山下泰平の趣味の方法

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夏目漱石の「吾輩は猫である」を笑って読破するためのガイド

この記事はそれなりに時間をかけて書いたのだが、面白がってどうでもいいことを調べている間に、世の中は大変なことになっていた。

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最早「吾輩は猫である」を読もうぜッ!! なんて雰囲気でもなさそうだ。ただし気が滅入って仕方がない時には、全然関係ないことをするのがお勧めなので、そのまま公開することにした。

最初に書いておくと私は漱石が好きなので、いつもよりも客観性に欠けたところが多くなっている。あと無駄に長い。当初はコンパクトにまとめようと考えていたのだが、どうでもいいことを調べながらダラダラ書いているうちに長くなり、結果的に15000文字程度になってしまった。どうもいいことが満載のこの記事を最後まで読めたとすれば、夏目漱石の「吾輩は猫である」なんて余裕で読破できると思う。他の作品を読みたい人はこちらも参考どうぞ。

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吾輩は猫であるを読もう

夏目漱石の「吾輩は猫である」は面白い。しかしその全てを読み切ることができなかった人も多くいるようだ。書かれた当時としては「吾輩は猫である」は、圧倒的に面白い作品であったものの、今では優れたエンタメ作品が多くある。無理をしてまで読まねばならぬ作品でもない。

ただ「吾輩は猫である」の明るさの裏にあるなんともいえない寂しさや、夢破れながらも密かな矜持を持って生きている人々を、猫が身もふたもない表現でぶった切っていく様は、現在の雰囲気にとてもあっている。

今では「吾輩は猫である」は無料で公開されており、読もうと思えば誰でも笑って読むことができる。この作品で楽しむことは、お金をかけずに暇をつぶすトレーニングになるはずだ。そして百年以上も前に書かれた作品を笑って読むことは、そこそこ高度で文化的な行為である。そんなことができる人が多くいる場所は、文化的でわるくない社会だなとも思う。

もうひとつ「吾輩は猫である」を読むメリットがある。漱石は冷徹なまでに自分を客観視することで「吾輩は猫である」に面白みを出している。それを楽しむうちに、自分を客観視する技術が自然に身に付き、怒りや悲しみから身をかわし、笑ってすごすことができるようになることがある。ただしこれは資質によるところも大きいようで、相応に学問のトレーニングを積んだ人ですら、この技術を習得していないことがままある。できるようになれるかどうかは運次第なわけだが、なんにせよ先行き不明な世の中で、そこそこながらも平穏にすごせる人が増えていけば、少しだけ社会が良くなるような気がしないでもない。

最近は不景気なのかなんなのか、社会全体に余裕がなくなってきているように感じている。余裕がなくなると文化程度が下がる。文化程度が下がると面白くない。それではちょっと困ってしまうので、今の状況にささやかながら抵抗する意味でも、夏目漱石の「吾輩は猫である」をみんなで笑って読破しましょうというのがこの記事の主旨だ。

ちなみに漱石の研究はかなりなされていて、いまさら私が付け加えるようなことはない。だからこの記事は、「吾輩は猫である」を快適に楽しく読みすすめる方法に焦点を置いて書いている。

「吾輩は猫である」を読破するコツ

「吾輩は猫である」はちょっとした情報を事前に仕入れておき、少し読み方を変えるだけで読みやすくなり、より楽しめるようになる。具体的には次のようなポイントを押えておく。

  • 作品の情報を集めておく
  • 笑いどころを知っておく
  • 全体を把握しておく
  • 用意されたガイドを使う

作品がどういうものなのかを知ることで、笑いどころが理解できるようになる。全体を把握することであらかじめ面白くない場所を乗り切ることができる。そして漱石が意図せず作り上げたガイドにそって読むことで自然に最期まで読めてしまうといった理屈である。というわけで具体的に解説をしていく。

「吾輩は猫である」情報

「吾輩は猫である」は夏目漱石による最初の長編小説で、雑誌「ホトトギス」で明治三十八(一九〇五)年一月から明治三十九(一九〇六)年八月まで断続的に発表された。当時としては考えられないくらいに面白い小説で、「ホトトギス」の発行部数も一万弱あたりまで伸びた。今の感覚だと一万というのは少ない気がするかもしれない。しかし当時は文学や小説が好きな人が今よりずっと少なかった。大人気としても差し支えはないのだが、実はこのあたり少々複雑だ。漱石は文壇から離れた場所で書いていたため、当時の本当に小説が好きな人に届いていたのかなど、諸々の微妙な要素があるものの、普通に楽しむ分には関係ないので、とりあえず異常に面白く人気があった小説だったと認識しておけば十分だ。面白い面白いと何度も書いているため、なにを基準に面白いとしているのかと訝しむ人がいるかもしれないが、私は同じ時代の面白いとされていた三流作品を大量に読んでいる。

