山下泰平の趣味の方法

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人類史上最難関試験が明治大正時代に実施され一矢報いる者たちがいた

最難関試験が明治大正時代に実施されていた

この世の中には難しい試験が存在する。難しい試験とはなにかと考えると、次のようなものになるだろう。

  1. 出題される問題の範囲が広い
  2. 知識を組み合わせた上で考察しなけば回答できない
  3. 試験が長期間に渡り体力も要求される
  4. 受験者数が多い
  5. 受験資格を得るためのプロセスがあり労力を要求される

私は試験に詳しくない上にそれほど興味もない。だから難しい試験として思いつくのは、現在国内で行なわれているものだと医師国家試験か司法試験、過去に実施されていたものも含めると科挙くらいであった。ところが明治から大正時代の文化を調べるうち、公的に実施された試験ではこれが最難関ではないかなというものがあった。検定試験である。

一口に検定試験といってもその数は多い。ここで取り上げるのは中学校への入学資格が得られる専門学校入学者検定試験(以下専検)と、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(以下正教員検定試験)だ。戦前に行なわれた試験に詳しい人からすると、高等文官試験や弁護士試験のほうが難易度が高いのではないかと考えるかもしれないが、特定の時代の特定の場所で実施された検定試験は難関すぎて合格者がゼロであった。

合格者ゼロにするんなら最初から試験すんな

様々な分野に検定試験は存在する上に、制度上の変更も多い。そのため実施された時代によっても難易度が大きく変る。全てを把握するのは到底無理なので、あくまで私が目にしたものの中では最難関の試験だということになる。

専検試験の難易度について

明治三六年から実施され始めた専検は、『小学校→中学校→高等学校→大学』というような正規のルートで進学出来ない者のためのものであった。試験の純粋な難易度はというと、次のようなものであった。

  • 試験の範囲は中学の教育課程の全てでそれなりに広い
  • 問題の難易度は、ほぼ暗記のみでも対応可能
  • 試験期間は三-六日に渡って実施される
  • 実技試験も課せられる
  • 志望者は多い
  • 受験資格は特に求められない
  • 合格者は一割程度で競争率は高い

加えて大正一三年に改定されるまでは、一科目でも落してしまうとその時点で不合格という過酷なものであった。試験全体として見ると、なかなかの難易度といったところであろう。実際に当時の受験生がどの程度の勉強時間を費やしていたのかというと、次のようなものであった。

朝五時起床冷水摩擦をして、朝食まで約一時間数学、食後新聞を見て又数学、正午迄に英語をやる。午後は不規則ながら毎日二時間ほど後楽園に散歩に出掛けました。午後の余った時間と夜の時間とは国漢や暗記物を見たのです。まず一日の平均勉強時間は九時間位なものです。そして特別の事のない限りは十時迄には必ず床に入りました。

『成功 専門学校入学者検定試験独学受験記 玉水生 成功雜誌社 大正四(一九一五)年七月号』

玉水生なる学生は、このような生活を半年ほど続け専検試験に合格している。朝五時からの冷水摩擦は大変そうだが、出来ないようなことでもない。司法試験、医師国家試験、科挙と比べるとそれほど難しい試験でもなさそうだ。ところが専検の合格は、駱駝が針の穴を通るより難しいとされていた。これには受験者たちの境遇が深くかかわっていた。

専検を受ける受験生たちの中には、学資が十分ではない若者たち……いわゆる苦学生が多くいた。過酷な労働に従事しながら受験勉強をしなくてはならない者もいて、彼らは玉水生のような勉強時間を取ることはできない。労働による疲労から病気なるものもいた。学校関係者との人間関係も希薄であるから受験関連の知識にも乏しく、参考書を手に入れるのも一苦労だ。受験費用の五円が得られず受験を断念するようなものもいた。そんな彼らにとっては確かに「駱駝が針の穴を通るより難しい」試験となる。

学習時間が豊富に取れる若者の感想はというと、次のようなものになる。

私は今度試験を受けて見て、昔はいざ知らず現今の検定試験は普通世間で評判する程、及第するに六ヶ敷いものでないと思いました。現今中学校で用ひられて居る教科書が充分咀嚼されて居れば、敢て恐るに足らぬと思ふのです。

『大正二年度専門学校入学者検定受験記 S Y 生 専門学校入学者検定受験指針 受験世界編輯部 編 文陣閣 大正二(一九一三)年』

ようするに学ぶための環境を作り上げるのは難しいが、試験自体は順当に学習を進め、まともに試験を受ければ基本的には合格できるといったものであった。ただし時と場合によっては冒頭で書いたように世界最難関の試験となってしまう。実施する人々の気分によって、難易度が変ってしまうという難しさがあったのである。これは正教員検定試験も同じだ。

