店の店主も「白旗氏の人格も私の父の人格とそう大して変ったことがなく、白旗氏の家庭も私の家庭も似たり寄ったりなものである」としているが、何度か助けてくれた人物に対する評としてはちょっと厳しすぎる。

朝鮮時代に通っていた学校で担任だったのが、服部先生だ。彼は運動用の遊具を備えつけたり、農業の実習を始めたりと、当時としてはかなり進んだ考えの持ち主であった。田舎の小さな学校ではあるけれど、できる範囲内でそれなりの教育をしていたんじゃないかなとも思う。文房具を与えられない文子はそれなりに配慮もしていた。

私はやはり叔母たちから必要なものを与えられず、そのためこの新任の教師の服部先生から始終絵具や鉛筆を貸してもらっていた。

しかし文子の評価は厳しい。

先生は村の有力者の御機嫌をとらなければならなかった。だから、よく私の叔母の家に遊びに来る癖に、私のために叔母や祖母に何らの意見も注意もしてはくれないのだった。哀れな服部先生よ、と、私は今は言いたい。

服部先生はまだ若く、なんの権力も持っていない。地域の顔役である文子の祖母の方針に口出しするのは難しい。さらに当時の師範学校教師の中には、密かに上の学校に通おうと考えていた人も多かった。服部先生も文子と同じ苦学仲間の可能性すらある。それを「哀れな服部先生よ」としているのは少し酷い。

もうひとつ不思議なことがある。文子の家族が苦学に強く反対しているわけではないという点だ。それどころか母方の人々は、次のような会話を文子とかわしているのである。

私が苦学しているのを幸いに、学校を出て小学校の先生にでもなったら母を見てやれ

どちからといえば、苦学に対しポジティブな評価をしているのである。交渉次第では師範学校くらいは卒業させてもらえたんじゃないのかなと思わないでもない。まして父親は虚栄心に満ちた男だ。上の学校へ行けば良い縁談もあるとでもいえば、支援くらいはしてくれた可能性は十分にある。事実、父はあまり優秀でもない文子の弟を大学に進学させようとやっきになっている。文子がなぜ交渉しなかったのか、それは自分の希望が通るはずはないという思い込みがあったのではないか。

あくまで私の感想にすぎないが、文子にはしばらく休息する時間が必要だったよううにみえる。かなりまともな大叔父の家で、一年ほどミシンを習得する勉強に打ち込んでいたら、その後の文子の人生は大幅に変っていたかもしれない。

大叔父の家で一年も過せば、東京の事情も分かってくるはずだ。その間にいかなる分野に進むのか、考えることもできるだろう。彼女が非現実的な女子医専を志望したのは、おそらく難しそうにみえる、あるいはどこかで成功談を読んだ程度の理由で決めたのだろう。事実、彼女自身が通っていた学校について、こんなことを書いている。

私がわざと男の学生と一緒になるような学校を選んだのは、私自身の都合からであった。それは、自分の生活が生活なので、女の仲間に這入って衣類の競争なんかに捲き込まれるわずらわしさから逃れるためと、今一つは、浜松の女学校で学び得た経験上、女ばかりの学校は程度も低いし、生徒も教師も学問には熱心でないから、そんな仲間入りをしていては進歩が遅いと思ったからである。それに今一つ、そのことから関連した、男の学校に入って男と机を並べて勉強するということは、一方で普通の女より一段と高い才能を持っているような気にもなり、他方では、男と競争しても敗はしないぞといったような男子に対する一種の復讐的な気持ちも加わっていて、自分にもはっきり意識しない虚栄心もそれに手伝っていたのである。

無籍時代に成績が良いにもかかわらず通知表がもらえなかった。そんな経験も影響しているのかもしれないが、社会に怒りを覚えている彼女もまた、彼女自身が語っているように社会の価値観から逃れることができていない。だから大叔父の忠告にも、拒否反応を起してしまったのだろう。

大叔父は幾晩も幾晩も、同じことを繰り返し繰り返し、私にお説教をするのであった。私は終しまいにはやりきれなくなって言った。

「まあ私に、私の思うようにさせて下さい。私は固い決心をもって来たんですから……」

「そうかね」、大叔父は多少機嫌を損そこねて言った。「そんならそうと勝手にするがいい。だが、わしにはその世話はできないよ」

「ええ、ようござんす。私はもちろん、おじさんに助けていただこうと思って来たのではないんです。自分で苦学の途を探します」

「おじさんに助けていただこうと思って来たのではない」といいながら、大叔父の世話になり居候をしているわけだから、とにかく最悪の受け答えでこれで苦学なんか無理に決ってんだろうとも思う。こういう性格だからこそ、偉大な仕事ができたともいえるのだが、誰が敵で誰が味方なのかすら解っていなかったように見える。

