山下泰平の趣味の方法

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食堂で暴れる明治時代の学生たちが自炊を始めるまで

明治の若者たちがなにを考え、どう行動したのかといったようなことを調べている。最近になってエリートたちの感覚が、ゆるやかに全ての人々へと広がっていく傾向があるなと気付いた。そういった流れの中から、今回は自活や独立が自炊へと至る現象について紹介してきたい。今となっては自活や独立と自炊には、関連性がないように思えるかもしれないが、当時としては大有りであった。

賄征伐の時代

独立から自炊への流れの分かりやすい事例は、なんといっても賄征伐であろう。賄征伐とは学校の寄宿舎などで食事への不満から、学生たちが食堂で暴れるといったイベントである。正岡子規や南方熊楠、堺利彦など錚々たる面々も賄征伐に参加していることからも分かるように、明治時代に旧制高校などで頻繁に起きていた。

初期の賄征伐は大飯を喰らい、飯に文句をつけながら、大暴れをして賄い方を困らせるというものであった。当時は飯の中に虫や藁、小石などのゴミが入っていることも多くあったので、ことさらに騒ぎ立て飯を机や床に打ちまける者や窓から味噌汁を捨ててしまう奴すらいた。机を叩く、寄宿舎が古い時代には足踏みをし床を揺らして喜ぶなんてこともした。現代の感覚からすると酷すぎるが、ある時代まで基本的にエリートたちは士族の血をひいていた。だからこそ賄方で働く人々を軽くみて、このような行動に走ることができたのである。

ちなみに正岡子規も士族の自覚はおおいに持っていて、賄征伐ではそこそこ酷いことをしている。南方熊楠はみなが大騒ぎする中で静かに飯を大量に食い、堺利彦は控え目に参加、夏目漱石は不参加だが後に面白おかしく生徒に賄征伐の話をし、後に海軍大将となる山本権兵衛だけが兵学校時代に食事なんざどうでもいいから、他の場所に金を使えという建白書を認め校長に提出するといった奇行に走り学内の人々をドン引きさせた。

賄征伐の理由

賄征伐が頻繁に起きた理由について、当時の人はどう考えていたのか紹介しておくと、『防長近世史談 村田峯次郎 著 大小社 昭和二(一九二七)年』は、明治の一桁代の学生たちは、日本語による辞書すらないような劣悪な環境で苦学をしており、粗食なんて当たり前じゃないかといった感覚を持っていたからとしている。学生たちが黙っているのをいいことに、賄業者たちはろくなものも出さず暴利を貪るなんてことが横行していたらしい。その流れが長く続き賄征伐につながっていったというのが村田の説である。

『衣食住の変遷 赤堀又次郎 ダイヤモンド社出版部 昭和七(一九三二)年』は「今は殆どこの事(賄征伐)を聞かない」のは、家風を忘れたことが理由であるとしている。賄征伐が盛んな時代は、各地の各家族が家風といったものを持っており、食事にも大きな差異があった。異なる家風の者たちを一箇所に集め、同じ食事をさせたのだから、暴れ出すのも当然といった推測だ。

『師範出身の異彩ある人物 横山健堂 著 南光社 昭和八(一九三三)年』は賄征伐がもっとも激烈だったのは、駒場農学校だとしている。農学校には実習があったため、腹を減らし凶暴になった学生が多かった。自然に賄征伐も苛烈なものになったという理屈である。

その他、食事だけでなく寄宿舎の規制が多さや、学校自体への不満もひとつの原因であったとも考えられている。しかし調理を担当していたのはあくまで委託業者なのだから、ちょっと理屈が通っていない。加えて賄征伐で皿や備品を壊すといった狼藉に及ぶことで余計な経費がかかり、ますます飯が貧相になるという悪循環すらあった。

エンタメ化する賄征伐

そうこうするうち、賄征伐は一種のレクリエーションのような側面も持ち始めた。

南方熊楠が大量の飯を食ったように、賄征伐には一種の大食い大会のような側面もあった。千葉県師範学校では賄征伐を十字軍と読んでいたそうだ。十はプラスの意味で御飯を倍加して食い尽し、賄方に新たに米を炊かせて天手古舞にさせるといったイベントであった。

ある世界線では、大食いはスポーツとされている。

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賄征伐も大食いが関係しているが、それだけでなく、ある時期は運動とセットになっていた。上級生から「明日の午餐(昼御飯)を期して賄方を成敗せんとす」などと書かれた回状がまわってきて、翌日の朝から「賄征伐の準備にや、フートボールを催し」全員が空腹になった状態で正午に食堂に殺到、あるだけの飯を食いきると汚れた皿を窓から投げ捨てるといったイベントであったらしい。食事がなくなったら皿を投げてもいいという理屈がよく分からないが、明治の若者なんてものは幼稚でバカなんだから仕方がない。『回顧録 紅涙熱血 小林一男 (文武生) 著 河合文港堂 明治三三(一九〇〇)年』

