山下泰平の趣味の方法

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私はこういう人です

素手で便所掃除する教育について1万文字くらいかけて考えていきましょう

謎の風習『素手便所掃除』

日本には研修や教育目的で素手で、便所掃除するっていう風習がある。子供に学校の便所を素手で掃除させるっていうのが有名だと思う。

その他のバリエーションとして、オッさんを見知らぬ街に連行し、便所掃除をさせてくださいって家庭訪問させるというものがある。その街に住んでいるのは知らない人ばかりだから、オッさんの得意技である人脈を使うことができない。いきなりオッさんがやってきて、便所掃除させてよーって頼んできたら、かなりキモいと思われる。だからみんな断わる。それでオッさんは失意のどん底に放り込まれる。それでも諦めないでオッさんがインターフォンを押しまくってると、そのうち変った家庭があって便所を掃除させてくれる。それでオッさんがすごい感動するみたいなシステムである。

ここからなにが学べるんだかよく分からんのだけど、とにかくこういう風習が日本には存在しているんだ。

本当のところはどうなのか?

謎の風習『素手便所掃除』についてインターネットで議論されてたりもするんだけど、軍国主義みたいでダメ、こういうのが日本の悪い伝統だっていう意見がある。検索するとわりと出てくるから、そういう感じなんだと思う。それが正しいと仮定すると、いくつか疑問が出てくる。

まず伝統なんだから、戦前から『素手便所掃除』的なものが存在していたということになる。戦争になって1,2年で急に『素手便所掃除』的なものが発生するとは思えないので、それ以前からそういった精神性のものは存在していたと推測することができる。つまり日本には連綿と悪習が存在し続けていたということになる。

だとすると、なぜ今の日本が比較的マシな国なのかっていう謎がある。ずっと悪習が続いてるんだったら、明治後半あたりで戦争に負けてメチャ貧乏な国になっていたのでは? 『素手便所掃除』を続けてると日本みたいになるんだったら、真似したい国もある気するし、そもそも悪習ではないのではないかって話になってくる……というわけで本日はこういうことを解説していきたいと思います。

そもそも本当に悪いのか?

素手便所掃除には、ひとつ誤解されている点がある。それは実際に手だけで掃除しているわけではないっていう事実である。実はあれをする際には、普通にタワシやらの道具を使っている。素手掃除の会みたいなところがやっている掃除道具の販売サイトなんかを見てみると、わりと良い道具やら洗剤があったりする。

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つまり素手で便所掃除っていうのは、なるべく少ない道具で掃除をするっていう意味なのだと思われる。最小限の道具で掃除をすることは悪いことなのかっていうのを、冷静になって考えると状況によるという答えになる。

個人的な話になっちゃうんだけど、ここ1年くらい自宅の掃除の改革に着手していて、トイレの掃除道具はここまで洗練させることができた。

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基本的に私もトイレは手で洗う。しかしこれは文明が発達してきたからできることで、現代ならば水洗便所や流せるトイレシートなどのテクノロジーが存在している。こういったテクノロジーのおかげで、稼働率の低い自宅のトイレなら、一定の衛生を確保しながら9割の部分は手で掃除することができる。排泄行為の後で一回も手を使わずに処理する人っていないと思うんだけど、それと同じ程度の不潔さで掃除が終わる。技術が発達してない昔なら手で掃除するのは無理があったけど、今は便利な世の中になったもんだねぇっていう雰囲気がある。

そもそも掃除には、本格的な汚れを排除するためのものと、美しい状態を維持するため軽い汚れを取り除くためのものが存在している。軽い掃除なら別に道具はそれほど必要ない。そして軽い掃除を続けていれば、本格的な掃除などめったに発生しない。

ついでなのでトイレシートでトイレを掃除するプロセスを紹介しておこう。基本は奇麗な場所から汚い場所を拭いていく。具体的には下記の順序です。

  1. 便座
  2. 便座のフタの裏
  3. 便座のフタの表
  4. 便座の裏
  5. 便器のフチ

こうすると一枚のシートで、わりと効率的かつ清潔に掃除することができる。ちなみに、トイレの便座の素材はすごい傷つきやすいことが多い。安全のため、流せるシートに水分が足らない場合は補ってあげることが重要だ。

技術の進歩は分かるけど、それでも手で掃除するのは抵抗あるって人もいると思う。しかし個人的には、便所に湿気のあるスポンジが存在しているほうが気持ち悪い。でも子供やら同居人がいると話が違ってくるかもしれないな。この辺りは個人の感覚やら環境によりますけど、流せるトイレブラシも最高なのでオススメである。