先人の跡をたどれば

大叔父の家でミシンを習得し、小遣い稼ぎでもすれば、文子の心境も変り、心身ともに余裕が出てくる。人に語れるだけの経験値も増えてくるはずだ。そうするとようやく彼女にも苦学を成功するための条件が揃ってくる。

というわけで、まずは文子の希望に沿って、女子医専を卒業する方法について検討してみよう。

まず認識しておかなくてはならないのは、文子はおよそ不可能なことに挑戦しようとしているわけだがら、普通のやり方では無理だという点だ。だから異常な方法を取るしかない。

身もふたもない結論になってしまうが、文子が医専を卒業するために必要なのはパトロン、あるいはスポンサーだ。これは珍しい話ではなく実は縁もゆかりもない政治家や医者などを訪問し、支援を願う苦学生たちがいた。時代はかなり異なるが、中江兆民が大久保利通の外出時を待って直談判し、その斡旋で岩倉使節団とともに渡欧したことがある。車屋をしながら本を読み苦学アピールをして、お金持ちの書生となり見事卒業なんてケースも、ある時代まではたまにあった。

とはいえ文子が普通に支援を求めたところで、冷くあしらわれるだけだろう。それでも目新しい試みならば、受け入れられることがある。幸いなことに過去になんとか苦学を成功させようと突拍子もない行動に出て、異常な方法でスポンサーを獲得した苦学生たちがすでにいた。男子苦学生が、彼らと同じことをしたとしても話題にもなんにもならないだろう。苦学生の悪評が広がっている上に、先例があり珍しくもないからだ。しかし文子は女性苦学生である。同じことをしたとしても目新しく、耳目を集める可能性が残っている。

そして彼らの書物を文子は読むことができた。というわけで、変った方法でスポンサー獲得に成功した男を二人紹介しよう。

犯罪スレスレで苦学した男

一人目は『苦学奮闘録 鈴木明 著 民友社 大正一(一九一二)年 』の鈴木明である。先に書いておくとこの書籍は異常に読みにくい。鈴木の性格なのだろうか、文章の途中で激怒し文脈が分らなくなることが多々ある。ちょっとした教育論や独自の呼吸法、ラブレターを披露したりもしている。気が向いたのだろうか、なんの脈略もなく新聞から書き写した暗殺関係の一覧すら掲載されているのだから、勘弁して欲しい。

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マジで意味が分からない

文章はそれほど上手くはなく、その行動は異常なものの、主張の内容は凡庸で、文子の足下にも及ばない。文子に『苦学奮闘録』をお勧したら、馬鹿が書いた本を読ませようとするなと、怒られてしまうような気がしないでもない。そんな男ですら、あるいはそんな男だからこそ出来た苦学法である。

苦学を決心した鈴木であったが、とにかく働くのが嫌でたまらなかった。そこで彼は上京以前から、各界の名士に手紙を送りまくっていた。俺を助けろといった内容だが、もちろん無反応である。

東京に着き手頃な部屋を探し出すと、鈴木は早速活動を開始する。仕事を探すのではなく、金を持ってそうな名士を訪ねまくり助けを求めた。鈴木は「自分ひとりで生活し自分ひとりで学ばねばならぬ」とは書いているが、働くのが嫌なのだから援助を求めるより他ない。苦学生だと分かるように辞書や六法全書を持って名士を家を尋ねるものの、鈴木は門前払いを食らい続ける。これは当たり前の話で、鈴木の他にもいきなり助けを求めやってくる苦学生が多くいたため、基本的には追っ払われてしまうのである。

そこでいきなり訪問するのを止め、図書館にこもり名士録から目についた人物をピックアップし、片っ端から手紙を送ることにした。自分はこういう人物で、こういった志がある。だから援助をしろといった内容だ。こういう手法も珍しいものではなく、ほぼ失敗するわけだが、彼にはさらなる秘策があった。上京前に二百ページほどの原稿を書き上げ、さらに当時超一流の出版社「博文館」の社長に、手紙を何度か送り付けていた。自著を販売し、その売上で生活しようと考えていたのである。

鈴木による『故郷花 鈴木明 著 鈴木明 明治四四(一九一一)年』の内容は、それほど優れたものではない。平家物語の感想文とルソーのエミールの英訳を一〇ページほど日本語に翻訳したもの、あとは雑感だ。まして書いたのは意味の分からない学生である。そんな原稿を博文館から出版できるわけがない。というわけで鈴木は『故郷花』を自費出版することにした。