こういった事例は他にもあり、農学博士の井上正賀は「余などは学校の寄宿舎で随分賄征伐をしたものだ。例えば賄いがあまりまずいものを喰はすと、四、五十人が相談して平生より運動をして腹を減かし飯を余計に喰らって予定の分量を朝家して彼等をまご付かせてそれを喜ぶというような無邪気なことをしたものだ。」、実業家の松本真平も「よく志多見の松原へ出掛けてうんとあばれ廻つてうんと腹をへらして来ては「飯だ!飯だ!」と賄の婆さんや爺さんを面喰はせたものであった。」というように、明治の三〇年代に入ると賄征伐とスポーツ大会がセットで開催されることがあったようだ。『開校五十年史 埼玉県立不動岡中学校創立五十週年祝賀協賛会 埼玉県立不動岡中学校創立五十週年祝賀協賛会 昭和十一年』『脚気病食物療法 井上正賀 著 大学館 大正四(一九一五)年』

ずっと時代が下ると、伝統だからといった理由で賄征伐が決行されることもあった。これなどは不満の表明という本来の意義が忘れ去られてしまった事例であろう。

賄征伐の結末

賄征伐が頻繁に起きると学校側は困ってしまう。そこで対策を立てるわけだが、しばらくは大変であったようだ。

明治一二年あたり官立東京大学学医学部の寄宿舎では、生徒が賄い業者を選ぶという方式を採用した。食堂を中央から右と左で分け、安田、小泉という業者がそれぞれ食事を用意させる。学生たちは左右から好みのメニューを選び食事をする。しかし所詮は世間知らずの学生の考えることである。この期間はこちらが良い食事、それ以降はそちらで良い食事を出してくれと、業者間で話がついていたらしい。『赤門懐古 入沢達吉 著 生活社 昭和二〇(一九四五)年』

明治二二年に東京農林大学の学長となった高橋是清は、猛烈な賄征伐を止めるため、学生たちに次のような提案をし選ばせることにした。

  1. 学生自身が食材を仕入れ自炊する
  2. 学生自身が賄い業者を選ぶ

学生たちは後者を選び、それなりに満足し、賄征伐はいつしか行なわれなくなったそうだ。実際のところ学生が業者を選んだところで、食事の内容が素晴しいものになるとも思えない。ようするに自分たちで話し合い、選択したという満足感によるところが大きかったのであろう。

こんなことを続けるうちに、学生たちは自治に目覚め始める。慶応義塾の寄宿舎では明治三七年より学生による炊事委員会を設立、各寮より一名炊事委員を選出し、週末に一週間の献立を決め、炊事部監督が市場に出掛け食材を仕入れ、炊事夫に監督し食事を出していたそうだ。炊事部監督の仕事量の多さが気になるが、流石に給料が出ていたらしい。

これでも飽き足りない者は友人たちと相談し、寄宿舎を出て共同生活を始めることもあった。おそらく賄征伐に参加していない漱石も、橋本左五郎とともにお寺の二階を借りて自炊生活をしている。

寄宿舎の飯がまずさから、暴れまくって学校と話し合い、やがては自分たちで業者を選び食材を仕入れる。それにも飽きたりない者は、自分たちで予算を立てて生活する。学費は仕送りだが、これらの感覚が独立心につながっていく。やがては学生の自治なんてことが言われるようになっていく。

苦学生の自炊

先に明治一桁の学生たちが苦学をしたと紹介したが、明治三〇年を過ぎると苦学の意味合いが変化する。この時代になると十分な学費を持たない若者たちが、なんとか学費を稼ぎ出し、学問を修めようとし始めた。世間が彼らを苦学生と呼ぶようになる。

賄征伐に参加したものたちは、いわゆるエリートたちで、苦学生には関係ない世界であった。それでも彼らの自分たちで選択し、自分の生活を組み立てていくといった様式は、苦学生たちにも広がっていった。

苦学生たちに対するキャッチコピーに、独立独行自尊自主なんてものがあった。家から飛び出し、全てを自分で決めて自分の責任で生活するというものだが、彼らのほとんどは失敗してしまう。

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苦学生が登場する以前、エリートたちは賄征伐を体験し自治や独立にたどり着いた。ただしこれは、あくまで学生たちのお遊びで、彼らのいう独立や自治は、それほど切実なものではなかった。明治時代に十分な資金や体験を抜きにして、一足飛びに独立生活をするのは難しい。苦学生にとって独立独行自尊自主なんてものは幻想で、ほとんど不可能な離れ業であった。賄征伐に参戦した者たちと苦学生は、かなり隔たりのある世界に住んでいたのである。

しかしわずかな苦学生たちの中には、エリート学生たちが手に入れた感覚に乗っかって、独立独行自尊自主と唱えながら、学校を卒業しそれなりの成功を収めてしまう者もいた。存在しないものを拠り所に成功するというのはなんだか不思議な気がするが、持たざる若者がエリートの感覚を使って社会の階層を踏み破り、エリートの世界へ入り込むというのは、感覚の回帰、あるいは帰還にみえなくもない。