山下泰平の趣味の方法

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子規の無謀、漱石の豹変、龍之介の演出、三者三様の夜間旅行

明治時代の忘れ去られた文化を調べている際に、正岡子規、夏目漱石、芥川龍之介が、それぞれ夜間旅行をしていたことに気が付いた。それぞれの旅行を比較するとなかなか面白く、記事としてまとめてみると16000文字くらいの長さになった。

夜間旅行があった

明治三十年代から四十年終りまで、出世のための徒歩旅行があった。ほぼ無一文で家から飛び出し、心身を鍛え上げながら都会へ移り住む。都会では働きながら学問を修め、やがては一人前の男へと成長する。このプロセスをひとつの旅行として捉えたものが出世旅行である。明治の出世旅行は深く人生に結び付き、生き方を変えてしまうようなものであった。

出世旅行が登場する以前から、若者たちは謎の情熱に突き動かされ、なにかを体験しようと奇妙で無鉄砲な旅をした。彼らは様々な旅行を試行し、体験談を書き残す。それらの連なりの末に登場したのが出世旅行だ。

夏目漱石と正岡子規、そして芥川龍之介はそれぞれが大きな業績を残した偉人だが、彼らも出世旅行出現の前後に夜間旅行を決行している。誰もが知る偉人にも、明治期の若者たちとともに熱狂の中で生きていた時代があった。

漱石、子規と芥川龍之介の夜間旅行は、それぞれの性格が色濃くでていて面白い。彼らが生きた時代について解説しつつ、三者三様の旅行を紹介していこう。

ちょっとした注意、あるいは言い訳になってしまうが、この記事は私の正岡子規、夏目漱石、芥川龍之介に対するイメージを元にして書かれている、しかし私が三者の書籍などを熱心に読んでいたのは、20年以上前のことである。最新の研究成果を取り入れたりはしていないから古臭い認識いなっているかもしれない。いくつか誤認もあることだろうと思う。

加えて私は地理に関する知識にも欠けている。三人の旅程をそれぞれ記しておいたが、正確なものではない。また文中で地名やその位置関係など、誤った部分があるとも思われる。このあたりはご教示いただければ幸いである。

なお文中に登場する「里」は距離の単位で、1里あたり約3.93キロとなる。

子規の無謀

出発日時:明治十八(1885)年九月八日の真夜中

出典:筆まかせ抄 弥次喜多

筆まかせ抄 (岩波文庫)

筆まかせ抄 (岩波文庫)

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三者の中で最初に夜間旅行に挑戦したのは、恐らく正岡子規である。彼の夜間旅行は、ほとんど冒険、あるいは無為無策、はたまた無謀といってもいいようなものだった。

正岡子規は、俳人や歌人として活躍し、随筆や評論の世界でも手腕をふるい近代文学に大きく貢献した偉人だが、かってはただの旅行熱心な若者だった。晩年に書かれた『病牀六尺』から、病弱な人な印象があるかもしれない。しかし子規は幾度も旅行に出ており、その技術にも長けていた。明治二二年の春休みには、東京都文京区から茨城県水戸市まで約一〇〇キロを走破している。そんな彼が旅行の初心者であった頃に、夜間旅行へ挑んでいる。

子規が夜間旅行に出たのは明治十八(1885)年九月八日の真夜中で、まだまだ十九歳の若者であった。 猿楽町から鎌倉江ノ島まで、約六〇キロの道のりである。

九月の七日の夜に、猿楽町の下宿で子規と友人たちが語り合っていた。そのうちの一人柳原如水(後に俳人)が、八月に一人あたり十銭の会費で、鎌倉江ノ島まで夜間旅行をしたと語り出す。その様子を面白おかしく話した後で「君たちも金を持たずに行け」と勧めると、その場に居合せた秋山真之(後に海軍中将)は踊り立ち「今すぐ出よう」と提案する。この時代、若者たちにの中には、無鉄砲で元気なバンカラたちが多くいた。

会費の十銭が現代ではいくらくらいかというと、当時の貨幣価値は階級によって感覚の違いが大きく正確な数字を出すのは難しい。そのため推測になってしまうが、子規たちにとっての十銭は、現代だと1500円から3000円くらいだと考えてもらえばいい。

ついでにもうひとつ、お金にまつわることを書いておこう。子規たちが目指したのは江ノ島で、当時すでに新橋から横浜までの鉄道が開通していた。だから汽車を使って距離をそれなりに稼ぐこともできたはずだ。もっとも運賃は三十五銭で、一人あたり十銭の会費で鉄道を使用するのは不可能ではある。しかしこれは予算の問題というよりも、あえて不便を楽しむといった側面が大きかった。

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一新大日本帝国道中記 松井与兵衛 編 鈴木音吉 明17.2

鉄道の登場以前なら歩くのが当たり前、ところが鉄道という選択肢が登場することによって、『あえて徒歩』なる概念が発生する。そしてこの時代『あえて徒歩』という考え方を反映し、無銭旅行が流行し始めていた。これは無銭というよりは、なるべくお金を使わない徒歩旅行としたほうが正しい。非常用にいくらかは持ってはいるが、非常時以外は鉄道やお金を使わず歩く旅行だ。