『苦学奮闘録』の文章が曖昧な上に話が前後しているため、なにがどうなったのかよく分からないのだが、とにかく出版費用の三〇〇円を博文館の社長から半額、別のとある人物から半額出してもらい『故郷花』の自費出版には成功する。

しかし無名の学生が書いた本を普通に販売したところで売れるわけがない。そこは鈴木も分かっていて、次なる戦略を用意していた。この本を名士や学者、実業家や医者など、とにかく財産がありそうな人々に配布し、後に金を回収して回ろうという最悪でかなり迷惑なやり口だ。

荷車に本の印刷が終った本を満載にした鈴木は、立ちん坊(坂の下で車を待ち、あと押しなどをして金をもらう職業、名士たちが出合うことはない下層社会の住人)を雇って街を走りまわり、金を持っていそうな家に配りまくった。なんでそんな面倒くさいことをしたのかといえば、大学生が立ちん坊と一緒にやってきたら、名士たちは吃驚して金を出すだろうといった浅はかな広告戦略のためだ。しかし翌日には歩くと疲れると気付き、俺に寄付をしろといった内容の添書をつけて、書籍を郵送で名士の家に送り付けまくることにした。どう考えても送りつけ詐欺そのものである。

結果はどうかというと、当たり前だが誰からの寄付もなかった。焦った鈴木は名士たちに「私の境遇に同情しないのであれば書籍は進呈する」といった手紙を送り付け、遠回しに寄付を催促したが無反応だった。かわりに巡査が鈴木を取り調べにやってきた。とある学者がこんな迷惑な奴がいると、警察署に報告したのである。

それでも鈴木は諦めなかった。各新聞社に自分の状況を訴えたところ、万朝報が騙され鈴木を取材、『優等の苦学生』という記事を掲載する。当時の新聞は今とは比べものにならないほどに影響力があり、寄付を寄越さない名士たちに再び手紙を送り付けると寄付が殺到した。これでもまだ寄付をしない名士がいたので、集金郵便(証書と引き換えに現金を回収する郵便制度)で金を回収した。

もはやほぼ犯罪であるため今度は警察に呼び出しをくらい、郵便で本を送り付けるのを止めろと諭された。しかし本はまだ余っている。そこで鈴木はこの本を作った俺に仕事をくれ的な広告文をつけ、普通郵便ではなく広告郵便で本を送り付けまくった。あくまで送っているのは広告で、本はおまけだといった理屈なのだろうが、このしぶとさ図々しさは少し羨ましい。この手法は成功し、鈴木は家庭教師の職を得て、なんとか苦学に成功した。

その後、鈴木がどうなったのかは不明、ただ二十年後の読者にこんな悪口を落書きをされている。

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かわいそう

少し読みにくいが「いかに苦学をしても凡人は凡人なり。ああ憐むべし。鈴木明本書を著してより早二十年今日未だその名を目にせず」といったことが書かれている。面白いがちょっと酷い。

苦学を使って大儲けした男

鈴木の手法の特徴は、新聞というメディアを使った点である。加えて自己広告も忘れていない。やり方は異なるがよく似た手法で成功しているのが、『修学行商日記 岡本米蔵 著 岡本米蔵 明治三三(一九〇〇)年』の岡本だ。岡本米蔵は後に日本のカーネギーと称されるような人物になったが、詐欺事件で裁判沙汰にもなっている。苦学者で犯罪系のトラブルを起す奴らが多すぎなような気がしないでもないが、かほどに過酷な環境であったともいえよう。岡本の苦学の方法は、メディアに加えて学生という身分と苦学を宣伝に使い行商をするといったものであった。

実は明治時代、行商をして苦学をする学生たちがわりといた。『苦学行商案内』の白眼子によれば学生が組織した行商団体があり、『普通行商人よりは学生の行商により多くの同情を表してれるのだから、実行上に於ては決して思つた程の不景気は見ないのである』といったこともあったようだ。もっとも押し売りをする苦学生が続出したため悪評が広がり、文子の時代には成立しない方法にはなっていた。

白眼子には良心があったため、それほど人には迷惑をかけてはいない。わずか五〇銭の資本を元に超人的な努力で学校を卒業をしており、彼もまた岡本に比肩するような人物なのだが、そのやり方は常識的で地味である。稼ぎもそれ程なく、女子医専を卒業することは絶対不可能だ。

