山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

猫好きで収集癖のある男が大正二年に書いた一日一善日記について調べるうち空論の時代へと行きついてしまった

前書き

今回の記事はものすごく長い。一日一善を扱った内容で30000文字以上ある。私が書いたブログの記事としては最長だ。

もともと軽い気持で一日一善について調べ出したのだが、関連事項は広がり続け調査に予想外の時間がかかってしまった。そもそもなんで俺はこんなことを調べているのかと自問する日々を経て書き始めた記事である。労力のわりに興味を持つ人が少なそうな内容で、こんなものを誰が読むんだろうかと思いながらも、謎の情熱が沸き上がり無駄に長くなってしまった。

なんだかよく分からないものを書いてしまったなと思うものの、悪いことばかりでもなかった。一日一善について調べ、その結果をまとめたものを書いている時期に、世の中では色々な動きがあってなんだかなぁと脱力してしまうこともあったのだが、改めて一人で調べて発表するのはなかなか良いことだと改めて感じることができた。これは良い出来事だった。

流石にこの長さだとブログだと最後まで読んでくれる人も少ないだろうと思い Kindle 本にもしてみた。

形式は異なるがブログと内容は同じで、やはり誰が読むのかといったものに仕上がっている。やる気のない表紙から分かるように、手間はかけていない。私は文章を書く際にテキストデータを Epub に変換し推敲する。その際に出来たデータを利用して Kindle 本にしただけのものである。だから画像の処理などはいい加減で、読みにくいところもあるかもしれない。そのあたりはご容赦願いたい。

はじまりは偶然だった

古い書籍を読んでいると、たまに『なんだこれは?』というような文章と出合ってしまうことがある。『一日一善 山本滝之助 著 洛陽堂 大正二(一九一三)年』に掲載されている日記もそういうものだった。

この書籍で作者の山本滝之助は一日に一度は善いことをして日記として記録しようと主張し、その実例として一年分の日記を掲載している。ところがその内容は、なんとも微妙なものだった。

サンプルとしての日記を掲載する意図は分からなくもない。しかしその内容はなんだか分からない。これが第一印象だった。そのまま済ましてしまってもよかったのだが、なんとなく気になってしまい、ちょっと調べてみる気になった。一日一善なんて小さなものなのだから、それほど時間はかからないだろうと踏んでいたのだが、今度は一日一善がどこまでいってもよく理解できない。そんなこんなで、予想外の量の様々な文献を読むこととなり、一ヶ月かけて分かったことは、これまた微妙なことだった。

『一日一善』の山本滝之助は、広島出身の社会教育家で、青年団の組織化に貢献した。一般的には一日一善よりも、そちら方面で取り上げられることが多い人だ。よって山本の『一日一善』を調べる過程で、どうしても青年団を含む教化団体に関する文書を避けることはできなかった。それらの文書では主に組織の仕組みや国との関係、あるいは外側について言及しているものがほとんどだった。組織自体も拡大を目指したものが多く、個人の実質的な行為に興味がある私にとっては、あまり魅かれるところがなかった。しかし多くの人が建前で動いている、あるいは動かざるを得ない時代にあって、山本が実用的で意味がある手法を探っていた点に私は引き付けられてしまった。

もっともその試みが全て大成功したわけでもない。猫が好きでコレクターとしての気質を持つ山本滝之助は、洗練された人力 SNS の確立を目指し一定の成功を収めたが、大正から終戦にかけ日本が陥いった空論の時代に飲み込まれていく。そんな中でもショボい現実に向き合いながら、山本は地道に世界を良くする活動を続けた。これは過去に起きた、小さな出来事でしかなく、普通の人にはあまり関係のない話でもある。

その上、山本滝之助の活動は多岐に渡り、私の領域ではない事柄も多い。特に青年団の成立に関わった多士済々の人物などについては、私の力量が足りず扱えなかった。もうちょっと突っ込んで書きたいところもなくはないのだが、これ以上長くなったら誰も読まないだろといった雰囲気もあった。また今回はわりあいに扱いにくい内容で、あえて書いてないところも多い。その辺はなんとなく感じてもらえればありがたい……というように、かなり面倒くさい文章でもある。

そんなわけで先に書いておくと、これは長いわりに面白い話でもないかもしれない。教訓などもほとんどなく、あまり役に立たないはずだ。それでも私は山本がなぜだか好きになってしまい、どうしても彼を誰かに紹介したくなってしまった。そこで話題を一日一善に代表される山本が打ち出した企画を中心にし、その周辺の文化について紹介することにした。青年団自体に興味をお持ちの方は優れた研究の成果が多くあるので、そちらをあたっていただければ幸いである。

色々あって前置きが長くなってしまったが『なんだこれは?』の気持を共有し、山本を多少なりとも好きになってもらうために、一年分の日記の中から特徴的な記述を抜き出してみよう。

一月から六月まで

一月 二日:或る人に「一日一善」を勧めた。

一月 二十日:途上にあった茶碗の片をば、一日一善とはこれだよ、と言わぬばかりに、片側に蹴り寄せて友に示した。

一月 二九日:今日は一善なし、 台所にツック然としてイた猫を火燵の中に這入(はい)らせてやつた。

二月 九日:食堂に食堂日誌簿を備え付けた。誰でも、気が向いた事を何なりと無遠慮に書き付ける定めなのである。

二月 十五日:猫が寒そうに蹲(うずくま)っていたので、まだ火の気のある火鉢に蓋をして其の上に抱いて来て載せてやった。

三月 八日:夢に、 老人が山に登っておられるのを、後から腰を押した。

三月 十三日:友が今年は三十三の厄年じゃ、と手紙の端に書いて寄越した。古い難誌に死亡年齢別表があったので、それを送って、特に三十三歳の人に死亡率が多くない、ということを知らせた。

三月 二十九日:一人が語しかけたが誰も返事をする人がなかったので、傍にいた私が返事をした。

四月 二十三日:夜遅く猫が外から帰ってニャォンニャォンといっている。起きて入れてやる。

四月 二十九日:猫に魚の骨を与えた。少し肉をのこして置いてやった。

五月 十五日:人から呼ばれた、頗(すこぶ)る勇ましい返事をした。

五月 二十二日:白足袋を履いている青年と道連れになった、ナゼ黒足袋を履かないのですか。黒の方が余程男らしいに、と言った。

六月 二日:さる会で余興に蓄音機の催しがあった。ジット椅子に腰を掛けているのエラそうに見ると思うてか、蓄音機の世話を人に譲ろうとするの風があるので、自ら進んで始めから終りまで一人で引き受けて世話した。

六月 十五日:蓄音機を扱った。一寸来て見なされ、と、傍の二三人を招き寄せて、その使用方法を授けた。

六月 二三日:「胃病は万病の本である。お互に食物は十分咀嚼する習慣をつけねばならぬ」と食事中、共に弁当を食べている友人に注意した。

六月 二十七日:猫が互に肩を怒らしてウフーウフーと猛って将(まさ)に喧嘩を始めようとしていた。畜生でも、喧嘩をするのは楽でもあるまい。まして此の暑いのに、と思って追い払って分けてやった。

六月 二十九日:蓄音機を吹かした。見れば右側の方に老人衆が居られるので、喇叭の口を少し其の方へ向けた。

まずは半年分、気に入ったものを抜き書きしているので恣意的なものではあるが、『なんだこれは?』といった謎の雰囲気は伝わっただろうか。もちろん作者の山本は単純に一日一善の日記を書いただけなのだろう。それでもなんとも説明しがたい部分があり、かなり私好みの文章だ。

恐らくネタ切れの末に苦し紛れに書いた部分は別にして、明治・大正の文化面から解説できる部分もある。分る範囲で解説をしておこう。

『「一日一善」を勧めた。』『途上にあった茶碗の片(かけら)をば、一日一善とはこれだよ、と言わぬばかりに、片側に蹴り寄せて友に示した。』は、一日一善を勧めること自体が一日一善なのだといった理屈である。この当時、一日一善は日本中に広がりつつあって、後述するが山本はかなり大きな役割を果していた。そんな彼からすれば、最高に素晴しい『一日一善』を勧めることは、すなわち善であったのだろう。

白足袋ではなく黒足袋を推奨しているのは、当時は若者が華美に走ることが問題となっていたからだ。

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向上発展 実業之日本社 処世要訣 明治三九(一九〇六)年

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少年実業訓 森村市左衛門 著 博文館 明治四四(一九一一)年