それらの作品との比較すると「吾輩は猫である」はものすごく面白い。当たり前の話だがかってはものすごく面白い小説だったのだから、今でも普通くらいには面白い。

『吾輩は猫である』では、英語教師の苦沙弥先生が飼う名無しの猫の目を通し、人間が生きている様子が描写される。『吾輩は猫である。名前はまだない。』という魅力的な書き出しは、日本で一番有名かもしれない。ただ猫が語るというところは、実はあんまり重要ではない。

当時は猫が主人公なのは斬新だとされていて、元ネタを海外の作品から探そうとしていた人もいたのだが、江戸の物語にもそういう話は多くある。「けだもの太平記」はけだものが太平記をする物語、「平成狸合戦ぽんぽこ」の原作のような八百八狸が合戦をする作品、誰もが知ってる「猿蟹合戦」や「南総里見八犬伝」などが存在している。最近では浮世絵の猫づくしなんかが有名だろう。このように昔からなにかを擬人化するのが好きな人は多くいた。

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「芸競猫の戯」「いんきよ猫」「すわり角力」「くび引」「すねおし」「松魚取くらべ」歌川国貞三代 1872年 東京都立図書館

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猫が語るのは面白い設定ではあるものの「吾輩は猫である」に限っては、過剰に注目する必要はない。むしろ猫の活躍を期待しすぎると、挫折の原因になってしまう可能性すらある。猫自身が活躍するシーンはいくつかあるものの、無理にそこで面白がらなくてもよいかなといった印象だ。実は「吾輩は猫である」をきっかけに、漱石の飼い猫がそこそこの人気を集めてしまう。その猫人気に応える読者サービスのつもりで書いたのかな……と、思えるくらいに全体としてみると低調な場面だと思う。

それよりも内輪ネタが多様されている物語だと意識しながら読んだほうが、「吾輩は猫である」をより楽しめるようになる。「吾輩は猫である」……ちょっと長いので以下「猫伝」とするが……「猫伝」は『山会』での朗読を前提として書かれた物語である。山会とは正岡子規が設立したもので、仲間たちが集まり各々が書いた『写生文』を朗読して遊んだことから始まる。『写生文』は色々あって複雑なのだが、ここでは事物を見たままに写すために書かれる文章くらいの理解で十分だ。こちらも正岡子規が提唱した。

まだまだ日本で今のような文章術が確立していない時代のことなので、全く面白くない文章を書く人もいて、彼らに子規は「文章には山がなければならぬ」と説いた。山というのは山場のことで、いわゆるクライマックスだが、子規のいうヤマはちょっと意味合いが違っているように感じられる。面白い場所とそうではない部分、対比があるからこそ面白い部分が引き立つというようなことを子規は言いたかったようだ。山ってなんなんだよ……みたいな反応をする人や、山を理解した人が面白い文章を書き始めたりするうちに、やがて朗読会は「山会」と呼ばれるようになった。

子規の没後も「山会」は続き、主催者の高浜虚子に促され漱石は文章を書くことにした。仲間内の朗読会なのだから、内輪ネタは当然ウケる。当たり前だが参加者は漱石のことを知っている。それなら自分の奇行を題材にして、文章にすれば面白いだろうという考え方のもとに書かれたのが「猫伝」であった。

事実「山会」における高浜虚子の「猫伝」朗読を、漱石は大笑いしながら聞いていたといった証言が残っている。自分の奇行を一番深く知ってるのは本人なのだから、一番ウケるのも本人だというわけだ。自身の行動を客観視して描写し、他人事として朗読を聞くというのはなかなか複雑な構造だが、これが「猫伝」を面白くしている要素のひとつなのである。

ちなみに『写生文』を朗読する『山会』のために書かれた「猫伝」は、当然『写生文』ということになるのだが、一般的な『写生文』とちょっと風味が異なる。意識的になにを書くのかを取捨選択し、選んだものを「大人が子供を見る」ように書いているからだ。この辺りも専門的な話になってしまうので、ふーんとでも思っていただければ十分である。

漱石の写生文についての考え方はこちらのエッセイに書かれている。

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「猫伝」の笑いどころ

「猫伝」を書いていた時期、漱石の精神状態はあまりよくなかった。おかしくなってしまった理由は色々なことを考えすぎたためなのだが、漱石は近代的自我についてもよくよく思索した人であった。ここも本筋とは関係ないので詳しく触れることはしないが、重要なのは近代的自我を確立させるためには、自分を一人の個人として徹底的に客観視する必要があるという点だ。先に紹介した「写生文」も、あるがままに描くといった技法である。漱石はそれらの技術を使い、徹底的に自分を客観視し「猫伝」を書いた。

