かなり長く(約15000文字)なってしまったので最初にまとめておくと、この記事は『岩見武勇伝』という物語に生じた変化を紹介しながら、『社会の状況が変化すると娯楽物語の内容も変化する』といったことが書かれている。遊廓は登場するが、その実態については触れていない。
岩見重太郎の妹お辻
今では忘れ去られてしまっているが、かって岩見重太郎と呼ばれるヒーローがいた。
岩見重太郎・塙団右衛門 玉田玉秀斎 講演 立川文明堂 大正六(一九一七)年
『岩見武勇伝』は主人公の重太郎が父親の仇である広瀬軍蔵を打つため諸国を巡りつつ、狒狒や山賊を退治し、天橋立で百人斬りを達成、ついでに広瀬軍蔵も完璧に殺害、豊臣秀吉につかえた後は薄田隼人と称し、大坂夏の陣で討死するといった物語である。江戸時代に誕生したヒーローでかなりの人気を誇り、講談や読本、歌舞伎や映画など様々なメディアで幾度も活躍をした。これらの物語をここでは『岩見武勇伝』と呼ぶことにしよう。
この物語の中で岩見重太郎の妹お辻は、父の仇討ちのため旅に出て、やがては遊女となり無念の死を遂げる。この後、岩見重太郎が仇を討ち取り本懐を遂げるのものの、お辻にとっては全く救いようのない物語であった。
ところが明治時代、講談速記本と呼ばれるジャンルの中で『岩見武勇伝』は徐々に変化し、お辻にちょっとした救いが付け加えられていく。流石に江戸時代の物語そのままでは、近代化された社会では受け入れられない。だから物語は改善され、変化していく。
その様子を観察していくと、フィクションは現実と強いつながりを持っているということがよく分かる。本記事に登場するのは、次の五冊である。
『岩見重太郎』 西尾東林 講演 盛業館 明治三一(一八九八)年
『岩見重太郎』 新流斎一洗 口演[他] 岡本偉業館 明治三一(一八九八)年
『岩見武勇伝』 桃川燕林 口演 朗月堂 明治三四(一九〇一)年
『岩見武勇敵討天の橋立』 広沢虎吉 口演[他] 岡本偉業館 明治三五(一九〇二)年
『豪傑岩見重太郎』 神田伯竜 講演 中川玉成堂 明治四一(一九〇八)年
全ては岩見重太郎の物語で、十二年の間に五度も類似本が出ていることも驚きだが、実はこれに留まらず十冊以上が出版されている。江戸の物語をベースにして、基本的は同じ物語が描かれているのだが、読み比べてみると細部にかなりの違いがある。今回紹介する妹お辻の変化も、その違いのひとつである。
注意したいのは、物語が年代順に綺麗に進化していくわけではない点だ。当たり前だが優れた創作者はいち早く時代の流れにのった作品を完成させるし、そうでもない人の作品はそれなりである。現実というものは複雑であり、大きな流れとして、こういうことがあったのだと解釈していくしかない。
ちなみに上記の五冊は、全てが講談速記本だ。講談速記本とは、その名の通り講談を速記したものであり、基本的に実話として描かれる。なぜなら講談は「事実」を語る芸能で、その講談を速記した講談速記本も実話ということになるからだ。しかしそれはあくまで建前、完全なフィクションといった作品も多い。『岩見武勇伝』も実在する薄田隼人をモデルとしているが、ほぼフィクションである。それだけではなく、コストカットのため速記のプロセスを除いたものもあれば、ほぼ小説といった作品も存在している。このあたりのことをより詳しく知りたいのであれば、現時点では次の書籍を読むしかない。
「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本
- 作者:山下 泰平
- 発売日: 2019/04/26
- メディア: 単行本
講談速記本はそれ単体で存在しているわけではなく、最初期の娯楽小説や犯罪実録などとともに進化していく。そこを押えた書籍はこれくらいしかなく、作者はどれほど立派な人なんだろうと思ったんですけど、そういえば書いたのは私でした。というわけで話を『岩見武勇伝』に戻すと、人気と歴史があるだけに、かなり複雑な立ち位置の物語で、講談速記本の前には講談や歌舞伎があり、さらには薄田隼人と岩見重太郎は別人だという考えのもので書かれた物語まで存在する。私も全てを把握しているわけでもないので、解説することもできないのだが、ここでは岩見重太郎というものすごく強い人間の物語が、明治時代に人気があったくらいの認識で十分だ。