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細かい話は抜きにして、自宅のトイレに関しては、工夫すると9割くらいは素手で掃除しても全く問題ないっていう感じだと思う。

その一方で現代であっても、使用頻度の高い公衆トイレを手で掃除するのは無理がある。専用の道具や洗剤を使ったほうが効率的なのだから、道具を使えば良いのではっていう結論になる。まあ仕事だからな。

ここで最初の結論を出しておくと、最新鋭の技術を使いながら『最小の道具で掃除をする』っていうのは悪くもなんともないっていう感じになる。狭いトイレにゴチャゴチャ道具あるよりスカッとしつつ清潔さを維持できたほうが絶対に良い。実はこの考え方自体が明治あたりからの伝統で、その発祥は『簡易生活』というものである。

cocolog-nifty.hatenablog.com

というわけで、最小の道具で便所掃除をすること自体は別に問題ない。こんなもんは軍国主義だッ!! っていうのも私は嘘だと思う。ただし運用には問題があるっていう感じだと思う。

掃除は教育っていうのは半分伝統で半分は実用である

掃除で教育をするッ!! っていうのが日本の伝統だっていう話があるけど、これは事実である。

煤払いっていう宗教行事あるけど、日本では掃除に宗教的な意味がある。まあ大事なことだとされていたのです。

そんなわけで寺子屋でも掃除が教育の一部に組込まれていた。その流れで今も子供は掃除をしているっていう雰囲気がある。ただこれって教育的な効果っていう側面だけではなくて、単なる実用っていう部分もあるっていうのは知っておくべきだと思う。

実は大正時代には、すでに学校で子供に掃除をさせるのはどうなのかっていう論争があった。

明治や大正に生きてた一部の人々は、異常なまでに科学的な思考が好きである。そういう人たちは、理由もなく学校で子供に掃除をさせたりはしない。大正時代に客観的なデータを見ながら、その合理性について検討をしている。子供に掃除をさせるのに反対していた人々の意見は、だいたい次の三つになる。

  • 子供に掃除をさせるよりも勉強させたほうが効率的
  • 子供はレベル低いので掃除させても奇麗にならない
  • 掃除をする際に塵芥が空気中に含まれ不衛生である

彼らは掃除をした際に空気中に含まれる塵芥の割合や、子供の掃除した後の教室の状態を調査し、子供に掃除をさせると学校が不衛生になり、子供の健康にも悪影響があるというデータを出している。当時はまだまだ伝染病なんかもあったんで、子供が掃除するとペストや結核になるっていう意見もあった。

反対派の意見に納得し、実際に子供の掃除を禁止した地域なんかも存在する。面倒だしわりと有名な話なので、一々引用とかしないけど、とにかくそういう事実があるのです。

ただし、こういった試みは失敗している。なぜなら学校に金がないからである。学校を全て掃除してもらうっていうのは、かなり金がかかる。しかし当時の日本はショボかった。学校で子供に勉強教えるだけでギリなのに、金出して掃除とかする余裕がない。だから学校側は教育だと言い張り、子供に掃除をさせる。

もちろんプロが掃除したほうが良いに決っているが、学校には金がないので全然掃除しないよりは子供に掃除させたほうがマシっていう結論を大正時代の人々は出したということになる。

金というものは、いくら騒いだところであんまり増えない。その時代時代で、払えるだけの金を教育に払ってきたんだけど、掃除に払う金まではないっていうのが現実だったんだと思う。掃除に金を払うんだったら、椅子とか買えねぇし立って勉強しろとかそういう雰囲気の可能性が高い。

とにかく子供に掃除させなくてはならないくらいに、昔の日本はショボかった。あるいは今もショボいのかもしれない。それは事実である。しかしショボさに甘んじることなく、それなりに工夫をして、なんとか問題を解決してきた。これもまた日本の誇るべき歴史であり伝統である。

というわけで結論を書くと、子供が掃除をするっていうのは、やっぱり日本の伝統であり教育の一部に組込まれている。しかしながらあくまで建前の部分もあって、実用の側面も強かったっていう感じである。

素手便所掃除もやはり同じで、裸足で掃除したりしてるのは、子供に長靴用意するの金がかかって嫌とかそういう意味合いもあると思う。教育に金かけるのは嫌ってのは良いことではないんだけど、そういう状態ってのは事実なんだから仕方ないわけで、教育にかかる金を節約するために子供に掃除をさせるっていうのは合理的だといえる。

