今回は明治大正時代の学生や書生の戦闘力と、その強さの理由について考察していく。
フィクションで活躍する学生たち
かって学生や書生が一種のヒーローであった時代があった。そして明治から大正時代には、学生や書生を主人公とした冒険活劇がいくつも書かれた。
学生は問題ないのだろうが、今となっては書生という言葉が分かり難くなっているので先に解説しておくと、一般的には次のような意味を持っていた。
- 学生
- 政治家などの家に居候し勉学する者
- 勉強したい若者
その他、就職していない人物を老書生といってみたり、相当に社会的な地位を築き上げた人物ですら謙遜のために、自分は貧書生だと公言したりするなんてこともあった。以前に紹介した『蛮カラ奇旅行』の主人公島村隼人も書生といえば書生なのだろう。ただし島村隼人は柔道の達人である上に、パンチ力もあり武器も扱えるといった特殊な人物だ。これを一般的な書生とすることはできない。
普通の書生が活躍する物語としては、『因果華族 安岡夢郷 金槙堂 明治三六(一九〇三)年』がある。本作の副主人公である書生の桜木芳雄は一般人よりは弁が立つ上に、普通の人が相手であればステッキで殴り倒すことができる程度の能力の持ち主だ。下のイラストは初老の高利貸しを威している場面である。
活劇講譚 因果華族 安岡夢郷 著 大川屋書店 大正六(一九一六)年
おそらく一般的な書生の戦闘力は、この程度なのであろう。
続いて学生の主人公の典型的な物語を紹介として『忠魂義胆 島村清 玉田玉秀斎 嶋之内同盟館 明治四四(一九一〇)年』を紹介しておきたい。主人公島村は、その真っ直ぐな心根に惚れ込んだ西郷従道に見出され、彼の書生となり中学校に通いつつ講道館で柔術を習い心身を鍛え上る。何人かを投げ飛したり打ん殴ったりしつつ、やがて軍人となり日露戦争で活躍するといった物語だ。本作のような書生や学生が成長し、国家のために貢献するといった類似の物語は多く書かれている。
学生を主人公とした毛色の変った作品としては『侠妓巴屋太郎 玉田玉秀斎 駸々堂書店 大正九(一九二〇)年』がある。本作はかなり破綻した物語で、ほぼファンタジーに近い。面白さは抜群なので、物語のストーリーを手短に説明しておく。
主人公荒川群之助は叔父の庇護のもと中学を卒業後、突如として独立し苦学をしようと思い立つ。東京で廃寺を見付けて居座り、牛乳配達をしながら一高に通っているのだが、当時の一高は基本的には全寮制である。この時点で設定が雑すぎるのだが、そんな細かいことはどうでもいいとして、様々な事情から高利貸しに大損させるために、群之助は一時的に騎手となりレースで優勝する。
その後も色々あり校長にブチギれた群之助は一高を自主退学した後に、東京帝国大学の法学部に入学するが全ての問題を相撲で解決するといった内容の狂った演説をしたことで問題になる。
群之助の将来を考慮しなんとか穏便に済まそうとする校長に、男らしくないとまたもやブチギれ東京帝国大学を自主退学、高利貸しに大損させるために相撲取りとなる。飯を大量に食い相撲となった群之助は、土俵の上で高利貸しが贔屓にしている小結を投げとばし相撲取りとして再起不能にしたのを見届けると相撲取りを廃業、その後も種種の事件があるのだが、なんだかんだで高利貸し以外の悪人は善人となり、高利貸しだけが死刑になるといったストーリーで、こんなことが出来るのは人類の中で朝青龍だけであろうといった物語だ。
高利貸しに怨みでもあるのかといった展開だが、実はこの時代に三文小説を書くような作家は高利貸しに泣かされた者が多かった。先に書いた『因果華族』の作者安岡も若い頃に高利貸しから逃げ回る日々を送っており、物語の中で高利貸しをこっ酷い目に合わせている。
話が少々それてしまったので話を戻すと、このように強い学生が主人公の物語はかって多く書かれ愛されていた。強い学生の物語が存在した理由はいくつか考えられるのだが、そのひとつとして当時の学生たちがそれなりの戦闘力を持っていたことを上げることができる。明治から大正時代、実在する学生や書生が腕力で悪漢を倒す逸話が楽しまれていたのである。流石に島村隼人や荒川群之助のような学生は存在しないが、桜木芳雄や島村清くらいの人物ならいないこともないだろうといったところだ。
