山下泰平の趣味の方法

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明治四二年の雑で粗削りなフェミニズム

明治四二年に雑で粗削りなフェミニズム運動が発生していたので、10000文字程度の記事にまとめた。お時間のある時にでもどうぞ。

かって二つの事件があった

明治四二年に日本統治時代の朝鮮で発行されていた『京城新報』において、二つの小さな事件が起きた。読者投稿欄「平民文庫」と「相談の相談」コーナーを舞台に巻き起こった騒動で、登場人物は酌婦の「おきみ」と新聞記者の「風聞子」、そして「二十六女」である。現在ならばフーンで済んでしまいそうな事件ではあるが、じっくり眺めてみるとなかなか面白い出来事である。というわけで、事件が発生した舞台の背景を解説してみよう。

まずは「おきみ」事件である。

京城新報は日本統治時代の朝鮮で 1907年1月から1912年2月まで発行されていた民間紙だ。総督府の機関誌『京城日報』と比べると、少しだけリベラルところがあった。悪徳商法を働く呉服屋を攻撃し、時に総督府機関誌『京城日報』内で行なわれる不正行為を報じるといった立ち位置で、良く言えば庶民の味方の新聞紙だ。

その一方で芸者のスキャンダルを掲載し、遊廓の客を罵倒するといったといった一面も持っていた。一時期は、女を買いに出歩く男を自然主義者と呼び、からかったりもしていた。

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1908-08-21
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1911-02-26

今となっては文学の一ジャンルにすぎない自然主義も、流行語として消費される時代があったというわけだ。

京城新報で掲載されていた「平民文庫」は、読者から送られた100文字程度の短文を掲載する読者投稿欄であった。今のツイッターによく似ていて、読者間の雑談や美味しいお店の紹介、求職活動など多様な投稿をみることができる。アイドル的存在の美人店員をめぐって論争となり、最終的には腕力で決着を付けようではないかという人物まで登場している。

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1909-03-25

100文字程度の投書を募集する「平民文庫」は、京城新報による発案というわけではない。多くの新聞社がよく似た読者投稿欄を持っていた。読者の短文を掲載し始めたのは、恐らく伊藤銀月による『百字文会』で、こちらは萬朝報で始まった企画である。

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近代書誌・近代画像データベース百字文粋

読者が百文字で様々なことを表現するのが『百字文会』で、比較的高尚かつ高度な内容が多かった。これは万朝報の読者が多いからこそ出来たことで、発行部数が少ない地方紙ではそれほどレベルの高い投書がなされない。そのため「朝鮮日報」(1920年から発行された朝鮮日報とは別紙)の「投書函」は、次のようなゆるいルールで運営されていた。

  • 人身攻撃に渉るなかれ
  • 広告吹聴にするなかれ
  • 百字以上を用るなかれ

悪口や広告以外の百文字の文章を募集中といった内容だ。京城新報の「平民文庫」も、同じようなルールを採択している。

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1909-06-27

京城新報の「平民文庫」は、読者から絶大な支持を得ることとなる。読者からの投書家懇親会を開催してくれという要望が幾度も届き、最盛期にはスター投稿者の写真まで掲載された。

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はの字 1910-01-01

その人気ゆえにトラブルも多く、記者から「一般の投書者に告ぐ文章は簡単にそれから他人を中傷讒誣するような記事は廃して下さい」なんて一文が定期的に掲載されている。

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1908-11-08

百文字程度の読者投稿欄は新聞社にとっても便利な存在で、記事が集まらず紙面に空きが出た際の埋め草といった意味合いもあった。だから投書が減ると困ってしまう。そのため時には投書を集めるため記者自身が「平民文庫」に参戦し、場を盛り上げるといったことも行なわれていた。