しかし無理して効率が悪く、汚い掃除方法を教えるのは非合理、まして無理矢理イベントにするのは意味がない。金ないならイベントとかしないで、普通に授業したら良いと思う。

「修養団」について

掃除をすると心が美しくなり全てが良い感じになる、近代以降にこの不思議な理屈を様々な団体が猛烈に普及させている。中でも有名で事例として分りやすいのは、「修養団」なんじゃないのかなって思う。というわけで「修養団」を例にして、もう少しだけ『素手便所掃除』的なものについて考えていきたい。

ところで「修養団」は、今も存在はしている。

SYD公式ホームページ〈SYD〉

だから一応書いておくと今の「修養団」と、これから解説する「修養団」には、かなり違いがある。あと私は今の「修養団」については、ほとんど知らない。戦前の「修養団」はわりと好きですといったスタンスで以下の文章を書いているのでヨロシクなッ!!

「修養団」とは、東京師範学校(今の教育大学)の学生の蓮沼門三が創設した団体で、天皇制の賛美と社会協調、勤倹努力を説いてる。ついでにボーイスカウトなんかとも関係してる。渋沢栄一やらの尻押しで、内務・文部両省の外郭団体にまでなっている。

「修養団」の考え方は現代でも社員研修なんかで活用されてるみたいだけど、戦事中はもう少しイカれた考え方の団体だった。とにかく我々は愛のために汗を流して鍛錬をしたいし生活全てが鍛錬だ、世界中が陽気に笑い合える生活をゲットするけどそれとは別にアメリカお前だけは絶対に許さんからなみたいな雰囲気があった。

これは戦意高揚のための国民精神総動員運動だとか、新体制運動とかと関係してんだけど、とにかく今から見るとイカれた運動してたっていう認識で良いと思う。

生活全てが鍛錬なのだから、掃除ももちろん鍛錬である。そういう感じだから、便所掃除も鍛錬であり、なんらかの精神性を持つのが当然である。

「修養団」が掃除を重視していたのは確かである。しかしそれは、便所掃除に限ったものでもなかった。例えば彼らは「雑巾ダンス」っていうのを発明している。これはダンスをしながら雑巾で掃除することによって、掃除するついでに身体も健康になるっていうものである。みんなで「雑巾ダンス」をやれば、一致団結できて仕事の効率も上がるといったおまけもついてくる。

「雑巾ダンス」自体は、身体を鍛え上げながら、衛生を確保するための良い発明ではある。しかしこれは、夜勤に対する規制が厳しくなったため、掃除を業務時間外させるための仕組みだったりもする。ダンスなら遊びなのだから、仕事ではないといった東映の一休(屁理屈で全てを胡麻化そうとする人間のクズ)みたいな理屈である。

金払わないで労働させるってのは悪い考え方だが、そこには一定の理屈があるし、メリットもある。素手便所掃除っていうのは、そういった合理性を捨て去ってしまった残骸のように私には見えてしまう。

「修養団」は悪なのか?

それでは「修養団」が悪なのかっていうと、別にそういうわけでもない。試しに「修養団」を調べると分かると思うんだけど、実はこの団体には確固とした思想はない。総親和、総努力とか曖昧なものしか出てこない。なにがしたいんだか、よく分からないと思う。

特定の思想がないからこそ、国民精神総動員運動(国民の戦争協力を促す官製国民運動)だとか、新体制運動(挙国政治体制樹立運動)が発生すれば、それに上手く合せることができた。結果的に「修養団」は大きくなったものの、変な方向に行ってしまったという側面が強い。

「修養団」が今どう評価されているのかは知らないけど、もっと良い組織というか、現代でも通用するような普遍的な思想を持った組織になり得る条件は揃っていたんじゃないのかなっていうのが個人的な感想である。

そもそも「修養団」の創設者蓮沼さんには、気合がありすぎた。蓮沼さんは4回くらい死にそうになったけど、生きているといった人間で、そもそも産まれたのが吹雪の中である。普通だったらこの時点で死んでる。しかし蓮沼には気合があるからな。絶対に死なない。ガケから落ちそうになったけど生きてるし、池に沈んでも生きてる。とにかくものすごい気合の持主である。

蓮沼さんの演説も異常なまでの熱気がある。

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聴衆の反応は次のようなもので、とにかく気合と熱気しかない。