無銭旅行が人気となったのは、社会が無茶することができる程度に整い始めていたところに理由がある。無銭旅行の途中で疲れ果ててしまったとしても、鉄道に乗れば当日中に帰宅可能だ。都会であれば医者もいるから、無茶な旅行によって怪我をしたとしても、駅周辺であれば対処することができる。

江戸時代の旅行ガイドなどを読んでいると、かなり安全を重視している。旅行の初日はゆっくり歩き、食べ過ぎに気をつけて、夜道は避け他人と喧嘩は絶対するな等々で、歩く距離も基本的には一日あたり十里(約40キロ)としている。後述する14歳の芥川龍之介でも、夜道を十里以上も踏破している。それじゃ江戸人よりも芥川が頑強なのかというとそれは違う。江戸の人は旅先で身体を壊すと、命の危険につながる可能性が高い。だから慎重の上にも慎重を重ね旅をした。

例え同じルートを徒歩で旅行したとしても、子規たちの旅行と江戸時代の旅行とでは全く質が変わってくる。なぜなら子規たちの『あえて徒歩』で旅行するという感覚は、鉄道登場以前にはないものだからだ。徒歩以外の選択肢がないのであれば、徒歩旅行なんて概念は存在しない。選択肢が増えると既存の方法の位置付けも自然に変化してしまい、徒歩旅行、あるいは無銭旅行なんて名称が登場してしまうのである。

話を戻すと柳原如水は、流行の無銭徒歩旅行の経験談を語り、君たちもやりたまえとお勧めしているというわけだ。もともと旅行が好きな子規だから、反対する理由もない。話の流れで予算係となった子規は仲間たちから集めた会費の五十銭(一人あたり十銭より多くなっている理由は謎)を懐に、正岡子規、秋山真之、小倉脩吉、清水則遠の総勢四名で、その日の夜十一時に旅に出た。無銭旅行の話が出てその数時間後に無銭夜間徒歩旅行へ出発とは、計画性がなさすぎるように思えるが、これも子規らしいといえば子規らしい。

私の印象ではあるが、正岡子規はメディアの人だった。子供の頃から回覧雑誌を作り、少し長じると自然に囲まれ詩を作り絵を描く生活に憧れて、仲間たちとともに仙人のような生活に適した場所を探す旅に出たりもしている。ただしこれはあくまで子供の遊びに留まる。

学生時代に子規が書き始めた『筆まかせ』と題したエッセイは、質も量も兼ね備えており、文体もかなり新しい。こちらは最早、学生の遊びには見えない。恐らく子規はかなり早い時期に、文筆で身を立てる意思を持っていたはずだ。しかしこれが大変で、子規はそのために、なんらかのメディアを作らなくてはならなかった。

今では想像することも難しいが、この時代はエッセイのような文章のみで生活していくのは難しかった。安定した生活を望むのであれば、せいぜい新聞記者になるくらいが関の山である。当時における新聞記者という職業の立ち位置はなかなか複雑なのだが、社会的な地位が徐々に下りはじめていた時期ではあったことは確かだ。新聞記者がゴロつきと同類といった時代すらある。明治の三十年代には、雑誌の投稿欄で活躍した少年が、いくつかの新聞を渡り歩き、東京の大新聞の記者になる……そんなルートすら形成されていた。子規が生きていた時代は微妙な時期で断言することは難しいのだが、子規のような野心と士族としての自覚を持っていたであろう若者が、一直線に目差しそうな職業ではなかったと思われる。

小説家はどうかといえば、当時の社会的な地位は新聞記者よりも低く、不安定であった。まだまだ日本における小説の実態すらない時代であり、これに形を与えるため、日本に近代的な小説はあるのだと思い込みながら小説を書いているような状況だ。このあたりの事情は、私の著書でも軽く触れている。

子規の時代の小説家でなんとか名前が残っているのは、かなり特殊な人物たちにすぎない。もっとも子規の同級生にも、小説家となった山田美妙はいた。美妙は同じく同級生の南方熊楠と交流を持ち、多才な人ではあったものの、今では忘れ去られた作家にすぎない。

正岡子規も、一度は小説家を志したのだが、これは駄目だと早々に諦めている。子規は『歌よみに与うる書』で、お前らの歌にはハートと現実がないと言い放ったような人物で、俳句の可能性を見出せるだけの見識も持っていた。だからこそまだ存在しない小説を、あるとすることはできなかったのだろう。後に残る仕事といえば雑誌を作るくらいのものだが、こちらも理想を持ち続けたまま成功するのは難しかった。

結局のところ子規は俳句に新しい価値を見出し、新聞『日本』に『獺祭書屋俳話』を連載し、広く世間に受け入れられた。その後は詩人として活躍する一方で、『日本新聞社』で新聞記者として働くこととなる。『日本新聞社』の社長陸羯南(くがかつなん)はその才能を認め、自宅の隣に子規を住まわせ生涯世話をし続ける。