加えて汚れが目立たず長持ちするからであろうが、こちらは余計なお世話といった感じもする。

茶碗の片(かけら)を片側に蹴り寄せる行為には、衛生推進や美化運動の意味合いがある。通行に邪魔になる小さなゴミを、全国民が排除すれば交通の便益にもなり、町の美化にもつながるといった考え方が過去にはあった。それを実行させるのが一日一善でもある。

厄年を心配する友人に死亡年齢別表を送る行為は、雰囲気が読めない人間ような印象を持たれるかもしれないが、明治の先鋭的な人間にありがちな行為だ。当時は迷信の打破が叫ばれており、厄年を科学で破壊しようとする人々が存在していたのである。ありとあらゆる場所に、科学的な考え方を取り入れようといった風潮があった。

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日常生活の改造 太田梅子 著 東亜堂 大正九(一九二〇)年

『食堂に食堂日誌簿を備え付け』ることで、自然に文字を書くようになり文章能力が上がり、コミュニケーションの促進にもなる。後述するがこれは、一日一善の運動自体にも似ている。

『ジット椅子に腰を掛けているのエラそうに見ると思うてか、蓄音機の世話を人に譲ろうとするの風』はよく分からない。要するに蓄音機の操作を引き受けたということなのだろう。日記の中で山本は、何度か蓄音機の操作を引き受けている。蓄音機の他に、もうひとつ頻出するのが猫である。ペットとして猫を飼っていたのだろうが、ネタ切れになると猫でごまかしているようにも見える。

『人から呼ばれた、頗(すこぶ)る勇ましい返事をした。』は、善行なのかなんなのかよく分からない。元気があるのは良いことである……といったところなのかもしれない。

七月から十二月まで

七月 七日:晩に紡績所の汽笛が聞こえた。アノ音が何んとか一善にはならぬか、真に思うた。行水をしている人の背を流した。

七月 十三日:日が暮れて、途上に小石らしいものがあつたので、足の先きで片えに蹴つた。小石ではなかつたものを見え、履物にヒッついたやうの感じがした。何んであったろう。

七月 二日:立ちながら蓄音機を使っている人に、傍らの椅子をすすめた。

七月 十日:校舎が上と下とに分かれている。上では青年会の総会が開かれ、下では処女会の講話会が開かれている。其の上の総会では、開会に先立って頻りに蓄音機を吹かしている。尚を余興として講談もあるとのこと。『講談と蓄音機、それは贅沢過ぎる。蓄音機の方は下の処女会の方へ譲りなされ』と注意した。

七月 十六日:飼猫の蚕を捕ってやった。

九月 六日:夜青年会で学校の庭に集まって相撲を取った。ツイその傍(そば)では浪花節の興業があった。晩(おそ)くまで相撲を見物して、相撲の方に肩を持った。

九月 八日:さる老人が、若い折の参宮話を面白そうに話されていた。格別面白い話でもないけれど、面白そうな顔付きをして聞いた。

九月 十四日:猫の食器をサッパリと洗ってやった。

十月 四日:きょう道を歩いて、八九人追い越した。

十月 三十一日:喉が少し痛んだ、しかし到頭痛いということを家内に知らさずに済ました。

十一月 三日:途中に易者と道連れになった。運勢の判断を頼むものに対しては『親を大切にしなされ、さすればコレコレの難が逃れますぞ、といい給え』と話しながら歩いた。

十一月 十五日:夕飯が終つてから、台所で、猫に頬冠りをさせて、家のものを笑わせた。

十一月 二十日:朝お宮へ参った。太鼓が出てきたので叩いた。朝早くお宮に太鼓の音が聞えるは心地のよいものである。

十二月 二日:何にも一善がないので、 夜、子供の本を読んでいるのを、感心して聞いてやった。

十二月 四日:鶏が菜園を荒らしていたので、ホーイホーイ。

十二月 三十日:夜、路端へワザとオキアガリコボシを落して置いた、 明日元旦に拾つたものは、縁起を喜ぶであらう。

『晩に紡績所の汽笛が聞こえた。アノ音が何んとか一善にはならぬか、真に思うた。』一日一善のことを考えすぎでは? と心配になってしまうが、当時は真剣に考えることは素晴しいといった感覚があった。明治中頃から大正の初めあたりは、今よりもずっと真面目さが重視されていたのである。明治期の純文学作品で、やたらに主人公が泣いたり苦悩したりしているのに疑問を感じた人はいないだろうか? あれも真面目さを重要視する感覚が理由であった。それらの感覚については、こちらの書籍で言及している。

先に紹介した『夢に、 老人が山に登っておられるのを、後から腰を押した。』も夢に見るほど一日一善について真剣に考えているといった意味合いがあったのだろう。

蓄音機と猫にこだわりがあるのは前半と同じ、小石を蹴っているのも前半と同じである。しかし『小石ではなかつたものを見え、履物にヒッついたやうの感じがした。何んであったろう』は一体なんだったのか気になる。今更どうしようもないことだが、真相を書いておいて欲かった。

『きょう道を歩いて、八九人追い越した。』は、元気と勢いが善とされていたから、頭痛を我慢しているのは謎、『鶏が菜園を荒らしていたので、ホーイホーイ。』は、いくらネタ切れであろうとも手抜きすぎだ。易者の件に関しては完全に余計なお世話、しかし明治の文化を知っていると違った見方もできなくはない。先にも書いたように、この時代は迷信は打破すべきものだという前提の上で、迷信をも利用して世の中を良くすべきだといった考え方があった。

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少年実業訓 森村市左衛門 著 博文館 P129 明治四四(一九一一)年

この件もどうせインチキなら、世の中に役立つアドバイスをしろといったところなのだろう。

個人的に興味深かったのが『さる老人が、若い折の参宮話を面白そうに話されていた。』で、(おそらく)お伊勢参りの経験を語る老人が、大正二年になってもまだ存在していたことが分かる。今では消えてしまった存在だが、明治維新以前に、参詣者の案内や宿泊を業にする御師と呼ばれる神職があった。ツアーコンダクターような職業で、伊勢神宮にたどり着いた人々を喜ばせるため、豪華な食事や寝具を提供し、お参りの際には顧客を感動させるため演出を加えたりもした。大正二年なら御師にもてなされた老人がいてもおかしくはない時代で、今であれば貴重な証言だが、当時は老人のつまらない話扱いされていたのも面白い。

大晦日の『オキアガリコボシを落して置いた』は、全体的に瑣末な出来事が記されている本日記においては、最もスケールが大きく計画的でドラマチックな一善である。独り善がりに思えなくはないが、独り善がりでも善は善、偽善だろうとなんでもよろしいというのが一日一善のスタイルで、大晦日の善行としてはなかなかの出来栄だ。

山本の一日一善

調べて分かったことなのだが、私が認識している一日一善と、山本の一日一善はかなりかけ離れたものであった。これは私に限った話でもなく、現代人は一日一善を一日にひとつ善行をすることだと理解しているはずだ。ところが山本は、一日にひとつ善行をした上で、日記として書き残すことを一日一善としている。

後に詳しく解説するが当時は日記を書くことで、人間の能力を伸ばすことができると考えられていた。一善で世の中を良くし、日記で個人の能力を上げるというのが一日一善であった。一日一善は戦後も残ったが、忘れ去られてしまった要素があったというわけである。

戦後、一日一善がどのようなものになっていたのか。かって笹川良一が出演するテレビ CM で一日一善の掛け声がバンバン流れていた。

この CM が訴えているのは、そのまま一日一善だ。善の事例としては、戸締まり用心と火の用心、大掃除と資源の大切さ、緑化運動と貯蓄、そして身体の育成と親孝行が挙げられている。これらの要素の一部は、先程紹介した『一日一善日記』にも登場しているものの、善行を書き残すことは推奨されていない。

もう少し時間を遡ると、読売新聞朝刊1954年12月14日に『[白亜の表情]つい度忘れの「一日一善」』、1955年01月10日には『[政界メモ]種切れ?の一日一善主義』なんて記事がある。

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こちらは鳩山一郎内閣が提唱した『新生活運動』と関係ある。『新生活運動』は衣食住を改善し、儀礼の簡素化することで生活を改善しようといったものだが、要するに簡易生活と同じ考え方だ。

『新生活運動』は敗戦で傷ついてしまった「精神力の回復」を計るものでもあった。政治家や官僚の生活も改善しようというわけで、汚職を防止するため公務員と部外者とのマージャンやゴルフが禁止され、『一日一善』も推奨されたが、鳩山一郎内閣によるの一日一善日記集なんてものが公開されたりはしていない。