岡本はというと、後に成功するほどの男であるから、そのやり方も変っていた。まず岡本は旅行の前に商店の店主に取り入り、ツケで商品を渡してもらう約束を取付けた。なぜ学生をそこまで信用したのはよく分からないが、岡本米蔵はなんとも表現のしようがないような魅力を持った人物だったらしい。行商を通じ各界の名士から気に入られ、学生時代に書いた著書に渋沢栄一から書を書いてもらっているほどだ。とにかく岡本は大量の商品を携帯し地方で商品を売りながら旅行を続けた。後には問屋から旅先まで商品を送ってもらってもいる。

ちなみに岡本は学生帽を被り行商旅行をした。こうすることで学生なのに行商をする珍しい人物を演出することができた。それに加えてある時期までは、自分は苦学生で学費をためるために行商旅行をしているというのが彼の触れ込みであった。しかし何度か旅を続けるうちに、岡本はそこそこの財産を築き上げてしまい苦学生ではなくなってしまう。そこで他人の世話にならず在学中に自営資本を作ることで、独立不羈の精神を全国の青年たちに知らしめる的な建前で行商を続けた。

岡本はこの旅行を通じ、社会的な地位のある人に気に入られるように心掛け、多くの名士のもとへ足を運んだ。

尾崎麟太郎氏を日本銀行支店に訪ふ、氏ねんごろに、「金を儲けつつ旅行するとは中々面白い仕組だね、 家事の都合如何に拘はらず、学生としては望ましいことである、旅費を儲ける外にいろんな無形の利益を得ることは非常である。して昨年の旅行を話せよ」 などと……

岡本は彼らから紹介状をもらうのも忘れない。紹介状を持って別の名士を訪ねることで、人脈ははてしなく広がっていった。鈴木と同じく、新聞に記事を掲載してもらうことも忘れていない。あの記事に載っていたのが君か……となれば商売はしやすい。また新聞記事は一種の威しにもなった。

『学生 無銭徒歩旅行 池田元太郎 野田観識 白石清 栄国嘉七 野田教応 著 駸々堂 明治三四(一九〇一年)』の五人の少年は、無銭で大坂を出発し富士登山を成功させている。彼らの手法は見ず知らずの金持ちの家を尋ねて宿泊し飯をもらうといった雑なものであった。当然ながら何度か追い出されているのだが、その奇行が新聞記事になると扱いが一気に良くなる。記事を読み好意を持ったという側面もあったのだろうが、こいつらを追い出して新聞に言い付けられたら面倒だといった打算もあったはずだ。おそらく後に旅行記にして出版しますなんて話もしているはずで、そうなるとますます無下には扱えない。書籍に悪口を書かれてしまうと迷惑極まりないからだ。事実、宿泊を拒否した人物の立派な悪口を彼らは書籍に記載している。

平井義夫とて一見名誉職の肩書でもありそうなる豪家を認めれば余は門に入りて意を通じ一泊を求めしに二言なく拒絶され無礼極まる語気もありて余等は心中甚だ穏やかならず一行を物乞いと同様の扱いせるこそ失敬なる奴よと怒気心頭に発せしも結果は人情薄き篤志ならざる人に依頼せしが余等の失策なれば詮方なく……

こんな雑な戦略の五少年ですら、上手くメディアを使えば大坂を出発し富士登山という無銭旅行を成功させることができたのである。

岡本の行商旅行に話を戻すと、一〇〇日近い旅行の総売上は千八十円、公務員の初任給二年分弱となる。あくまで売り上げだから、実益がいかほどかは不明だが、各界の名士とのコネクションもでき、将来につながった行商であったといえよう。

さらにすごいのが『修学行商日記』も自己宣伝のために自費出版したものだという点だ。扉絵に旅装の写真を掲載し、尾崎行雄や渋沢栄一といった名士たちによる序文や題字を掲載した。

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ポーズを決める岡本

新聞にいくつもの書評が掲載され、明治三三年に初版、大正七年には二一版に達している。この書籍をきっかけに、岡本を知ったという人も多くいたことだろう。

人脈を広げるための旅行を題材にして、さらに人脈を広げているのだから見事としか言い様がない。岡本は非凡な男であり特殊な事例ではあるものの、こういうことをする苦学生もいたのである。

鈴木と岡本の手法を紹介してきたが、もちろん文子がそのまま使うわけにはいかない。しかし文子の文才は相当のものだ。こういう方法を知っていれば、まだるっこしいことをせず『ミシンを踏み、女子医専に挑む』的な投書をし、パトロンやスポンサーを見付つけてしまっていたかもしれない。