専検と正教員検定試験は、各都道府県にかなりの裁量があった。『現行検定試験総覧 法治協会事業部 編 法治協会事業部 昭和三(一九二八)年』によると、小学校敎員検定試験(正教員検定試験)の難易度は「試験は統一していないから各地様々」で、改訂前の専検に至っては「試験は各府県区々に行われ何等統一する所なく甲地において不合格するものも、乙地に行けばたちまち合格し、乙地において行われる問題の如きは、中学校を優等にて卒業する(者も)解し得ざるが如き難問を出して、たちまち一蹴してしまう」とされている。ようするに絶対に誰も合格させないと決めた人物が試験を担当した場合、合格者がゼロ人の試験になってしまうのである。それなら最初から試験なんかすんなよといったところだが、国が言うから実施だけして流しとくかといった感じなのであろう。

実際に実施された絶対に合格できない試験の実例としては、大正時代初期の愛知県岡崎市で行なわれた正教員検定試験がある。早速紹介したいところだが、この試験の難易度には師範学校が抱える問題がかかわってくる。というわけで師範学校のお話である。

師範学校は危険

正教員検定試験は師範学校(今の教育大学のようなもの)で実施されるのだが、試験前に受験者は師範学校の生徒に圧をかけられる。基本的に検定試験を受験するのは、師範学校に入れなかった者ばかりである。だから師範学校の生徒たちは、からかいまじりに彼へアドバイスなどをしていたようだ。

受験者の控室に、ノートをかかえては、師範学校の生徒がはいって来た。さうして、知っている人を探してはいろいろな話をしかけた。其の得意さうな態度に引き換え、話しかけられて居る受験者は、更に意気があがらなかった

『冷たい微笑 教員生活物語集 三浦藤作著 文化書房 昭和六(一九三一)年』

ただ師範学校の生徒たちが恵まれた存在だったのかというと、それも少し違う。

『田舎教師の手記 三浦藤作 著 帝国教育会出版部 昭和三(一九二八)年』によれば「その当時(明治三五年あたり)、師範学校へ入学するのは、中々むつかしいことであった。師範学校は、他の学校の学生・生徒から非常に軽蔑されて居たにも拘らず、志願者が頗る多かつた」とあるように師範学校に入学するのは難しいが、どうも一段落ちるといった感覚があったようだ。

学校の質にも問題があった。規律は実に厳しく学生たちは抑圧された生活を強いられた。かなりどうでもいいことが重視されており、例えば「歩行の姿勢を指導し伏目」(小学教育の根本改造)にしろと激怒されるといったこともあったらしいが、伏目で歩けば良い教育ができるのかよとしか言い様がない。教師たちの馬鹿馬鹿しい指導はもちろんのこと、師範学校に馴染みすぎた生徒による制裁までもあった。

私の知って居る、或る師範学校では講堂修身と云って、新入生を講堂に集めて、此の校風の型の中に入れる為めに色々な酷い制裁を加へる習慣があるさうだ。又鉄拳会と称して学校の校風に合はないやうな生徒は袋叩きにするやうな習慣も出来て居るさうだ。

小学教育の根本改造 友納友次郎 著 目黒書店 大正九(一九二〇)年

師範学校の生徒たちの中には自信を失い、病人のようになってしまう者もいた。

大学生や中学生は意気揚々として潤歩してあるが、師範生は意気消沈して恰も半病人の様である、其の病人の教育者に養成される人は如何なる人が出るであらうと一種の感に打たれるが常である。

男女学校評判記 太田英隆 (竜東) 編 明治教育会 明治四二(一九〇九)年

このような生活を続けてるのだから、師範学校に試験を受けに来た受験者をからかい気晴らししようといったメンタルになってしまうのも理解できなくもない。こうして師範気質と呼ばれる人格を持つ教師へと成長していくものもいた。

師範出の人には教員臭い所があつていけない。 あつさりとしていない。阿附したり迎合したりする傾向が多い。目の前を飾る風がある。偉らそうな風をする傾きがある。早合点早吞込みする風がある。胡麻化す風がある。間に合せのことを言ふ風がある。堂々と戦ふ気分が乏しい。知らないことを知らないと言ふことが出来ない。一寸接して厭味がある。斯う云ふいろいろな厭な所があるが特に看逃がし難い欠点は其の一種厭な型が出来て居ると云ふ事である。さうして其の型を取ることが出来ないと云ふ事である。 教員臭く拵へ上げられて人間味が無い。 これが最もいけない所である。