小さい場所に目を向けると、輪之内町報昭和三十年十二月五日号にも、一二月の生活目標として一日一善が取り上げられている。

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こちらにも日記は出てこない。現代でもまれに一日一善が娯楽作品に取り上げられているが、検索した範囲では日記がテーマになっている作品はほぼないようだ。

明治と大正の境目に、山本が普及させようとした一日一善は、とにかく戦後にまでも生き残り、今も見掛けるものではある。ただその形は、かなり変ってしまったことが資料から見て取れる。

変ったのは日記だけではない。一日一善を実行する理由も変化している。現代人にとって一日一善は、単純に良いことをする程度の認識であろう。一方の山本滝之助が一日一善を普及させようとした目的は、もう少し高いところにあった。

宗教も道徳も人格の向上も修身道徳も全ては『善い事を為(せ)よ、悪い事を為(す)な』に帰結する

『一日一善 山本滝之助 著 洛陽堂 大正二(一九一三)年』

一日一善を普及させ、手っ取り早く国民の人格を向上させようというのがその目的だ。良いことして悪いことしなけりゃ人格が向上するだろといった雑な意見ではあるが、一理あるような気がしないでもない。後述するが当時の日本には空論と、実現できるはずもない目的で溢れていた。『学問ということは知るという事につづいて行うという事が大切でありますから、此の行うという事について昔から心ある人はいろいろと工夫をこらしたものであります。』と考えた山本は、手っ取り早く国民の人格を向上させるため『実行を低い所に求めしめ』た。

このあたりはかなり意識的な戦略だったらしく、彼自身が一日一善がキャッチーであることに言及をしている。

『一日一善』は、これを行う動機については、何等深い意味の存ずるのではない。ただ一日に一つづつ善い事をしよう。試みにしてみよう位の、ホンの手軽な考えからに過ぎぬ。(略)『一日一善』という言葉に引かれて、物好き半分位に始めるというのが事実多いのである。畢竟『一日一善』という呼び声が唯何の事はない耳に入り易いものから、ツイやってみようとなるまでである。

多くの人が一日一善を始め、日常生活から悪い行為を排除し、善い行為のみにしてしまえば、治安が良くなり集団による相互扶助の機能も向上する。そうなると福祉や治安維持にかかる費用が減り国力が向上する。一日一善に期待しすぎな気もするが、こういうことを本気で考える人々が存在している時代があった。

さらに山本は一日一善を意識することで、文明を進化させられるとも考えていた。

文明人は単位を小さい所に置く。(中略)一分一厘でも粗末に扱わぬ。(中略)文明に赴くというの、組織が緻密になることで、(中略)小事を忽(ゆるがせ)せにしてはならぬ。(中略)『一日一善』は小なりといっては居られぬ。随分と影響する。

一善を意識することで、自分の行動を細かく分析するようになり、文明的になれるといった理屈である。

実際にどの程度の効果があるのかは別にして、今の一日一善と比べると、かなり壮大な構想だったことが分かる。これを実現させる要となるのが日記であり、山本は日記によって人々の教育水準を上げようと考えていたのである。先に見たように戦後の一日一善運動では、日記を書くことは必須とされていない。戦前の新聞記事などを確認すると、基本的に一日一善は記録する前提で紹介されているので、おそらく戦後に日記の要素が消えてしまったのだろう。

先にも書いたように日記が必須となっている理由は、ある時期まで日記を書けば能力を伸ばせると考えられていたからだ。こちらも今では失われた感覚だろうから、少し解説しておこう。

能力を上げるために日記を書くということ

『暑中休暇日記の栞 : 男女共用 安田香雨 著 方円閣 明治四二(一九〇九)年』は、日記を書く利点として次のような事柄を上げている。

  • 後日の記念になる
  • 老後のうさばらしになる
  • 能力を向上させる

『日記には日付、天気模様、帰臥の時間、自分の事や自分の家の出来事』を書き記し、『就問先、訪問者、 及その用向、来信発信、 及そのわけ等を簡明に記すがよい。時によっては、自分の所感をも書いた方がよい』としている。旅行中の日記ならば、『殊に後日のために、一層注意して認め、出発、着泊の時間、行った所、見聞した事柄、それについての所咸、人情、風俗などを』も記す。確かにそのようなことを記述できるようになれば、十分に科学的な思考能力を持った人物になれそうだが、なかなか続けるのは難しい。

能力を向上させるためのハウツー本『処世要訣 : 向上発展 実業之日本社 編 実業之日本社 明治三九(一九〇六)年』でも日記は推奨されている。

日記は如何に簡単なものであれ、多少の面倒と手数がかかる。そこを覚悟して日記を作る際には、決心が必要である。この決心が修養の第一歩だ。(略)日記が続かないのは面倒だからである。その面倒を忍び継続することができれば、大抵の根気が必要となる仕事に打ち勝つことができるはずだ。

日記を書き続ける目的を、持続力をつけること、そして『日記は人を綿密にする。遭遇したこと処遇、交渉など書き記すことで、思慮綿密用意周到になる』としている。山本の『文明に赴くというの、組織が緻密になる』という主張にも似ている。

本書では、さらに人格の向上を日記の利点として取り上げている。日記は自己の反映であり、自分を客観的に眺めることになる。自然に自分の人格や生活が改善されていく。自分が成長するにつれ、日記も成長していく。喜怒哀楽を日記に記すことで精神を安定させ、後には過去の自分の感情と対面し分析する。これを続けるうちに、人格が向上していくといった理屈だ。

このように当時は、日記を書くことで能力が上がるといった考え方が当たり前に流通していた。しかし山本は他人に日記を続けさせる難しさも知っていた。そこを解消するためのツールとして考案したのが『一日一善』であった。

日記を書かせる難しさ

山本滝之助が一日一善日記に到るまでには、かなり長い道のりがあった。

山本は広島県沼隈(ぬまくま)郡千年(ちとせ)村に生れた。明治十九年に福山小学校を卒業し、家庭の事情から十四才で町役場で働き出したが、学ぶことを諦めることができず、雑誌から新思想を取り入れ、時に投書しては文章の研鑽に励んだ。いわゆる独学者であり、良くいえば叩き上げの人物だが、学歴がないことから馬鹿にされたりといったことがあったらしい。明治二十二年には、地元の小学校で教師となる。

そんな生活を続けるうち、彼は地方における青年教育に不備を感じるようになる。当時は小学校を卒業した後に、さらなる学習が必要な人々に向けた教育の場が提供されていなかったのである。彼自身が独学するしかなかったのだから、そう思うのも当然だろう。

教育機関が貧弱であった時代、地方のそれ程裕福ではない青年たちが、学習する手段は非常に限られていた。東京などの都会に出て、独力で学習しようとした者もいたが、そのほとんどは失敗に終る。『苦学力行の人 永田岳淵 著 富田文陽堂 明治四三(一九一〇)年』によれば、苦学者千人中、わずか三名のみが専門教育を受けることができたそうだ。苦労をして卒業をしたとして、最適な職につけるのか……などといった問題もあったが、とにかく教育を受けることができる人間は少なかった。

『力行奮闘録 島貫兵太夫 著 日本力行会 明治四四(一九一一)年』によれば、ある時期の福島県河沼郡勝常村から海外に行くものが続出していたらしい。東京に行き一旗上げるよりも、海外に出たほうが成功する可能性が高いと気付いた人物が、実際に海外に出て成功した。その噂を聞いた人々が、彼に続いて海外に飛び出したといったといった状況だが、これもひとつの賭でしかなかった。

そういった環境に置かれている地方青年が、地方で普通に学習することができれば、世の中は素晴しくなるだろう、これが山本の考えであった。そんなことを考えるのは、山本一人ではなかった。戦前のある時期まで、国が十分に教育できないのは当然だといった感覚があったのである。

『新時代の常識 大正青年活動準備 座間止水 著 帝国青年発行所 大正七(一九一八)年』は著者が架空の青年からの質問に答えまくるといった奇書で、その中に『義務敬育延長ということが、大層世間で問題にされますが、ざっと如何いふ訳ですか』という問がある。この質問に著者はあまりに義務教育の期間が短いので『財政が許したら、延長したいと騒ぐのであります』と答えている。当時の義務教育は四年から六年に伸びたものの、文明国と比べるとまだまだ短い。しかし『教育会議では、地方経済の関係等から、なおその時期ではないと決議』している。

義務教育を補完するものとしては実業補習学校、そもそも義務教育を受けられない人に向けた子守学校などがあったが、それらをさらに補完するため「〜団」や「〜会」などといった集合体が地域で作られた。

