山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

本をそこそこ読んだ人が読んでない人に威張るのは止めたほうがいいと思う

たまに本をそこそこ読んでいる人が、本をあまり読んでない人に威張るみたいな風景を見てしまうことがある。多くの場合はそこそこ読んだ人らの意見が嫌すぎて「ヴァー」っとなってしまう。

具体的に書くと面倒くさそうなのでボヤかすけど、少し前にそこそこ価値のある本に対してブックオフで100円で買えるみたいな指摘した人が馬鹿にされていた。しかしそんな情報は日本の古本屋で相場を調べれば10秒くらいで得られるわけで、そんな知識に価値などない。にもかかわらず、鬼の首を取ったみたいにお前は無知だとかいう雰囲気になっていて最悪だった。

これは以前に『日本国紀』を読んでる人が馬鹿にされていた時にも感じたことで、日本国紀が良いかどうかは別の話として、500ページくらいあって読みなれていない人があれを読むのは大変だと思う。そういう長い本を読めたということに感動した人の気持は真実で、そこに他人が口を出すことではない。何度も書くが日本国紀が良いかどうかは、未読なので不明。

日本国紀

日本国紀

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デザイン重視だと思われてしまうような図書館が、本をそこそこ読んだ人から基本的にはボロカスに言われてしまうのも微妙な気持になる。そもそもだがデザインに優れてたら機能性も優れているわけで、デザインの本を読んだほうが良いではといった感想である。見た目がド派手なだけで機能性ない図書館は駄目みたいな話なら分かるものの、それじゃお前の思う機能性を満たした図書館とやらが適切なものなのかと詰められて理路整然と答えられる人は少ないと思う。

以前に通用していた知識が適切かどうかも判断が難しく、近年では資料がバンバンデジタル化されてきていて、図書館の役割が変っていく可能性も高い。私は文化のことを調べてるんだけど、すでに紙資料よりデジタル資料の比重が上がってきている。新聞だけで40年分、欠けもあるのでだいたい12000日分のデータがあり、戦前の雑誌は何誌か全巻分、戦前の書籍データは数千冊分か手元にある。こういうのを個人が普通に収集しようとすると膨大な時間と何千万円かが必要な上に、保存したり読んだりするための環境を整える必要がある。ショボい金しか持っていない私のような個人が実現するのは絶対に無理である。さらにデジタル化されていれば超貴重な資料を飯食いながら読もうがなにしょうが、手元のディバイスがぶっ壊れるだけで元データには影響がなく、便利すぎてヤバいと思う。

個人でこれだけ便利なんだから、デジタル化した資料を読むための施設を組織で作り上げたら、すごいことになるはずで、図書館は資料を保存するためにも機能するけど、多くの人が未知の情報に触れるためにも役割を担っている。そういう意味では紙の本は観賞用の展示物で、デジタル化されたデータを読みやすく提供する場となる可能性もある。巨大なモニタで様々な書籍のデータを垂れ流しにしている図書館があってもいいし、ミニ四駆好きな奴に本を読ませるためにミニ四駆が永遠に走り続けている図書館があってもいい。

もっというと近代以降の日本の場合、図書館は資格試験を学習する場所としても機能してきた。

これがひとつの文化であることは確かで、図書館が文化を保存するための装置だとすると、この機能も維持すべきだということになる。ただ図書館がそういった機能を自覚的に持つようになったのかというと微妙な点がある。例えば明治時代あたりだと国会図書館に校正用の試し刷りを納本する出版社があり、受験生が困るといったこともあった。もっというと資格試験を学習する場所である図書館に、学習意欲のある下位層は尻込みして入れないみたいな問題もあった。利用者が一定以上の知的訓練を受けている層であるだけでなく、手続も煩雑である程度知識がないと必要な本を選ぶことも出来なかったからだ。

こらを解消するためにには、パンツしかはいてないけどなぜか立派な武器(鋼鉄を破壊できる特殊なムチ)だけ持ってる異常に身体頑健で粗野な人物も、街を破壊するついでに気軽に入れる飲み食い自由のボロい図書館を作り上げ、パンツしかはいていない特殊なムチを持った人々が出版社から本を奪ってきて図書館に補充するシステムが必要だということになるわけだが、法的な問題もあって理想の図書館がどのようなものなのかはよく分からない。

私もそこそこ本を読んでいる人に含まれると思うんだけど、よく分からないものは分からない。そこそこ読んだなんて経験はそんなものでしかなくて、これから読もうという人や読む可能性がある人のやる気を削ぐようなことはあんまりしないほうがいいと思う。

学習する場所としての図書館に関する補足

学習する場所としては不完全な図書館問題は難しいところで、図書館が不便であるがゆえに貸本屋が存在することができたといった側面もあり善悪の判断は難しい。