山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

スマホはものすごく良くなった

スマホはよくなった

普通に使っているからあんまり意識しないんだけど、スマホはすごく良くなったと思う。

本格的に良くなったなと思ったのは2018年後半くらいに買いかえした時あたりで、速度は以前の機種の8倍くらい、メモリとストレージの量以外は、使ってるノートパソコンより性能が良いくらいだった。その気になって環境を整えまくったらものすごく良いものになって、大昔からずっと欲しかった Dynabook (アラン・ケイのやつ)っぽいなと思った。スマホは本格的に知的生産のためのツールとして使えるようになったなという実感があった。

PDA はおもちゃだった

一定以上の年齢で少し電子機器が好きな人(オッさん)たちは、かって PDA でチビチビとテキストを入力し、予定を管理したりしていた。PDA というのは Personal Digital Assistant の略称で、要するに小さくて性能の悪い電子機器である。当時学生だった私は、管理する予定なんてなかったけど PDA を使って喜んでいた。オッさんたちが大昔になんで PDA を使っていたのかっていうと、理由は人それぞれなんだろうけど、私の場合は自分の脳ができないことをしてくれる存在を常に持ち歩きたかったからだ。

私が初めて使った PDA は Palm OS が動く Visor Deluxe というものだった。

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CPU は DragonBall-EZ 16MHz で記憶容量は 8MB モニタはモノクロで160x160の解像度と、今から考えると信じられないくらいショボい端末である。Visor には様々な機能があったんだけど、私は読書端末として使用していた。青空文庫のテキストを入れてポチポチ読んでは(容量が8MBだから)削除してを繰り返すうち、当時公開されていた作品を全て読んでしまった。とはいえ当時は青空文庫もそれほど充実しておらず、ほとんどのものはすでに紙の本で既読ではあった。いわゆる再読ってやつに私は夢中になっていたのである。全ての作品が未読であれば、あんな速度で読んだりできなかったのかもしれない。

今のスマホと比べると全てがショボくて、よくあんなもので大量のテキストを読んだものだと思わないわけでもない。それでもその当時はそれしかなかったから使うといった感じで、特になにも考えてはいなかった。Visor には聖書も入れていて布教にやってきたエホバの証人の人やモルモン教徒の人に自慢をすると、その聖書は違うんだというわけで聖書みたいなものをもらい、それなりに面白く読ませてもらった。これは実に良い体験であった。

PDA では遊んだものの、携帯電話にはほとんど興味が持てなかった。日雇いで働いていた時期に、携帯がないと仕事もらえなくて、携帯なしで働けるマイナー日雇いに進んでいくしかないと教えられて、俺は携帯確保してるから安心感あるとか思ったけど、良かったことはそれくらいで、とにかくショボいインターネットがあるといった雰囲気でしかなかった。iPhone は 3G くらいの時に使い始めて、当初の感想は普通のインターネットがあるといった感想であった。

考えてみるとこの頃っていうのは、かなり無理して使っている状態で、楽しいという感覚だけがあった。

画像を読む時代

Visor で遊んでいた当時、今は青空文庫くらいしかないけれど、まずは論文、その後で古今東西の書籍がテキストデータ化され、ジャンジャン読める未来が来るだろうと楽観視していた。実際は私の予想を超えたり、超えていなかったりだ。論文や昭和50年代の書籍は未だに自由に読めるテキストデータになっていないけど、近代デジタルライブラリー(今の国立国会図書館デジタルコレクション)が登場した。

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国立国会図書館デジタルコレクション

明治から昭和にかけて10万タイトルの書籍が自由に読めるサービスで、もう死ぬまで読めるなといった感想であった。残念ながらテキストデータではなく、画像データではあるものの、とにかく死ぬまで読み続けることができる。近代デジタルライブラリを本格的に読み始めた頃は、iPhone も 4 になっていた。あの程度の性能があれば、画像データの書籍も十二分に読める。iPhone をMacBookに接続し、近代デジタルライブラリからダウンロードした画像を転送、ComicGlass で読んでいた。やっていることは Visor と同じだけれど、アクセスできる書籍の数が圧倒的に違う。テキストデータから画像ファイルになり、利便性は減ったものの読める書籍の数が圧倒的に増えた。利便性とかマジどうでもよくなるほどの差で、馬鹿みたいに読み続けた結果、ついには身体も進化して、そこそこの高画素密度のディスプレイならドットが見える目をゲットしてしまった。

画像を読むことを追及するうち、OS は iOS から Android へ移行し、いよいよ私がしたいことができる時代になった。

私はなにがしたかったのか

Visor を使っていた頃から理想のようなものがあって、それはありとあらゆる過去のテキストが、いつでもどこでも読めるという状況だった。ついでに、いつでもどこでも記憶できるディバイスが欲しかった。いつでもどこでも色々なことを知ることができて、様々なことを書き残せる、そんな世界が理想だった。