それでは明治大正時代の学生たちは、実際のところどの程度の戦闘力を持っていたのかというお話である。
学生たちの戦闘力
『東都游学学校評判記 河岡潮風 著 博文館 明治四二(一九〇九)年』は、東京にある学校の実態や面白エピソードを扱った書籍だ。先にも書いたように当時は学生に憧れを持つ少年少女も多かった。上の学校になんとか進学したいというニーズに応えたのだろう、本書には受験必勝法のような章があり、その中に試験前日のすごし方が書かれている。
試験の前夜は一寸散歩でもして、気を壮快にし早く寝てく寝て英気を養ふがよろしい。
など妥当なことが書かれているが、その後に新井源水のエピーソードが登場する。
一高の入学試験に二度も失敗した新井源水は、三度目の試験の前夜、プレッシャーからか、どうにも気が滅入って仕方がなかった。外の風にでも当たろうと、江戸川べりを歩いていると向うから三人の酔っ払った下っ端侠客(ヤクザ)がやってきた。生意気そうな書生をからかってやれとでも思ったのだろうか、ドンと体当たりをされた上に足を踏まれ「唐変木め気を付けろッ!」と罵倒されてしまう。
明日の試験が不安なところにこの出来事で、新井は怒り心頭に発っしてしまう。新井は柔道の心得があり、喧嘩には自信があった。三分間の格闘の末に新井は侠客たちを江戸川の中に投げ飛す。もちろん無傷の勝利である。すっかり気分が良くなった上に身体の疲れもあってかその日は熟睡、翌日の試験も上出来で一高への入学が許された。一般的な受験生には、なんの参考にもならないエピーソードだが、作者もそれは知っていてこんなことを書き加えている。
新井源水という人はバンカラである上に相当の柔道の使い手で、この頃には講道館で初段になっていた。後に講道館の理事も勤めているほどの人物だ。酔っ払った下っ端侠客との喧嘩くらいは、彼にとっては朝飯前のことであったのだろう。
これに類する当時のバンカラ学生たちの喧嘩エピソードは多く残っている。しかしそれを一般的な事例だとすることはできない。今も昔も強い人は強いのが当然だ。というわけでもう少し穏かな普通の人の事例として『日本が産んだ最初の苦学生 大塚季光 医科大学民衆医学社 大正一三(一九二四)年』の大塚季光を紹介しよう。大塚はピューリタンのキリスト教信者で、お金儲けとピアノが趣味だという学生だ。基本的にバンカラはお金儲けもピアノも大嫌いなので、大塚はそういう人物ではないことが分かる。
ある時期に大塚が下宿していた近所の村では、とあるゴロツキの親分が幅をきかせていた。近隣に住む人の誰もが知る有名な悪人で、みなが当たらず障らずといった態度であった。キリスト教徒の大塚はこの親分を敬遠しながらも、『自分に対して悪事を働かぬ者に対して悪念を持つようでは自分の修行がいかにも足らぬのであることを悲しんで』いた。
ある日のこと学校帰りに夜道を歩いていると、前方から一台の荷馬車がやってきた。道ゆずろうと大人しく左側にたたずんでいると、馬追い(馬をコントロールする人)が、わざわざ突っ込んでくではないか。大塚は素早く身をかわすも、驚いた馬が掛け出してしまった。これに怒った馬追いが胸倉を掴んでくる。面倒なことになったと、よくよく見てみると馬追いは近所で有名な親分だった。自分はキリスト教徒だからと「すまなかった、全く暗いために君の馬を驚かしたのだから許して呉れ給へ」と、一度は穏便に謝罪をしたが親分の怒りはおさまらない。『何をスカス、ヌシは常々偉そうな風をしているが此の親分を知つて居るか』と、胸倉を取って離さない。いい加減に腹が立ってきた大塚は親分を跳ね腰で近くの溝に投げ飛す。それに飽きたらぬ大塚は親分の頭を水の中に押し込み、とうとう土下座をさせてしまった。
無傷で喧嘩に勝利した新井とは違い、服のボタンが取れ擦り傷を負うといったダメージも受けてはいるものの、見事な勝利としてもいいだろう。
それにしてもお金儲けとピアノが好きで、バンカラでもなんでもないクリスチャンの大塚が親分に勝っているのは不思議な気もするが、実は大塚には勝算があった。本人が語る所によると、『中学時代から大学予科で鍛え上げた柔道の腕がある』上に、『ゴロツキの親分といえども酒にも酔って居り年も壮年を過ぎて居』た。だから勝利することができたのである。
