この世には無添加な失礼が存在している
だいたい恵まれた環境ですごしてきた、いわゆる育ちがよい人による無添加失礼を目にすることが増えてきた。最近よく見るのがわりと良い家庭環境の人による俺はこんなにがんばったんだ的な発言に対し、お前それは環境が良かっただけだろボケ無能が的な反応が帰ってくるみたいな現象で、これは相互無添加失礼みたいな雰囲気があってわりと最悪だと思う。
そもそも無添加失礼ってなんだよって話なんだけど、これは私が勝手に使っている言葉で、無知や経験の欠落から意図せず失礼になってしてしまうことである。呼び方はナチュラル失敬でも自然派無礼でもなんでもいいんだけど、とにかくそういった現象が増えてきている。
こういったものと出会った時に、怒りを表明するのは良いけれど、傷つくことはないよなと私は思っている。なぜなら他人の無知が起因して発生する現象なので、自分が傷つく意味がないからだ。無添加な失礼の存在を認識しておくと、あああれねと納得できるはずなので、ちょっと詳しく解説してみることにする。
一応先に書いておくと、わかりやすいので恵まれた人の無添加失礼を先に取り上げているけど、実際のところ無添加な失礼は誰もがやらかしてしまう可能性がある。これについては後のほうに書いている。
オノ・ヨーコさんによる無添加な失礼
というわけで解説していくわけだが、具体的に最近の出来事を取り上げると角がたつので、ここではオノ・ヨーコさんの発言を事例として紹介したい。なぜオノ・ヨーコさんなのかというと、すでに伝説みたいになってる上に、オノ・ヨーコさんは私の文章を絶対に読んだりしないと思われるからだ。ヨーコは絶対に俺に興味ないと断言できる。これなら誰も傷つかない。
ちなみにオノ・ヨーコさんについて私はあんまり知らない。だから Wikipedia などを参考にして以下の文章を書いている。
オノ・ヨーコさんは前衛芸術家で、数々の名言を残しているのだが、そのひとつに『貧乏には耐えられる でもさみしさは さみしさには耐えられない』というものがある。しかしオノ・ヨーコさんは安田財閥の直系に産まれた人で貧乏とはほど遠い雰囲気がある。
彼女がいつ貧しさを感じたのかは知らないけれど、おそらくサラ・ローレンス大学を退学して結婚した1956年-1960年あたりだと思われる。この時代は普通に生活のために仕事をし、習字やら華道を教えていたらしい。
参考リンク:オノ・ヨーコ27歳〜日本を代表する財閥のお嬢様だった彼女が経験した貧しい結婚生活、前衛芸術家としてキャリアをスタートさせた頃より
彼女には彼女のなりの貧しい生活を送った経験があり『貧乏には耐えられる でもさみしさは さみしさには耐えられない』と語ったんだと思う。それは彼女にとっての事実なんだから、他人がどうこういうことはできない。
ただ当時の日本の貧しさを考えると、お前なに言ってんだよって感じではある。貧乏な家庭の人はサラ・ローレンス大学に入学できないし、ニューヨークで習字やら華道を教えるような素養を身に付けることは難しい。多分だけどオノ・ヨーコさんが貧乏暮しをしていたアパートも、天国みたいに感じる人のほうが多かったと思われる。
こういうのは無知から生じる失礼さでしかないので、個人的には怒りは感じない。それどころか滑稽でちょっと面白いとすら思ってしまう。その一方で人によってはある種の醜悪さを見出したり、腹を立てたりするかもなとも思う。
無添加な失礼が発生しやすくなっている
コミュニケーションツールが発達することで、最近は普通なら出会わない人が出合う機会が増えてきた。メディアの形も変ってしまい、現在では以下のようなことが普通に起きる。
- バズった文章が多様な経路で入り込んでくる
- SNS で色々な立ち位置の人の発言を見ることが出来る
- おすすめ機能で本来ならば読まないはずの文章を目にしてしまう