そもそも苦学が必要ない人たち

苦学に失敗した後で、文子は次のようなことを語っている。

「学校? 学校なんかどうだっていいの」と私は、こともなげに答えた。

(中略)

「どうしてです。あなたは苦学生じゃないんですか」

「そう、もとは熱心な苦学生で、三度の食事を一度にしても学校は休まなかったのですが、今はそうじゃありません」

「それはどうしてです」

「別に理由はありません。ただ、今の社会で偉くなろうとすることに興味を失ったのです」

「へえッ! じゃあなたは学校なんかやめてどうするつもりです?」

「そうね、そのことについて今しきりと考えているのです……。私は何かしたいんです。ただ、それがどんなことか自分にも解らないんです。がとにかくそれは、苦学なんかすることじゃないんです。私には何かしなければならんことがある。せずにはいられないことがある。そして私は今、それを探しているんです……」

志したからこそ分かったことなのだろうが、そもそも文子には苦学は必要なかったのである。だから彼女は失敗したというよりも、苦学から卒業したとしてもいいだろう。

これは文子に限った話でもなく、資料を読んでいるとそもそも苦学など必要ないような人たちが多く出てくる。苦学をしたいのではなく、ある環境から逃げ出すために苦学を選んだ人々だ。

『実行の苦学 相沢秋月 著 相沢秋月 大正一二(一九二三)年』に、田舎から出てきた車夫となった貧書生は『金の持ちつけぬ所に、急に成金になるので途に学校を放擲し職業的になるのが多い』とある。車屋で生きていけるんだから、なにも苦学なんかしなくてもいいといった発想だ。

『どん底社会 小川二郎 著 啓正社 大正八(一九一九)年』で紹介されている男は「俺は勉強したくてならない」と語っているが、本の一冊も持っていない。「何時までたってもこんな労働で、学問の楽に出来る時が来ないだらう」と聞くと「そりゃ仕方がないさ」と応えている。そして全ての受け答えが曖昧だ。

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ぼんやりしている

一体なにがしたいんだか分からない。

学問は修めたものの、全く別の分野に進む人たちも多かった。『大日本牛乳史 附・乳業者名鑑・乳業者名簿 著者 牛乳新聞社編 出版者 牛乳新聞社 昭和九(一九三四)年』を見ると、苦学生時代に牛乳屋で働いたことがきっかけで、そのまま経営者になってしまった人物が何人も紹介されている。大野喜という人は牛乳配達をしながら青山大学を卒業、いろいろあって、青山大学の苦学生たちで組織する牛乳販売業を開いたそうだ。なんだかよく分からないが、大学よりも牛乳配達から学びとったことのほうが大きかったのだろう。

苦学を捨てた文子はというと、最終的に無政府主義、虚無主義を選んだわけだが、そこにいかずとも「せずにはいられないこと」をするための手段は他にもあった。

メディアを使って記者になる

鈴木と岡本はメディアを使い苦学に成功した。しかし苦学すらすっ飛ばし、メディアの力を使いメディアの世界の住人になってしまう人々がいた。

実はこの書籍を苦学開始直後の文子が読むことは出来ないのだが、分かりやすく一般的な事例なので紹介しておきたい。まずは『東京の苦学生 附・自活勉学法 出口競 著 大明堂書店 大正一〇(一九二一)年』の著者出口の経験である。

出口は力行会に所属して苦学をしていたが、雑誌社の事務員などでバイトをするうち、『地方事情視察徒歩旅行隊』に選抜される。これは力行会による企画で苦学生が全国を徒歩旅行し「地方視察」するとともに「青年の元気作興」を目的としたもので、読売新聞がスポンサーとなっている。

出口は旅行記はそこそこ評判となり、そのまま記者となった。職を得たのだから苦学は必要ないと学校を止め、記者生活を送りながら苦学生の支援にわることとなる。力行会の島貫兵太夫は「学問をしたくないのであれば大学など目指さず働いて成功すればいい」としているのだから、力行会的には正しい判断だといえよう。

ちなみに出口による苦学ガイドブックは派手さはないものの誠実な内容で、生涯学生を支援する活動を続けていたらしい。昭和一六(一九四一)年には国の金属類回収令に応じるために、ステッキの先端に強力な磁石を取付け、街に落ちている屑鉄を拾い寄付するなどといった奇行に走ってはいるものの、実直な人であったのだろう。

