山下泰平の趣味の方法

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恵まれた人の苦労話が嫌われやすい時代

スタンフォード大学に入学した若者が批判をされていた。当事者の人や出来事そのものに対して思うところは特にないが、その批判のされ方はかなり興味深かった。揉め事を面白がっていたわけではなく、ここ数年、調べている領域に関係していたからだ。しかし私が興味を持った点について、上手く言語化できているものがなかった。せっかく考えたことなので、ここで軽くまとめておく。

昔から恵まれた人の苦労話はあまり好かれていなかったが、今はより批判されやすい時代になってきている。これは批判の構造が変ったというよりも、情報量が増えたことに由来するものだろう。

まずは批判される構造である。私は明治が好きなので明治の事例を出すと、当時は清貧が一種の価値を持っていた。いたずらに富を求めず、正しい行いをして貧しいのが清貧である。清貧には価値があるとされる社会では、資産がある人の中に清貧でありたいと考える人が出てくる。彼らが貧乏を気取ることもあるのだが、大抵嫌われてしまう。

嫌われ者の島田沼南(政治家)

おもひ出す人々 : 四十年間の文明の一瞥 内田魯庵 著 春秋社 大正一四(一九二五)年

清貧が好きすぎて本当に貧乏になり死んでしまう葛西善蔵ような人もいたくらいで、このあたりの価値観は今も残っているような気がしないでもない。

もうひとつ、明治時代には平等さも高く評価されていて、こちらは平民主義という流行語にもなった。どのような人とも平等につきあうことが評価につながるため、清貧と同じく社会的な地位は高いけど庶民ともわけ隔てなくつきあうよという人が登場する。こちらもやり方を間違えると嫌われる。

下情に通じた俺をアピールする坪井九馬三

文科大学学生生活 XY生 著 今古堂 明治三八(一九〇五)年

恵まれた人の苦労話は、上記の事例とよく似た構造をしている。今は苦労をしてなにかを成し遂げることに、価値があるとされている。だから苦労を表明するというわけだ。

最近流行っている『能力主義』とも関係あるような気がしないでもないが、こういった価値観は普遍性のあるものではない。

なんの苦労もなく成果を上げることに、価値があるとされる文化や社会がある。そのような社会では苦労をしているにもかかわらず、なんの苦しみもなくできましたと表明する人がやはり出てくる。上手くニュアンスを伝える自信がないのだが、例えばスポーツではない身体能力などは、なんのトレーニングなしに重量物を持ち上げられる、足が速いなどに価値が置かれる傾向があり、大きな大会がある競技の成果については、そこに至るまでの苦労、あるいは努力などに重きが置かれる傾向があるように感じられはしないだろうか。義務教育で試験勉強に費やした時間なども、短めにしておいたほうが受け入れやすいなどもよく似た事例であろうが、とにかく苦労をしました、苦労をしていませんなどといった表明なんてものは、社会の価値観にたやすく左右されるような、普遍性のないペラペラのものだと理解しておけば十分であろう。

少し話がズレてしまったが、恵まれた人の苦労話が嫌われる構造そのものは今も明治も変らない。違うのは苦労話をする恵まれた人々の言動が、より多くの人の目に触れるようになった……つまり情報量が増えた点である。

明治時代であれば、恵まれた環境にいる人がなにをして、どのような価値観で生きているのか、あやふやにしか分からない。分からないだけに、幻想を持つことができた。先に紹介した島田沼南(三郎)や坪井九馬三に対しても、イケ好かない奴らが無駄に金を使ってやがるが、なにか世の中のためになることをしているのだろうと思い込むことができた時代だ。

現代はというと SNS などで違った階層にいる人の発言を読むことができてしまう。そうすると、だいたいこういう感じなのかと分かってしまい幻想が消えてしまう。率直にいって人間一人でできることなんて、たかが知れている。個人の価値観なんてものも大局的に見れば似たり寄ったりだ。自分以外の誰かが莫大なコストを払い、苦労をしてものすごい出世したところで、基本的にはその人が気持ちよくなるだけである。こいつがなにしようが自分の人生になんのメリットはない、場合によってはデメリットすらある可能性があるなと、簡単に判断できてしまう時代になってしまっている。そのような気持になっているところに苦労話を聞かされたら、腹を立てる人も多いはずだ。

時間の無駄なのでお互いに距離を置いときゃいいのにとも思わなくもないが、そもそも人間は大量の情報を処理するように作られていない。以前に三冊の本を同時に読もうとしたことがあるのだが、どう訓練しても無理だった。同時に読むというのは併読ではなく、視野に入る面積に三冊の本を広げて読むというもので、同時に読む事で内容が入り混りより抽象度が上がるかなと思ったのだが、人間はこんなことすらできない。

大量の情報を処理することが難しいにもかかわらず、今後も順調に技術が進んでいくのであれば、情報量は増え続けていく。だから異なる社会で生きる人々の小競り合いを解消するのは難しい。個人ができることとしては、(自分にとって)馬鹿みたいなこと(のように感じられる行為)をしている人を見ても、なにも思わないように訓練するくらいが関の山なのだろう。

確かに異なる環境で生きる人々の間で摩擦が起きるのは悪いことではあるけれど、その一方で情報量が増え幻想が消えていくのは良いことでもある。なので社会でこの状況をなるべく良い形で受け入れる手法が流通すればいいのにななどと考えている。