記憶は曖昧だけど昨年度、2020年の3月あたりの私は、コロナウイルスに関して騒ぎすぎだと考えていた。きちんと調べていないってのもあったんだけど、今から考えると特定の分野に関して知識があったからこそ、余計に思い込みが強くなった側面があったと思う。
その時期の私は、日本では清潔さに関する意識が比較的まともであり、必要な事柄も理屈で説明すれば誰でも理解できると考えていたのである。これは感覚的なものではなくて、個人的に読んだものや調査したものから割出した結論だった。
私は明治から戦前くらいに書かれた面白そうな文章はなんでも読む。だから明治の社会が、虎列剌(コレラ)などの伝染病へどう対処してきたのかを知っていた。明治や大正時代の新聞記事なんかもそれなりには読んでいるので、衛生観念はこう広がっていったのかということもなんとなく分かっている。ちょっと話題になった戦前のマスク云々のお話も、当然ながら認識していた。
ちなみに日本の衛生観念は、良くなったり悪くなったりを繰り返している。ある時期には衛生観念が高まりすぎて、精神疾患を病む人まで出てきたりしている。森鴎外がなんでも煮沸させて喜んでいたのは、わりに有名な話だろう。
今も続いている学校での生徒による清掃は、衛生観念を高めつつ、学習するための環境を維持するためのものだ(と思う)。しかし大正時代の一時期に、児童に掃除をさせると汚れや埃によって、伝染病にかかる可能性が高くなるといった議論があって有識者による統計調査まで実施している。結果、清掃はプロに任せるべきといった結論が出たものの、予算の問題でこの議論は有耶無耶になってしまった。昔から教育にお金かけない国だったんだねぇといったところだが、これなんかは今も議論すべき問題なのかもしれない。
面白いのが日本の清潔さは巨大な組織の力だけで実現したものではなく、個々人の活動や考え方の変化によって実現した点で、昭和の終りあたりになってもまだドブを綺麗にしろだとかそういった草の根運動が残っていたような気がする。一日一善なんて言葉を聞いたことがあるかもしれないが、意外なことにこちらも衛生観念の向上を狙った側面もある社会運動だった。
とにかくこの社会は、ずっとで綺麗あったわけではない。諸々の経緯や混乱があって、今では衛生的かどうか考えなくても生活できるくらいに衛生的になっている。普及しすぎて空気みたいになってるんだから、実にすごいことだ。
衛生面以外にも、科学的な知識の広がり方や、戦時中の人々の行動、家庭改善運動、昔ちょろっと調べた医学史の断片やら色々な要素によって、私の思い込みは形成されていった。一般人である私が、なぜ間違えたのかを自分で検証したところで意味がないのでここらで止めておくけど、とにかく私はある程度まである種の知識があったため、『普段は小汚いことをしている人も、ウイルスが来てますって時くらいは、合理的に行動するはずだ』『個人が合理的に動くのだから、国を含む組織も合理的であるはずだ』『多少の混乱はあるはずだが特に問題はない』と思い込み、『一時的にコロナウイルスの感染者が増えたとしてもそのうち収束するはずだ』と考えたというわけである。
その後、様々な事が起きて、『ああヤバいのか』と考えるようになったんだけど、これは私が私の知識がそれ程までに広く適応できるようなものではないと認識しているからで、もっと普遍的なことを学んでいて、その上で『コロナウイルスで騒ぎすぎだろ』と考えたのだとしたら、未だにコロナウイルスで騒ぎすぎだろ、正しく行動したらすぐ終るなどと発言してたような気がしないでもない。
私は感染症に関する知識なんか皆無なので、『コロナウイルスに関する俺の意見大発表』なんてことはしなかった。しかしコロナウイルスに関して語るため必要とされる知識がない別分野の専門家の人の一部は、そういうことをしている。中には自分の知識に絶対の自信を持った人もいるはずで、だからなんなんだって話なんだけど、自分が確実に知っていること以外は、概ね間違っているくらいの認識で丁度いいんだなと改めて思った出来事だった。もうひとつ、私は過去の文化をそれなりに調べているので、ある出来事が発生することで文化に変化が起きるといったことをそこそこ予測できると考えていたのだが、今後世の中の潮流がどうなっていくのか全く分からない。これにはわりとショックを受けたんだけど、これまで以上に過去の出来事から未来を推測しないように心掛けていきたい。
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