以上のような状況を背景にして、「おきみ」事件は発生した。

「おきみ」事件の顛末

1909年の09月28日、「平民文庫」に京城新報の記者「風聞子」がこんなことを書いた。

小料理店の海山楼で働いていた酌婦の「おきみ」は、同じ町内に住む請負師の小林に借金七円を払ってもらい夫婦となった。お客として扱われていた頃とは違い夫婦であるから、「おきみ」の態度も当然変わっていき、徐々にずうずうしくなってきた。請負師の小林も「おきみ」の全てが気に入らなくなってきて、二人はほぼほぼ毎日、夫婦喧嘩をして暮している。二十六日にもまた喧嘩、激怒した小林が「出て行け」と言い放ったところ、「おきみ」は「アアアア出て行きますとも。私も女だ。女も女、天草女だ。小豆飯にキムチに男日照りのない朝鮮だよ。左様なら」と啖呵を切った。くやしまぎれに小林が「一銭銅貨なら七百枚、片手には一寸下げられない程の大金、出て行くなら出て行けだが、この金だけは払って行け」と言い放つ。これにも「おきみ」は「一銭銅貨なら七百枚か知らないが、一円札なら唯七枚、払うとも払う。その代りに玉代(芸者への報酬)をよこせ。月極めだけに一夜一円に負けてあげる」と応戦、男はすっかり参ってしまった……といった内容だ。

たわいのない記事だが、それなりの反響があり、気を良くした「風聞子」は、1909年の10月9日の「平民文庫」に「おきみ」事件の続報を掲載する。

「おきみ」の啖呵に恐れをなした小林は謝罪し、ひとまず別れ話はなくなった。ところがである。一人の悪戯者が例の投書記事を持参して小林の正妻に報告、怒り狂った正妻は午前二時に「おきみ」の妾宅に殴り込みをかけた。その形相は凄まじく、阿修羅王の如くに荒れ狂い、左手で「おきみ」の髪の毛を引っ掴み、肩に喰らいついて大立ち回りを演じ始めた。目覚めた小林は平身低頭、「おきみ」に暇を出すと約束しその場は治まったものの、密かに某所に「おきみ」を住まわせているとのこと、まだまだこの騒動は続くことだろう……といった内容で「風聞子」の得意の顔が思い浮ぶ。

ところがである。翌日1909年の10月10日に、こんな記事が掲載された。

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1909-10-10

画像が鮮明でなくて申し分けないのだが、要するに来社した「おきみ」から、あの記事は事実誤認だと申込みがありましたので、先日の記事は抹消、後日その詳細を報じますといった内容だ。休刊日を挟んだ1909年の10月12日、「風聞子」は約束通りに次のような謝罪記事を掲載した。

9日の午後のことである。編集室に息急き切って一人の人物が飛び込んできた。「美、美、ビジンがある。ビジンとはいえ女である」。なんていうように全体的にふざけた雰囲気で書れた記事だが、いきなり本人がやってきて「風聞子」は、大いに動揺したらしい。

「風聞子」が語るには、「自分は世間慣れも女慣れもしていない男である」から驚かざるにはいられない。誰に用があって来たのか知れないが「早く帰ってくれればよい」と小さくなっていると、係のものがやってきて耳元で「このお方がちょっとお聞き申したい事があるそうですときた」。ここからはなかなか面白いので「風聞子」自身の文章に句読点を書き加え、読みやすく修正しつつ適宜解説を挟み込んだものを掲載しよう。

『生れてから女というものには、母親と妹と叔母さんの他、口もきいたこともない内気な風聞子は、クワッとしてモウ無我夢中、なに御用でございますかと聞くのさえヤッとの事、「私はおきみと申しまして海山楼に勤めをしておりましたもので、先日の平民文庫にもお書き下さり、今日の平民文庫にも書いてくださってありがとうございました」』

