山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

自助と立志はセットです

自民党は「自助」って言葉をよく使うらしい。ちょっと調べたところ以下のようなものがあった。

  • 自助・共助・公助、そして絆
  • 日本の文化、伝統、歴史に裏付けられた英知の結集と「自助」「共助」「公助」の精神を総動員する
  • 「自助」は、日本人が大切にしてきた価値観の一つ

よく分からないのだが、要するに公的な支援を使いすぎるなくらいの意味で「自助」を使っているとのことだ。それなら「自助」じゃなくて「道徳」を活用したほうが効率が良いのではないのか……などと思ってしまうわけだ、とにかく自民党の「自助」はかなり評判が悪く、流石に最近はあまり使われなくなってきている。ただ今も「自助」は良いという流れは続いているようだ。

自助が良いなら良いでいいんだけれど、この『自助』が日本の歴史や伝統に基づく『自助』なのだとしたら、使い方を間違えている。一般的に日本の古き良き文化だとされているものは、だいたい明治から戦前、あと昭和の高度成長期あたりの良い感じの部分をグシャグシャに混ぜたものだと思うんで、そのあたりのあやふやなものを基準にして「自助」を解説していく。

先に結論を書いておくと、日本の場合は自助と立志はセットになっている。明治の文化を少しばかり知っている人にとっては、ポテトチップスとコーラくらいのもので、自助とくれば立志、立志の次は立身出世でしょといった感覚だ。

中村敬宇の「西国立志編」がきっかけで、明治時代に自助が流行した。

改正西国立志編 : 原名自助論 Samuel Smiles [著][他] 博文館 大正五(一九一六)年

これはスマイルズの「自助論」を翻訳したもので、すでに立志と自助はセットになっているわけだけど「西国立志編」は売れに売れ、かなりの期間その類書も数多く出版された。こういった書籍を読みを熱狂していたのは、立身出世をしたい若者たちだ。次の例のように自家が没落してしまい、学問を続けるのが難しくなった若者にとっては、自分を鼓舞するための読み物だった。

『立志の礎』といふ本や、同志社の友人から貰ったスマイルスの英文『自助論』などを耽読して、甚く精神的に刺激せられてゐたときであるから、精神一到式に兎に角、苦学の進路に進むことだけは決心してしまった。

現代立身成功の近道 井関十二郎 著 大日本雄弁会講談社 昭和三(一九二八)年

立志とは目的を定め、なしとげようと志すことで、なにを志すのかといえば立身出世だ。見事に立身出世した人間が増加すると国力が上る。だからこそ「自助」が推奨されたわけで、ようするに日本には自助グループや自助器具なんかで使われている「自助」と、「天は自ら助くる者を助く」といった自助があった。基本的に偉い人が若者たちに自助を説く場合、立志と立身出世がセットであった。

出世をして金持ちを蛆虫扱いすることを決意した若者

こういうのはだいたい自助とセット

無銭修学 池田錦水 著 大学館 明治三五(一九〇一)年 1902

そんなわけで政治家たちが若者に「自助」を説いていると『今すぐスマホ解約して無一文で家を飛び出して歩いて東京まで行ってクラファンとか絶対にするなよ大学行くとかも権威主義だから禁止なまずはゴミ捨て場に捨ててある片輪ブッ壊れた汚ねぇリヤカーを盗んで飲まず食わずで街中を汚ねぇリヤカーを日がな一日引き釣り回して駆けずり回って金になりそうなゴミ拾って売って金をためて明日も飲まず食わず街中をリヤカー引き釣り回して駆けずり回って金になりそうなゴミ拾って売ってを繰り返して貯金して金持ちになれ』くらいの意味合いなのかなと私は考えてしまう。

もちろん自助は自助なのだから、「自分のことは自分でする」くらいの意味で使ってもいいのだが、伝統や歴史を混ぜてあるからよく分からない。どうしても『他人に依頼せず、自分の力で自分の向上・発展を遂げること(広辞苑 第五版)』といった意味合いに受け取ってしまう。

こういうことは自助に限ったことでもなくて、最近だと伝統的な家族観を維持したがっている人が多いみたいだけど、あれも先祖を大切にするをセットにしないと意味がないんじゃないかなって思っている。なぜ先祖を大切にするをセットにすると良いのかというと、またしても立身出世のための立志に役立つツールとなるからで、次に引用するのは家を飛び出し都会で苦学する若者に届いた祖父からの手紙だ。

「家の為め祖先の為めに志を立てしとならば、悲しみもせず怨みもせず、一家挙げてその志を嘉(よみ)すれば、決して後顧の憂いなく、その身を大切に奮勉(ふんべん)して、一日も早く錦を着けて郷に帰れ」暗黒の青年時代 原田東風 著 大學館 明治三五(一九〇二)年

一時は不孝をするけれど、出世をして錦を着けて郷に帰れば家の名前を挙げ、祖先を大切にしたことになるといった理屈で動く若者たちは多くいた。図解にすると次のようなものになる。

祖先を大切にすると景気が良くなる

小学要覧 : 優等生になる虎の巻. 昭和12年版 野ばら社 昭和11 昭和一一(一九三六)年

良い祖先となるために出世して家を盛りたてていくといった感じで、もちろん他の要素もあるのだけれど「先祖を大切にする」だとか「伝統的な家族観」が、社会に変化を起し景気を良くするためのツールとしての側面を持っていたことは否めないような気がしないでもない。

私は昔のことばかり調べているので、伝統的な考え方は嫌いではない。ただそのまま現代に適応させるのは難しいだろうなと思う。実際に私は簡易生活といった考え方を生活の中で使っているんだけど、かなりの資料を読んだ上で丁寧に解釈しないと使い物にはならなかった。

そのあたりの処理を雑にして、例えば戦前の道徳最高ッ! 明日から戦前の道徳なッ!!みたいなスタイルで運用すると、その考え方が持っていた良いものは消えて、ゴミカスみたいなものだけが残るんじゃないのかなと思っている。