昔の書籍や新聞雑誌を読んでいると、デモ〜といった表現が登場することがある。デモ紳士、デモ美女、デモ先生などなどである。
『ブラジルに在る同胞青年は意気地が無いとか或は『今頃の青年はノンプレスタ』とか云つて徒に在伯青年をアタマからクサスのは良くない事である、誰れが『意気地無し』にした?誰が『ノンプレスタ』にした?そんな事を云ふ前に世間から苟も先輩と仰がれ、紳士と奉られている上記の如きデモ先輩やデモ紳士が如何に在伯同胞青年の信頼と美しい純情を裏切つてついにその所謂る意地無しやノンプレスタに悪化せしめて居るかを、我等は刻下在伯同胞社会の風大いなる問題として深く反省しなければならない。
南米新報 1936 11 26
私はこれを『それデモ紳士か』『あれデモ紳士か』的な意味合いだと理解していた。ちなみにノンプレスタは使えない奴くらいの意味らしい。
しかし時には迷うこともあって、文脈によっては紳士であることをひけらかすように読めることがある。例えば次の一文は紳士=富裕層であることを見せ付けるように読めなくもない。
かまくら及江の島 河本亀之助 著 河本亀之助 明治三四(一九〇一)年
『我輩はフロックコートである 織戸正満 訳述 秀美堂[ほか] 明治四三(一九一〇)年』の『デモ紳士のロハ乗り』の一節は、金もないのに紳士のような服装をしているとも読める。
こういうのを読むうちに、紳士にみせかけるような行為をデモ紳士と呼ぶのかなという疑問が出てきた。なんでそんなことを考えるたのかというと、
- この当時はデモ(デモンストレーション)という言葉が流行していたのかもしれない
- もしかするとデモンストレーション紳士、つまり紳士であることを宣伝するといった意味合いなのかも
などと考えたからである。デモンストレーション紳士なんて言葉としてはおかしいんだけど、なにかが流行すると強引にでも使いたいって人はいるもので、ついつい色々なことを考えてしまうのである。
考えていても分からないので、デモンストレーションがどくらいの時代から一般的に使用され始めたのかなと調べてみると、大正に入るかどうかあたりのことで、明治三四年に書かれた『かまくら及江の島』でデモンストレーション紳士は成立しない。ついでに昔の辞書で調べてみると、やっぱり『あれでも』の意味合いで使われるのが普通であったようだ。
日用大辞典 : 法律・経済・新語・俗語・同音語其他 松華堂 編纂 松華堂書店 昭和七(1932)年
補足になるが『でも主義』なんてものもあった。これは当時の若者たちの志が低いことを指摘した言葉である。
青年訓 大町桂月著 博文館 明治三七(一九一四)年
本当は学者になりたいけれど教師になろう、本当は官僚になりたいけれど会社員でいいやといった若者たちを叱咤激励する文章だ。こちらの『〜でも』は明治二十二年にも使われている。
小児演説独稽古 柾木正太郎 著 中村芳松 明二二(一八八九)年
最近(とはいっても古いが)の辞書で調べてみるに『〜でも』は、江戸時代にも使われていた。
でも‐いしゃ【でも医者】
へたな医者。やぶいしゃ。風来六部集「糊口をしかぬる者、医者にでもならうといふ。これを名づけて—とて」
『広辞苑 第五版』CD-ROM版 _1998年(EPWING規約第5版準拠) 著作権者代表=財団法人新村出記念財団 発行=株式会社 岩波書店
というわけで『でも〜』には『それでも〜か』『〜でもするか』という二つの意味合いがあったのだと解った。ただそれでもやっぱり紳士風であることをひけらかす的に読めてしまう文章はある。これなんかは先に紹介したものより特徴的だ。
崇廣 明治三五年(一九〇二)年一二月号
昔の人が全員正しい意味合いで言葉を使っていたわけもなく、だいたい今と同じで誤用はある。だからこんなことでも調べ始めると延々と調べることができてしまうのである。誤用だからと割り切れる人はいいんだろうが、私はそいうことが気になってしまうので、とりあえずは『あれでも〜か』『〜でもするか』だと納得しつつ、今後もデモ紳士と出会った時にはどのように使用されているのかを観察していこうと思う。
- 作者:石黒正数
- 発売日: 2013/11/01
- メディア: Kindle版