と、嫌味を言われる。

『元来正直な風聞子は「どう致しまして、お礼で痛み入ります。お望みなら何遍でも出します」と、恥かしいから俯いたままにお答えした。』

「おきみ」は続けて、

『「が、あれば全然跡形もないことで私も何時までも卑しい家業をするでもないと存じて廃業をしましたことは真実ですが、小林さんのお世話になって止したのではございません。ご存知でもございましょうが、私は金指輪を二本も持っておりました……」「左様でしたか。チッとも知りませんでした。」と、風聞子は蚊の鳴くような声でお世辞を言った。』

『「そのそれを売り払いまして、小間物の行商の株を売ると云う人がありますから、それでも買ってその行商でも初めようかと思っている矢先へああいう事が出ましては、私の信用にもかかわるし、小林さんという方にも気の毒でたまりませんから、なにとぞお取消くださいまし」』

『同情の深い、気の弱い、佛性の風聞子はモウ気の毒でたまらない。「済みませんでした」と謝罪する気も出ない』

『「嘘をいうな。人の名は違うか知れないが世話になる旦那のある事は本当だろう」なんて事は、正直真方(まっぽう)の風聞子は夢にも思わぬ。兎に角、小間物でも始めようという殊勝な心掛けに感心して、風聞子は該記事の全部を抹消する。おきみさん真正(ほんとう)に素人におなんなさいよ(風聞子)』

全体的に浮ついた雰囲気の文章ではあるが、最後の「おきみさん真正(ほんとう)に素人におなんなさいよ」という一文からは、ちょっとした愛情と同情を感じてしまう。

この事件で興味深いのは、社会的に圧倒的に不利な身分であった酌婦の「おきみ」が、新聞社に乗り込み勝利していることである。当時は教育のない者も新聞記者になることができたが、普通の人々よりはずっと口達者であり知識もあった。さらに今とは違い当時の新聞記者の中には、「お前の店の悪口を記事にするぞッ」と脅しつけ、料理屋で無銭飲食をするといった一種のゴロツキもいた。その料理屋で働く「おきみ」が、新聞記者に勝てるはずもなかった。

さらに取消記事が掲載されたとしても、実につまらない結果にしかならないはずだった。夏目漱石の「坊ちゃん」に、新聞社に記事の取消を求める場面がある。その結果は次のようなものであった。

明日になって六号活字で小さく取消が出た。

小さな活字で何月何日の何に関する記事は事実誤認であるから取消、その程度のことしか掲載されない。以上の時代背景から考えると、「おきみ」が新聞社に乗り込むのは全く割に合わない行為だといえる。それでも彼女は新聞社に乗り込み、見事な訂正記事を書かせているのだから驚くより他ない。

「おきみ」の挑戦が成功した理由として、次の三点を上げることができる。

  • 悪口を書いた相手がやって来たというニュースバリューがあった
  • 「おきみ」の魅力に「風聞子」がやられてしまった
  • 風聞子が比較的まともな人間だった

これに加えて当時の「京城新報」の雰囲気を考慮に入れる必要があるだろう。実は「おきみ」事件の少し前に、京城新報の某記者がひとつの失敗をした結果、女性の権利を尊重すべきだといった機運が熟していたのである。

「二十六女」を助けようとした人々

ある時期「平民文庫」に、悩み相談が幾度も投書されていた。これを見て相談に需要があるのではないかと考えた京城新報の担当者が「相談の相談」という悩み相談コーナーを開設する。

開始当初、それなりの人気を誇った「相談の相談」ではあったが、残念ながら長くは続かなかった。公務員試験の日時の問い合わせ等の簡単な相談に対し「これは相談じゃなくて問い合わせだ」と嫌味を返すわりに、難しい質問に対しては投げ遣りで凡庸な解答でお茶を濁す。その一方で相談と質問を取り違えるなと要求する。

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1909-07-06

解答がいい加減にも関わらず、読者への要求が厳しい。これなら占いコーナーのほうがマシだというわけで、「相談の相談」は終了し、占い「吉凶鏡」コーナーが人気を博すことになる。