そんな中で山本が独創的だったのは、いち早く地方の青年に着目したこと、そしてあくまで実用を重視し現実的な方法を模索したことだ。山本はかなり若い頃から、地方教育に関係する様々な活動を行なっていた。ひとつは雑誌や新聞への投書を通じ、各地の若者たちと交流を計ることであった。

其頃、大阪に『少文林』といふ青少年向きの安雑誌があつた。 わたしはそれを月々百部二百部程取寄せて、村内及隣村にまでよく講読の世話をしていた。 そして亦それへよく投讐したもので、二十六年八月の投稿に『少年会振起策』といふのがある。『少文林』に一欄を設けて、誌上で各地少年会間の気脈を通ぜようというのである。

『山本滝之助先生言行録 山本滝之助先生頌徳会 編 山本滝之助先生頌徳会』

当時の新聞や雑誌は今のSNSのようなもので、投書欄で読者たちが交流することは珍しくなかった。かって書いたフェミニズムの記事でもそんな事例をちょっと紹介している。今と同じく盛り上りすぎ、時には殺害予告や腕力沙汰寸前といったような揉め事までも起きていた。ラジオのハガキ職人が放送作家になるように、雑誌への投稿者が一種のスターのような存在になり、やがて本職の記者になるといったこともままあった。

『月々百部二百部程取寄せて、村内及隣村にまでよく講読の世話をして』いたのは、自らの投書が掲載されている雑誌を近隣の若者に読ませることで、地域のコミュニティー内での自分の知名度を上げようといった計算があったからだろう。当時の雑誌には、それくらいの影響力があった。

雑誌の上でコーナーを作ろうとしていることに違和感を覚えるかもしれないが、こういった事もそれ程までに珍しいことではなかった。さらに山本は明治三十三年に、新聞紙『日本』の紙面で『「日本」青年会』の結成を呼びかけている。他人の雑誌でなにしてんだよと思わなくもない。

山本による『「日本」青年会』は不思議な組織で、次の三点を目的としている。

天下の遺言を蒐集すること

各地の各社会に行はれたる制裁の方法を取調べること

各地所在の青年会を探し出すこと

『山本滝之助先生言行録 山本滝之助先生頌徳会 編 山本滝之助先生頌徳会』

遺言や制裁の方法を集めたかったのかは完全に謎で、後述するが山本には一種の収集癖のようなものがあり、単なる興味ゆえの募集であった気がしないでもない。

青年会を探し出すのは、各地に点在する青年会が情報交換し、より洗練された組織に成長させることが目的だ。ついでにいうと青年会をリストアップし、政府や各種団体からの支援を求めようといった意図もあった。

この他にも山本は、村の新年会で青年団の結成を提案し、田舎に住む青年たちに奮起を求める『田舎青年 山本滝之助 (田八男児) 著 山本滝之助 明治二九(一八九六)年』を自費出版もしている。当時の山本は目を患っており、不安をかかえながら一年かけて執筆したものであった。出版のための資金集めにもかなり苦労をしたようで、実家の貯金を全て使いその費用をまかなっている。ようやく出版することはできたものの、残念ながら期待したほど『田舎青年』は売れなかった。

山本の『田舎青年』以前にも、いくつかの地方で若者のための学習組織が発生はしていた。しかし基本的には地方の裕福ではない青年に対する教育は、ほとんど考慮されていなかったのである。例えば当時、青年はどうあるべきか、青年はいかに生きるべきか、といった青年論が盛んであった。しかしここで語られる青年とは、結局のところ学生であり、学生になれない地方の若者は、青年に含まれていないのが現実であった。

そんな状況の中で地方の青年に呼び掛ける『田舎青年』は、当時としては先鋭的な内容で、考え方が先に進みすぎていたこともあまり売れなかった原因のひとつなのだろう。

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雑誌に投書をし、勝手に紙面で『「日本」青年会』を結成し、村の新年会で青年団を結成する。自費出版して失敗する。現代人の目から見ると、ずいぶんとお粗末な戦略だなと思えるかもしれない。しかし当時の事情を考慮に入れると見方が変ってくる。なにも持たない男が徒手空拳でなにかするとしたら、この程度のことしかできなかったのである。事実、山本の他にも思い付きで雑誌で、地方青年たちに意識の改革を呼びかける者もいなくはなかった。山本と彼らの決定的な違いは、そういった活動を地道に続け、徐々に範囲を広げていった点にある。

ここでようやく日記の話に戻る。『田舎青年』で山本は『青年日記』を提唱している。青年日記とは一日の反省点や学んだこと、将来の展望などを書き記し、己を成長させるためのものであった。この頃から山本は日記の活用を検討していたことが伺えるものの、そんな日記を書くのは面倒くさい。山本自身は日記をつけていたが、『青年日記』自体はあまり普及しなかった。

日記の重要性を説きつつ、青年団や地方教育のため奔走する中で、いよいよ山本は『一日一善』との出会いを果す。

当時のイギリスには、友人たち五人くらいが家族単位で実行した善行を毎日記録し、一週間に一度ほど報告会を開催するといった活動があった。

教育者の北条時敬が明治四十四年の講演会で触れ、同年に出版された『少年実業訓 森村市左衛門 著 博文館 明治四四(一九一一)年』ではこう紹介されている。

英国で、此の程友人の間で、一日一善会といふ会を申し合せ、之を実行することが大分行はれているさうであります。その会は、五家族またはそれ以上の数人が申し合せて、一日に一つの善事を必ずなさなければならぬといふ規則であります。そしてその事柄を手帳に書きつけておいて、一週間に一度づつ集って、お互に結果を報告するのであります。

この活動は英国でボーイスカウトにも採用されることとなり、ボーイスカウトとともに『一日一善』が日本にやってきたのである。これが山本滝之助が一日一善を広めようと思い立つきっかけとなる。もっともすでに明治二十年あたりには、山本は一日一善の原形になるようなことを考えていた。『地方青年 山本滝之助 著 国光社 明治三七(一九〇四)年』にもそのような記述がある。

一日に必らず一善をなさんと勉めける折の事なり。共の日は何もなすべきこともなく、日暮になり何かなと思ひ煩ひけるに、偶々近くの家の子供、少しく眼を赤らめいたりしに思ひつき、早速其の家に走り行き、トラホームにてはなきや、早く医者に見てもらうてやりなされ、といひたり。

お前の子供の目が赤いから病院に行けといった親切で、これまた余計なお世話感があるもの、山本らしい行動ではある。この時期には一日一善のコンセプトはまだ曖昧で、一日に一回は良いことをしよう程度のものでしかなかったが、やがて山本の中で『一日一善』が、日記を使った教育とむずびつけられることとなる。

小学校教諭として働き、青年団での活動を続けていた山本は、日記を書かせる難しさを知っていた。子供たちに日記を書かせてみると、『あさ早くおきておまんまたべて学校へいきました。かへつてからあそびました』程度のものになってしまう。その翌日も『あさ早くおきておまんまたべて』で、これでは日記が続くわけがない。

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子供の日記

しかし一日一善を記すと決めてしまえば、格段に日記が書きやすくなる。

尋常小学校児童一善日記

ツレニスミヲカシテヤッタ。

道ノ石ヲステタ。

フロノ水ヲクンダ。

ニワトリヲダイテヤッタ。

一日一善で日記の内容に変化が起きる。日記に書くために、新たな一善を考案するようになる。これなら子供でも続けることができる。『青年日記』は、その煩雑さから普及に失敗している。しかし子供にできる一日一善日記なら、青年なら誰でもできるといった理屈であった。

一日一善というテーマを決めることで、誰もが日記を書けるようになり、日々実行される一日一善によって現実をも改善する……これが山本の発明であった。ここから山本の構想は加速し続け、あらぬ方向へと突っ走っていくのだが、それを紹介する前に当時の状況を解説しておきたい。

当時は山本の他にも、世の中を良くしようとする人々は多くいた。彼らはいくつもの理想論を語るものの、現実的ではないものが多かった。明治の終りあたりから大正、そして昭和の戦中戦後に到るまで、日本における世の中を良くしようといった運動は空論に陥ることがよくあったのである。

空論の時代

『青年に訴ふ 大迫元繁 著 実業之日本社 大正一二(一九二三)年』は、人々が理想に走りすぎ、空論や空騒ぎ状態となっている状況を批判した書籍だ。大迫は空論を排し『現在主義』を採れとしている。