加えて「猫伝」の執筆は、一種の気晴らし、あるいは治療の側面も持っていた。時に残酷すぎるほどに苦沙弥を突き放した描写が登場するが、漱石は精神の平穏のため全てを戯画化し自分も社会も徹底的に笑い飛ばしたのである。

そういった場面をひとつ引用してみよう。苦沙弥の妻と姪っ子の会話である。

以下引用は全て青空文庫から。読みやすいように適宜修正してある。

「こないだ保険会社の人が来て、是非御這入んなさいって、勧めているんでしょう、――いろいろ訳を言って、こう云う利益があるの、ああ云う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても這入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして小供は三人もあるし、せめて保険へでも這入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの」

「そうね、もしもの事があると不安心だわね」と十七八の娘に似合(にあわ)しからん世帯染じみたことを云う。

「その談判を蔭で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に這入る必要はないじゃないかって強情を張っているんです」

「叔父さんが?」

「ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と云うものは丈夫なようで脆いもので、知らないうちに、いつ危険が逼(せま)っているか分りませんと云うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を云うんですよ」

「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非及第するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」

「保険社員もそう云うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長生きが出来るものなら、誰も死ぬものはございませんって」

「保険会社の方が至当ですわ」

「至当でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの」

「妙ね」

漱石というペンネームは、石で口をすすぐとかそういう感じの漢文から取っていて、ようするにヘソ曲りということなのだが、自分の頑固さや天邪鬼具合を客観視し嫁さんと姪っ子に語らせているというわけだ。

こういったエピソードに猫の意見が入ると、さらに複雑な構造となる。

吾輩の主人は毎朝風呂場で含嗽(うがい)をやる時、楊枝で咽喉(のど)をつっ突いて妙な声を無遠慮に出す癖がある。機嫌の悪い時はやけにがあがあやる、機嫌の好い時は元気づいてなおがあがあやる。つまり機嫌のいい時も悪い時も休みなく勢よくがあがあやる。細君の話しではここへ引越す前まではこんな癖はなかったそうだが、ある時ふとやり出してから今日まで一日もやめた事がないという。ちょっと厄介な癖であるが、なぜこんな事を根気よく続けているのか吾等猫などには到底想像もつかん。

自分の奇妙な行動を客観視し描写した上に、自分の行動へのツッコミを猫にさせている。漱石自身は楊枝で喉を突く理由を知っているはずだが、到底想像もつかんとしているところもなかなか良い。

時代的な背景を理解するのは諦める

「猫伝」は昔の作品なので、扱いの難しい用語が登場し、ギャグの元ネタがよく分からないなんてこともあるはずだが、よく分からないところは諦めてしまい、そういうものだと納得してしまったほうがいいだろう。

一種のトラウマなのかなんなのか、「猫伝」のような古くて名作とされている作品は、正確に読み解かなくてはならないと思い込んでいる人が多いようだが、そんなことがあるわけがない。SNSに流れてくる4コマ漫画を読むように読めばそれでいい。もっというと教養がないから読めないんだッ!!! 的な説教をしているインターネットの人の中にも、かなり知識が怪しいといった事例もたまにみる。したり顔でこんなものを書いている私でも、正直なところ判断に困る場所がいくつもあり、今まさに書いているこの文章も知識の不足をごまかしていることろが多くいい加減なものである。

諦めてしまって気楽に読んだほうがいいと納得してもらうために、少し事例を紹介してみよう。まずは私が理解できる細かいところから始めると、「猫伝」に『模範勝手』という言葉が登場する。模範的な台所くらいの意味だが、「猫伝」本文にも登場するように、大隈重信邸の台所が模範勝手として当時は有名だった。台所の詳細は村井弦斎の「食道楽 春の巻」にある。

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大隈重信は食生活に一家言を持つ男で、自宅の台所の設計にも細かい注文を出した。政敵であった星亨が大隈邸を訪れた際にも、台所の重要性を語り、実際に『模範勝手』を見学させて、今日の材料はこれとこれ、和食か洋食、どちらでも食べたいほうを注文してくれともてなしたそうだ。

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当時は客間には金をかけるけど、台所や水廻りは貧素な家が多く、台所や水廻りが最優先という考え方の人間は少なかった。大隈は食堂に関してもこんなことを語っている。

天井をなるたけ高くするのだ。ゆたかに、気持ちよく飯のたべられるようにして、腹をウンとふくらませてやるのだ。人間は誰でも左様だ。飯を食うところは、広々とした、あかるい、気持のいい、朗らかな場所にしておくのだ。(原文適宜省略)

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現代でも十分に通用する考え方で、捉えようによっては当時の生活の専門家よりも、ずっと先鋭的な考え方だとしてもいい。簡易生活者たちを越えている部分すらある。