小学教育の根本改造 友納友次郎 著 目黒書店 大正九(一九二〇)年

 

師範学校では人格だの品性だのと大騒ぎをしている。けれども不思議なことにはその卒業生に、人格のない人が沢山ある。私立大学などではそんな事を余りやかましく言ってはいない。けれども不思議なことには卒業生がチャント人格を備えている。

今後の教育を如何にすべき乎 藤原喜代蔵 著 金港堂書籍 大正二(一九一三)年

ボロクソに言われすぎて師範学校の生徒が気の毒になってくるがこれが社会の評価であり、師範学校の卒業者はお断りといった企業すらあった。教育者としての教育を受けたものは企業には似わないというのは百歩譲って理解できなくもないが、よく分からないのが学校からも師範学校卒業生が酷い扱いを受けていることである。

師範学校卒業生は制度の上では「専門学校の入学に関し中学校卒業者と同等以上の力を有する者」で各種学校の入学試験を受けることができた。ただし師範学校の学費は無料のため、卒業後に教師として働かなくてはならない義務年限があった。この期間に入学試験を受けることはできないのだが、こちらも学費を返納すれば免除される。ところが『成功 成功雜誌社 明治四十三年一月号』に登場する丹生水涓によると、師範学校で「在学中の費用一切を学校に返却する」も師範学校が「他の学校に入学する事は許」してくれず妨害してくる。願書を持って高等学校に直訴するも、こちらでも窓口の係に断られてしまう。法律より師範学校や窓口の係のほうが強いのが意味不明だが、とにかく師範学校は相当にヤバい。

例えば旧制高校の思い出といった文章は読み切れないほど大量に発見できるものの、師範学校のものはあまりない。また学資が免除される師範学校は、貧しい家の優秀な子供向けの進学先だと思われがちだが、師範学校に行くことだけは避けたいと、学費が必要な学校へ行くため過酷な労働をこなしながら通学した結果、身体を壊してしまった若者の手記なんてものも残っている。彼らとっては師範学校より過酷な環境のほうがマシだったということなのだろう。

この他、大量にヤバい点があって、なんでそんな学校を国が運営してんだよといったところである。ただし教育環境の整備が急務とされた時代にあっては、師範学校は絶対に必要な存在でもあった。それならもうちょっとマシにしてやれよと思うのだが、ようするに問題を先送りしまくった結果、こんなことになってしまったのであろう。

ここから少し複雑な話になってしまうのだが、明治三〇年あたりの田舎では師範学校の卒業者は尊敬される存在であった。

その頃(明治三〇年代後半)は、まだ師範学校の卒業生が非常に珍らしかった。塩津の学校にも、校長の村田林治郎先生、首訓の松尾幸次郎先生、此の二人より外に、師範学校を卒業した先生はなかった。 師範学校の生徒は、多くの人々から畏敬せられて居た。小学校の児童の間に於ける石川君の評判は、大したものであつた。

石川栄八君 : 至誠純情の小学教師 三浦藤作 著 秀山堂文庫 昭和四(一九二九)年

師範学校を卒業した優秀な子供は地元で先生になることが多い。これには政治的な意図もあったのだが細かいことはどうでもいいとして、「子供は嫌がるが長男だから余所にも出せないから師範学校に入れて置こうと無理やりに入れられた者も少くあるまい」『小学教育の根本改造』といったことがままあった。そして不満を持ちながらも、地元で教師をするといった人々が発生した。

校長も校長で不満を持っていた。本来ならばさらに出世ができる道があったのだが、色々あって消滅してしまったのである。その他にも学閥の問題や視学がどうとか諸々のゴチャゴチャしたこともあった。面倒くさい上に面白くもないの適当に解説しているが、とにかく人によってはものすごいストレスを抱えていた。

もちろん前述の石川君のように、熱心な教師となり各地の学校で活躍し教育の品質向上に勤めた人も多かった。しかし教師や校長の中には苦労をしたわりに評価が得られない、都会で華々しい活躍をしたい、裕福になれないと不満を持つ者も多くいたのである。その不満を受験生に打つけてストレス解消しようというわけで、ようやく話は大正時代初期の愛知県岡崎市で行なわれていた正教員検定試験に戻る。

赤鬼がみなふるひ落す

この試験では、体操の科目があるため、基本的には絶対に合格できない。なぜなら「試験をした師範学校の体操教師の中に、あだ名を赤鬼、姓を早川という軍曹上りの男が居て、非常に辛い点数をつけ、受験者をみなふるひ落してしまった」からである。作者の三浦は年に二回「五六年」に渡り正教員検定試験を受け続けたが、「赤鬼が試験委員になつて居る限り、何年たったところで駄目な話である」。