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なにがあったんだろうか……

朝日新聞朝刊 一九四一年 六月十五日

実直なだけに出口の方法に華々しいところはない。今すぐなにかをしたい文子にとってはまだるっこしい方法であろうが、こういうルートで記者になる人もいたのである。

登校拒否の人

出口は苦学を経て記者になっているが、そもそも苦学どころか登校拒否を繰り返し、なるべく学校に近づかぬままメディアの世界に躍り出た人物もいる。『かたかげ 安岡夢郷 鳴皐書院 明治三五(一九〇二)年』の安岡夢郷である。彼は子供の頃から気が向いたら学校に行くといったスタイルで、最長では連続三ヶ月間の登校拒否をしている。

この人も学問をしたいというよりは環境から逃げたい人で、しかも、かなり早い段階でそれを自認していたようだ。母や兄弟は漢学英語数学を習えと諭したのだが、そんなことをして出世したところで、たかが知れていると考え、地元の郵便局に就職し雑誌への投稿を繰り返した。謎なのは郵便局に三度就職し、三度辞めていることだ。一度は脱走、二度目は箱根で遊び事務を怠り、三度目は局長と喧嘩をして辞めている。絶対に真面目に働く気なんてなかったことが伺え、郵便局もなんでこんな奴を三度も採用したのか謎すぎるのだが、昔の話なのでよく分からない。

彼には文才があり、読者投稿欄を足掛かりに世の中に打ってでようとしていた。読者投稿欄は今とは異なり異常な熱気があった。一例として京城日報のはの字を紹介しよう。

京城日報には『平民文庫』と呼ばれるコーナーがあり、百文字前後の投書を受け付けていた。そこで一種のスターとなったのがはの字だ。彼は別にたいしたことを書いていたわけではない。公益のためであれば他人の名誉を毀損するのは許されるのか、などといった論争を他の投稿者と展開したに過ぎないのだが、新年号では写真を掲載されている。

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スターはの字

読者投稿欄への投書がきっかけで一種のスターとなり、そのまま記者になってしまう人物も少なくはなく、安岡もその一人だ。安岡は各種雑誌の読者投稿欄で人気を博し、やがて雑誌『文庫』で小さな記事を任されるようになった。その中には今も読みつがれている坂本竜馬の妻お龍の聞き書き『反魂香 文庫 明治三二年二月一一日』がある。

そんな活動を続けるうち、雑誌や新聞の世界で安岡を知る人が多くなる。当時の雑誌は筆者や読者が集う会合……ようするに宴会なのだが……を開くことがあった。安岡はそんな会にも頻繁に顔を出している。「かたかご」なる人物が「作者の反面」と題し、彼の特徴と会合での振舞いを書き残している。

安岡は横須賀郵便電信局勤務、身長は一六五センチ体重は四六キロあたり、服装は紋付袴でボロボロの鳥打帽を被り、とにかく脚が汚い。文字は金釘流[下手糞くらいの意]で特技は女の顔を描くことである。「なぜか知らんが首を振る癖」がある上にすがめ、つまり斜視であるため、ちょっと異色の人物に見えてしまう。人の酒を飲み、人の寿司を食い、大気炎を吐き散らかし、調子にのっていると飲む酒の量は一升くらい、しかし粋ぶったり通ぶったりはない。都々逸が得意であるが、周囲は特に認めていない。まあデカい声を出すだけである。悲しい話を聞くと涙をポロポロ流して号泣し、情は無駄にある。記念写真の際に、なぜか両手に正宗の瓶を持っていた……というわけで、現代なら飲み会にいたらかなり面倒臭い人物だが、当時としては面白人間だったらしい。この文章が書かれた年の会合には不参加、その時は、夢郷がいれば、さぞ……と語った人すらいたそうだ。さぞ愉快だったろうに、なのか、さぞ鬱陶しいことだろうなのかは分からない。

そんなこんなで人間関係が広がり、ついには神戸又新日報の記者となり小説を担当、人気が沸騰し後に芝居にまでなっている。安岡の才能はなかなかのもので、講談速記本というジャンルに限ればほぼ最高傑作と呼べる水準の作品を書き残している。才能がありすぎたため、黒竜会を組織し大陸侵出を主唱し韓国併合の裏面に活躍した内田良平の評伝を依頼され、本人に取材しつつ物語を書き上げたものの、面白さを追求しすぎ事実と大幅に離れすぎていたため出版にはいたらなかったというような事件まで起きた。ちなみにこの仕事には星新一の父親星一も関わっていた。

彼は密かに純文学の世界への進出を狙っていたようだ。『かたかげ』も本格的な文学の世界への足掛かりにしようと書かれているようなところが多い。しかしこちらは学歴の壁に阻まれて失敗した。逆に苦学をしておけばよかったねといった珍しいケースだ。