やがて子規は俳句や短歌を通じて様々な人に情報を伝え、結果的に歌自体をメディアにしてしまう。いくつかの幸運と不幸が重なって、偉大な仕事を残すことが出来たわけだが、当時の社会を考えるに、学生時代にあそこまで情熱をかけて文章を書きまくっていたのはいかにも不思議で、かなり無鉄砲な行為だった。先にも書いたように、それを活かすための職業など当時はない。現代ならば Youtuber がいない時代に、架空の Youtuber なる職業を想定し、それになるためのトレーニングを続けるエリート大学生といったところで相当の変人だ。こういうことはかなりの胆力がなければ出来ない。だから子規にとっては、無計画な旅行に出発するくらいはなんでもなかったのだろう。あるいは失敗したらしたで、面白い文章が書けるじゃないかくらいのことは考えていたのかもしれない。

旅行に話を戻すと、子規を含めた『あえて徒歩』を選んだ無鉄砲な一行が目指したのは江ノ島であった。猿楽町から夜十一時に出発した子規たちが、品川に着いたのは午前二時あたり、少々時間がかかりすぎなような気もするが、一行はなんの準備もせずに旅立っている。計画などもなかったはずで、だらだら歩いていたのだろう。

ずっと進んで海辺に出ると、いさり火(魚をおびきよせるため舟の上で焚く火)が見え、素通りするのも惜しいと道の傍らに座りしばらく眺めていたが、実はすでに全員が疲れていた。それでも鶴見までは歩き続け、一休みする頃には眠くてたまらない。歩きながら眠るといった始末であったが、神奈川に到着すると夜も明けて、自然に眠気も消えてきた。

秋山たちは「あれを食わせろ、これを食わせろ」とうるさいが、内心この旅行が嫌になっていた子規は、さっさと汽車で帰ってしまおうと目論んでいた。神奈川駅から品川駅まで二十銭、子規の懐には五十銭しかない。足らない運賃は誰か持っているはずだと楽観視していたのか、あるいは一人くらい置いてきてもいいやと考えていたかもしれない。

神奈川の駅の橋の上で汽車見物をしていると汽笛一声、一行は真っ黒な煙を吸い込み意気消沈、ここぞとばかりに子規が「もういっそここから帰ってはどうだ。行けば行くほど内(うち)が遠くなるよ」と帰宅を提案するも秋山は首を横に振り「ここまで来て帰る者があるものか」と強情を張る。それなら仕方がないと焼き芋を買い、食べながら歩き始めるが、身体が疲れきっていて休憩がどんどん増えていく。

『木の蔭だといつては坐り、石があるといつては腰かけたり』で、もはや『体むといふ様にならず、何だか自然に尻がすわってきて、足が中々いうことを聞かず、腰を投げる様にかければスッカリ落ちつきて中々持ちあがらず』といった有様だ。子規の一行はこれを面白がって『やすむといはずして「かしこまる」といふ名を用い』ることにした。

偉大な人物と対面し自然にかしこまってしまう様子と、疲れすぎてすわってしまう現状が似ているから「かしこまる」としたのだろうか、とにかく一行の間で、休むことを「かしこまる」と呼ぶ一時的なブームが発生する。発案したのが子規かどうかは不明だが、一キロくらい歩いては「おい、かしこまれ、かしこまれ」と連呼し遊び始める。

よろよろと歩く子規たちは、道行く人には追い越され車屋には笑われる。そこで子規は『これぞ昨日の金殿玉楼なるべし』なんてことをつぶやき、みなを面白がらせた。こちらは蝉丸の物語に関わる台詞である。

高貴な身分に生れた蝉丸は、盲目ゆえに捨てられてしまい、昨日までの金殿玉楼(黄金で飾り玉をちりばめた立派な御殿の意)から粗末な庵に住み、日々琵琶を弾き暮すこととなった。蝉丸の姉宮は髪が逆立つ病を患い乱心し、流浪の旅を続けていたのだが、先々で人々からその髪を笑われる。身分のある私を笑うとは、それこそ逆さまで、笑うお前たちが面白いと笑い返すも、川の水に写る自分の姿はなんとも乱れ、自分とは思えないほどだ。ある日のこと辿りついたのは粗末な小屋であった。なにをするともなく佇んでいると、中から聞き覚えのある琵琶の調べが聞えてくるではないか。姉に気付いた蝉丸は、手を取りあい再開を喜びつつも、金殿玉楼に住んでいたのに今はこの藁小屋だと二人悲しむといった物語で、解説が長くなってしまったが、要するに昨晩までは元気であったのに、今日はこんな様になり子供にすら笑われるといった意味であろう。

「かしこまれ」も「これぞ昨日の金殿玉楼なるべし」も一種の言葉遊びで、旅行の合間に一行の間で発生したブームである。旅行中に言葉でブームを作り上げ、記録に残しておくというのは、俳句を再発見しブームにしてしまった子規らしいといえば子規らしい。ちなみであるが、漱石、龍之介の夜間旅行では、そんな事件は起きていない。

