山下泰平の趣味の方法

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伝統的な家族観を崩したくないなら夫婦別姓を認めたほうが効率が良いと思う

以前にふと気になって夫婦別姓について調べてみると、 選択的夫婦別氏制度がまだ導入されていなかった。引越しで住所が変っただけでも面倒くさいのに、名前が変るとかどれだけ面倒くさいのかと、想像するだけで卒倒しそうになってしまった。名前を変えることでジャンプ力が上ったり握力が100kgなるんだったら面倒くさくてもいいけど、変えたところでなにもないんだから嫌な気持になるだけだと思う。

夫婦別姓が駄目な理由には色々あるっぽいんだけど、伝統的な家族観を崩したくないから、夫婦別姓の導入には反対みたいな人たちがいるらしい。これは微妙なところが多くて、個人的には伝統的な家族観を守りたいのであれば、夫婦別姓をさっさと認めたほうが良いと考えている。

一般的に流通している伝統的な家族観というのが曖昧なのでよく分からないのだが、徳川期の家だと流石に破綻しすぎててヤバいので、おそらく明治以降にできた家族観のことを指しているんだと思われる。

徳川期の家と明治の家庭は質的に異なる。雑な説明な上に当てずっぽうで書いてるのだが、徳川期の家は自給自足を基本としたものだ。だから家産(一家の財産、つまり土地)がなければ家として成立しない。土地の所有を前提にした事業体としての組織が家で、家がある人のほうが少ない時代だ。数が少ないと競争に参入する家も当然ながら少なくなる。これを明治以降も続けていると国が滅ぶ。それでは困るので、長い時間をかけて形成されたのがいわゆる伝統的な家族観だ。

明治の家族観が徳川期の家より時代に即していたのは、家族、つまり家庭の数が増えるという点にある。なぜ家庭が増えると嬉しいのか、これまた雑に説明すると、小さな集団である家庭がそれぞれ成長することで、家庭の集合体である国が強くなるからである。もちろん失敗してしまう家族もあるが、だからこそ数を増やす必要があった。いわゆる数撃ちゃ当たる理論である。

明治の家族観にはかなり色々あって、全てを説明するのは難しいのだが、社会を成長させるための家族観に限定すると、重要なのは祖先を大切にするという点である。これは修身科の教科書だと、「祖先の名を辱しめず」というように表現されている。

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ほとんどの家にとって祖先は幻想なのだが、祖父や祖母、父母を大切にしよう、喜ばせよう程度の感覚があったら「祖先の名を辱しめず」は成立する。「祖先の名を辱しめず」とセットになっているものは「故郷に錦を飾る」といった考え方だ。こちらも都会に出て学問を修めて偉くなって、故郷で自慢しようくらいの単純なものでしかない。犯罪をせずに出世したら「祖先の名を辱しめず」「故郷に錦を飾る」が完成する。これを一言でまとめると『祖先を大切にするために出世をしよう』ということになる。

この感覚が一般的なものであったことの証左として、童謡の「ふるさと」の歌詞を紹介しておこう。

兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川

夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

如何にいます父母 恙なしや友がき

雨に風につけても 思いいずる故郷

こころざしをはたして いつの日にか帰らん

山はあおき故郷 水は清き故郷

都会に出て出世するために頑張っているエリートが、故郷を想うといった内容だ。もともとこういった物語は、士族の血をひく人々のものだった。『ふるさと』は大正時代に作られているわりに、ちょっと古くさい考え方なのだが、こちらは作詞をした高野辰之の人生観が反映されているのかもしれない。もっとも大正時代になっても、自分は士族であるといった感覚を持ち続けている人はいたようだ。