赤鬼が絶対に試験に落してくるため、正教員の資格を取ることが出来なかったのである。なんでそんな奴を試験官にしてるのかといった疑問も沸き上がるわけだが、その辺の事情はちょっとよく分からない。

さらに面白いのは、基本的にこの時代になると各試験の実技は形式的なものになっていたことだ。先に紹介した係に願書を突き返された丹生水涓は専検の「体操は只形式だけのようで、銃の持ち方も知らないものもありました」としているし、大正八年に実施された普通試験(公務員試験)でも「図画や体操は下手でも寛大な採点をして呉れる」『独学者の進むべき道 』といった証言が残っている。こういった事情を加味すると赤鬼の異常さがさらに際立つ。

合格者がゼロなのだからこれを最難関試験としても良いとも思うのだが、実はこの試験には抜け道があった。赤鬼は「軍曹上りの男で、品性は下劣だ。何か物品を持つて私宅へ頼みに行けば必ず合格する」ことができたのである。そんなわけで、残念ながら最難関試験とすることはできない。

合格者ゼロ人試験

姓は早川あだ名が赤鬼、軍曹上りの男によって試験の難易度がコントロールされるのは謎すぎるのだが、さらに不可解な試験があった。

『専門学校入学者検定受験指針 受験世界編輯部 編 文陣閣 大正二(一九一三)年』に記載されている「落第及び合格記」によると、試験を作成する教師が自己顕示欲を満たすため、「中学程度の者には到底出来さらにもない突飛な問題を出して、受験者を苦しめる」パターンがあったそうだ。こちらは中学程度以上の学力があれば合格可能であるから、赤鬼の試験に比べると難易度は低い。

赤鬼の試験より手強いのは前橋の中学で実施された試験で、この学校の校長は「変則に勉強して検定試験を受ける者に中学同等の証明を興へるのは自分の主義に反する」という理由で、「通すのは絶対に通さぬ方針」をとっていた。ただし「試験だけは知事の命令に依つて施行」していた。

なんとか校長を説得できれば合格できるのかもしれないが、かなり難易度となるはずだ。専検は正規ルートで上の学校に進学できない者に向けた試験である。いわば変則的な進路を提供するための試験なわけだが、変則的な進路を許さないと受験者全員を落してくる校長はなにも理解できない完全な馬鹿だ。基本的に馬鹿を説得するのはほぼ無理である。賄賂を使えばなんとかなるかも……といったところであろう。

ちなみに個人的な感想を書かせてもらうと、変則的な進路を許さないというのは校長の自由である。しかし権力に逆らうことをせず、知事の命令には大人しく従うというの姿は無様でしかない。知事を殴ってでも試験を中止しろよだからお前は駄目なんだよバカがと思ってしまうわけだが、試験なんて面倒くさいものはスッパリ中止にしてしまうサッパリした学校も存在した。

甲府の中学では実施される専検の実施期間は、暑中休暇と被っていた。教師と校長にしてみると迷惑な話で、専検ごときで休みが減るのは絶対に避けたい。そこで暑中休暇に入る三日前に試験を始め、「休暇になる前の日に必ず判で押した様に成績不良につき試験中止」と掲示し、試験を中止してしまう。滅茶苦茶といえば滅茶苦茶だが、休みたいから試験中止するというのは短絡的すぎて一種の爽快感すらある。

この学校で試験を受け合格するのは至難の技である。校長だけでなく教師全員の説得が必要だ。賄賂でなんとかするにしろ、金額は莫大なものになる。そしてこの時代の学校には小使いのジイさんが住んでいることが多かった。賄賂を渡し忘れてしまい、ジイさんがヘソを曲げたら最後である。小使いのジイさんにはだいたい仲が良い教師がいて、ジイさんと仲良くなる教師は義侠心がある。ジイさんと正義感の強い教師が結託し、試験を中止に追い込んでくるはずだ。

さらに難しいことに、この時代の教師は基本的には賄賂を受け取る傾向にあったが、時に異常なまでに清廉潔白な人物もいた。賄賂なんてものを渡そうものなら、そいつが激怒し単身試験を中止に追い込む可能性が高い。おそらくであるがこの学校の人々を説得し試験の中止を阻止することはまず不可能で、これこそ完璧に合格者ゼロの最難関試験である。

ことごとく駄目になる

こういった試験が実施されたのは、校長や教員たちのストレスがたまりすぎていたことが原因だろう。師範学校で抑圧されまくり人格を壊された者たちが、受験生に莫大なストレスを与えるといった構造で最悪といえば最悪だが、今でもありえなくはない話にも思える。