『岩見武勇伝』は不完全だから語られ続けた
これまた複雑な話になってくるのだが、明治の半ばも過ぎると『岩見武勇伝』に飽きてしまう人も多くいた。人気なだけに多様なメディアで『岩見武勇伝』が演じられる。現代でも落語の『岩見重太郎の草鞋』は有名だろう。岩見武勇伝がブームになったのは安政時代、明治の人たちが飽きているのは当然だ。『忠臣蔵』も似たような感じの作品で、これに関しては別記事にしたことがある。
にもかかわらず重太郎の物語は語られ続けた。事実、新しいメディアが生まれるたび、岩見重太郎を題材にしてコンテンツが作られている。時代は流れ戦後となり平成を越えて令和、さすがに最新のメディアで取り上げられることはもうないが、今も漫画や小説の主人公としては活躍している。
面白いのは重太郎の物語が、あまり出来が良いわけでもないという点だ。今も昔もオリジナルの岩見武勇伝より面白い物語は沢山ある。そんな中でなぜ『岩見武勇伝』が創られ続けたのか、あくまで推測ではあるが、馴染深い岩見重太郎を、馴染のない新しいメディアで活躍させることで、受け入れやすくなるといった側面があったのだろう。新メディアで新たな活躍をすることで、新規の観客も重太郎に触れることになる。『岩見武勇伝』を楽しんだ少年が、新たなメディアで重太郎の物語を新たに創作する……そんなこともあったはずだ。
ただし先にも書いたように、江戸の物語のままで、近代人を納得させることはできない。不完全な物語をなんとか近代的で面白い物語にしようと、創作者たちが奮闘努力したからこそ、岩見重太郎の物語は幾度も蘇ることができた。語られ変化し続ける限り、物語が忘れられることはないのである。
少し話はそれてしまうが、不思議なことに完璧で面白い物語が長生きするわけではない。あまりできのよくない物語が、なぜか長く愛され続けるケースがままあって、実は『水戸黄門』もそんな物語のひとつである。オリジナルの漫遊記に出てくるのは、黄門様と助さん格さんだけ、うっかり八兵衛や風車の弥七などは登場しない。同じく漫遊記物の『大久保彦左衛門漫遊記』には、江戸っ子気質の魚屋一心太助や、柔術使いや忍術使い、はては鉄扇使いまで揃っている。ヒロインこそ登場しないが、ほぼテレビ版の『水戸黄門』と同じ水準にまで達している。物語としての優劣のみでその寿命が決るのであれば、『水戸黄門漫遊記』よりも『大久保彦左衛門漫遊記』のほうが長生きするはずだが、『大久保彦左衛門漫遊記』なんてものは今や誰も知らない。不完全な物語には改善の余地が存在するため、時代に合せ変化することが出来るといった強みを持っているのかもしれない……などともっともらしいことを書いたものの、真相はネームバリューがある物語がウケるといった単純なものなのだろう。
お辻が仇討ちの旅に出るまで
前置きが長くなったが、お辻のお話である。さっさとその扱いの変化を紹介したいのだが、お辻が旅に出るまでがかなり長い。ここを飛ばすとサッパリ分からなくなってしまうので、なるべく短縮しつつ紹介していこう。
少年少年の岩見重太郎は森の中で猿や熊を殴りつけ修業をし、仙人的な人物から武術を授けられ無敵となるが嫉妬を恐れ、馬鹿や臆病者の真似をし生活を続けるうち、はからずも武勇を現わし主君に見出され出世をする。ところが心配していたように、嫉妬にかられた同藩の侍三六人が重太郎を闇討ちする。しかし重太郎は無敵であるから、三十六人をあっさり返り討ちにしてしまう。同藩の若侍を殺害したという罪は逃れることは出来ない。しかし我が子を重太郎に殺された家老職の鳴尾飛騨守は名臣であった。自分の邸宅に子息を討たれた三六名の親類の者を集め、重太郎を仇敵だと思うなら何時なりとも仇討ちを願って出ろと言う。ただし条件が付いている。
飛騨「その代り大勢の勝負は相成らん。一人づつ重太郎と真剣の勝負を致し、彼を討てばそれでいいが、もしも重太郎のためにかえって討たれるようなことがあれば、そのままには捨ておかん。親族の者、親類までも断絶し、重き咎めを申し付けるから左様心得ろ。またその方どもは全く自分どもの倅兄弟が心得違いをいたして申し訳もなく、決して重太郎に恨みを含まんとあらば、上より格別の取り計らいをもって、一人に付き百両づつの祭祀料を出すがどうだ」
この折、銘々が顔と顔を見合せまして、