なぜ学生が強かったのか
そもそもであるが、明治十年代の学生たちは基本的には武士であった。東京大学が神田和泉町にあった時代には、短刀を携えて通学する学生もいて、無礼な教授を切り殺そうとした事件すらあった。
体育の授業も修行に近い内容であったらしい。
柔道にても撃剣にても、今は体育として弄ばるるも、昔の学生には心胆を練り、敵を倒すの武器として修養せらるれば、入門の願書にも一々「天神地祇(ちじん:地の神様の意)に誓ひ」血判をして、師弟の関係も凡て封建時代に異ならず、稽古中気絶すれば稼側に投げ出して、自然に蘇生するに任せ、けして活を入れることもなかったという。
文科大学学生生活 XY生 今古堂 明治三八(一九〇五)年
バンカラ学生の様式はこの時代に形作られ、学生たちの間で長く流通した。
それから下って明治三〇年代、新井の時代になる学生は弱くなったのかというと、そういうわけでもなかった。学生には強くあるべき理由があったのである。『柔道 講道館 十巻一号 昭和一四』で「名士柔道放談」として新井源水自身が「柔道をおやりになった動機は?」との問にこう応えている。
「当時は日清戦争後であって、尚武の気象が非常に昂揚されていて、学生なども非常に乱暴な奴が多くて、きょうはどこそこで喧嘩があるという具合」であった。「扶桑義団とか白袴隊」といった不良青年団がいて彼らは「なかなか腕っ節も強いし、それにピストルやナイフを持つようなことはしないで、殴り合うというのが斗争(決闘の意)方法」で勝負を挑んでくる。
危険は学内にもあった。「九州の方の連中なんか、東京に遊学しておつて、女の方は禁物なので、美少年をつかまえてお稚児さんにするというような状況」でもあったのである。お稚児さんとは男色の相手をさせられる美少年のこと、ある時期の特定の学生の間では、女との恋愛など軟弱で以ての外だが男同志のならば男らしくてよろしいといった価値観があった。
このような環境だから「誰も自分が少し強くないと被害をこうむるというようこともあり、自然と柔道や撃剣がはやったわけで、まァ正当防衛の具にするというような気持もあった」。新井は鍛錬の結果、「私は中学一年から始めて四年のとき初段になっておりますが、そのときの初段と云えばまあ昔で云えば免許皆伝」となり試験前日にヤクザ三人を投げ飛してしまったというわけだ。
大塚の時代には柔道が学校教育のカリキュラムに正式に組み込まれるれるようになり、学生たちは柔道を全く知らない相手に対しては有利に対峙することができた。大塚の跳ね腰も授業で学んだものだったのであろう。授業で習ったくらいで、どれ程の効果があったのかと思われる方もいらっしゃることだろうが、正しく運用されていれば教育には効果がある。次に引用するのは柔道ではなく標準語の事例になるが、教えれば一定の効果は出るのである。
よくきくことですが九州や東北の端に行ってわからない道を尋ねるには子供に聞くとはつきり教えてくれる。年よりや女の人は駄目だといふことであります。これは子供がだんだん正しい言葉を理解し駆使する堪能をつけられつつある証左で年よりは正しい方にするには容易でない、また女の人も割合教育が普及されてなかっためと、社会へ出て学ぶことが少ないからでありませう。
教師より親たちへ 奈良県立女子師範学校附属小学校研究部 編 小島文開堂 昭和九(一九三四)年
そして中学校に行くような子供は良家の出が多かった。当然ながら栄養状態は良い。栄養状態が悪い子供よりも体格も良くなるのが当然だ。
学生の苦心 山上丶泉 著 文学同志会 明治三六(一九〇三)年
同じ技量であれば体格が大きな者が有利なのもまた当然である。
というわけで戦前の学生が強かった理由をまとめると次のようなものになるだろう。
- 強くあるべきだという伝統があった
- なんらかの武術を習っていた
- 栄養状態が良かった
昔の学生は環境の力によって強くなったというなんとも平凡な結論だが、毎度の事ながら現実なんてものはこんなものなのであろう。