漱石はといえば甘いものが好きだったらしく、「猫伝」にもジャムや汁粉、はては砂糖など甘いものが登場している。その一方で台所の描写は控えめで、ほとんど興味がなかったことが伺える。

大隈の台所で話がズレてしまったが、『模範勝手』に話を戻すと、実は『模範』というのは当時の流行語で次の場面ではギャグとして使われている。

「何だって、御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。知ってるか」

「ええ」と細君は依然として仕事の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超然たる模範妻君である。

『超然』も当時の流行語だ。大袈裟な流行語をどうでもいいようなところで使い、面白みを出しているのは猫に『吾輩』と言わせているのとよく似た構造だ。

同じく当時の流行語『向上』もギャグとして使用されているのだが、こちらは判断が難しいところがある。背景として明治の文化人は「向上だ! 向上だ!」と騒ぐわりに、実質が伴っていないなんてことがよくあった。漱石はそんな世相を少し馬鹿にして、次のような文章を書いている。

  1. 人間の眼はただ向上とか何とかいって、空ばかり見ている
  2. 我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから
  3. 向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。そんな遊戯三昧で宇宙の真理が知れては大変だ。
  4. 彼のアムビションは独逸(ドイツ)皇帝陛下のように、向上の念の熾(さかん)な髯を蓄(たくわ)えるにある。

1-3番までが流行語としての『向上』、4番目は判断が難しく、多少は流行語の要素もあるが基本的には日常語としての『向上』であろう。

実は『芸術の霊気』や『宇宙の真理』も流行語といえば流行語なのだが、こういう細かいことを指摘していくと話が全く進まなくなってしまうので、とりあえず止めることにして、以上紹介してきた流行語について強引にまとめると、漱石は上っ面の『向上』や『超然』そして空虚な『模範』を少しばかり馬鹿にしていたものの、大隈重信は本物の『模範勝手』を作り上げていたことは知らなかったということになる。

この程度なら明治の文化に興味がある人ならば読み解ける水準だが、分かったところで面白さが上がるのかといわれると少々疑問で、『向上』は『向上』、『模範』は『模範』として読んでもなんら問題はない。

もっとあいまいでよく分からない場所もあって、次の事例だと誰もがお手上げになってしまうはずだ。苦沙弥の教え子の水島寒月が、理学協会でする演説の練習をした際に、次のような会話がなされている。

寒月「さていよいよ本題に入りまして弁じます」

迷亭「弁じますなんか講釈師の云い草だ。演舌家はもっと上品な詞を使って貰いたいね」

「弁じますが下品なら何と云ったらいいでしょう」と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。

後に遊び半分に演説をした迷亭も、思わず弁じましてを使ってしまい、寒月にこうやり返される。

迷亭「さてただ今いままで弁じましたのは――」

寒月「先生弁じましたは少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」

普通に読めば突っ込みを入れた迷亭がやり返されて面白いといった文章だが、当時の事情を考えるとなかなか複雑だ。

宮武外骨によれば、日本の演説は海外のスピーチ術と昔からあった講義や説教の技術を掛け合わせたものであった。旧来の技術の中には当然ながら話芸、講談落語が入っている。宮武は明治英名伝に福沢諭吉が講談師松林伯円(泥棒伯円)を自宅に招き弁舌の練習をしたエピソードが掲載されていると紹介までしている。

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漱石自身はというと話芸が好きで、当然ながら講談も聴いている。そして演説もかなり上手かった。そういう人物なのだから、理学協会の演説も迷亭の遊び半分の演説も、そして講釈師の一席も同じようなものだといった皮肉の意味を込めているような気がしてくる。なぜにそう思うのかといえば、漱石自身が演説でこのようなことを語っているからだ。

日本の開化は地道にのそりのそりと歩くのでなくって、やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで行くのである。開化のあらゆる階段を順々に踏んで通る余裕をもたないから、できるだけ大きな針でぼつぼつ縫って過ぎるのである。足の地面に触れる所は十尺を通過するうちにわずか一尺ぐらいなもので、他の九尺は通らないのと一般である。

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開化、つまり文化の発展を一足飛びで成し遂げようとした当時の日本は、ひとつひとつの段階を踏むことができなかった。出来上ったものが急ごしらえの劣化コピーであったとしてもそれを認め、その先になにかが生れる可能性を信じるより他ない状況で、演説の分野でもそのような出来事があった。