子規の一行は「かしこまれ」を繰り返し、昼の十二時あたりようやく戸塚の飯屋にたどり着き、昼飯を食べることになった。強がっていた秋山は、疲れすぎ眠っている。子規が「まだこれから三里もあるが行くかどうする」と問えば、秋山は帰ることを懇願する有様だ。幸いなことに汽車賃を、しっかり者の小倉脩吉が持っていた。神奈川まで戻るのもおっくうだが、途中で買った梨を食べながら、蟻のような歩みで駅を目指す。後ろの足を前の足の先に移動させるのも辛く、かかとがようやく前足の中頃にくるくらいで、通行人からは笑われる。子供が走り回っているのを見ると羨しくなってしまう程で『これぞ昨日の金殿玉楼なるべし』だと繰り返すうち、なんだかんだでようやく神奈川駅に到着し、列車に乗り昨夜は苦しみ歩いた旅程を眺めつつ一時間足らずで新橋へ到着、一行はそのまま帰宅する。まるで弥次喜多の出来損ないだねと子規は締めているが、なんともしまりのない旅行であった。

個人的な印象にすぎないのだが、学生時代の子規は才気が走りに走っていたものの、いまいちふわふわしていたようにも思える。文章を書くことと、新しいものは大好きだけど、将来なにになるかも分からない、だけどなにものかにはなってやる……そんな若者だったとしたら、勢いで旅行に出たのはいいけれど、なんだか違っていたから帰るという結末は実にそれらしい。

この旅行の後も正岡子規は幾度も旅に出て、かなり無茶な旅行にも何度か成功している。内心、俺はなかなかしぶといところもあるんだと自負していたんじゃないのかなと思わなくもない。子規と漱石、龍之介、三者の中で最も旅行を愛したのが正岡子規で、ある意味では「旅に死せるあり」のような結末を迎えている。

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根岸庵の正岡子規(明治三十三年)
正岡子規 斎藤茂吉 創元社 昭和18(1943)年

漱石の豹変

出発日時:不明

出典:漱石言行録 太田達人 予備門時代の漱石

漱石言行録 (定本 漱石全集 別巻)

漱石言行録 (定本 漱石全集 別巻)

  • 発売日: 2018/02/28
  • メディア: 単行本

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三人の中で唯一、夜間旅行について書き残していないのが夏目漱石だ。漱石は気になることはものすごく気になるが、興味のないことは徹底的に興味がない人だった。生活に困った弟子になにも考えず金を出してやる一方で、その記録は丹念に取っておく。常人にはちょっと理解できないが、おそらく次のような感覚であったのだろう。

  • 金については気にならない
  • だけど金を貸した事実には興味がある
  • だから記録を取っておく

夜間旅行についても記録する程でもないと思ったのか、当時はエッセイのような文章を書くことに興味がなかったのか、そのあたりは分からない。とにかく書き残していないことが漱石らしい。

幸いなことに漱石の夜間旅行について、漱石の親友であった太田達人が書き残している。達人は大学予備門時代から漱石と交友があり、それは生涯続いた。達人はなんとも底知れぬ魅力を持つ超然とした人であったらしい。漱石をはじめ出世をしていった旧友たちが、もっと大きな仕事をしろと呼び掛けるも、自分は自分の仕事をするのだとばかりに中学校の校長を歴任した。もちろん中学の校長先生も立派な仕事ではある。しかし知人たちに、太田ならもっと偉大な仕事が出来るのに惜しい思わせるような人物だった。

漱石も同じく人を期待させるなにかを持っていたらしい。数学者や英文学者、教育者や西欧の諸外国と日本を橋渡しする役割など、多くの人から様々な期待をされている。この旅行でも漱石の期待される所以が、感じられなくもない場面がいくつかある。

漱石の夜間旅行は「十人会」によるものであった。「十人会」とは予備校の成立学舎出身の仲間たちとともに結成したもので、十人でいろいろしようといった会である。夜間旅行も「十人会」の企画のひとつだ。

漱石たちの夜間旅行は多少の無茶はあるものの、元気のある若者としてはまだまともだった。会費を一人十銭集め、食料を準備した上で出発をしている。

この旅行がいつ決行されたのか、確定することは難しい。実は『満韓ところどころ』で漱石は思い出話として、この旅行に軽く触れている。しかしその記述は曖昧だ。「明治二十年の頃だったと思う」と書いているのは、恐らく明治十七年から十九年の間、旅行の会費も「十銭」を「二十銭」だと記載している。なお漱石が「二十銭」と記録していた理由らしきものはある。それに関しては後述するが、どちらにしろ漱石の記憶はあてにならない。

それではいつ旅行に出たのかというと、一般的には明治十七(1884)年の初夏、あるいは明治十八年(1885)六月一日とされているようだ。ちなみに達人は「その前晩は根津の遊廓に火事があって、大観音のあたりも、騒いでいると一時になった」と書いている。いくら達人が超然とした人物だとはいえ、旅行の前日に火事があったことを誤認しているとは思えない。ただし火事には噂がつきものだから、根津と遊廓から火が出て、大観音(光源寺?)まで延焼しそうになったというのは怪しいかもしれない。