一矢を報いる者たち

明治大正時代には、こんな難局をよくぞスマートに乗り切ったものだといった出来事がある一方で、何十年もゴミみたいな状態を放置してるわりになんとかやっていけてる状況があったりする。今回の試験に関しては完全に後者で、本当に救い様のない社会だな……などと思ってしまいそうにもなるが、反逆し一矢を報いる者たちも登場する。

心が壊れ悲しい生き物になった校長がいた半面、もちろんまともな校長もいて丹生水涓が受験した学校では「体操は只形式」な上に、校長が独断で「検定試験は中学全科を一時にやるのだから、中学校を卒業するよりは余程六ヶ敷い。それ故此の学校の生徒に課するやうなものを試験するのは、少し残刻であるから試験を多少易さしくした」そうだ。それでこそ校長だよねぇといった感想である。

「落第及び合格記」を書いた K Y 生は大正一年二月に東京で実施された専検に落ちたため、情報収集を開始し五月に宇都宮で行なわれる試験は簡単に通ると知る。この男はかなりいい加減な男であったらしく、次のような態度で受験に挑んでいる。

こいつこそ不合格にしろよ

こんな奴でも合格できるのだから、宇都宮の校長も受験生たちの事情を想像できるまともな人物であったのだろう。さらに加えるなら、この記事で紹介した最難関試験のうち専検に関するものは K Y 生の手記によるもので、ある種の告発と見てもいいだろう。

赤鬼に苦しめられた三浦のその後についても紹介しておこう。試験に落され続けた三浦は、赤鬼が嫌すぎるためその私宅を訪れることもなく、先に登場した石川君の勧めで別の地方で試験を受け正教員になっている。石川君は生徒にも大人にも親切な人格者なのである。やがて三浦は上京し雑誌の編集などをしながらいくつもの著作をものした。彼の作品の中には自分が日本一のダンス指導者だという妄想にとらわれ、人から金を借り全国の学校を巡る体操教師が登場する短編小説があり、そこに赤鬼も登場しているのだが、これは三浦のちょっとした復讐なのかもしれない。

試験の難しさ

合格者がゼロだから最難関試験だなんていう理由は子供染みた考え方で、ほとんどの人はなにいってんだこいつ?といった反応だろう。そもそも試験なんてものは難易度を上げようと思えばいくらでも上げられる。どこかでアホか馬鹿か暇人か小学生が、宇宙最強最大難関試験なんてものを実施している可能性がある。しかしそういった馬鹿馬鹿しいことが、公的に行われていたことが私には面白くて仕方ないのである。

ここで紹介した以外にも、専検や教員検定試験には変なところが多くあった。現在では難関試験を通過した者は、基本的に賞賛される。ところが専検経由で高等学校に入学すると馬鹿にされてしまうというような状況があった。当時は独学は素晴しいことであるといった価値観と、所詮は独学者だろといった蔑みが同時に存在していた。さらにややこしい事に、当時は勤労や勤勉は基本的に推賞された。だから真面目に働きながら専検に合格した苦学生は賞賛されるべき存在だ。その一方で高度な教育を受けたものは、身体を使った仕事に従事する人々を見下す傾向があった。つまり勤労苦学生は賞賛されながらも、見下されるというわけで最早意味不明である。そんな意味不明で矛盾だらけの世の中だからこそ、史上最難関試験が発生してしまったのかもしれない。

色々思うところはあるのだが、最後に触れておきたいのはそんな社会に反抗した者たちについてである。

宇都宮の試験は簡単だという情報を唯一の武器に受験勉強をサボりまくった K Y 生は社会のシステムの穴を突き反逆に出たものだといえる。ストレスに満ち溢れた職場で善良な教師として職を全うした石川君は、人と逆を行く人物だとしてもいい。ここでは紹介しなかったが苦学の途中でその馬鹿馬鹿しさに気付きロシアを叩き潰せと天皇に直訴しようとして失敗、九十日の断食を経て霊能力を得て教祖になった男など、数え切れないほどの反逆者たちがいる。そういえば体操教師の悪口を書き残した三浦もいたな。

受験や教育を作り上げた人たちからすると、彼らは計算外の存在だ。教育に不満を持ち霊能者になる奴が出てくるなんてこととは、流石の森有礼も考慮に入れていなかったはずだ。だからこそ思うことなのだが、彼らのような想定外の存在がなんらかの形で作用することで戦前の教育は「ゴミみたいな状態を放置してるわりにそこそこ成立」していたような気がしないでもない。

amzn.to