甲「なんと斎藤」
乙「ハッ」
甲「どうしよう」
乙「どうしようと云っても、とても重太郎と一人づつの勝負をしたって勝てる気遣いはない。三十六人が一時に掛ってさえも討たれるくらいだ。所詮これはどうにも剣呑だ。マア仕方がないから百両をいただいて事を済ませたほうがよかろう」
『岩見重太郎』 西尾東林 講演 盛業館 明治三一(一八九八)年
重太郎の武勇は、みなが知っている。一対一で重太郎を討とうという者は出てこない。危い橋は渡らずここは祭祀料を出してもらおうということで、話がまとまってしまった。皆で連れ立って死骸を片付けにいくのだが、ここで明治のスプラッターギャグが展開される。
どれが我が兄弟や倅の腕だか、足だか胴だか分りません。銘々いい加減に拾い集めております。
○「オイオイ、武田」
△「アー」
○「どうも拙者の倅の手を一本持っていッては、倅の手が片一方になってしまう」
△「アー左様か。その代り貴殿の方には足が一本余計にある」
○「馬鹿を云え。タコじゃあるまいし人を馬鹿にするな」
『岩見重太郎』 西尾東林 講演 盛業館 明治三一(一八九八)年
甲「俺の倅の片腕はどうした」
乙「オイオイ、貴殿、拙者の倅の片足を入れてくれちゃァ困るぢゃァないか」
丙「なるほど、道理で一本多いと思った」
丁「この方の伜の足がないぞ」
戌「アア向うの松の樹のところに落ちてあった。あれであろう」
丁「ヤッこりゃどうもありがたい」
巳「オヤオヤ、お手前の御子息は左の足ばッかりじゃないか」
甲「なるほどこいつァ間違った……おいおい貴殿の方は右の足ばッかりぢゃァないか。それぢゃあ足を交換しよう」
『豪傑岩見重太郎』 神田伯竜 講演 中川玉成堂 明治四一(一九〇八)年
我が子や兄弟が死んでいるのに、あまりに軽すぎる親族たち……なかなかレベルが高く、現在でも通用しそうな内容だ。西尾東林版と神田伯竜版との洗練度の違いにも注目したいところだが、余談ばかりでは話が進まないので岩見武勇伝に戻ろう。
飛騨守の人徳と機知によって無罪となった重太郎は、遺族たちから是非とも養子にと請われる。息子を殺した重太郎を養子に欲しいというのは、ちょっと現代の感覚では理解できない。強い息子がいれば、我が一族は安泰といったところなのだろう。しかし三六のうち一つを選ぶと、またもや争いの元であると重太郎は考えた。ほとぼりが冷めるままでは土地から離れようと、三年間の武者修行に旅立ってしまう。
ところが重太郎が留守の間に、岩見家で大変なことが起きてしまう。小早川家に廣瀬軍蔵という武士がいた。名君小早川隆景の養子、秀秋の家来である。ちなみにこの隆景は、三本の弓のエピソードで有名な名君だ。一方の秀秋は重太郎武勇伝の世界では評価が低い。
隆景が優秀で秀明のデキが悪いというのは、なんでもないようなことだが、重要な部分でもある。この秀秋という人は、後に豊臣家を裏切ることになる。講談速記本は基本的に豊臣びいきだから、悪く書かれてしまうというわけだ。とにかくあまり良くは書かれない秀明は軍蔵の奸佞邪知を見抜くことが出来ない。あることないこと吹き込まれた秀明は、父親に逆らい指南番として軍蔵とその一派の大川八左衛門、成瀬権造を推挙する。現役の指南番である岩見重太郎の父重左衛門と軍蔵一派、どちらが強いのか白黒はっきりさせるため、御前試合が開催されたものの実力の差は明らかだった。
隆景「大川は岩見のために打ち込まれたるゆえ、論ずるところはない。廣瀬に成瀬は相打ちであるが、いずれも小半時(三〇分)の間の試合の間に、重左衛門はただの一度も余の方に竹刀先を向けたことがない。成瀬、廣瀬らは余の方へ槍、先あるいは竹刀先を向けたことはしばしばある。これ君臣の礼を欠くところの不心得であり、剣術の拙きゆえ、槍術の拙きゆえである。ココをもって四人の中で第一は岩見であると心得る。
『岩見武勇伝』 桃川燕林 口演 朗月堂 明治三四(一九〇一)年
これで後に遺恨を含むようなことがあってはならぬと、名君の隆景は軍蔵たちに慰めの言葉をかける。
隆景「コレ」
三人「ハッ」
隆景「実に今日の立ち会い鮮かなものである」
三人「恐れ入り奉ります」
隆景「しかしながら、今日はその方どもが弱いから負けた次第ではないぞ」
三人はアーありがたい。殿様は幾分か我々どもを贔屓にして下さると大いに喜びおりまする。すると隆景公は、