漱石と同じ年に生れた伊藤痴遊は、星亨に師事し自由民権運動に参加していたのだが、度重なる演説禁止処分(当時は政治運動が激しく弾圧されていた)に対抗するため政治講談をやりはじめた。演説ではなく講談だから問題ないでしょうといった理屈である。伊東には話術の才能があった。自らの経験に裏打ちされた人物評や政界裏話などの講談で人気を博し、後には講釈師が本業となる。その一方で代議士に二回も当選しており、タレント議員の走りとしてもいいだろう。政治運動の経験を活かして講釈師となり、講釈師としての名声によって代議士に当選できたというわけで、見様によっては偽物が本物になった実例とできなくもない。

また話がズレてしまったが、演説が「やッと気合を懸けてはぴょいぴょいと飛んで」成立したものだとすると、「弁じます」の寒月のスピーチも迷亭の美学も講釈師の講談も同じようなものだという意味合いに読めてくる。先の『向上』も細かいことはいいから、とにかく勢いで改善しようといった意味合いを持っており、漱石のいう「ぴょいぴょいと飛んで行く」そのままである。

「弁じます」に話を戻すと、明治の演説では、一席弁じます、お耳を拝借致します、なんていう講釈師が言いそうな言い回しが普通に使われていた。寒月君が「弁じます」を使うのを止めるため、無理矢理演説風の表現を探すとすれば、「演説致さんと存じます」くらいのものになるのだろうが、やはり「弁じます」のほうがしっくりくる。ちなみに講演で漱石自身は「弁じます」とは言ってはないが、当時の講釈師がたまに用いていた「しばらく御辛抱を願います」を使っている。

以上、ゴチャゴチャと色々書いてみたが、実際のところどうなのかは漱石に聞くより仕方ない。このような面倒くさいことを考え、調べながら読むのもひとつの楽しみではあるけれど、読み終るまでにかなりの時間がかかる上に、『猫伝』自体を楽しむこととは少し離れてしまう。そもそもだがここは少々おかしいなと気付くためにも知識や経験が必要だ。私自身も小学生のころは素直に読んで笑っただけにすぎず、こんなことを考えもしかった。読書経験としては、そちらのほうが上質であったようにも思える。

そんなわけで気になった場所に脚注があれば読むくらいで十分で、娯楽は娯楽と割り切ってそういうものだと納得してしまえば、それなりに楽しく読め進めることができるはずだ。

中学教師だけ知っておく

昔のことはどうでもいいと書いておいてなんなんだが、「猫伝」を読むにあたり、あらかじめ知っておいたほうがいいなと思うのが、珍野苦沙弥の職業である中学教師についてである。中学教師というよりも「猫伝」が書かれた時代の教員たちが持っていた気質や野心、あるいは気分については知っておいたほうがいい、とするのが正しいかもしれない。

戦前の学制は幾度も変化している上に複雑で、専門家でもない限り把握する必要はないが、「猫伝」当時の中学校は今でいう大学のようなものであったことは知っておきたい。基本的に中学に進学することは、大学に進むことを意味した。進学するのも中等以上の収入のある家庭の息子で、いわゆるエリートたちだ。当然ながら中学教師の社会的な地位も高かったが、中学教師で終るつもりはないという野心を持つ者たちが多かった。

「社会百面相 内田魯庵 著 博文館 明治三五(一九〇二)年」では、『吾輩だとて何時までも地方の学校教師はしていないと気炎を吐いておる』教師が紹介されている。時に優秀な教師が地方の学校にやってくることもあったようだが、教育に熱意を持つものばかりではなかった。

英学の主任教師は、これも古典に通じた中学教師には惜しい学者だが、生徒の教育には極めて不熱心で、折角勉強しに地方にきたら受持時間が多くて甚だ不都合だと不平面をして在らっしゃる。

というように、安定した収入と時間を作り自分の研究を進めたいといった考えの持ち主たちがいたらしい。

中学教師は小学教師と違って星雲を志すだけの素養が出来ているので四十や五十の月給で地方に老い朽ちようという気になれんのだ。悉皆(みんな)腰掛けの了見で尻が座らんのだ。

内田魯庵はこんなことも書いているが、こちらは誤認だ。中学教師に限ったことでもなく、小学校の教員たちも、出世がしたい時代であった。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/813480年」)は苦学者によるレポート、男は貧苦の中で高等小学校を卒業し、十五歳で小学校教員として働き始める。給料は月に三円、当時は住んでいる場所や当事者の職業によって貨幣価値が大きく異なるのでなかなか難しいのだが、おそらく現在の感覚で六万円程度の金額であろう。住み込みでそれなりに熱心に働き、生徒や村の人たちにも慕われていたようだが、やがて男は学問を修めるために東京へと向かう。「暗黒の青年時代 原田東風 著 大學館 明治三五(一九〇二)年」の原田も、小学校の教員をしながら私塾で英語を習っていた。高度な学問を修めるための準備期間といったところであろう。このように小学教員も、今はこうだけれども将来的には……といった希望を持った者が多かったらしい。