こういった環境では、無添加な失礼が発生しやすくなる。先に出したオノ・ヨーコさんの『貧乏には耐えられる でもさみしさは さみしさには耐えられない』は、当時そういう文章を読みたい人だけが読んでいたはずで、興味もないし知りたくもない人には届かなかったはずだ。たまたまテレビかなんかで観たとしても、「この人も昔は苦労をしたんだろうなぁ」で済んでいたような気がしないでもない。なぜならオノ・ヨーコさんについて知るためには、それなりの労力が必要であったからだ。今なら検索すればすぐにオノ・ヨーコさんの経歴が分かってしまう。
ちなみに意識すらしない無添加な失礼さは、育ちの良い人だけのものではない。なぜに育ちの良い人の事例を出しているのかというと、先にも書いたが構造的にわかりやすいからでしかない。無添加失礼は、誰もがやらかしてしまう要素を持っている。私の場合だと昔から社会の仕組み? 階層? みたいなものに全く興味が持てないので、そのあたりでものすごい失礼な発言を繰り返してきたような気がする。
何度か書いたことがあるのだが、私は三十五歳あたりまで学校や会社などの集団での活動は、せいぜいごっこ遊び程度のもので、普通は仕方なしにやっていて、まれにそれを面白いと思う人がいるといった認識であった。理III?理II? 教養?みたいなのも未だになんなのか知らないし、社会的な地位が向上したり収入が上がった人が、絶対に生活水準?みたいなのを上げていくのも意味が分からなすぎて面白く感じたりしていた。
今まさに私は私が興味がなく知らないことについて書いたのだが、これもおそらく多少は理解している部分であって、本当に興味ないことは認識すらできない。今も認識しないまま、失礼なことを言っちゃってるはずだ。そういやこの記事で私は『育ちの良い人』って言葉を使っているけど、これも無添加失礼な気がしないでもない。腹を立ている人がいたら申し訳ないとは思うけど、面倒くさいからなおさないくらいな罪悪感しかなくて、このように無意識のうちにやらかしてしまうのが無添加失礼で、私にはポカッと抜け落ちところがあり、無知が原因でものすごく人に怒られたことがあるものの、なんか嫌な雰囲気であったくらいの記憶しか残っていない。興味なさすぎてその内容についてすら、忘れてしまっているくらいに興味がない。本当に素でしかなくて意図もなにもない。完璧に無添加な失礼さである。
たまに育ちの良い人が失礼なことを書いちゃって、みんなからメチャ怒られてるのにキョトンとした顔で明後日の方向へ謝罪していることがあるけれど、これ私と同じく興味がなさすぎるあまり、その辺りの感覚が完全完璧に欠落しているからなんだと思う。
誰もが興味のない分野を所有している
経験値が増えていくと、よく分からないけどこの辺りに触ると怒る奴がいるから触るの止めとこうみたいな感じになってくる。ただ興味のないことは本当に興味がないんだから全てを防ぐのは無理である。そして誰もが興味のないことを持っているにもかかわらず、興味がないということになかなか気付けない。例えば以下のリストは、私が興味のあること、興味があったこと、認識していることである。
- エンジンフィンの美しさ
- 台所洗剤の性能
- オートバイのスイングアームの形状
- 村上浪六作品が講談速記本に与えた影響
- コーヒー豆の焙煎時間による味の変化
- 自転車のスプロケットの加工精度
- 明治中頃の徒歩旅行と苦学の関係
- LED とリチウムイオン電池の登場で各種プロダクトのデザインが変化した事実
- 自然解凍の冷凍食品で一番使い勝手の良い製品
- 弁当箱の素材による使いやすさの違い
- オイル、グリスの種類
- 日本叢書
- x11 版の Emacs を macOS で使い続けるのかどうか
- 最近販売されているブラーバで市販シートを使う方法
- 明治の合理性の普及運動が終戦時にどういう形になったのか
- まるごとチルドルーム
- 初代トラック野郎一番星号のプラモデル
ひとつくらいは考えたことすらないような項目がありはしないだろうか? あったとすれば、そこで無添加失礼が発生する可能性がある。