達人の記憶を信じ、確認のために新聞記事を調べてみると、明治十七(1884)年十二月二十七日に根津八重垣町で火事があったようだが、まさなこんな年末に夜間旅行に行くとは考えにくい。明治十八(1885)年七月二十八日には、根津遊郭でホタルやキリギリスを売る行商人がランプを落し、夏虫を焦がしているが軽いボヤですんでいる。この程度で大騒ぎするとも思えない。(以上、読売新聞東京版より)根津遊郭、あるいはメンバーの下宿周辺の付近で起きた大きな火事を探してみると、『東京市史稿 変災篇第5』に、明治十八(1885)年八月三十日、本郷区本郷町一丁目から火事とある。十人会の主要メンバーたちの下宿周辺の火事ではあるから、達人が色々な噂を聞いたとしてもおかしくはない。翌年の明治十九(1886)年には、三月二十四日に下谷区三崎町2番地より出火とされていている。

私の調査力の欠如が原因だが、結局のところ漱石たちが何日に旅行に行ったのか、確定できる資料は発見できなかった。しかし明治十八(1885)年八月三十日だとすると、なかなか面白いことになる。子規が漱石の旅行を切っ掛けに、旅に出た可能性が出てくるのである。

正岡子規は知人の柳原極堂(俳人)が、八月に会費十銭で鎌倉江ノ島まで徒歩旅行をしたのだと語ったことがきっかけで、夜間旅行を試みていた。会費十銭、目的地が鎌倉江ノ島など、漱石の旅行と合致する点は多い。ただ柳原極堂は松山市の出身で成立学舎にも属しおらず、十人会に入っていた可能性は低い。さらに愛媛で漱石が愚陀仏庵を下宿とし、そこに正岡子規が居候をしていたことがある。その頃に柳原極堂が子規から俳句の指導を受けるため、愚陀仏庵に通っていたのだが、漱石と旧交を温めたというような証言はない。夜間旅行の当時は、あまり親しくなかったとする他ない。

ただし怪しいところもある。後の満鉄総裁の中村是公と教育者で歴史研究者の菊池謙二郎、そして夏目漱石は仲が良かった。三人で三角同盟を結成し、結婚しないことを誓いあったことすらある。なんの誓いだかよく分からないが、同盟を結成する程の仲だとしてもいいだろう。中村是公は十人会のメンバーで、夜間旅行にも参加している。菊池謙二郎がこの旅行に参加していたかどうかは不明だが、この人は正岡子規たちと交流があった。つまり明治十八(1885)年八月三十日の旅行について、菊池謙二郎が柳原極堂に語り、柳原極堂があることないこと面白おかしく正岡子規たちに伝え、明治十八(1885)年九月八日に正岡子規の一行が出発した可能性もなくはない。漱石の旅行に刺激を受け正岡子規も旅に出たとすると、話としては面白い。ただ先にも書いたように、無銭旅行や夜間旅行が流行していた時代である。漱石たちとは別に夜間旅行が試みた者がいても不思議はないのだから、なんとも断言しようがない。

漱石たちがなにを切っ掛けにして旅に出たのかも不明である。旅行前に中村是公が俺は江ノ島に詳しいと盛んに吹聴していたらしいので、それが動機になったのかもしれない。

子規たちとは異なり、十人会の会員たちはきっちり計画を立てていた。会費十銭ではろくろく食事も確保できないので、三食分のお弁当を用意して、神田猿楽町の末富屋に集合、真夜中の一時過ぎに出発した。片道十六里(62キロ)の距離である。日帰りは不可能だから、弁天様のお宮の拝殿で野宿の予定だ。

十人会は子規と同じく夜明け方に品川あたりに到達、当時は細い瓢箪のような草鞋が流行していたらしいのだが、それを履いていた達人は足が痛くて仕方がなくなっていた。子規たちが諦めてしまった神奈川あたりで、漱石たちは一度目の弁当を食べている。この時点で変な草鞋を履いていた達人は、これから七八里先の藤沢にまで行き、江の島へ渡り再び同じ距離を歩けるとは思えなかった。「ここから一人別れて帰る」と言うと、十人会のメンバーは「実は吾々も黙ってはいるが足は痛いのだ。ここまで来て、一人先へ帰るという法はない。是非我慢して一緒に行け」と言う。仕方がないのでまた歩き出す。子規たちが瓢箪のような草鞋を履いた達人にすら負けているのは気になるが、十人会は夜の八時あたりに藤沢、さらに歩き続けて片瀬の海岸まで辿り着いた。