こういった事例はそこかしこに残っている。当時は無銭旅行が流行していたのだが、その際に無銭旅行者たちが「自活苦学生」の男がいるような学校に、宿泊させてもらうことがままあった。無銭旅行をする者は基本的に学生で、小学教師の質問攻めにうんざりしたといった証言が残っている。もちろん親切心もあったのだろうが、東京からやってきた旅行者から都会の情報を得て、将来の活動に役立てたいといった思惑があったようだ。

ここで一度まとめておくと、教師の中には『いつまでも学校教師をしていない』という者がいて、珍野苦沙弥ももとはそういった考え方を持った人間であった。ところが偏屈で潔癖なため出世ができない。今は半ば諦めてしまい厭世的になってはいるが、多少は色気が残っている人物として描かれている。

寝る時は必ず横文字の小本を書斎から携えて来る。しかし横になってこの本を二頁ページと続けて読んだ事はない。ある時は持って来て枕元へ置いたなり、まるで手を触れぬ事さえある。一行も読まぬくらいならわざわざ提てくる必要もなさそうなものだが、そこが主人の主人たるところでいくら細君が笑っても、止せと云っても、決して承知しない。

苦沙弥は学識を深めることは諦めてはいないのである。そして多少の自負心も持っているようで、こんなことを語っている。

「黙っていろ。サントブーヴだって俺だって同じくらいな学者だ」

それでは苦沙弥は勉強をし、なにになりたかったのかといえば、返答にちょっと困ってしまう。実際のところ苦沙弥、あるいは漱石が満足するような職業が、当時はなかったからだ。今と比べると学問の世界のレベルは、あらゆる意味で低かった。教育業界もいい加減なもので、漱石が教師をしていた頃は、教科書の採択での贈収賄は当たり前にあった。そういう世界で世俗を嫌う漱石、あるいは苦沙弥が満足できたのかというと疑問が残る。

漱石がイギリスへ留学し、精神を患ってしまったことは有名だが、あれもちょっと分からないことがある。官費で洋行をするためには、基本的にはツテが必要で、時には希望者たちによる裏工作などの攻防戦すらあった。洋行をしたという事実さえあれば、後の成功はほぼ約束されたもので、留学先では程ほどに過していればそれでいい。そういう時代であったのである。

漱石はというと、生真面目に研究に没頭し精神を病んでしまう。留学に関しても熱心に運動をしたわけではない。第五高等学校第5代校長の櫻井房記の、熱心な推薦によるところが大きかったようだ。漱石とは校長と新任教員といった関係で、櫻井がなぜにそこまでしてくれたのかも分からない。謎の魅力があったのだとするしかないくらいに、漱石は様々な人に将来を期待された。そして期待に対する反応が、いまいち薄い。他人の気持は分からないが、やはり自分がしたいのはそういうことでなないといった気持があったのではないのだろうか。

ちなみに漱石の同級生の南方熊楠は、自分が気に入る職業がないため、実家の金を使いディレッタント、つまり自分の趣味嗜好のままに学問に勤しむ人になった。漱石も内心はこのような生活を望んでいたような気がしないでもないが、結局のところ帰国した漱石は猫を書き、元大学教授の肩書を持つ職業小説家となった。これは漱石以前にはなかった形式の職業で、漱石も熊楠と同じく満足できるような職業がないから、自分で作ったということになるのだろう。

話を苦沙弥に戻すと、その行動には納得しにくいものが多いのだが、かって野心を持っていて半ば諦めた男、小説家になっていない不満だらけの漱石のような人物として読むと、すんなり胸に落るはずだ。その苦沙弥が持つちょっとしたプライドや自負心を、次のように猫がぶった切っていくのは「猫伝」のひとつの見所であろう。

彼の頭脳の不透明なる事はここにも著るしくあらわれている。

気の毒ながらうちの主人などは到底これを反駁するほどの頭脳も学問もないのである。

いかに馬鹿でも病気でも主人に変りはない。

「猫伝」をつなぐ細い糸

漱石は精神的にまいっていた時期に「猫伝」を書き、そこにはリハビリ的な意味合いがあったと先に紹介した。その時期に夏目家で、こんな事件が起きた。

ある日のこと漱石は、火鉢のふちの置かれた五厘銭を見つけるや「こいついやな真似をする」と激怒し、たまたま近くに座っていた娘をいきなり殴り付けた。驚いた奥さんが話を聞くと、漱石がロンドンに留学していた際に、散歩先で乞食に銅貨を恵んでやり、下宿に帰宅すると便所の窓のふちに同じ硬貨が置かれていた。今もまた貨幣が置かれていたから殴ったと言う。これでは話が分からない。さらに詳しく聞くと、以前から下宿のかみさんが探偵のように自分を監視していると疑っていたのだが、やはりそうでお前を見ているぞとばかりに、貨幣を目につく場所に置いたのである。なんという嫌な婆さんだ。あの時とおなじように火鉢のふちに貨幣を置くとは、なんという怪しからん娘だと思い殴り着けたという理屈であった。