世の中には色々な人がいて、自分が興味を持つことに対して無関心さを向けられると怒り出す場合がある。個人的な経験からの判断だが、自分が受け入れられて当然だと考えている育ちの良い人……つまり無添加な失礼さを発生させやすい人は、その傾向を多少なりとも持っているように感じている。自分が受け入れられて当然、受け入れられないのが当り前といった感覚の違いなのかもしれない。このあたりの感覚も、無添加失礼と関連していそうではある。
少し話がズレてしまったが、とにかく誰もが無添加な失礼を生み出す可能性を持っている。知らないことには配慮できないし、尊重することもできないのである。
文化の盗用
無添加失礼と少し似ているのが、文化の盗用だ。胡麻油の品質に興味がないくらいでは文化の盗用は発生しないが、ある場所で生活しその世界に生きている人に対し、違う価値観から判断を下した場合、無添加失礼は文化の盗用に近いものになるような気がしている。
文化の盗用はなかなか難しい概念で、まだまだ明確に定義されていないように見える。日本に住んでいるのであれば、海外のアーチストがゲタをカスタネットのように利用しているのを観ても、せいぜい馬鹿じゃないのかくらいにしか思えない。しかし海外の街に住んでいたとしたら、また捉え方が変ってくるはずだ。
今のところ私にとって文化の盗用は、感覚的に分からないでもないが、状況と置かれた立場によって感じ方が違うためまだまだ曖昧な概念、長い時間をかけ徐々に明確になっていくといった存在である。そしてその意味を明確にするためには、無添加失礼についても認識しておいたほうが良いような気がしないでもない。しかし無添加なだけに本人や同じような環境にいる周囲の人々が認識できないといった問題もあり、なかなか難しい。
例えば私がどこかのコミュニティーに滞在し、そこに住む人たちと交流するとする。この地域にはこういった奇妙な習慣があって面白いですね。そして私が気を使ってやればコミュニケーションを取れる素晴しい貧乏な人々です……的な文章を書いたとすると、これはかなりの無添加失礼であると同時に、文化の盗用に見えなくもない。
私は明治の文化について調べているため、国内であれば歴史的な背景などを考えることができる。だから、おそらくそういうことはしないだろうなといった安心感がある。その一方で国外に出てしまえば、一気に無知になってしまい、色々とやらかしてしまうはずだ。
文化がまざることは悪いことではない
無添加失礼を排除する最も手っ取り早い方法は、異なる文化の人々が互いに交流しないことである。文化の盗用もチョット見良さそう程度の認識で、なにかを取り入れ発生している事例が多い。知らない文化は盗用しようがない。しかし人間はより早く広くコミュニケーションを取るために技術を進化させてきたのに、分断を進めるというのも矛盾している。
こういうことは昔から考えている人がいて、『社会と文学 荒木省三 (鷲泉) 今井緑泉 著 鳴皐書院 明治三四(一九〇一)年』に電車をコミュニケーションツールとして捉えた評論が掲載されている。『社会と文学』は出版当時も現在もあまり話題になることのない評論集だが、なかなか鋭いことが書かれている。例えば芸人が教養を身に付けたら、自然に芸能を観る下層社会の人々にも教養が行き渡るのだから、芸人を学舎に入れ文学を学ばせろといった主張があり、現実的かどうかは別にしてかなり先鋭的な内容だ。おそらく荒木という人は、一種の天才ではあったのだろう。
ただし歴史に名前が残っていないことからも分かるように、あまり恵まれた環境で育ったわけでもないらしい。『社会と文学』にも、お金持ちに対する嫉妬混りの罵倒が幾度も登場する。そういう意味では、客観性に欠けてしまっているところも多い。
それでも見るところは多く、百年以上も前にコミュニケーションツールが発展し本来出会わなかった人々が出合うことについて、かなり面白いことを書いている。せいぜい千文字以下の短文ではあるが、文語体である上に前提知識がなければ読み取れないところも多いため、で現代語に訳した上で適宜補足したものを掲載する。
汽車の平等
汽車には上等・中等・下等車の区別がある。上には華族、中には紳士、下は我々平民を乗せて走る。汽車の中で三者が出合うことはない。