こういうことを考えた人は沢山いて、アラン・ケイの Dynabook なんかが有名だと思う。Dynabook ってのは東芝のパソコンではない。人間がより自由に学んだり遊んだりするためのディバイスというか考え方だ。自由に持ち運びが出来て、風呂の中でも使え、モニタの中ではなんでもかんでも好き勝手できる。ちょっと意味合いは違うけど、テッド・ネルソンの Xanadu は文書を管理できて自由につなげて消滅しないって感じの環境で、本の形を変えて人間の思考に近付けようってな感じのものだった。

考えてみると今の技術を使えば、私が欲しいって思っていたものや、Dynabook や Xanadu のようなものを作ることが出来てしまう。難しいのはハードウェアやソフトウェアがいかに進歩発展したとしても、文化が追い付いていないとやっぱり駄目ってところだ。私含め人類は野蛮なので、誰もが論文や少し昔の書籍を自由に読める時代が来るまでには、まだまだ時間がかかりそうではある。

もともとテレビやラジオも、人が学習するための機械として期待されていた。遠く離れた場所から情報を多数の人に送ることができれば、人類が受け取ることができる知識の総量を増やすことができる。しかし学習はダルく、基本的には娯楽のほうが面白い。そんなわけで、今みたいな状況になっている。かって人間がスマホになにを期待していたのか、それはよく分からないけど、今のところは学習するための教材よりゲームのほうが作られている。

ただ使い方と興味の対象によっては、自由に持ち運びが出来て風呂の中でも使え、モニタの中ではなんでもかんでも好き勝手できる時代にはなっている。

近デジに関してはなんでもできるようになった

国立国会図書館デジタルコレクションを扱い、それにまつわることを考え記録することに関しては、パソコンの上であれば私は自由にできている。

読みたい本を見付け、URLをコピペしファイルをダウンロードすると、書誌情報を加えたファイルが完成する。読んでいる本について記録したくなれば、0.5秒で書誌情報が自動的に追記されメモすることができる。メモに関連するページ数を記録するのも自動化している。長い文章を書く際にも、読むと書くを自由に行き来きすることができる。全文検索も一瞬でできるため、Xanadu みたくリンクなんかなくても全てシームレスに繋っている感がある。物理的な制限もなく、10冊くらいの書籍を併読できる。もちろん国会国立図書館デジタルコレクションに収録されている書籍は読み放題で自由しかない。

ただしパソコンにも弱点があって、とにかく重くてかったるい。500g くらいの GPD Pocket っていうパソコンを使っていたけ時期があるんだけど、結局はスマホ使ったほうが楽っていう感じがあった。

ただしかってのスマホには弱点があって、昔だとスマホとパソコンを接続しファイルを一所懸命に転送しなくてはならなかった。できることも全体的にショボく、パソコンみたいに自由に情報を扱うこともできない。

それが2018年くらいからパソコンでできることは、スマホでもだいたいできるというようになった。私がスマホを真面目につかいはじめたのがそのあたりなので、もっと昔からできてたのかもしれないけれど、とにかくその辺りの時期に私向けの環境を作り、あーこれ昔の自分が欲かったやつだとなった。その時は嬉しすぎて、毎日シャワーをあびながらずっと明治の本を読みつつメモをする活動に勤しんでいたのだが、突如として完璧にスマホがブッ壊れてしまった。昨日まで動いてたいのになぜッ!! と一瞬なったがあれだけ水バーバーかけながら使ってたら壊れるのが当たり前だよなとなり、大人しく新しいものを買い水の中で明治の本を読みつつメモをする活動は廃止した。金が減ったのは最悪だったが、久々の良い感じの興奮であった。

『今はできるけど時代』へ突入している

大昔は技術はどんどん進化していって、世の中は良くなるものだといった感覚があった。もちろん今でも(本当は)そうなんだけど、局地的な部分ではそうでもないようなことが起きる。ここ最近の文化が大幅に退化した事例だと、著作権の保護期間を延長するといった馬鹿丸出しの蛮行がある。電子辞書もすでに統一規格が事実上消滅していて最悪だ。基本的に辞書がダメな国は文化もダメなので、そういうことなのであろう。このように文化は時に退化する。実感としても今はそういう時期なのかなっていう雰囲気あり、微妙だなーっていう感じである。

それ以外にも自分が技術的についていけなくなるんじゃないのかなといった不安がある。今もすでにターミナルのパッケージシステムは使えるけど、エディタのパッケージシステムは意味が分からないだとか、自分で書いたもののなんで動いてるのか分からないスクリプトとかがあって、これ使えなくなった時にまた調べないとなーみたいになってる。今後は加齢によって、私の頭は劣化していくばかりなんだろうから、いずれ今よりダメな環境で読んだり書いたりすることになるかもしれない。

このように色々不安はあるんだけども、今のところは最高の環境を使えているので、最高を使えるうちに使いまくったほうがいいかなって思っている。