山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

今のところ高校の古典はそのままにしておいたほうがいいと思う

私は明治あたりの文化を調べて遊んでいる人なんだけど、基本的に社会の状態とは関係なく技術は進んでいくが、文化はあっけなく後退したりする。そんな時にはなるべく触らないっていう方策を取るしかない。金ないから古典焼却したほうがいいけど、元号を決めるのに役立ったから古典最高みたいなのヤバすぎる上に、最近は文系の学問への風当たりがきつい。なのでとりあえず今は現状維持が安全だよなって思う。調子コイた奴が古典教育改革みたいなのやったら、多分失敗する。

古典の授業の扱いをミスるとどうなるのかっていうと、色々な人が面倒くさいことになり、日本の創作物の質は下る。どういうことかっていうと、いきなりだが Emacs っていうプログラムがあり、Emacs にメチャ詳しいのが"るびきちさん"である。"るびきちさん"は Emacs の上で動くパッケージを大量に紹介してくれているんだけど、その文中に次のような説明が絶対に入る。

パッケージシステムを初めて使う人は
以下の設定を ~/.emacs.d/init.el の
先頭に加えてください。
(package-initialize)
(setq package-archives
      '(("gnu" . "http://elpa.gnu.org/packages/")
        ("melpa" . "http://melpa.org/packages/")
        ("org" . "http://orgmode.org/elpa/")))

なんでこんなことを説明する必要があるのかっていうと、Emacs で動くパッケージシステムを知らない人がいるからで、"るびきちさん"は知らない人向けにパッケージシステムを使うための手順を毎回書いてくれている。みんなに Emacs の素晴しいパッケージを紹介したいっていう"るびきちさん"の愛が、この説明を書かせているというわけだ。

私は明治娯楽物語が好きで調べたりしているんだけど、こちらも他人に説明する場合、まずどういうものかっていう説明が必要になる。なぜならその辺りの知識がない人が大半だからである。私の文章をずっと読んでくれている数少ない人々は、こいつ同じことをずっと書いてるよなって思ってるかもしれないけど、一般的には知られてないから何度も書くわけです。やっぱり俺にも愛はあって、沢山の人に明治の娯楽物語の魅力を知って欲しいって願いがあるってことなんだろうと思う。

明治の娯楽物語に関しては、文体を思い浮べることができる人すら、今やほとんどいないって問題もある。義務教育を受けた人なら、古典の文体を粗雑ながらもだいたい想像することができる。しかし明治の娯楽物語だとちょっと無理、雰囲気を文字で解説するの難しいから、私はテキスト化して公開したりもしている。

note.mu

kakuyomu.jp

大正のが混ってんだけど、これは明治の娯楽物語の技法で書かれた大正時代の作品で……とまあ、そういうところから説明しないといけない。古典を全く読んだことない人間が増えるっていうのは、古典を紹介する際に"るびきちさん"みたく同じことを繰り返し書いたり、私みたいに自分でテキスト化したりしなくてはならない世界になるってことである。これらの作業は Emacs (今なら VSCode のが有利かも) 使えたらギリいけるけど、ワードや一太郎しか知らないならミッションインポッシブルであろう。相手にとって全く未知の世界を解説しなくてはならないって状況は少ない。だからある知識がなくなった世界を想像するのは、なかなか難しい。そんなわけで、古典なんて教えるの止めちまえって発言が出てくるわけである。

明治娯楽物語はゴミみたいな作品ばかりだから知らなくてもいいけど、古典でこういうことが起きるとすごい面倒くさい。俺は古典なんか読まないし、古典について話すこともないッ!!!みたいな短絡的完全体のアホも大量にいるわけだけど、お前の脳やら価値観がいくらダサくても時代劇を観た時に丁髷が出てきてもなんも思わんだろ。そういうのが古典を学んだ成果だ。歴史の時間に学んだら良いって思うかもしれないけど、歴史と古典から我々は脳内にある昔のイメージを形成しているわけで2倍の効果がある。だからみんなが時代劇を楽しめる。知識って反射神経と結びつかないと意味ないから2倍にしないとダメで、とにかく子供の時に昔のイメージが形成できて良かったねって話である。