かって日本人は修養が好きであった。先にも書いたが戦前のある時期まで、国には十分に教育を施すだけの力がないといった感覚が共有されていた。修養は様々な要素を持っているが、自分で自分を教育するといった側面がある。個人の活動には限界があるから、俺が教育をなんとかしようといった人々が、様々な活動を展開していた。山本も青年団の充実に奔走した男であり、一日一善もそんな活動の一つであった。

俺がなんとかするという人々が陥りがちなのが、空論や空騒ぎで、大迫はこんなふうに書いている。

修養の極地は、大悟徹底とか、大死一番とか、いふ事の如くに説くものがある。或は宇宙を達観せよとか、丹田に力を入れよ、とか云う。

確かに明治、大正時代の修養書を読んでいると、やたらに宇宙や真理が登場する。そんなことは書いている人間だって実現不可能で、単なる空論、あるいは遊びだなと感じてしまう。それではどうすればいいのか、大迫はまず身体を丈夫にすることを勧めている。なにをするにも身体が必要で、身体が丈夫になれば『改造』(当時の流行語、トヨタのカイゼンみたいな意)も達成できるからだ。

今日は改造の声が社会に満ちて居る。改造には社会組織の改造も、生活様式の改造もあるであらうが、まづこの肉体の改造を計らないで居て何所に実際の改造があるか。

身体を丈夫にするためには、栄養や衛生、医学に関する知識が必要であり、運動を日常生活に取り入れることが好ましい。つまり人々が健康になるためには、知識を増やし、より良い習慣を身に付ける必要がある。だから『生きて居ることが愉快であると云う風に感ずるほど健康であるならば改造は、さつさと独手(ひとりで)に出来上がるのである』という理屈だ。

もうひとつ、大迫は現在を徹底することを推奨している。将来について考えるのは悪いことではない。しかし出来もしない理想を未来に押し付けたところで意味はない。そして今が最悪なら、将来も最悪になる可能性は高い。だから今を最高にするために最善を尽す。最善の連続の結果、最高の将来がもたされる……といったところであるが、空論を批判している本人が空論に陥っているように感じられなくもない。

世の中を良くしようと考え続けた結果、大迫のように理想論にハマり込んでしまう個人は多かった。

『一事貫行真髄 山下信義, 村田太平 著 大成協会 大正一〇(一九二一)年』では、ひとつのことを貫徹せよといった主張がなされている。

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極端な意見

『体・智・情・意の四つが、完全円満に調和して発達する事が必要である』から、考えたことを実行し貫行ようといった内容で、最後は次のような一文で終る。

やつて下さい、やつて下さい。腕競べでなく根競べで、一日一日と決めた一事を貫いて下さい。無論大なり小なりの辛苦はある。どうせ辛苦は覚悟の前だ。水火を恐れず、白刃をも辞せずに、一生懸命進んで下さい。(中略) いで今日より登りませう。道は既に開けております。先に進んだ先達は幾らもある。続く同行後進も無数にある。自愛せよ同志、奮闘せよ勇士。凱歌まで!凱歌まで!さらば諸君、勇ましく登つて下さい。いざさらば、諸君!

気持は分からないでもないが、強引すぎるような気がしないでもない。

『標準生活の研究 榊原平八 著 佐藤新興生活館 昭和一一(一九三六)年』は一人一研究の結果をまとめたものである。一人一研究とは人類一人につき一つ研究課題を持つことによって文明を進化させるというもので、それなりの成果はあったようだが、十分に教育を受けていない個人が一足飛びに研究するのはちょっと無理がある。

『太陽人主義 村田太平 著 大倉広文堂 昭和六(一九三一)年 』は太陽人になろうといった書籍である。太陽人がなにかは完璧に謎で詩が大量に出てくるのが特徴である。

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よく分からないのだが、太陽に向って全宇宙を賛美し、神に行き着こうではないかといった内容で、こちらも意味が不明である。

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完全に分からない

このように、かって様々な生活改善法が存在していた。ちなみにここで紹介した人々は、それなりに成果を出し、社会に影響を与えた人々だ。それゆえにそこそこの説得力と実効性を持つ理想論であり、全てが空論だと断ずるつもりはない。ただ本当に実行するのは難しいだろうなといった感触である。

個人ではなく集団や組織はというと、自然発生的に産まれた現実的な活動をしていた集団が、巨大化していく中で空論と空騒ぎの団体へと変化していくことが多かった。今でも存在している「修養団」は、寮生活をする学生たちが、不潔な部屋と飯のまずい食堂を改善することから始まった。自分たちが住む場所なのだから、自分たちのことは自分たちでしようじゃないか、そんな単純で素朴な集団である。

当時の学生たちの中には、寮なんて自分の家じゃないから、どうでもいいといった者もいた。バンカラを気取り無茶な行動をする奴もいて、土足で畳を歩き回ったり、泥の中で寝たりする。要するにイカれた野郎たちである。イカれた人間を説得するの無理なのだが、修養団の設立者である蓮沼門三は、根気よく一人で掃除を続けた。蓮沼は異常なまでの情熱を持つ男で、絶対になにがあっても掃除を止めない。その姿に心打たれた寮生たちが徐々に掃除に参加し始め、生活する場所は奇麗なほうが快適で良いのでは? といった当たり前の結論が出たのであった。

もうひとつ、寮の食堂で出る飯が不味いという問題があった。なぜ不味いのか、理由は色々あったのだが、食材を運ぶ業者が料理長にワイロを渡し、料理のコストを極限まで減らし金をごまかしていたというのが大きな理由だった。まして当時は雑な明治時代である。今とは違って普通に腐った食材を使う。当時のバンカラ学生たちは丈夫だから、腐ったもの食べても死なない。しかし一応は味覚があるため、飯がまずいとは感じていた。一方の料理長と業者は、こいつら丈夫だし腐ったもの食わせても大丈夫だろうといった荒い戦略で、不正の利益を得ていたのである。

真っ直ぐなことが大好きで不正が大嫌いな蓮沼には、これが許せない。自分が炊事委員長となり、この問題を解決すると申し出た。料理長は学生がなにかホザいてやがるな、やれるものならやってみろ程度の認識だったようだ。蓮沼が採った戦略は単純明快なもので、最高に正直な調理人を探し出すことだった。正直だったら金ごまかさねぇだろという、これまた荒い戦略だが、たまたま法華経の猛烈な信者である調理師が見つかった。彼は猛烈な信者すぎ、絶対に嘘をつかない。

蓮沼はすでに掃除で人望を集めており、寮生たちの後押しもあって、料理長を追い出してしまい、正直者の調理師を料理長とした。

法華経の猛烈な信者は異常に正直だから、ワイロは絶対に受け取らない。食材の値段をごまかさない。蓮沼も異常なまでの情熱をもって正直な業者を選定、そんなこんなで料理がマズい問題は解決してしまう。正直なだけで料理の腕はどうでもいいのかといった疑問がわくかもしれないが、当時は美味いとか不味いとかのレベルが今よりずっと低い。まともな食材を普通に料理するだけで、学生たちは満足だったのであろう。

こうして蓮沼によって、学生たちは清潔な寮と美味い飯を手に入れることができた。明確なメリットがあるのだから、蓮沼と志を同じくする学生たちが徐々に増えてくる。そうこうすうるちに「修養団」が結成さ、活動は全国へと広がっていき、各地の学生寮が徐々に綺麗になり生活が改善していく。めでたしめでたし……というのが修養団である。

ここで着目したいのは、修養団に深い思想はないことで、後にこれが原因でちょっとした混乱を生み出してしまう。

修養団は大正十二年の関東大震災をきっかけに、組織を巨大化することに注力し始める。渋沢栄一などの財界名士に庇護と支持を得るだけでなく、山本も関係している青年団とも連携し、やがては内務・文部両省の外郭団体となる。こうなると組織になんらかの意味づけや思想が必要になってくるのだが、結局のところ修養団は、学生が自分の力でより良い生活を送ることを目的とした団体でしかなかった。

学生たちは自力で生活することで、より低いコストで教育を受けることができるようになる。教育のコストが下ることは、より高度な教育を受ける人間が増えることを意味する。実際に蓮沼の活動にヒントを得た学生たちが、今でいうシェアハウスのような形体を作り、自炊するといったことも行なわれていた。これも先に書いた『国には十分に教育を施すだけの力がないといった感覚』よる活動だ。国のかわりに個人でなんとかするといった行動様式の是非は置いておいて、修養団の活動が広がれば、結果的に良い世の中になることは確かだろう。しかしそこには巨大な組織のための思想はない。巨大化した後の修養団が掲げた目的が、曖昧なものになってしまうのは自然な流れであった。