隆景「その方どもが弱いのではないが、重左衛門が強いのだからその方どもが負けたのだ」
それじゃなんにもなりません。三人はただ今の喜びに引きかえて、大いに赤面を致して、こそこそと御前を下り邸宅へ立ち帰ってしまいました。
『岩見重太郎』 西尾東林 講演 盛業館 明治三一(一八九八)年
お前が弱いのではない重左衛門が強いのだという台詞、似たものが他の講談速記本に出てくるのは当然として、昭和六一年の漫画『魁!!男塾』にも使用されている。伊達臣人という冷静な性格を持つキャラクターが「気にすんな お前が弱いんじゃねぇ 俺が強すぎるんだ」という台詞で、男爵ディーノを挑発しているのである。
作者の宮下あきら先生はポルシェとギターが好きなので、岩見重太郎に親しんでいた可能性は低いものの、他のジャンル経由でヒントを得た台詞かもしれない。この辺りが講談速記本の持つ影響力の恐しさで、講談速記本自体は消えてしまったが、その要素はなんども蘇るのである。
とにかく昭和においては、挑発のために使われる台詞であるのだから、廣瀬軍蔵、大川八左衛門、成瀬権造の三人にしてみれば面白くないのも当然だ。彼らは自分の未熟は省みず、重左衛門に恥をかかされたと逆恨みし、ある夜のこと酒に酔った重左衛門を鉄炮で打ち殺してしまう。
重太郎の兄の重蔵が仇討ちを願い出ると、小早川隆景は快くその願いを聞き届け、仇討ちの免状と備前定国の名刀を遣わす。重蔵は妹のお辻にそのことを告げると、お辻は大いに喜び明くる日の東雲に、兄とともに仇討ちに旅立つも、手掛かりはない。光陰矢の如し、兄弟は国を出て一年に及ぶ。
そんなある日のことである。山道でお辻が駕籠に乗り、重蔵が後を歩く。先に行っているという駕籠屋の言葉を信じた重蔵は、ブラブラ歩きで宿屋に到着すると、お辻と駕籠屋がいない。宿屋の主人から、駕籠屋に化けて女をかどわかす山賊がいると聞いた重蔵は、慌てて山へと助けに向う。この時、旅館で一人の武士が酒を飲んでいた。
武家「俺は酒を飲むと身体に力量が満ちて来て力量を抜かんと身体が痛んで耐えられぬ。そのほうども見れば大分力量もありそうだが、俺の肩を叩いてはくれんか」
金造「旦那、冗談を云っちゃいけません。私どもは按摩じゃございません」
武家「イヤ、実は貴様たちにただで頼むのではない。金を一歩づつやるから、手で叩いたくらいではなかなか応えんから、下に参って割木(たきぎ)を持ってきて、両方の肩を力一杯に叩いてくれろ」
両人の者は吃驚いたしました。
両人「ヘッ、それじゃ旦那の肩は手で叩いてはいけませんか」
武家「貴様くらいの腕でいくら叩いても応えんな」
権造「それじゃ旦那、割木で打[どや]してもよろしゅうございますか」
武家「アー、いいとも」
二人の若い者はこんな変り者に出会[でくわ]したのは始めてだと、下へ参ッて手頃の割木を二本持って参りまして、
金造「それじゃ旦那、いよいよ肩を叩きますから」
武家「よしよし、早く叩いてくれろ」
これから一人は一番驚かしてやろうと、力一杯に割木で肩をポンと打ちました。
金造「旦那、どんなものでございます」
武家「ムー、今肩へなにか当ったような心持ちがしたが、割木で叩いたのか」
若い者はますます驚きまして、
金造「旦那、冗談ぢゃございませんぜ。今、力一杯に私が叩いたのでございますが、効きませんか」
武家「ちっとも効かぬ。なにか肩へ当ったように思うが、一向に応えんな」
『岩見重太郎』 西尾東林 講演 盛業館 明治三一(一八九八)年
完全に肉体の強度と頭がおかしいわけだが、この武士は明治に発生した新しいタイプの豪傑で、彼らは時に奇異な行動に出る。それというのも明治も後半になると、戦場での強さをアピールしにくくなってしまったからである。講談速記本では戦場の場面が、くだくだしくなりますから……と省略されてしまうことが多い。
講談といえば扇子をバンバン、ババンと叩きながら、その面々はと云うと、長岡帯刀を筆頭に、同左馬助、有吉主膳……と名前が続き、戦場の千軍万馬の中を左右前後に駆け巡り、あたかも人なき境を行くがごとくの有様、といった戦場の場面がクライマックスだと私は思っていたのだが、耳で聴いて楽しむ芸能と、読んで楽しむ娯楽では質に違いがあるのかもしれない。真相はよく分からないが、とにかく豪傑の強さをアピールするために、戦場の代用として蛮行が登場するのである。