純文学では失敗したものの、新聞記者としての技量はそれなりにあったらしく、満州日日新聞の立ち上げに多いに貢献したと本人は語っている。ただし郵便局に三度就職し、三度辞めているような男なので真相は謎だ。夢野久作の父親、杉山茂丸とも関係があり、国士としての活動もしていた。最終的には日中戦争の早期終結のため、霊能者を鍛え上げるなんてことをしている。なんだかよく分からないが、出口と同じく安岡も、犯罪などには手を染めていない。

せずにいられないことをする

私には何かしなければならんことがある。せずにはいられないことがある。そして私は今、それを探しているんです……

文子のいう「せずにはいられないこと」は、女性解放運動などの各種社会運動であろう。しかしその世界には虚構も多くあった。たとえば文子が社会運動をする大きな組織に、参加するのは難しい。学問や資金がないため、対等な仲間としてもらえないからだ。文子の性格であれば、いずれ怒って止めてしまような気がしないでもない。これは安岡が純文学の世界に参加できなかったこととも似ている。

ちょっと話がズレてしまうが、今回の記事では奨学金について言及していない。なぜなら苦学の書籍でほとんど扱われていないからだ。その理由は未だによく分からないのだが、中学卒業したものが対象となっているからか、あるいは書かれていない暗黙のルールが多くあったのではないかと考えている。あるいは貧乏人は除外、生意気だからといった理由で門前払いされてしまうこともあったかもしれない。当時の社会なんてものはそういう水準であった。そんな中で文子がバカバカしい慣習に付き合うこともなく、わずらわしい経路も経ずに、無政府主義、虚無主義にたどり着いているのは流石だが、少し慌てすぎにも感じられる。

もっと他の世界を眺めるために、文子が穏当な社会運動に参加し、末端の雑用係ではなくスター的な扱いをしてもらうためには、安岡のように先に結果を出してしまうのが一番だ。文才のある文子であれば十分可能な仕事で、なぜそれをしなかったのか不思議に思ってしまうのだが、これも読書を禁じられていたことが影響している気がしないでもない。雑誌を経由した交流があったこと自体、知らなかった可能性がある。

ただし上京してすぐの文子には経験がない。育った環境程度しか、語ることもなかったはずだ。だからこそ叔父の家で一年間はミシンを踏みつつ、多様なジャンルの書籍を読みながら、書くべきコンテンツを蓄積する必要があったのである。

以上が私が検討しなんとか捻り出した文子が苦学に成功する方法だ。十分に実現する可能性はあるのだが、少し運の要素が強すぎるかなとも思う。流石に女子医専は無理ではあるが、もっと現実的な選択肢もないわけではない。ただしそれらの方法も一九二〇年よりは、数年後に挑戦したほうが容易だった。文子が苦学の世界に飛び込んだ時期に、各種制度が充実し始めたからだ。不思議なことに、苦学者向けのガイドブックも一九二一年あたりから品質が上っている。なんにしろ、大叔父の家でもう少し待ったほうが容易に苦学ができたのである。

ここまで書いて気付いたことがある。文子が苦学を開始した三年後に、関東大震災が起きている。仮に文子がそれなりの文章を発表できる立場となっていたとして、この時期を乗り越えることはできたのかなと少し考えたのだが、改めて『何が私をかうさせたか』を読み大丈夫だろうと思ってしまった。

大正十二年九月一日、午前十一時五十八分。突如、帝都東京を載せた関東地方が大地の底から激動し始めた。家々はめりめりと唸りを立て、歪められ、倒され、人々はその家の下に生き埋めにせられ、辛うじて逃れ出たものも狂犬のように吠えまわり走りまわり、かくて一瞬の間に文明の楽園は阿鼻叫喚の巷と化してしまった。

ひっきりなしに余震が、激震が、やって来る。大火山の噴煙のような入道雲がもくもくと大空目がけて渦を捲いて昇る。そして帝都は遂に四方から起った大火災によって黒煙に閉とざされてしまった。

震災後、いくつもの文章が発表された。彼女であればルポルタージュの金字塔的な作品を、書けたのではないだろうか。

苦学を成功させるには

当時の苦学関連の書籍を読むと、苦学を成功させるものとして、だいたい次のような条件が上げられることが多い。

  • 能力の凡ならぬこと
  • 意志の堅忍不抜なること
  • 身体の剛健なるべきこと

(修学便覧 岡本学 著 文成社 明治四三(一九一〇)年)