わが住む郷を善化し美化して、明るい世界を顕現しようとするのが、本団の誓願である。明るい世果とは、一人の争う者もなく、一人の怠る者もなく、全ての人が愛し合い、全てての人が働き合う所をいう。即ち総親和総努力の世界である。

『修養団三十年史修養団編輯部 編修養団 昭和一一(一九三六)年』

掃除をして美化するあたりまでは理解できるが、『総親和総努力の世界』というのはよく分からない。そこには実用はなく、理想しかない。これは修養団に限った現象ではなく、だいたいの集団が同じような方向に動いていく。一日一善の山本滝之助が深くかかわった『青年団』もそんな団体のひとつである。『青年団とは何ぞや 日本青年団研究会 編 日本魂社 大正一三(一九二四)年』から、青年団の主旨を引用してみるが、修養団に輪をかけて意味不明なものになっている。

青年団の要旨

青年団トハ義務教育終了後満二十五歲ニ至ル靑年ノ自治団デアッテ

互二相交リ相樂シミ

互二各種ノ施設ヲ講ジテ

德性ヲ涵養シ

身体ヲ鍛鍊シ

且ツ実際生活ニ適切ナル知識技能ヲ習得シ以テ

人格ヲ完成シ

社会奉仕卜相俟ッテ[影響しあって]自治的及団体的訓練ヲ行ヒ

健全ナル国民トシテ素質ヲ養ヒ

進ンデ国運ノ進展ヲ図リ

延イテ世界ノ平和ニ貢献センコトヲ期スル

修養機関デアル

当時はこういうことがよくあって、『青年に訴ふ』の大迫のように疑問に思う者たちも多くいた。事実『青年団とは何ぞや』にすら、青年団の活動に対して批判的な文面がある。

いづれも七面倒の祝辞や千篇一律の駆苦しい演説で、何れも開口の体であるが、これらの場合は、なほ忍ぶべしとするも、その他の場合の会合が何れも式典類似の無味乾燥であることは今後大いに改善するの必要がある。

特に一考せねばならないことは、是等の修養が、団員の日常生活と密接な関係を有し、団員の日常生活に極めて必要なものでなければならないと云ふことである。

形式的になり実用から離れてしまっていることを批判しているわけだが、いざその活動を語ろうとすると、次のように本人も同じ弊に陥ってしまうのだから面白い。

青年団が、愛国心と、正義人道の上にうち建てられた青年それ自身の修養機関である以上、青年団員自ら平和に善処すべく、否むしろ平和の天使となつて、内に在つては自国を愛護し、外に向つては、正義人道即ち人類愛の見地から、国際親睦の情を敦(あつ)うせねばならないのである。

多くの人が理想論を振りかざしている中で、みすぼらしい現実に基づいた貧弱な提案をするのはなかなか勇気がいる。一日一善にも以下のような批判があった。

つまり一日一善はマッチ箱の如き小人島民を作ろうとするものである

模範日 山本滝之助 著 洛陽堂 大正六(一九一七)年

現実を語り馬鹿にされるよりは、理想を語り褒められたほうが気分がいい。そんなこんなで当時の人たちは理想に縛られ、身動きがとれなくなっていたのかもしれない。

また社会との折り合いを付けるためには、空論を語るしかないといった事情もあった。もともと実利的な目的や、良い事をしようといった意図で開始された活動も、軍国主義の世の中では不都合なものになってしまうことがある。活動を維持するために、軍国主義に都合が良い状況と、かっての理想を両立させなくてはならない。そんな矛盾をクリアするため謎の概念を作り出し、声高に語るしかない人々もいた。

こういった現象は時代を問わずによくあることで、今も似たようなことがそこかしこで起きているように思えなくもない。

一日一善の躍進

先にも書いたように人々に崇高な理想を語り、理解させるのは難しい。まして実行するのは不可能だというものも多かった。山本も時に空論に走ってしまうこともあったのだが、基本的に現実主義者であった。山本の『一日一善』は、現実からかけ離れれた理想論ではない。今すぐ誰もができることであった。

大正二年あたりから一日一善は一気に普及していくが、そこに到るまでには山本の地道な活動があった。明治四十四年には自らが発行する雑誌『良民』で『一日一善』コーナーを設置、投書を募集するなどの活動を続けていた。ちなみに『良民』の挿絵は竹久夢二が担当、夢二式美人で知られる作家だが、社会運動や民主化運動、そして地方青年の教育への理解がある骨太な一面もあった。山本の活動に共感しつつ参加したのだろう。

とにかく山本はかなり真剣に地方在住の青年の教育について考え、活動を続けていた。その末に山本は『一日一善』にたどり着き、やがて『一日一善会』も構想するようになる。『一日一善会』は次のような組織であった。

規定

  • 一日一善の志のあるものを集める
  • 会員は各自で日記帳に日々の一善を記録する
  • 一日一善巡回日記簿を作り、会員間で回送する
  • 巡回日記簿が届いた際には、前日及び当日の一善の記入し、直ちに次の会員へ回送する
  • 毎月一回以上は会員が集り、各自の一善日記を読み比べ、新たな善行を検討する
  • 一日一善に長けた会員に講話を請うこともある
  • 会費を集め雑費の残金で雑誌または書籍を求め会員間で回覧する
  • 他の『一日一善会』と気脈を通じコミュニティーの拡大に努める

面白いのは会員たちが各自の日記をつける一方で、共有の巡回日記も採用している点だ。現在の SNS と構造がかなり似ている。会員は日々一善を投稿しつつ、パブリックなスペースでも一善を共有する。会費で購入した雑誌や書籍をともに読むことで、投稿の質が上がる。時に集り各自の一善日記を回覧する。情報を共有することで、メンバーの仲間意識も強くなる。

それだけではない。苦労をして独学をした山本は、経済的な理由から文化活動に参加できない若者への対処方法も考案している。山本は明治三十三年あたりから、知的生活を送りたい地方青年は鶏を飼えと主張し続けている。

月に多少の郵券を要すべければ、鶏を一羽飼ふべし。己れ頗る貧乏人にして、斯る所にまで気づけり。失礼なれども漏らし置く

地方であれば、鶏を一羽飼うことは難しくない。餌も残飯で十分、卵で小遣いを稼ぎ、雑誌や書籍、会費などをまかなえば、誰もが知的な生活を送れるといった理屈である。彼自身も鶏を飼うことで、雑誌や書籍を購入し様々な活動に参加した。

なんだかショボいアイデアに思えてしまうかもしれないが、これが当時の現実であった。空論を振り回す人々は、比較的恵まれた環境にいることが多い。彼らは若者たちに奮起を促すが、実際に生活すらままならぬ青年からすれば、なにを言ってやがるんだといった感じだろう。都会に住む貧乏暮しの記者ですら、様々な理由で家を出ることができない地方青年からすれば羨しい存在だ。実際に地方に住み、苦労して独学し諸事情があって都会に出れない山本だからこそ、地方青年は鶏を飼えといった手法を発案し、地方の青年たちに「学びたいなら鶏を飼え」と高らかに呼び掛けることができたのである。

続いて会員の心掛けについても書いておこう。

会員の心掛け

  • 一日に何善してもいい。一善を済ませたからと、眼前の一善を打ち捨てるようなことはしてはならない
  • 誰がいようと恥かしがらず堂々と一善を行う
  • 例えばゴミを拾うなど、日々に幾度も出会す善行が当たり前になった時には、新たな善行を探し出すこと心掛ける

山本は精神論を唱えなかった。心掛けも結局のところコミュニティーを持続させるための工夫だ。一日に何度も善を繰り返し、日記のためのコンテンツを増やす。恥しがらずに善を行うことで、外部に一日一善をアピールし、新規の会員を増やすことができる。そして「新たな善」を探し出すことで活動の停滞を防ぎ、世の中が徐々に良くなっていく。世の中が良くなると一日一善に参加する人がさらに増える……といった戦略でこちらもかなり上手くできた仕組みだ。

人力の SNS としては句会や結社、雑誌投稿欄など色々あるが、山本の『一日一善会』は鶏さえ飼えば誰もが参加できる上に、活動が活発になるシステムとなっておりかなり出来が良い。もっとも組織が利益を上げることはできないが、山本にとってはそんなことはどうでもいいことであったのだろう。

広がる一日一善

一日一善は世の中へと広がりつつあった。大正三年には、群馬の学校で一日一善日記が採用されている。

一日一善日記の制定

村田校長、新に我が校に御就任以来、大いに校風の発展に留意せられ、乃ち一日一善日記を作り之を生徒間に配布し日々三省の料とせらる。惟(おも)うに聖賢の大行も小善の積によりて成るなり。全生徒、能く之を利用して日々積善に勉めば、その効果の大なる疑をいれず。九月七日を以て記録開始の日とし、時々校長親しく之を査閲せらるることとなれり。