遠くに江ノ島は見えるものの、どこから渡ればいいやら見当も付かない。先にも書いたが中村是公は、俺は江ノ島を知っていると自慢していたのだが、忘れてしまったのかなんなのか、「さあ困ったな、この前来た時はこんな筈じゃなかったが」と一向に頼りにならない。仕方がないので毛布に包まったまま、砂浜で野宿をすることにした。雨も降り出し、海風も吹く。朝になると一行は砂だらけである。互いに互いの顔を見て笑っていると、真水英夫(後に工学士)が脚絆がなくなったと騒ぎ出す。昨晩は犬が吠えていから、くわえて行ったんじゃないかと捜してみると、はたして砂浜の藻屑から脚絆が出てきた。漱石も達人もこのことをよく覚えていて、共に文章で残している。漱石たちの旅行の中では最も大きなトラブルであり、懐しい思い出だったのだろう。

砂の上で朝食を食べうろうろしていると 向う岸から「歩渡し」の男たちがやってきて、江ノ島まで背負っていって渡してやるろうかと声をかけてきた。「歩渡し」とは、橋のない川などで人を負って渡すという職業だ。今では橋がかかっているが、昔はそういう商売があったのである。すでに十銭の会費は少なくなっているから、全員が背負ってもらうわけにもいかない。相談の上で代表者一人が背負ってもらい、あとはその後ろを着いていくことにした。誰が背負ってもらうかと話しあっていると、漱石が「俺が負さる」と、さっさと背中に飛び乗ってしまった。達人は「そこらは素早い男でしたよ」と語っている。

一行はようやく江ノ島に渡る。ここでも中村是公はあてにならない。無闇にあちこち歩いていると、宿屋の庭へと出てしまう。女中さんに「こんなに早く、どこでお泊りになったのです?」と聞かれ、砂の上で寝たとも言えず「そこで泊ったよ」と好い加減に答え、道を聞き江ノ島を一巡、七里ケ浜の砂浜伝いに鎌倉へ向かった。

大半の連中はいい加減に歩くのが嫌に嫌になっているが、元気のいい奴らもいるにはいて、鶴ケ岡八幡宮の石段を駆け上がり、上から「おい、実朝とか頼朝とかの宝物が見せて貰えるんだ、早く上って来い!」と叫んでいる。疲れた奴らにしてみたらそんなものはどうでもいい。こっちは下で甘酒でも飲むから銭を放ってくれと、会計係に呼びかける。この頃は鶴ケ岡八幡宮に、甘酒の屋台店があったらしい。

これで観光は終り、今日中に東京まで帰らなくてはならないが、かなり急ぐ必要がある。そこで歩けない者たちは横浜から汽車に乗せ、元気な人々は駈足で戻ることになった。瓢箪草鞋の達人と後に日露戦争で捕虜になる古城が汽車に乗って帰ることになり、漱石は駈足で帰る組に入った。しかし駆け足で帰るというのも無茶な計画で、すでに弁当はなく、会費も少なくなっている。おまけにみんな疲れ切っていて、昨日より早く移動できるわけがないのだから、到着は明日になるんじゃないのと思ってしまうのだが、漱石だけが夜遅くに平然として帰り着き、達人と古城を驚かせた。どうやら漱石は駆け足組から抜け出して、途中で汽車へと乗り込んだらしい。漱石は「そこらは素早い男」だったのである。

達人と古城が汽車に乗ったのは横浜駅だから、漱石が汽車に乗ったのは横浜以降ということになる。横浜駅から神奈川駅までそれ程の距離があるわけでもなく、漱石が夜遅くに着いたことから考えると、もう少し駆け足を続けたはずだ。神奈川駅から川崎駅までがだいたい十キロで、ここから品川駅まで乗り猿楽町の下宿にたどり着くくらいで夜になるような気がしないでもない。

ひとつ謎なのが、漱石がなぜ汽車に乗れたのかである。二人を汽車に乗せてしまい、十銭の会費はほぼ残っていなかったはずだ。漱石は異常に潔癖で不正を嫌うから、無賃乗車をするわけがない。仲間たちもそれ程までに疲れていない漱石だけを、優遇するとは考えにくい。

ここで思い出したいのが、漱石が会費を『二十銭』としていたことだ。川崎駅から品川までの運賃は、当時十銭だった。川崎から漱石は汽車に乗ったと仮定すると、非常用に十銭を持っていたということになる。会費が十銭で運賃が十銭で合計二十銭、漱石はこの数字を記憶していたのかもしれない。

失敗してしまった子規の旅行と比べると、漱石たちの旅行には計画性があった。弁当を持って来ていたことと、ある程度の準備をしていことが、その明暗を分けたのであろう。あるいは旅慣れたものがあり、ペース配分などもしていたのかもしれない。ただ駆け足で今日中に帰るというのは、若者らしい無茶であり馬鹿馬鹿しくて面白い。

この旅行で漱石は大活躍をしたわけではない。ただ漱石は起きたことを、あるように受け入れるといった思想のようなものを持っていた。悪ければ悪いなりに、良ければ良いなりに、それを受け入れる。そんな漱石の考え方が、そこかしこ見え隠れしているような気がしないでもない。

先にも書いたが子規や漱石の学生時代、小説家として生活していくことはとうてい難しかった。だから若き日の漱石は、現代の意味での文学に志したことなどなかった。それからずっと時が過ぎ去り、明治四十(1907)年に、漱石は職業小説家となっている。とはいえ、まだまだ小説家の地位は不安定な時代であった。東京帝大英文科講師から、小説家になる選択肢は、当時としてはありえないものだった。しかし漱石は、それを受け入れて決断してしまう人物であった。