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1909-10-09

この「相談の相談」にまだ人気があった頃、二十六歳の女性「二十六女」からひとつの相談が届く。

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1909-07-08

問 わたしは、ていしにすてられ、子ひとりをつれて、こまっている。子は三十円もやればもらってくれるが、かねがないから二人ともしぬばかりで、どうしたらよいか、しらせてください。二十六女 (著者注:適宜、句読点を追加、漢字を使用)

文字を書き慣れていないのだろう、ほぼひらがなだけの葉書であった。これに対して新聞記者は、次のような答を掲載する。

答 酌婦になって金をば借りて、その子を他人に遣んなさったがよろしい。死ぬよりはましだ。(係)

例外はあるものの、借金をするような状況でなる酌婦は、基本的に身体を売る商売だ。まして今とは違い明治であるから、酌婦になった女性の先行きは概ね暗い。身体も子供も売ってしまえというのは、現代では考えられないような解答だが、明治四十一年の素朴な読者たちもやはり怒りを感じた。読者の苦情が掲載されることはなかったものの、「二十六女」に仕事を紹介しよう、住む場所を提供してもよろしいといった声が殺到した。

流石の記者も多少は反省し、紙上で「二十六女」に来社を幾度も呼び掛けている。

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1909-07-08

幸いなことにこの事件は、ハッピーエンドで終る。記者の解答を真に受けた女性が、酌婦になりたいと知人に相談すると、人を雇うため田舎から一人の男が京城に滞在していると知らされる。男の元へ行き四方山話をするうち、なんと彼が今は亡き母の兄弟だと判明する。これまでの苦労話を打ち明けると叔父は涙を流し、これからは親船に乗ったつもりでいろと、その身を引き取ってくれることになった。できすぎた話であり、記者の創作のような気がしないでもない。しかし職や住居を提供しようという人々に対し、もう心配ないと書いており、やはり実話ではあるのだろう。とりあえずはめでたしめでたしといったところで、読者たちの怒りもようやく収まった。

この事件をきっかけに「京城新報」で、社会的に虐げられている女性に対する同情が盛り上り始める。「おきみ」のような酌婦や芸妓の悪口が書かれる一方で、その地位を向上させようといった投書も掲載され始める。

そんな彼らの活動は多少の功績も残した。当時は雇い主に強制されて公的な催しに参加させられた芸妓に対し、正当な賃金が支払われないことが多かった。これに憤った「京城新報」の読者や記者が批判を繰り返した結果、雇い主も観念し独り占めしていた報酬を芸妓たちに分配させることに成功している。

小さなことかもしれないが、投書欄の力でこんなことができた時代があった。

「おきみ」と「二十六女」

明治の女性解放運動は、女性が政治や教育を認識した瞬間から始まっている。婦人参政権運動や廃娼運動、一般的に有名なのは「青鞜」だろうか。明治四十年代にはすでに、エリートたちによる廃娼運動も盛んであった。

「おきみ」事件なんてものは実に瑣末な出来事で、「二十六女」が書いた一枚の葉書から起きた騒動も、歴史に残るようなものではない。同時期に日本統治時代の朝鮮を、破天荒なフェミニストとして有名な本荘幽蘭が闊歩してたことのほうが、ずっと大きな出来事だ。近年のフェミニズムの世界では、虐げられた女性の立場から女性史を語ろうといった動きもあるが、「おきみ」も「二十六女」も特に詳しいことは語っていない。ここで紹介した二つの出来事は、フェミニズムともなんとも関係ない出来事として片付けるのが妥当だろう。

ただし少しだけ、注目すべき点もある。「京城新報」で起きたふたつの事件は、エリートでも当事者でもない、普通の人たちによるものであったことだ。この事件が起きた時代、すでに芸妓や酌婦は私たちの姉妹であるといった言説も存在していた。しかしながらそんな運動に参加しながらも、内心「おきみ」や「二十六女」を見下すような人々もやはりいた。当たり前の話ではあるが「京城新報」の読者たちも、女性解放運動や廃娼運動に参加していたわけではない。芸妓のスキャンダル記事を喜んで読んでいたような人々である。それでも助けを求めた「二十六女」への酷い対応に、怒りの声を上げるくらいの正義感は持っていた。