北は北海道から南は九州まで鉄道網は全国に広がり続け、移動のために必要な時間は減っていく。それに伴って上中下の階層が全国に広がり続けていく。汽車がいかに走ろうとも、上等・中等・下等車を人は自由に行き来することができないからだ。
上流の人々が我々平民とは口も聞きたくないと考えているのであれば仕方がないのだろうが、仕方ないことを仕方がないとしていては社会を改良することはできない。だから私は社会を改良する第一歩として、まずは汽車の平等を主張するのである。
基本的に華族様や紳士たちは欲が強く利己的である。財産が増えるにつれ傲慢になり、外見を飾り立てることで不遜になる。彼らは平民たちの生活を知らない。
平民は受けた教育の高低はあるものの、実直に働く虚栄を望まない素朴な人々だ。そんな彼らも華族や貴族の本質を知らない。ただただ萎縮するばかりである。
汽車には階層も住む場所も性質も異なる人々が乗車する。華族や貴族たちが汽車の中で平民たちの木訥な会話に耳を傾け、その生活を知ることができれば、別の世界の存在を認識する。
平民たちが華族や貴族たちの会話から、彼らも同じ人間なのだと知ることになる。汽車が走るにつれて、上流の人々は庶民の中に尊ぶべき点を見出し、彼らに恥しくない生き方をしようと考え始める。庶民は上流の人々と対話し相互の理解が広がっていく。
私は上流下流の人々の最も簡便な集会所が汽車だと考える。地域の差を埋めた汽車は、貧富の隔たりをも吹き飛ばす力すら持っているのである。
地域と階層が異なる人々は、互いに未知の情報を持っている。それを乗せて走る汽車はメディアでありコミュニケーションツールだ。ところが汽車の座席が料金で分けられていると、情報が分断されてしまう。そこには自由がないし平等もない。座席の等級を廃止することで、汽車はよりすぐれたコミュニケーションツールとなりメディアになる……といったところで、楽観的すぎるきらいはあるが、現在でも通用する点もあるような気がしないでもない。
正直なことを書いてしまうと、文化圏の違う人と交流することは面倒くさく感じてしまう。それでも人類は、今もコミュニケーションツールを発展させ続けている。これは絶対的な事実なのだから、個人の嗜好で分断したほうが良いとは言えないなといったところである。
理解しようとする弊害、変なものが発生する可能性
一般的に、学ぶことや理解をすることは善とされている。しかしながら、無添加な失礼を克復しようとする行為にはデメリットも多いと私は考えている。
例えばオノ・ヨーコさんが……と、オノ・ヨーコさんばかり出して申し訳ないのだが、他に最適な人もいないので止むなくオノ・ヨーコさんが、本当の貧しさを知ろうと考えたとする。ところがその辺りの経験値やセンスや興味が欠落しているのだから、ろくでもないことしかできない可能性が高い。書籍や資料で学ぶというのなら良いのだけれど、当事者が生活している場所に行き体験するといった方向に突っ走ってしまうと、無駄に無添加失礼を発揮してしまい悲惨なことになるかもしれない。彼女の領域で素晴らしい仕事をしてもらったほうが、世の中の幸福度の総量は向上するような気がする。
その一方でその分野に興味もないし、完全な無知な人間が参入することで、変なものが発生する可能性もある。そういった実例があまり思いつかないのだが、リビングルームですごしたことがなく、全く興味もない人にリビングルームを作らせたとすると、大半はドラマや漫画なんかで観たものを再現しようとすると思う。しかし10000にひとつくらいは面白いものが完成する可能性がないでもない。ただしこういうことは偶然に発生することだから、コントロールするのは難しい。無理やりそんなことをする意味があるのかなといったところである。
それじゃ私はというと、今のところ自分の興味のある分野を補完するため、興味のないことを学ぶといったところに落ち着いている。この間はほんの少し、20ページ分程度だけ数学を勉強した。その行為自体がなかなか面白い上に、必要になると書くスクリプトのようなものへの理解も深まるといった実益もあった。私の学び方の方針のようなものは、以前に書いたことがある。