完全におかしくなっているわけだが、このように当時の漱石には、常人からすると全く関係ないことを、つなげて考えてしまうようなところがあったようだ。このあたりの事情は下の本に詳しく記載されている。

この不調が原因で「猫伝」にはうっすらとしたガイドが設置されることとなった。「猫伝」は通常の物語とは異なり、わかりやすいストーリーがない。単体の小さなエピソードの連なりによって、ひとつの物語になっている。ところがよくよく読むと、意図的なものなのか病的なものなのかは判断が難しいが、ものすごく細い糸でひとつの物語につなげられている。これを意識しておくと、格段に面白く読み進めることができる。

第一章を見てみよう。『吾輩は猫である。名前はまだない。』から語り出した猫は、『名前さえつけてくれない。』と愚痴ってみたり『吾輩は猫である。名前はまだない』と自己紹介しながら話は流れ、最終的には『この教師の家で無名の猫で終るつもりだ。』と名前がないことを諦めてしまう。

冒頭で猫が『まだ』としていたのは、将来的に名前がつけられるという出来事を期待していたことを現わしている。様々な経験をした結果、無名の猫でいいと結論を出したというわけだ。事実これ以降、猫が「名前はまだない」と語ることはなくなってしまう。『烏輩からすはいに侮辱されたとあっては、吾輩の名前にかかわる。名前はまだないから係わりようがなかろうと云うなら体面に係わる。』というお笑い場面で一度は使われているものの、作者不明の作品を苦沙弥が絶賛したり、名前を人に貸してしまい酷い目にあった学生が苦沙弥に泣き付いてきたりと、名前の価値のなさが幾度か表現されている。

「猫伝」には、こういった細くてうすいつながりが多く登場する。第六章ではカンカン照りのお天気で始まり、雨の場面で終るなどといった単純な対比が使われている。九章はベッドに使える机を特注し愛用している苦沙弥のもとに、刑事と泥棒がやってきて、泥棒を刑事だと思い込んだ苦沙弥が様々なことを考えた結果「何が何だか分からなくなる」といった展開だ。

「猫伝」には全編に渡ってこういったつながりが仕込まれている。これを意識をしておくと、読んでいて飽きることがない。もっともそんなつながりなど単なる思い込み、あるいはこじつけとしてしまえばそれまでだ。しかし無関係に思えるエピソードがかすかにつながり、伏線にも思えないような出来事が密かに回収されているのを探しながら読み進めるのは単純に楽しく、自然に最後まで読めてしまうはずだ。

各章をどう読むのか

基本的に読書ガイドのようなものは面白さを紹介するわけだが、全部読むといった目的であれば話は変ってくる。あらかじめ面白くない場面を知っておき、なんとか乗り切ったり流し読みで済ましてしまうほうが読み切ることができる可能性は高くなるだろう。

猫は連載を前提に一年と半年くらいかけて書かれている。その時々の調子やら気分、あるいは忙しさの度合い、読者の反応を見てちょっとした軌道修正を加えたりなどもあったはずで、全体が同じ調子ではない。当たり前だがイマイチ面白くない場面も存在している。好みは人それぞれだが、読むのに飽きてしそうなところを重点的に紹介していこう。

ここでは1-2章を序盤、3-9章を中盤、10-11章を終盤としている。中盤だけ妙に長くなっているのは、ほぼほぼ面白く読めて問題ないからで、序盤と終盤はちょっと厳しいところがある。ここをどう乗り切るかがポイントになってくる。

序盤

全体として見ると1章は最も低調だ。なぜなら高浜虚子の手が入っているからで、写生文っぽさが最も強く、文体もちょっと違う。歴史的に見ると写生文は必要なものではあったけど、後には道のようなものになり形骸化してしまった側面が強いというのが私の評価だ。

ここを切るかねとか、ここは余分だねといったところも多く、あまり力を入れて読むと挫折してしまいそうだ。生真面目な虚子がどこに手を入れたのか、気にしながら読むと面白いかもしれないが、初見では見当もつかないはずなので、読み終るのを待つより他ないだろう。

虚子は「坊ちゃん」でもかなり文章を変えていて、そこそこ批判されている。しかしこれも時代を考えると仕方ないかなとも思う。当時の小説は曖昧な存在で、漱石も虚子も高尚な芸術なら話は変ってくるが、小説を修正するくらいは問題ないといった認識であったのだろう。