三鶴お前の家は士族である、お前は立派な人間にならねばなりません。」といつた母の湖しい顔

持つて生まれた士族の血が残っているためにのみこうして歩いているのだ。

世界徒歩十万哩無銭旅行 鳥井三鶴 著 広文堂書店 大正八(一九一九)年

祖先を大切にするために出世をしようといった感覚は、明治大正時代の修養書や出世物語に当たり前のように登場する。下記の書籍などは好例であろう。

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修身の教科書にすら扱われていることからも分かるように、教育が普及するにつれて、出世をして錦を飾るといった感覚を、普通の人たちも持つようになっていく。明治期の政府が意図したものかどうかは分からないが、「祖先の名を辱しめ」ないように思い切った決断をし「故郷に錦を飾る」ため家を出て出世を目指す者たちも多く出た。両親は昔の人間だから理解できないが、近い将来に必ず出世してご恩返しをいたします的な発想だ。親孝行のための思想が、結果的に反逆の思想に転じているのはなかなか面白いが、伝統的な家族観は社会の階級に流動性を持たせる役割を果たすこともあったのである。

ここで話は夫婦別姓に戻るわけだが、家を大切にさせる意図があるのであれば、もともとある名字を変更させるというのは少々矛盾しているように感じられる。ひとつの家のために、もうひとつの家を捨てるというのは家を粗末にしすぎであろう。ひとつの家庭に名字が二つがあると一体感がなくなるといった意見もあるらしいが、一体感が究極にまで増えると徳川期の家になってしまう。明治時代ですら通用しかなった仕組みが現在に成立するはずもない。伝統的な家族観は、家族を増やすことで出世をしようとする者も増え、国力が上がっていくといった機能を持っていたのだから、家族の中にいくつもの家族を作り、家族の数を増やしたほうが効率的なはずだ。

この理屈で考えていくと同性婚も認めたほうが絶対にいい。結婚した人の中には養子をもらいたい人もいるんだろうから、結果的に家庭が増える。養子縁組新規受理数は終戦直後は45000件、平成になると1000件あたり、今では500-600前後でものすごく減っている。私が無知すぎるため減った理由は知らないのだが、同性婚を認めることで養子縁組の数も増え家族が増えることは確かであろう。

ちなみに今回は国力を上げるという側面から、明治の家族観が持つほんの一部の機能を中心に解説した。当たり前だが家族は他の機能も大量に持っている。「祖先の名を恥しめず」に限っても、天皇制ともかわりのある考え方でもあり、全てを紹介しているわけではない。伝統的な家庭はこうだッ!! と一言で説明できるようなものではない。

『伝統的な家族観』を守りたい人と、そんなことどうでもいいから選択的夫婦別氏制度を導入しろって人がいると思うんだけど、伝統的なものをきちんと調べてみると思ってたのと違うってことはわりと多い。なので伝統を守りたい人たちと一緒に伝統について勉強したら、案外すんなりと変わることっていうのは多いと思う。名前やら国やらなくして自由に生活できるのが理想だと私は考えているのだが、一気にそんなことするのは無理である。だからまずは伝統を大切にするために選択的夫婦別氏制度を導入ってことでいいと思う。

もっとも現在流通している『伝統的な家族観』には、他の意味もあるのかもしれない。ただそれだと、伝統の部分に説得力を持たせるのはなかなか難しいんじゃないかなと思う。例えば江戸しぐさは、江戸時代にあったとかゴチャゴチャ小理屈をつけたから攻撃されたわけで、江戸時代にあったっぽい感じの俺らが考えた作法としていれば問題はない。だから伝統的な家族観も伝統的な家族観と異なるのであれば、俺らが思うみんなが良い感じになる家族観とかいう感じに表現したほうが適切だと思う。

もうひとつ結婚して名前を変える際に面倒なことなかったら、まあ同性でもいいやって人は多いと思う。私も0.1秒で改姓完了するなら名前とかどうでもいい。好きにしろっていう感じなので、婚姻届を出したら自動的に全ての手続が済むみたいな仕組み作るとかしたら良いと思う。それできないなら余計なことしないで済むほうがよくて、とにかく面倒くさいことはしたくない。ついでに引越しの時も面倒なことをなくして欲しい。マイナカード?でなんとかなるんなら、ポイント配らなくてもみんなマイナンバーカードを作ると思われる。とにかく面倒くさいことは不快なので、人間の創造性が阻害されるような状況をなくしてほしいものですねなどと私なんかは思うわけです。