「おきみ」も女性解放運動や廃娼運動なんて知りもしなかった。それでも自分が持つ知識や度胸を駆使し、「風聞子」に直談判を試みている。一方の「風聞子」は、やってきた「おきみ」を冷く追い返すこともできたのだが、彼はそれをせず、詳しい状況を書いて記事として掲載した。「風聞子」個人の資質と思想によるところも大きいが、当時の「京城新報」における雰囲気も関係していたのであろう。

もっとも「おきみ」は「私も女だ。女も女、天草女」である。「風聞子」に謝罪させることなんて朝飯前だとうそぶくかもしれない。

ちなみに「おきみ」と「二十六女」のその後のことは分かっていない。「風聞子」は日本に戻り、記者としてそれなりの活躍をしている。

妙な形の文化が形成される頃合い

今回紹介した事例の他にも、様々な方向から雑で粗削りなフェミニズム運動のようなものは起きていた。日本における娼妓や芸妓の自由廃業は、基本的には政治やキリスト教の団体による運動であった。彼らとは別の目的と動機で自由廃業に参戦したのが、明治三十年代の文学青年たちだ。当時の文学志望青年に求められる能力として、人のために涙を流せるかどうかというものがあった。彼らは美しい自然に触れて涙を流し、知人の苦境に同情して涙を流す。

そこから派生して、技量がある青年は、虐げられた娼妓を詩や歌にして、作品として昇華させる。無駄な元気だけはあるが、技量のない若者たちの中からは、後先考えず娼妓や芸妓の自由廃業に協力する者が登場する。1910年4月8日の「平民文庫」でも、三百円の借金がある酌婦の逃亡を、某新聞社が手助けしたそうだといった投書が掲載されている。当時の新聞記者は文学志望崩れの者が多くいて、彼も他人のために泣ける男の一人だったのかもしれない。

もっとも、金も知識もない若者たちの行動である。逃げたあとはどうするのか、そんなところまで頭が回るはずもない。迷惑としかいいようのない行為ではあるが、それでも彼らが彼らなりの正義感と同情心で、女性のために一肌抜いだことも確かではある。

全ての文化は、スタンダードな歴史を持っている。そんな巨大な流れ中で、変った人たちが登場する頃合いがある。あくまで個人的な感覚だが、明治三十から四十年代あたりは、基本的な知識がそこそこ広がった結果、異形のものが頻繁に登場する時期であった。実はフィクションの世界でも、このあたりに本格的な女性ヒーローが活躍し始めている。

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彼女たちが登場した理由は複雑で、一言で説明するのは難しいのだが、自分が持っているはずの当然の権利を主張する女性の登場も無関係ではない。文化というのは単体で存在するものではなく、社会に流れている感覚の変化に影響を受けて変化していく。今回紹介した事例についても、女性の権利に関する知識が普通の人の一部に届き始め、妙な形で現われたものだと私は考えている。

私はこういう妙な形の文化が好きで、そういった状況に出会うために個人的に色々調べている。今回紹介したのも、そんな活動の中で出会った事例のひとつである。フェミニズム的に面白い事例はいくつかあったのだが、残念ながら私はフェミニズムに関する知識がほぼなく、どうにも明治期のそれに興味が持てないため、様々な出来事を綺麗にまとめることが出来ない。しかし「おきみ」と「二十六女」の件だけは私が独り占めしておくのは惜しいと思い、こうして記事としてまとめてみた。

最後に宣伝ではあるが、フィクションと生活に関する妙な形の文化については、書籍にしてまとめている。こういった妙な文化に興味があるのであれば、手にとってもらえれば幸いである。