「群馬」第23号 雜報 校報 一日一善日記の制定 大正三(千九一三年)年十一月

『一日一善』に続く『実践一日一善講話 山本滝之助 著 洛陽堂 大正五(一九一六)年』の冒頭には、こんなことが書かれている。

最早今日では、一日一善ということは各地到る所で唱えられている。今更これを説明するまでもないことであろうけど、世間の広き、人の多き、未だ初耳の人も無論多いことであろうと思うから、今ここでタダ一と口だけこの事について言って見る。

最早説明するまでもないといったところだが、どの程度まで知れ渡っていたのだろうか。山本によると次のような状況だった。

最初は青年会の間に行はしめたいと思つていた一日一善も、小学校方面に行われ出した、思ひも設(もう)けなかつた軍隊部内にも行はれ出した。アソコにもココにもという風になつて来て見ると、これは鉄道方面にも、行はれるべきるのではあるまいか、というやうなことに気が付き出した、ソコで心易い駅長の方に此の事を話した所が、早くも左の日記が手に入った。

この記述を信じるのであれば、一日一善はかなりのブームとなっていたようだ。面白いのは山本が鉄道員や軍人たち、その他様々な人が書いた一日一善日記を収集していることだ。『日本』紙上でも遺言や制裁を収集しようとしていたことからも推測できるように、彼には一種の収集癖があったらしい。大正鼠小僧の日記まで入手しており、こちらはかなりの珍品である。

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ちなみにおそらく好きであったであろう猫も『実践一日一善講話』に何度か登場している。

犬に追ッカケラレテ居ル猫ヲ助ケテアゲマシタ

宅の近くに住所不定の猫がおります。私は其の境遇に同情して、魚の骨などを何時も庭に出して置いてやり、此の浮浪猫に与えます。それ故、私の家の物は決して盗食などいたしませぬ。

山本の嗜好は置いておいて、小学生から軍隊まで一日一善を採用する組織がわりとあった。大正鼠小僧や不良少年が一日一善日記を書いていることからも分かるように、更生施設も一日一善を取り入れた。

その一方で、ちょっとした問題も起きていた。山本自身も何度か書いているのだが、一日一善は始めやすいが、続けてみるとなかなか難しい。善行がなにもないといった日には、強引に一善をでっちあげることになってしまう。

『一日一善』の念が盛んであって、しかもそのなすべき善事を見付からないとなると、時には仕様(しょう)事なしに腹を太らしている猫を撫でてやるようなこともある。

猫をなでて無理矢理一善を作り出すというのは、ちょっと滑稽で面白くもあるが、一日一善が強制されてしまう状況下では話が変ってくる。一日一善が普及した結果、己の評判を上げるため、従業員や生徒たちに無理矢理『一日一善日記』を書かせ、上の組織に提出するといった人物が出てきたのである。書かされる人間は面倒くさいことになったと『一日一善日記』ならぬ『一日一嘘日記』を提出する。そうなってくると本末転倒で、本来は善を推奨するためのものが、嘘という悪を推進するものになってしまう。山本からすれば頭が痛い状況ではあるものの、とにかく一日一善は組織の中で評価の対象になる程の存在にまで成長したのであった。

一日一善は日本に留まらず、在外邦人たちにも広まっていく。当時の邦人向け新聞を調べてみると、京城日報一九三七年二月十三日の記事で、当地の警察官による市民に対する横柄な態度が問題となり、その改善のため一日一善が取り入れられたと報じられている。

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コラ! や貴様はかって警察がよく使っていた言葉

このことから一日一善には、大人向けの教育方法、あるいは社内研修用の教材としての側面もあったことが分かる。

サンフランシスコで発行されていた邦人向け新聞の一九一五年九月十九日の『新世界』には、一日一善を採用した日本の郵便局についての記事が掲載され、馬哇(マウイ)新聞は一九三〇年一月一日に実施された新年に向けたアンケート結果を掲載しており、本年実行したいこととして一日一善と回答している人がいた。

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日記が前提となっていることが分かる

このように日本の雑誌や新聞記事などを経由して、海外在住の邦人にまで一日一善は知れ渡っていた。山本はこれに飽き足らず、一日一善を強化するような日記をいくつも考案している。

一日一善から日記の究極の前日日記へ

一日一善を成功させた山本ではあったが、それに飽き足らず新たな日記を考案していく。

『一日一悪日記』は『一日一善日記』に類似するもので、『一日にひとつづつ悪いことを為ようというのでは無論ない』『ツイ悪い事を為ようとしたりしたときに、オット待った、ここじゃぞ、という風に、その考えなり行いなりを押し込め、又抑え付ける』といったものであった。山本が事例として紹介している日記は以下の通りである。

嘘が喉まで出たけれど、グット噛み殺した。

疲れたので横になりたかったけど、我慢を出して辛抱をした

ほとんど一日一善と変りがないところは気になるが、目先を変えることで新しいアイデアを出すといったことなのかもしれない。一日一善の実行者からは、『反省日記』が提案されている。これは名前そのまま、その日を反省する日記である。

陶器(からもの)を売りに来た。安かったのでツイ五つ六つ買った。如何に安くても、入用でないものはツマリ高い品で馬鹿をした。

山本の日記への情熱はすごく、次々に新しい日記を開発している。『実践一日一善講話』に続く『模範日 山本滝之助 著 洛陽堂 大正六(一九一七)年』では、『模範日日記』を提案している。まずは山本による模範日の解説を引用しておこう。

今日こそは真に立派な日であった、無難の日であった、内に省みるも何等疾しい点はない、誰様の前に出して見ても今日一日だけは決して恥しくない、と真に自らそう思われるようにあらしめて、ソシて其次の日も又其次の日も自ら此の特別なる一日に倣う所があらしめたい。此の一日をして自ら他の日に対して模範を示すやうにあらしめたいというのが、ソモソモ「模範日」の起りであり、ここに「模範日」という名を付した所以なのである。

模範日とは明治四十四年に考案したもので、一月に一度完璧な一日を作るといった活動であった。その後、しばらくは忘れていたのだが、一日一善が普及してきたことで、模範日と日記を組合せた模範日日記を思い付いたらしい。

模範的な一日を過し、その日の様子を事細かに書くのが模範日日記だ。実行するのが面倒なことから、一日一善ほど普及はしなかったものの、それなりに普及したらしく乃木将軍を追慕し作られた月刊雑誌『乃木式』で紹介され、豊多摩の青年団では月に六度の模範日が実施された。その他、多数の組織が作成した模範日のルールなどが掲載されているが、こちらも山本が収集したものだ。

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『模範日』では『模範日日記』に加え『一日一新日記』も紹介されている。いくら模範的であったとしても、同じことをしていては人生に味がない。だから一日に一つは新しいことをして、記録しておくといったものだ。こちらの事例も掲載しておこう。

一〇日:ある雑誌へ投稿した

一〇日:遅蒔きながら家庭談話会なるものを漸く開いた

一〇日:一日に一度は是非裸足になつて土を踏むことに定めた。

このように新たな行動やルールを記載するのが『一日一新日記』であった。

『模範日』で山本は、模範日記からさらに進んだ『日記前夜説』も提唱している。模範日の前夜にあらかじめなにをするかを日記に箇条書きしておき、翌日は『全て予定の通り』の一行で終らせるのが『日記前夜説』である。『日記は顧みることにのみ使うのではなく、望むほうにも使うべきである』としているが、これはちょっと無理がある。ついでに模範日の次には模範週、模範月、模範年と進んでいき、最終的には模範的な人生に到るなんてことも書いているが、こちらも実行するのは難しそうだ。

日記の種類が増え続けていくため、こんなに大量に日記が書けるわけがないだろうと思わなくもない。山本自身も、『ヤレヤレ「一日一善」でさえイイ加減面倒(めんどう)多いと思っているのに、その上に一日一悪とか又は「反省日記」とか、そんな七面倒臭いことがどうなるものか、などと大抵の人はきっと言うであろう。』なんてことを書いている。自分でも日記を作りすぎだろうという、自覚があったのかもしれない。

日記を作りすぎ収集がつかなくなるというのは、他人の日記を集めたがったり青年団をリストアップしたりする集めたがりの行為ともなんとなく似ている。もしも山本が裕福な家に生れていたら、その収集癖は違う方向に向いていたのかもしれない。