上の記事と重複するけど私はすでに中年で、これから新しいことを勉強したところで超一流にはなれない。数学の勉強も中学生のころなら一瞬で理解できたんだろうなと何度か思った。確実に能力は劣化しているのだが、それでも自分が必要なだけ学べばいいやっていう感じである。
こういうことを続けたところで、興味がなく欠落した部分が補えるわけではない。それでも新しい知識と欠落している分野が多少は重なることもあり、なんとなくこうなのかなといったことが解ってくる。そうするとこれは知らないことだから、言及しないようにしようと思えるようになる。まだまだ日常生活だとやらかしちゃうこともあるんだけど、無添加な失礼さを発揮する数はかなり減ってきているように感じているが、実際のところは不明である。感じているだけかもしれない。
無添加な失礼に出会ったら
この話に結論はないのだが、もう少し私が考えていることを書いておこう。
なるべくなら無添加失礼には出会いたくないし、無添加失礼をしなくもない。それでもやっちゃったり、やられたりするのが無添加な失礼で、現状だと仕方がないような気がしている。だからあるっていう前提で、そういうものに出会った時にどうやりすごすのかを考えたほうが生産的かなと考えている。
他人の貧困を見てはしゃいだりするのは失礼だけど、そういう人は特に問題のない容姿と能力を持って生れ、恵まれた環境で育ってきていることが多い。その辺りの感覚が欠落しているのも当然で、それはそれでいいんじゃないのかなと私は思ってしまう。そういった醜悪な無邪気さを放置すべきではないって考え方も理解できるけど、資質や育った環境は人によって大幅に違う。強制的に理解させるのは無理なので、その人が理解できるところで能力を発揮してもらったら良いような気がしている。
バランス良く自然に文化と付き合ってきた感じの良い人にも、時に欠落している感覚が見え隠れしたりする。そういう部分には、かなりの気持の悪いものがつまっているので、わざわざ引きずり出す必要はない。感じの良い人として付き合ったほうが、お互いに良い結果が出るはずだ。
そしてこの文章にも、無添加な失礼が存在しているような気がしている。他人を怒らせようとして書いているわけではないんだけど、なんとなく怒る奴がいるんじゃないかなと思わなくもない。なんでそんなことを思うのかというと、私が認識していない感覚を持つ人にとってはムカつくポイントがいくつもあるんじゃないかなと、うっすら想像できるからである。しかし失礼ポイントが明確には分からないから、どうしても失礼が発生してしまう。そんな状況下で個人ができるのは、なるべく失礼にならないように最大限に努力することくらいで、お互いにすみませんねぇと思うしかない気がしている。こういうことはやったりやられたりなので。
無添加失礼に関連して最近考えているのが、人間は一人で全ての経験をすることはできないってことだ。私は文字を大量に読む人だけど、読まずに生きる経験はできない。私は社会とかどうでもいいけど、そうじゃない人の生き方はよく分からない。だから抜け落ちている部分があるのが当然で、他人の感覚で傷ついたりする必要はないんじゃないかなと思っている。
先に現状だと無添加失礼が存在するのは仕方がないと書いたけど、こういったことを解決するのはテクノロジーだと考えていて、究極にまでコミュニケーションのコストが減れば、自然に消滅しちゃうんじゃないかなとも考えている。真ん中あたりで紹介した荒木省三の『汽車の平等』は、面白いけど現実的ではない。しかし『平民たちが華族や貴族たちの会話から、彼らも同じ人間なのだと知』り『上流の人々は庶民の中に尊ぶべき点を見出し、彼らに恥しくない生き方をしようと考え始める』ためのコストがほぼゼロになれば『相互の理解が広がっていく』ことは難しくない。汽車でそれを現実にするのは難しく、ネットでも無理かもしれない。それでも生きているうちに、そんな時代がやってくるかもしれないなと思わなくもない。
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