2章になると少し漱石っぽさが出てくる。それでも様子をうかがいながらといったところで、猫が雑煮を食べて踊る場面なんかはあまり面白くもない。ただ次のような「猫伝」で屈指の格好良い文章が登場する。

私はこの「夜」の中に巻き込まれて、あの声の出る所へ行きたい。

その他、子供がどうとか三毛子がどうとかも少し退屈なので注意、1章から続くタカジヤスターゼ(胃薬)に関するエピソードはなかなかレベルが高い。

中盤

このあたりから、徐々に猫が透明になってくる。漱石は「大人が子供を見る態度」で書いているのだが、猫が大人の役割を担い、子供である人間について語るといった形式だ。また猫は登場人物が知り得ないことを読者に知らせる役割も果たしている。講談速記本では忍術使いが敵の城に忍び込み、その謀(はかりごと)を読者に認識されるといった場面がしばしば登場するが、「猫伝」の猫も一種の忍術使いのような役所だ。

中盤はおおむね面白く、時に読むのが面倒くさいところもあるものの、先に紹介したうっすらとしたつながりを意識しながら読めば挫折するなんてこともないはずだ。

3章は鼻子が登場する場面が低調で、身体的特徴をギャグにしているのは今の時代に似わない。しかし苦沙弥が新体詩を作り、迷亭が鼻をテーマに演説するところはなかなか笑える。このように『猫伝』にはどうでもいいことを大袈裟に扱うところが多いがこれは江戸だ。同じような構造を持つ作品で有名なものとしては平賀源内の『放屁論』がある。

4章あたりから狂気が登場することが多くなってきて、一人で怒ってる雰囲気が良い。5章、このあたりから先に紹介した「うっすらとしたつながり」がわかりやすくなってくる。本章だと睡眠に始まり、泥棒と鼠が原因で苦沙弥が起床している。猫が鼠を捕ろうと頑張る場面は少し退屈だが、ちょっとした伏線にもなっているので読むより他ない。

6章では泉鏡花が少し馬鹿にされ、7章の運動と海水浴は当時のブームにからめたネタ、今となっては分かりにくいかもしれない。後半に苦沙弥が激怒したり怒鳴ったりする場面があるので期待しよう。基本的に苦沙弥が激怒するところは出来がいい。8章に催眠術が登場するのはやはり当時のブームである。文豪のイメージが強いかもしれないが、漱石は後に流行作家になるくらいなので、意外に軽薄なところがあった。セルフパロディーとして『主人は愚物である。』といった一節が登場、9章も「主人は痘痕面である。」で始まっている。

終盤

この辺りでダレてくる。終りを予感しながら、読みながしていくスタイルが向いているだろう。10章は前半の掃除批判、後半のそうさなの繰り返しは白眉、しかし子供のところは少し退屈かもしれない。女学生の口調はやはり当時の流行が反映されている。11章、バイオリンの話が楽しめないと厳しい。無理なら読み流すだけで十分だ。

最後の最後、登場人物は物語から去っていく。独仙は空虚、実業家の三平は出世するのだろうが、見方を変えると独仙と似たり寄ったりの人生だ。新体詩は衰退する運命で東風君の先行きは怪しく、寒月は大学から去ることになるのだろう。苦沙弥は不満なままだし、迷亭も裏返してしまえば苦沙弥と変りない。

そんな中、ひとり猫だけは陽気だ。酒を飲み、こいつは面白いとそとへ出たくなる。出るとお月様、今晩はと挨拶したくなる。あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせて、猫が踊って物語は終る。

まとめ

「猫伝」は無料で公開されているので、読めるのであればそれを読んだらいいと思う。できれば注釈がついているもののほうが良いような気がするが、私が知っているのは旺文社文庫版と岩波書店の全集しかない。

旺文社文庫版はもう新本で買うことはできないが、なかかなコンパクトでいい。岩波書店の全集はほぼ完璧である。

未読だが子供向けに編集されているものを読むのおすすめだ。

最後に漱石についてである。

漱石は過大評価されているとだとか、いやいや過小評価だとか色々と言われている。これには理由があって、漱石の弟子たちが神格化するために様々な運動をしたからだ。弟子たちにとってそれは必要なことではあったけど、今となってはその時代としてはとんでもなく面白い小説を書いた人くらいの認識で十分だと思う。

ただし神格化されてしまった影響もあって、面白さの部分は過小評価されている。漱石自身も冗談はかなり好きだったようで、手紙や日記などを読むと一人でギャグを飛し笑っているような節がある。重いテーマの作品にもちょっとした冗談が登場する。

「猫伝」に登場する迷亭は、シャレと嘘と悪ふざけで暮しているような人物だ。そのモデルは自分だよと弟子に語ったこともあるらしいが、こちらはあながち冗談ではなかったのかもしれない。