これだよと言わぬばかりに

山本は数多くの企画を打ち立てて、失敗したり成功したりを繰り返している。そんな中でも最も普及したのが『一日一善』であった。『少年団研究 山本滝之助 著 修養団出版部 大正一〇(一九二一)年』によると、一日一善はスポーツにすらなっている。

一善競争は四人一組とし、上野公図を中心に半里四方、下谷浅草本郷の各区に渡り、一つ以上の善事を一時間半以内に行つて帰り来る面白い競技で、行われた善事は、車の後押、落書消し、道案内、道端に落ちてゐるタバコの吸殻消し、上野駅で客の荷物持ち、紙片拾い、乞食へ食べ残りの食物を興へた等であった、金儀は一文も使ふことを禁じ、善行の種類には一切暗示を興へずに置いた。

この競技に参加したのは約二百名、四人組の子供たちが善行を探し求め、街中駆け回るというのはちょっと迷惑な気がしないでもないが、当時の人々はその競技を微笑ましく眺めていたのかもしれない。今では一日一善日記を書いている人なんて数えるほどだろうし、一日一善を利用して文化を進化させようなんて人はいないはずだ。それでもなんだかんだで現代でも残っているのだから、山本の『一日一善』は大成功したとしてもいいだろう。

その後も山本は『早起』を提唱してみたり、町村記念壇を妄想したりしている。『早起』はそのまま早起きだが、町村記念壇はちょっと謎である。山本は各町村に家でいうところの床の間の機能を持つ場所がないことに気付き、各町村にあるありがたいものを集約した町村記念壇を作るべきだと主張しているのだが、あまり気持が理解できない。これまでの山本の行動からするに、色々と集めたいだけでは? といった疑問を持ってしまう。

そもそも青年会の目的の一つに生活改善や旧弊の打破がある。当時の先鋭的な生活改善を主張する者たちの中には、床の間なんてものは家に必要ないとしている人々もいた。そういう意味では、町村のための床の間というコンセプトは微妙といえば微妙で、少々古臭く感じてしまう。

ただ新旧の考えを同居させることで、町民が集る場所として幅広い年齢に受け入れられるであろう町村記念壇を作り上げるというのは、現実的な山本らしいといえば山本らしい。もしも全国的な運動となり、町村記念壇が残っていたとするならば、今より世の中は少しだけ面白かったかもなと想像すると、それほど悪いものではないようにも思えてくる。

とはいえ山本による様々な企画は、彼の仕事の本流ではなかった。構想だけで終ったものも多い。教育、文化に不利な位地にいる地方の農村青年のために青年会を作ることこそが、山本の目的であり大きな仕事であった。

しかし彼も時代の流れからは逃れることはできなかった。日清戦争時、青年会の面々はそれなりに国に貢献をした。山本自身も仲間たちと八百余りの草鞋を集め、日本海軍に寄付している。なぜ草鞋なのか? そもそも海軍よりも陸軍に寄付すべきでは? などといった疑問はあるが、冒頭で紹介した日記やその後の活動から、山本のちょっと思い込みが激しくて、少し間の抜けたところが、なんとなく読みとれはしないだろうか。日本の一大事になんとか貢献したいと、慌てて草鞋をかき集めなにも考えず最短で海軍へ送り付けてしまったなんてことも、山本ならやってしまいそうな気がしないでもない。

青年団(会)には、寄付活動だけに留まらない利点があった。農村で青年たちが情報共有することで、生産性が向上し実際に生活が改善することもあった。その活動に着目した政府は、やがて青年団を奨励し始める。これには青年に軍事的訓練を施そうとする陸軍省の意図も反映していた。青年団の確立に奔走していた山本は、なんだかんだで青年会にこの人ありといった地位を得て、小学校の校長となり、各地の名士と面会し各地で講演活動を行い、それなりの喜びを感じていたようだ。

時代は流れ、青年会は政府の指導と統制による官製の青年団になりつつあった。これに反発する動きもあったものの、最終的に青年団は戦争協力団体のようなものになってしまった。山本は昭和六(一九三一)年に骨髄炎でこの世を去っている。山本が戦時中の青年団の活動を知らずに済んだのが、幸せだったのか、それは分らない。

日本は終戦を迎えると、戦時中を反省する雰囲気がやってくる。山本も自分の立身出世のために青年団を国家主義的に向わせた張本人とされ、批判された時期があった。人の悪口を書き残すような人ではないので詳細は不明だが、存命の頃から山本に対する嫌がらせはあったようだ。『山本滝之助先生言行録 山本滝之助先生頌徳会 編 山本滝之助先生頌徳会 昭和九(一九三四)年』に、山本の知人がこんなことを書いている。

これという学歴を持たない先生が一准訓導から一躍して学校長となり、郡立実業学校長に抜擢された。もとより先生の実力とこれまでの努力に対しては当然の事であるが、その当然を当然と思わぬのが浅間しい人間性である。郡立補修学校に対する囂々(ごうごう)たる輿論(?)は必ずしも先生に好意を持たなかった。

同書に掲載されている年譜には、山本の月給や受け取った手当の金額が事細かに書かれている。本来ならばそんなことを記す必要はない。そうせざるを得ない理由があったはずで、その辺りでも嫌な思いをしたことが多かったのだろう。

正直なことを書いておくと、山本滝之助の書いたものを読み始めた当初、体系的な学問を収めた人の文章ではないなと感じた。

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模範日を餅で解説することによって異様な魅力を放つ文章に仕上がっている

読みやすくはあるが理解しずらい不思議な文章で、そこが魅力なのだが山本が持つひとつの弱点であったことは確かである。また彼には少々権威主義というか、長い物には巻かれよ的なところもあった。個人的にはそんな人物だからこそ、実用本位かつ現実的な提案ができたのではないかと考えている。そもそも山本が青年団を作ろうとしたのは、裕福ではない地方の青年であったからだ。そして彼は自分の仕事を成し遂げるため、立身出世しなくてはならなかった。その行動や思考に多少の疑問を感じないでもないが、時代的な背景を考えると全ては仕方がないことで、山本はそれをして青年団の確立に貢献したというだけの話である。もしも山本が大家の息子で、それなりの教育を受け仕事に成功し余力で青年団の活動に携わっていたのだとすれば、また行動も変っていたはずで、もう少し違った捉え方をされていたことだろう。

どちらにしろ山本には、攻撃しやすいところがあったんだろうなと思う。終戦からしばらくの時期は、解説するのが難しく、まだまだタブーに近いところも多いのだが、山本になにかの責任を負わせたい人たちがいたような気がしないでもない。かって私はそういった卑怯な人間が大嫌いであったのだけど、今では彼らにもそれなりの理由があったんだろうなと考えるようになってきた。もちろん批判や分析は必要だが、過去に起きてしまったことは、仕方がないとしか言い様がないのである。

なんにせよ本来であれば地方に埋れていたはずの山本が、自らの力で人生を切開き、各地の名士と面会し無邪気に喜んでいる様子を見ると、素直に良かったねと感じてしまう。今では山本滝之助も客観的に評価されており、そちらも良かったねと思う。

一日一善については以上であるが、最後に少しだけ感想めいたことを書いておきたい。

一日一善を調べる過程で、私は日本の空論に興味を持ち様々な資料を読み込んだ。当初は面白がっていたのだが、そのうち今もよく似た状況に陥っているように感じ始め、あまり笑えなくなってしまった。

社会全体で意味のない行為が発生し、それってなにかメリットがあるのと、首をかしげてしまうようなことは今もまま起きる。それでも他人の考え方を変えるのが面倒くさいから、なるべく関わらないようにしつつ、その状況を放置する。私自身もなんだかんだと理想や空論を語ってしまう。それじゃ今すぐなにかをやってみろと言われてしまうと、たじろいでしまうことが時にある。理想とまでもいかずとも、こうすればいいじゃないと語った後に、それじゃ今すぐやれと言われてしまうと困ってしまう……なんてこともなくはない。私も空論の世界に生きている一人なのだと思う。

山本が面白いのは、独り善がりの思い込みであろうと、ショボい行為であろうとも、実際にやって続けてしまうことで、やってみろと言われたら「途上にあった茶碗の片をば、一日一善とはこれだよ、と言わぬばかりに、片側に蹴り寄せて友に示」すのだろう。山本は一種の奇人であり英傑でもあるのだから、私に真似することなんて出来るはずもないが、こんな時代であるからこそ、こういう人もいたんだぜと誰かに伝えたくなり、こんな長文を書いてみたというわけだ。