割木で肩を叩かせて、なんともないから強いというのも、かなり微妙なところだが、ある種の凄みのようなものは十分に伝わってくる。とにかく金造、権造の二人はこの強い武士に驚いてしまい、思わず誘拐されたお辻のことを口に出す。それを聞いたこの武士は、山賊などは俺が片端から張り殺してやると言い残し、山へと掛け出す。
先に宿を飛び出した重蔵はといえば、彼もかなりの凄腕で、山賊に捕まっているお辻をあっさり助けていた。しかし持病の癪(胸や腹などに起こる痛み、胃痙攣など)を起してしまう。激しい痛みに苦しむ兄を、お辻が介抱していると、兄弟は折り悪く、廣瀬軍蔵、大川八左衛門、成瀬権造の三人に出会ってしまうのである。
重造は手早く下げ緒(刀を帯に結びつけるための紐)を取って襷に掛け、手ぬぐいを鉢巻にして、
「如何に軍蔵、勝負せよ」
と刀を引き抜き詰め寄れば、軍蔵も同じく立ち向い、双方劣らぬ武術者[ぶげいしゃ]であるから、陰に閉じ陽に開き、五十余合と言うものは、負けず劣らず互角の争いでありました。
『岩見重太郎』 新流斎一洗 口演[他] 岡本偉業館 明治三一(一八九八)年
奮闘をする重蔵だが、三人の他にも助太刀がいた。その上、重蔵は癪による苦痛を堪えての勝負なのだから防戦一方である。
権造、八左衛門を始め、八人の者が抜き連れて八方より斬って掛るを、重蔵は事ともせず、四角八面に当って斬り払い、必死になって戦ったが、何分その身金鉄にあらざれば、数カ所に薄傷を負いまして、思わず蹌踉[よろ]めくそのところを、八左衛門は得たりと後ろから肩先四五寸を切り付けました。
『岩見重太郎』 新流斎一洗 口演[他] 岡本偉業館 明治三一(一八九八)年
無念、重蔵は深手を負ってしまう。あわや兄弟の最後かと思われたその時である。割木で肩を殴らせていた勇士(化け物)が駆け付ける。
韋駄天の如くに来りし侍、如何に汝ら見受けたるところ女連れなる両人を討ち取りしは山賊の類ならん。覚悟致せと呼ばわるを、
軍蔵「おのれ、いらざる言葉、面倒なり。ソレ討てッ」
と、廣瀬の指図、得たりと前後より斬って掛かると、かの侍は問答にも及ばず、手挟んだる鉄扇を取るより早く、前後左右に滅多打ち、あるいは蹴り倒し踏み倒し、首筋つかんで投げ出したるその働きの恐しさ、これはかなわぬと一同が後をも見ずに逃げ出した。
『岩見重太郎』 新流斎一洗 口演[他] 岡本偉業館 明治三一(一八九八)年
割木で殴られてもなんともないのだから、軍蔵たちなど敵ではない。あっという間に追い払ってしまう。この武士の正体は、天下に名を轟かす豪傑塙団右衛門直之だ。塙団右衛門は乱暴だが、情には厚い。お辻に事情を聞いた団右衛門は、重蔵を労わり辻を誘って宿屋へと戻る。しかし宿屋は、そんな死にそうな病人を担ぎ込まれては、商売に差し障りがあると宿泊を断わる。
団右「いよいよ汝[きさま]の家で泊めぬと云えば、汝[きさま]の家を叩き壊すぞ」
サア大騒ぎになりました。亭主をはじめ家内一同は震えながら、
一同「なんと仰られてもお泊め申すことは出来ませぬ」
『豪傑岩見重太郎』 神田伯竜 講演 中川玉成堂 明治四一(一九〇八)年
圧倒的腕力を持ち、割木で肩を殴られても平然としている団右衛門を前にして、なす術もなく亭主一家がブルブル震えていると、とある男が一行に声をかけてきた。
太兵「私は人の難儀と見りゃ後には退くことの出来ねぇ性分で、このお武家もお気の毒のように思いますから、これから二町ばかり参るんですが、このお方をお連れなすって、私の宅で手傷のお手当をなすったらどんなものでございましょう。万一のことがありますりャ、及ばずながら太兵衛が引き受けましょう」
団右「なんと言う。ぢゃァその方が引き受けてくれると云うか。汝[きさま]は人間だ。この家の亭主野郎は凸凹亡者に等しい奴だ」
『豪傑岩見重太郎』 神田伯竜 講演 中川玉成堂 明治四一(一九〇八)年
男気のある侠客キャラ、若松太兵衛の登場である。
侠客の登場
太兵衛は医者を招き療治を加え、一時的に重蔵は回復したかのように見えた。団右衛門も安心し、後のことを太兵衛に託して再び全国漫遊の旅に出ることにするが、ここでもまた一悶着が起きる。
塙団右衛門、懐中より金子を二十両出して、太兵衛の前に差出しました。