  • 天稟の才能
  • 不断の勤勉と努力
  • 壮健なる身体

(東京自活勉学法 苦学生と独学者の為めに 森山正雄著 啓文社 大正一四(一九二五)年)

特に身体の丈夫さは絶対に必要とされていて『余の東京苦學生活』でも「もし病気にでも取り付かれたらそれが最後で万事水泡に帰する」とされている。

金子文子は素晴しい能力を持ち『何が私をかうさせたか』を読む限り、身体もかなり丈夫であった。最期に至るまで自分の意志を貫いているのだから、堅忍不抜すぎるくらいである。その文子を持ってしても苦学には失敗しているのだから、これらの条件はあんまりあてにならないのかもしれない。

本記事で紹介した苦学を成功させた苦学者たちは、身体で頑強だが、能力が凡な者もいたし、努力と勤勉が嫌いで郵便局から逃亡した者もいた。それでも苦学を成功させているのは、彼らが次のような行動をとったからだ。

  • 頼れる人には限界まで頼り、使えるものや能力は全て使う
  • コミュニケーションを重視する
  • 情報収集をする

「自分ひとりで生活し自分ひとりで学ばねばならぬ」と宣言した鈴木は、人に助けを求めるばかりであった。その半面、各種名士録を読み込むなどの情報収集は怠らなかった。岡本は人脈を作るために、苦学者であることをアピールし、メディアはもちろん学帽までも利用している。ここでは触れなかったが、あらかじめ行商先の土地柄などを調査もしている。力行会で地道に人間関係を構築し記者となった出口や、メディアを使い自分の才能を広く知らしめた安岡もいた。

一方の文子とはいうと彼らとは全く異なるやり方をしている。そしてそれは、非現実的な目標を達成するにはあまりに正攻法すぎた。もっともその真っ直ぐさが金子文子の魅力を形作っているのだから、そういう人であったのだと、納得するより他ない。

まとめ

この記事では何度か『これは過去の話で今はこんなことはない』なんてことを記述した。ただそう書きながらも、こういうことは今もあるんじゃないかなとも考えた。そしてそんな問題に直面している人々が、文子のように一人で真っ正面から立ち向かう必要は微塵もないなと思った。

先に社会主義や無政府主義、虚無主義などの書籍を好んで読んだ時期があると書いたが、かって私は文子のような英雄が好きだった。大杉栄や幸徳秋水はある時期私のヒーローであった。時を経て明治から大正あたりの、持たざる者たちが作り上げた下等な娯楽物語や文化に魅かれるようになると考え方が変ってきた。一人の人間に社会の問題を押し付けるのは、どうなのかと思うようになったのである。

下等な文化を作り上げてきた人々は、ぶざまであっても寄ってたかって問題を殴りつけ、ヤバくなったらみっともなくとも全力で逃げる。そんな姿を眺めるうちに、これもまた魅力的だなと考えるようになり、なにかのために死ぬことなんてないんじゃないかと今は思う。

鈴木明と金子文子は比較にもなんにもならないが、それでも私は鈴木の図々しさやバカさ加減がかなり好きだ。金子文子とやり方は違うものの、鈴木も集金郵便や広告郵便を駆使して、名士……つまり権力に精神的なダメージを与えている。与えた不快感の総量ならば、鈴木のほうが上手であろう。岡本は投資家たちを言いくるめかなりの損害を与え、磁石で集めたクズ鉄を毎日せっせと持ち込む出口は係の人を困惑させたかもしれない。安岡の仕事はというと『反魂香』くらいしか残っていないが、彼の偉大な作品を私は知っている。それでいいんじゃないかと思う。

彼らは彼らなりに必死に苦学に立ち向かい、なんだかんだで幸せになった。そんな彼らのやり方はこうであった。

  • 頼れる人には限界まで頼り、使えるものや能力は全て使う
  • コミュニケーションを重視する
  • 情報収集をする

もちろんこれだけで、現在の複雑な問題を全て解決できるはずがない。あくまで大らかな明治大正時代の手法でしかない。それでもたまには役に立つのかなといったところである。そして時には鈴木くらい、みっともないことをしてもいいんじゃないかと私は思う。

金子文子は『何が私をかうさせたか』の終りに望みこんなことを書いている。

死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう

実に素晴しく魅力的だ。一方の安岡はというと、霊能者を鍛え上げていた時期に、こんなことを書き残している。

お互いに働きましょう。そうして幸福な生涯を送りましょう。

悲壮感など微塵もないが、これはこれで明るく趣きのある言葉だと今の私は感じてしまうのである。