で、話は戻るんだけど、創作物っていうのは単体で存在するものではない。作家みたいなのが捩り鉢巻きしてウンウンうなったり、突如としてビッカーみたいな光が登場してこれだッ!!! って浮かんだアイデアだけで出来てるわけがなくて、大量のみんなが知ってる知識から成り立っている。数学苦手だった人も、数学ってカッコで数字を囲んでるやつだろとかくらいの知識はある。その程度の知識に関連付けて面白い物語を作るのが創作する人たちだ。彼らのために我々はつまらないものを獲得し、私たちのために彼らは作ってくれる。そんなこんなで、みんなが面白い物語を楽しむことが出来ている。

でもみんなが知ってたらいいんだったら、古典じゃなくてもいいのはって話になるわけだけど、私自身も優れた漫画でもなんでもいいんじゃないのとは思う。でも今教えられている古典のラインナップより、良いものを揃えるのかなり難しい。私は明治の娯楽物語の素晴しい作品を選ぶことはできるけど、それじゃ教育目的で20作品ってなるとちょっと無理、漫画でもドラマでもなんでもいいけど、学校で教えるべき作品を選んでみてほしい。スゲー難しいと思う。

あと現在の日本の娯楽物語の根幹にあるのって、丁髷してる奴らが活躍する物語だからな、やっぱり古典が適切なんじゃないだろうか。お前ッ!! 古典で近世の物語教えてる割合少ないだろッ!! って意見もあるかもしれない。でも昔のことは昔のことで、普通の人から昔に対するぼんやりとした雰囲気さえ消えさってしまうと、ものすごい面倒くさいことになる。そういう意味では時代劇が消えつつあるのはすごく大きな損害で、コンテンツ大国がどうのこうのいうのなら、国費で時代劇ジャンジャン流し続けるとかしたほうがいいのかもしれない。

少し話がズレちゃったな。古典に話を戻すと、知らない文体を知ることができるっていうメリットも大きい。私がネットで書いてる文章は、たまに変だって怒られちゃうことがあるんだけど、それは普通の人が知っている文体が少ないからで、私独自のものではない。大量の先人たちが書き残した色々な文章を参考にして書いているわけである。そんなおかしな文献を大量に読む必要なんてないけれど、せめて今と全然違う古文を多少なりとも読まないといけないって状況は残しておいて欲しい。日本で流通する文体が全部 SNS みたいな文体になるとか考えただけでゲボ出そうになるからな。

古典は教養で文化を理解するために必要なんだッ!! みたいな意見もあるけど、明治35年あたりから大正初期の文学や社会を理解するためのツールとしては、日本の古典よか聖書や社会主義のが重要だと思う。理解したい場所によって必要な知識は変る。後々役にたつからなんてのも嘘で、今すでにメッチャメリットあるんだからそれで十分では? 欲張りかお前はって感想である。

もっとも近代以前の人間は現代人の我々から見たら全員狂人で、本当の江戸しぐさしたら俺らは全員死ぬ。近世の物語は近代人に理解できない部分が多いので、読本や種本なんかの研究はもっと進んで欲しいけど、明治以前の古典なんかより明治娯楽物語のほうが絶対に面白いし最高、というか明治娯楽物語を古典にすれば良いのではって思うわけだけど、このあたりのことを解説している本ってすごい少ないんだよな。明治娯楽物語のことが書かれた書籍があればいいんだけど、そういえばなんだっけ? 今ちょっと思い出せないんだけど、明治娯楽物語を扱った良い本があったような気がする。題名が長すぎて覚えてないんだけど、〈明治娯楽物語〉の規格外の魅力を紹介しながら、ウソを嫌い、リアルを愛する明治人が、一度は捨てたフィクションをフィクションとして楽しむ術(すべ)をどのようにして取り戻したのか、その一部始終を明らかにする本なんだけど、あー思い出したわ「「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本」だわ。こんな良い本を一体誰が書いたんだッって驚いているところですけど、そういえば書いたの私でした。

出版社による本の紹介です。

「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本(一般書/単行本/日本文学、評論、随筆、その他/サブカルチャー/ネット発/) 柏書房株式会社 ノンフィクション・歴史・古文書の出版社

そんなわけで今日も読んでくれてサンキュー、絶対に予約してくれよな!!!