団右「太兵衛、もう少し礼をいたしたいが、拙者も長らくの道中、貯金[たくわえ]も手薄であるによって、これはほんの心ばかりだが、どうか納めておいてくれ」
団右衛門の顔をじっと見ていた太兵衛は、
太兵「モシ旦那、馬鹿にしちゃ困ります。なんぼ私[わっち]がこんな家業をしていると云ッて金力[かねづく]じゃ人の世話は出来ません。最初[しょて]は私[わっち]もあの怪我人の治ろうとは思わなかった。とてもこりゃ六ヶ敷[むづかしい]と思いましたから、もしも家で死にゃ仕方がないから、十分に施主になって葬式をしようと、もう最初[はじめ]から覚悟をして私[わっち]も関わったんでございます。それをどうも金子を出してあなたが私[わっち]に礼をしようというは、思し召しはありがたいが私[わっち]は心持ちが悪うございます。金子なんぞは一文もいりません。この金子はそっちへしまッておいておくんなさい」
これを聞いて団右衛門は、非常に感じ入りまして、
団右「その方は実に感心なものだ。武士も及ばぬその方の一言、これは全く拙者が悪かッた。そういう義侠心のあるその方とも知らず、些少ながら礼をいたしたのだ。これは誠に俺が悪かッた。どうか勘弁をいたしてくれよ」
『岩見重太郎』 西尾東林 講演 盛業館 明治三一(一八九八)年
ヤクザ者の太兵衛が、男を見せるといった場面である。男を見せた太兵衛だが、初期に出版された西尾東林版では、ちょっと結末が格好悪い。治療の甲斐もなく重蔵は死去、弔いを出した後も、お辻は太兵衛の家で過していた。そうこうするうち、太兵衛は博打で負けが込み、金に困ってしまう。男を立てるためには、どうしても金がいる。そのことを聞いたお辻は、兄の重太郎の行方と仇敵の居場所を知るために都合が良いこともあり、その身を宇都宮の三浦屋という揚屋に百両で売り、太兵衛の家を助ける。
太兵衛の出番はこれで終り、金は受けとらないと団右衛門にタンカを切ったにも関わらず、金のために身を売るというお辻の申し出を受け入れてしまうという、なんとも格好の悪い役回りである。一方のお辻の末路も哀れなものだった。
お辻は若浦という源氏名で、侍と会うごとに兄重太郎の安否を尋ね、また仇討ちの手助けをしてくれる強い侍を探し続けていた。その当時、宇都宮に高野彌兵衛という剣術の先生がいた。この彌兵衛が年甲斐もなく三浦屋の若浦に惚れ、強い侍を探していることを知り、町のならず者を金で雇う。彌兵衛がお辻の前で大立ち回りを演じると、お辻はあっさり騙され、彌兵衛に頼り仇討ちを遂げようと考える。こうして彌兵衛は日夜遊興に耽るのである。
その時期に、一人の武士が彌兵衛の家に逗留していた。彌兵衛の妻は武士に三浦屋の若浦のことを語り、その縁を引分けてくれと懇願する。よんどころなく武士は三浦屋に赴き若浦を訪ねると、思い掛けなくも武士は兄の重太郎、若浦はお辻であった。
兄妹は大いに驚きつつも、お辻は重太郎に父兄の横死、塙団右衛門に救われたことなどを語ると兄は再び驚き嘆き、例え軍蔵に翼があり空を 行くとも討ち取らずにおられようかと怒り仇討ちを決心、妹お辻と時刻を計り忍び出て奥州を差して落ち行く。
宇都宮では大騒ぎ、彌兵衛はお辻が重太郎にほれてしまい、共に逃げたのだろうと深く遺恨に思い定め、早速南部家の使者と偽って仙台家へ人相書を持参、重太郎とお辻の召し捕り方を依頼する。そうとは知らず二人が仙台の領内に入ると召し捕られ、妹は度重なる悲しみと苦しみゆえに、牢内ついに舌を噛み切り自害をしてしまう。お辻の自害を夢で知った重太郎は牢を破り、青葉山へ逃げ込むのであった……といったストーリーだ。
もともとお辻は五〇〇〇石のお嬢様である。そのお嬢様が遊女に身を落した上で男に騙され、牢屋で自殺してしまうのだから全く救い様がない。しかし後に続く創作者たちは、お辻に対してほんの少しの救いを残した。
ヒーローになる若松太兵衛、アイドル化するお辻
桃川実版の『岩見武勇伝』では、侠客の太兵衛は博打で負けたりはしないし、金にも困らない。お辻が自発的に仇敵と兄の行方を探すため、宇都宮の遊廓へ行くことを決心し、太兵衛に相談するのである。これを一度は止めた太兵衛だが、お辻の決心は堅い。太兵衛が妻のおたかに相談をすると、
たか「仕様がないね。しかし仰るところももっともだから、おまえさん一ッこれから巴屋にいって話をしたらどうだろう。旦那が男気ではあるし、お客を取らせないで身体を奇麗にしてどうにかなるなら、そういうことにおしな」