夜間旅行で漱石は、背中に飛び乗り、駆け足組から離脱して鉄道にも飛び乗っている。突飛な行動ではないものの、他人と違う行動を平然としているのは、漱石らしいといえば漱石らしい。

もともと漱石は優秀な男ではあったのだが、夜間旅行の数年後、落第をきっかけに並外れた勉強熱心な人物へと豹変する。水にぬれたくないから背中に飛び乗るし、駆け足に疲れたから汽車に乗る、勉強しようと思ったから熱心に勉強する、当たり前じゃないかばかりに平然と他人と異なる行動をとる。そんな姿を見た人々が、こいつはなにかをする男だと期待をしたのではないのだろうか。

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愚陀仏庵に住んでいた時代の夏目漱石

芥川の演出

出発日時:明治三九(1906)年四月三十日 午前零時

出典:芥川龍之介未定稿集 夜行の記

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芥川龍之介が十四歳の頃、明治三九(1906)年四月三十日に総勢七名で品川より横浜まで歩き続ける夜間旅行に挑戦をしている。子規や漱石と同じ方面への旅行である。

十四歳の子供たちが夜間旅行に挑戦するのは少し無謀のようではあるが、この時代になると子規や漱石を含めた先達が多くいた。雑誌や書籍で夜間旅行に関する情報が、充分に流通してもいる。龍之介たちは、夜間旅行とはこういうものだと知っていたはずだ。最早、夜間旅行は普通の旅行になっていた。

夜間旅行だけでなく、龍之介の時代は、なんとか文章で生きることができる時代にもなっていた。彼が文章を志したのもかなり早い時期で、幼年時代から回覧雑誌を作成している。子規の頃とは違っていて、わずかながらもモデルケースがいくつかあった。

個人的には芥川龍之介は気取り屋で、格好つけなところがあったように思っているのだが、それもメディアが求める小説家像を維持するための演出だったような気がしないでもない。この旅行記でも、龍之介が活躍する場面は多い。旅立つきっかけも、龍之介の思い付きだ。

友達と相撲をとり遊んでいるうち、一人去り、二人去り、親しい友人が四名が残った。龍之介はふと思い付き、徹夜して遠足をしてみようと持ち掛ける。三名が十五里(約60キロ)以内であれば行こうと同意する。

ところが残りの一人、テニスと剣道に親しむ友人が黙っている。龍之介、脚に自信があったのだろうか、日頃スポーツ自慢の男を歩かせて疲れさせるのも一興だと考えた。しゃべりが達者な芥川が、しきりに行け行け男だろうと説得し、友人も渋々ながら「それでは行こう」と了解する。この時代の龍之介は、まだまだ快活な少年だった。

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快活さが極まり奇行に走る龍之介

散々煽り立てた芥川であったが、実際のところは夜間旅行に、それほど乗り気でもなかった。しかしさきほど熱心に説得した手前、今更行くのは嫌だとも言えず、土曜日の夜に横浜へと出発することになった。

当日を迎えると、噂を聞いた友人も加わり総勢七名、みなが夏服に草鞋だが、用心深い男が一人、上着を三枚重ねてきた。一行は出発するも、昨日まで降っていた雨で道が悪い。十キロほど歩いたところで、さらに雨が降ってきたため中止しようかと提案する者もいたが、反対多数で歩き続ける。十五キロほど歩いたところで夜中の二時、いい加減に疲れてきたと農家の軒先で野宿をした。

その一時間後、龍之介は友人たちに揺り起された。友人たちはすっかり出発の準備ができているから、龍之介は飛び起きて大急ぎで草鞋を履く。言い訳まじりに「野宿は思ひしより爽快なるもの哉。熟睡何時、真に一分の思なり(野宿ってのは爽快だね。熟睡しすぎて一分に感じられたよ)」と龍之介が語ると、ある友人は「否、余は瞬時もまどろまず。君の云ふ一分は余にとりて一年のみ(こんなところじゃ一睡もできやしない。君の一分は僕にとっては一年だよ)」と応じている。

疲れきっているにも関わらず、わずか一時間の睡眠は不思議に感じるのだが、結局のところ友人たちは不安で一睡もできなかったのだろう。十四歳くらいならありそうな話ではある。そんな中で一人熟睡していた龍之介の度胸と鈍感さが光る。

再び七人は歩き始め、途中で饅頭を一人あたり九個買い朝飯として食べ、夜明けあたりに神奈川の町に至る。饅頭九個は多いように思えるが、この時代は炭水化物中心の食生活で、一般的な若者は一日あたり五合(九百グラム)弱くらいの米を食べていた。いつもと違う場所で、仲の良い友達とともに歩きながら食べる饅頭なのだから、九個でも足らないくらいだったのかもしれない。