『岩見武勇伝』 桃川燕林 口演 朗月堂 明治三四(一九〇一)年
女房のアドバイスに従って太兵衛は巴屋に行き、お辻のために交渉をし、話をまとめる。金のためにお辻を身売りさせてしまう人物から、お辻のために最後まで骨身を惜しまず働く好人物へと変化するのである。
巴屋の主人も良い人になっている。
巴「よろしい百両で買いましょう。決して客は取らせない。肌身を汚させるようなことをはしますまい。そのかわり私も商売、百両で買っていくのだから、御酒のお相手だけはしてくれなければ困る。遊芸はなんでもできなさるだろう。その芸だけやってもらえばいい。口が腐っても客を取れということはねェつもりだ」
『岩見武勇伝』 桃川燕林 口演 朗月堂 明治三四(一九〇一)年
明治の物語では、こういう場面がフィクションによく登場する。実際の遊廓ではどうだったのかっていうと、私はよく分からない。こうういうことは、まずないんじゃないのかなとは思うくらいである。ただ明治になると教育制度や情報網がが整えられている。社会に道徳や人情、それらに関連するエピソードが十分に流通しているため、当時の読者はヘーッて感じで受け取ってたんだろうと推測することだけはできる。
とにかくお辻は若村という源氏名をもらい遊廓で働くことになったのだが、そこで人気が沸騰してしまう。
客「オイこりゃァなんの札だえ」
男「ヘエ若村さんのお客様には番号札を差し上げますので」
客「フムン、百三十番と書いてあるが、こりゃァ一体どうしたわけだい」
男「ヘエ百三十番のお客様です」
客「それじゃァなにかえ、今夜若村の客が百三十番もあるのかえ」
男「お左様さまでござります」
客「オヤオヤ大変だナァ。百三十番とは情けない。ことによると一生逢えねぇ。それじゃァ今度朝早く来よう。そうしたら一番になるだろう」
男「ヘエ朝お早ければ八十番くらいでしょうか」
客「それぢゃどうすれば一番になるんだ」
男「まず二ヶ月も以前に揚代金を払い込まれ、予約になれば一番になれます」
客「まるで株券みたいだナァ、なんとしたら顔が見られようか」
男「そりゃァご心配なさいますな。今にお客様が揃いますと、廊下へズラリとお並べ申して、間を若村さんが通られますからお顔だけは拝めます」
客「フザケるな。おみこし様じゃァあるまいし、馬鹿馬鹿しい帰ろう」
男「モー帳場へ番号を通しましたからお帰りになりますなら百疋(一分金の符牒)をちょうだいいたします」
客「なんだい若村の顔も見ないで番号札が一分たァあまり情けねぇ」
男「エヘ……そのかわり悪事災難の魔除けになります」
客「馬鹿にするな」
と一分投げ出しスタスタと逃げてしまう。こんな塩梅ですから、通って来るお客は沢山あるが、添い寝をした者はさらにない。
『岩見武勇伝』 桃川燕林 口演 朗月堂 明治三四(一九〇一)年
今でいうアイドルなみの人気、遊廓はライブ会場といったところである。この後、女郎屋で重太郎と再会したお辻が、牢屋で自殺してしまう結末は変らない。講談は事実を語るというのが建前の芸能だ。昔から存在する物語のストーリーを、自在に変更することは出来ないのである。
しかしちょっとした変化によって、優しい想像をする余地が生れる。アイドル化したお辻なら、ひとつくらいは楽しい思い出があったのかもしれない……などと思えなくもない。
なぜお辻の扱いに変化が起きたのか
芸は売っても身体は売らぬという遊女や芸者が物語に頻出し始めたのは、明治三十年代に入ってからのことだ。病気の親の為、娘が自ら苦界に陥る……といった物語は、大昔からある一種の定番感動場面である。しかし明治に入ると義侠骨の主人が、絶対に客を取らせないと娘と約束するといった要素が組込まれていく。
江戸の物語でも伝説的な花魁が客を拒否するという物語があるものの、明治の物語とは意味合いが違う。明治に入ると女性たちは、ほんの少しだけ自由に行動することが可能となり、自分の意思を表明することも時にはできた。さらに貞操観念が流通し始め、苦界に入ってもなお汚れないヒロインが好まれるようになってくる。
お辻の変化も読者のニーズに応えたものでしかない。お辻が苦界で苦労をする物語では、読者の心は離れてしまうのである。明治娯楽物語の中で遊廓における遊女の悲惨さが描かれることはほぼない。明治娯楽物語は、ほんの一時、人を楽しませるために書かれた物語でしかないのだから当然だ。凄惨な事実を伝えていないからといって、攻められるいわれはないはずだ。
それではなにから学べばよいのかっていうと、残念ながらよく分からない。専門外だから深入りはしないが、遊女や遊廓のみならず悲惨な環境に関する記述や調査は様々な問題をはらんでいる。基本的に調査する者は、対象となる悲惨な事象から、あまりに懸け離れた環境に身を置いていることが多い。そのためどうしても出てしまう記述や調査の偏りは、乗り越えるべき課題だとされている。私は知らないが、他にも色々と問題や課題があるんだろうなとは思う。
そういった難しい状況を前提に考えると、娯楽作品に期待しすぎるのはどうかと私は思う。あくまで個人的な印象だが、娯楽物語は世の中を変化させるような力を持っていない。社会が良くなれば物語も良くなるし、社会が悪くなれば娯楽物語も悪くなる。それだけのことでしかない。またしても明治の事例になってしまうが、女性達が活躍の場を広げていくにつれ、明治娯楽物語の中に圧倒的な能力を持つ女性ヒーローが登場してくる。
私が翻刻した大正時代の作品『忍術漫遊 戸澤雪姫』にも、超人的な能力を持つお姫様や、柔術で悪人どもを叩きのめす乳母、そして芸は売っても身体は売らない遊女が登場する。
ちなみに侠客太兵衛は博打に負けてお辻を売り払った情けない男から、最終的には岩見重太郎の仇討ちに助っ人として参加する義侠の男に成長する。彼の扱いが良くなった理由も、やはり時代の変化に理由がある。講談速記本の世界で、幡随院長兵衛や腕の喜三郎、国定忠次や清水次郎長などの侠客を主人公にした物語の人気が高まっていたのである。歌舞伎由来の幡随院長兵衛や腕の喜三郎ではなく、より現実味のある国定忠次や清水次郎長の物語が、今に残っているのも興味深い点だがここでは置いておこう。とにかくヤクザ者の人気が向上しはじめると、太兵衛の扱いも変っていく。先に紹介したように、割り木で肩を殴らせる塙団右衛門も、社会の変化に適応させたものであった。
改善に改善を繰り返した『岩見武勇伝』は、最終的に天橋立の砂浜を舞台に、岩見重太郎と後藤又兵衛、塙団右衛門といった豪傑の面々に加え、侠客の若松太兵衛、宿屋の伊勢屋才助、小間物屋松蔵の町人三名が、仇を匿う宮津一四万五千石に闘い挑むといった物語に行き着く。こちらは六人、相手は1500人を越える戦力だが、勇士の面々は怯まない。豪傑の面々は刀や鉄の棒、あるいは気合など、思い思いの武器で一般人の侍を殺しまくる一方で、伊勢屋才助は六尺棒で悪人どもを殴りつけ、若松太兵衛、小間物屋松蔵は火薬で爆音を出して豪傑たちを援護する。ついに悪人広瀬軍蔵は討ち取られるといった結末だ。
ここで注目したいのが、武士と武士との勝負に、一般人の伊勢屋才助や若松太兵衛、小間物屋松蔵が戦闘要員として参加していることである。小間物屋松造は行商人、ヤクザの若松太兵衛は宇都宮の人、伊勢屋才助は宮津の宿屋、この職業も住む場所も違う人々には、なんの後ろ盾も力もない。それでも彼らは、悪人たちの卑怯なやり口に怒を覚え、三豪傑とともに一国を相手に喧嘩を挑む。理屈でいえばおかしな話だ。
しかし明治も後半になると普通の人たちに、俺たちにだって出世はできるんだ、偉い奴らとそれ程までに変らないんだ、悪いものは悪いんだといった感覚が広がってくる。そんな明治人の明るく前向きで単純な正義の心が物語に反映し、一般人の伊勢屋才助や若松太兵衛、小間物屋松蔵たちを武士たちの乱戦に参加させたともいえる。
最後にひとつ結論めいたことを書かせてもらうと、基本的に過去は今より悪い。事実は事実なんだから、それを受け入れるより他ない。悪いものは悪いし、良いものは良い。それだけの話でしかない。明治人たちに流れていた、俺たちだってやれるんだという雰囲気も、実質的には幻想だった。宿屋の主人が六尺棒を武器にして、数百人の侍を相手に暴れまわることなどできるはずもないのである。それでも一部の若者が、雰囲気だけで突っ走り、中途半端に悪弊を踏み抜いて、多少は社会をよくした事例も残っている。私は良い事例が大好きだが、悪い事実も受け入れる外ない。過去は他人が作った事実の連続であるのだから、自分の所有物にすることはなどできないのである。