一行は歩き続けた果てに、とある町のある丘へと登り、日の出を眺めると空は晴れ渡り青く、朝日が紫の雲を開いて見えて気持がいい。耳をすませば鶏の声、そこかしこのかまどから煙が立ち上る。思わず龍之介は、朝風に向かってこう叫ぶ。

「生来、未嘗、かかる壮快なる朝にあわず(生れて未だかってこのような壮快な朝はなかった)」

これで龍之介の旅行は終り、帰路について書いていないのは、おそらく鉄道を使ったからで、叫んだところで終りにしておいたほうが粋だという計算であろう。俺はグッスリ眠れたぞと威張ってみたり、朝風に向い「生来、未嘗、かかる壮快なる朝にあわず」と叫んでみたりと、ストレートな自慢や格好のつけたかたが面白く気持がいい。あるいは読書家の龍之介だから、元ネタがどこかにあるのかもしれない。

若い頃の龍之介はそこそこ旅行が好きで、スポーツにも積極的に参加している。特に水泳に関しては、内心自信を持っていたようだ。この夜間旅行でも、仲間を引っ張る役割を果していたような気がしないでもない。しかしそんな快活だった性格も、養子問題をきっかけに、徐々に暗くなっていく。

人は演じるうちに、演技に飲み込まれてしまうことがある。葛西善蔵は太宰治も敬愛した私小説作家で、貧乏で生活も性格も破綻しているが最高の作品を書くという形を追求し、そのように死んでしまった。単純に人生が面倒くさすぎて時間を早送りするため、酒を飲みまくっていたらそういう風になったという側面は否めないのだが、それでも善蔵の演技はすごかった。

善蔵は金もないのによく酒を飲んだ。ツケを重ねた酒屋のオヤジは、そんな善蔵に惚れ込んでしまい、一切催促しなかった。ツケは積もり積もって、今だと二百万円あたりだろうか、当時で七〇〇円ほどの借金になった。そのまま善蔵は死んでしまうのだが、集まった香典はツケと同額の七〇〇円、親父は「あの人は死ねば香典の七〇〇円も集まる人だった。俺の人を見る目は正しかった」と吹聴し多いに自慢したという。このように善蔵の演技は、文学なんてなにも知らないオヤジをも飲み込んでしまう。

芥川龍之介はというと、外聞を気にしすぎなほどに気する傾向はあったものの(このあたりは『思い出すことども』に詳しい)、本来の意味での都会人であり、江戸っ子でスマートな男だった。だから演ずるうちに自分を忘れてしまうようなことはなかったはずだ。芥川龍之介は、与えられた環境の中で、最高の仕事をしたのであろう。

それを理解した上で、かなわない事ではあるが、真夜中地べたでグーグー眠ったり、「生来、未嘗、かかる壮快なる朝にあわず」と叫ぶような性格のまま芥川龍之介が書いた小説を読んでみたいと思わなくもない。

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ポーズをキメる芥川龍之介
芥川竜之介集 新潮社 昭和2(1927)年)

子規、漱石と龍之介の間

正岡子規の旅行は完全な遊びで、トラブルを楽しみたいといったところすら感じられる。夏目漱石は淡々としており、興味がなくもないからついて来たけど、やりたいように俺はやるとといったところが見え隠れする。芥川龍之介は俺の格好いいところを観せてやるといった稚気がある。三人のその後の活躍を考えると、それぞれの性格がそれなりに出ていて面白い。

もうひとつ、子規と漱石の夜間旅行と龍之介との間にある、二十年ほどの隔たりに注目したい。三人の意思や才能の背後には、一個人では抗うことのできない巨大な時代が存在していた。漱石や子規の時代、夜間旅行は模索するものであった。二人は明確な目的を持って旅行をしたわけではない。人から聞いたから、あるいは仲間に誘われてなんとなく夜間旅行に出掛けている。

芥川龍之介の時代になると、夜間旅行をする理由や理屈が確立されていた。金もかからず暑くもない上に、奇妙な事件や事故に遭遇しやすい夜間旅行で、肝っ玉を鍛えよう、なんていうガイドブックも書かれている。龍之介がグーグー眠っていたことを強調していたことから推測するに、彼らのグループは半ば度胸試しの意味で旅行に出たような気がしないでもない。

龍之介の時代に漱石や子規が夜間旅行をしていれば、もっと違うものになっていたはずだし、その逆もまた同じである。

夜間旅行に関してだけでも、これ程の違いがある。まして人生設計には、さらなる変化が生じていた。社会がまだまだ定まっていない漱石、子規の時代に芥川龍之介が野心を持ち行動したとすれば、意外な職業を選択していたような気がする。芥川の時代に子規が生れていたとしたら、大学になんか進まずに雑誌投稿を繰り返し、しがない娯楽物語作家で終ったかもしれない。あるいは健康法や衛生に興味を持ち、思いの外に長生きしていた可能性もあるが、こんなことを考えても仕方ないので、ここらで止めておこう。

巨大な時代の流れというものは個人の意思や才能とは関係ないことで、漱石のようにそういうものだとしてあるように受け入れつつ、時に突飛な行動でささやかに抵抗するより他ないのかもしれない。