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そして蓮沼さんは異常にまでに熱血教師である。教室で教えているだけでは気が済まない。日本全国民を教えたい。だから組織をデカくしていきたい。ついでに国も応援したい。こういう人だから、やり出したら行き着くところまで行ってしまうのは当然であり、まあそういう感じなのかなっていう感想である。

しかし蓮沼さんの個性を無視し、「修養団」の発生にまで戻ってみると、別の方向性が見えてくる。

「修養団」のはじまり

そもそも「修養団」は、寮生活をする学生たちが、不潔な部屋と飯のまずい食堂を改善することから始まった。自分たちが住む場所なのだから、掃除は自分たちでしようじゃないかっていう感じである。

今では汚いよりも、奇麗なほうが良いだろうというのは、実に当り前の考え方である。ただし当時はバンカラ気質が残っていたので、汚ければ汚いほど良いみたいな意味の分からん奴らがいた。バンカラがよく分からない人はこれを読んでみて欲しい。

cocolog-nifty.hatenablog.com

バンカラというものは基本的に狂っている。だから土足で畳を歩き回ったり、泥の中で寝たりする。普通だと狂った奴を説得するの無理なのだが、蓮沼さんには気合があるため一人でずっと掃除をしまくる。学生なんだから勉強したほうが良いと思うんだけど、とにかく掃除をする。その気合と気迫がものすごすぎたので、バンカラたちも掃除を始め、やっぱり奇麗なほうが快適で良いのでは? みたいな思想が寮全体へと広がっていった。

もうひとつ、寮の食堂で出る飯も不味いという問題があった。なぜ不味いのか、色々な理由があったのだけど、食材を入れる業者が料理長にワイロを渡し、料理のコストを極限まで減らして金をごまかしていたというのが大きな理由だった。

コストを減らすのは良いことだけど、当時は明治時代だからな。今とは違って普通に腐った食材を使ったりする。バンカラは丈夫だから腐ったもの食っても死なないものの、バンカラにも味覚はある。とにかく飯がまずい。しかし料理長も業者も金が儲かるため、まあバンカラは丈夫だし腐っててもいいいだろみたいな雰囲気であった。

この問題を蓮沼さんはどう解決したのか? まず自分が炊事委員長になり、全て管理すると申し出た。掃除で人望を集めてたから実現できたわけだけど、料理長も学生がなにかホザいてやがるな、やれるものならやってみろ程度の認識だったようだ。

しかし蓮沼さんは熱い男である。やるといったことはやる。蓮沼さんが最初にしたのは、最高に正直な調理師を探し出すことであった。正直だったら金ごまかさねぇだろといった荒い戦略だが、たまたま料理人に法華経の猛烈な信者がいた。猛烈な信者すぎて、こいつは絶対に嘘をつかない。今日からお前が料理長だッ!! というわけで、ここに最強のタッグが産れることになる。

法華経の猛烈な信者は異常に正直だから、ワイロとか絶対に受け取らないし、食材の値段をごまかしたりもしない。蓮沼さんも異常なまでの情熱をもって業者の選定したり、生徒やら職員を説得したりする。そんなこんなで、料理がマズい問題も解決してしまう。

正直なだけで料理の腕とかどうでもいいのかよっていう疑問がわくかもしれないけど、当時は美味いとか不味いとかのレベルが今よりずっと低い。払った分の金を使ってまともな食材で普通に料理したら美味いとかそういう感じである。

こうして蓮沼さんの気合によって、学生たちは清潔な寮と美味い飯をゲットすることができた。自然に蓮沼さんと志を同じくする学生たちも増えてくる。私も蓮沼さんはとても好きです。そうこうすうるちに、「修養団」が結成される……というわけで、もともと「修養団」は、掃除も飯も自分たちでなんとかする。そして規則正しい生活を送りながら、勉強をしようっていう団体にしかすぎない。悪い部分など皆無である。

実は大正12年の関東大震災をきっかけにして、「修養団」の内部で組織を巨大化することだけに注力してしまい、本来のあり方を忘れてしまったのではないかっていう議論が起きている。戦後もやはり同じ状況だったのだが、終戦の混乱ってのはすごかったみたいなんで、議論とかしてる暇がなかったんじゃないのかって勝手に私は思っている。まあ「修養団」に限ったことでもなく、文学やら様々な分野で同じ状況が起きてるからな仕方ない。

「修養団」にはさらなる発展の可能性があった

寮内の活動だった「修養団」は徐々に社会へと進出していく。その結果、先程も書いたように国民精神総動員運動なんかともつながっていくわけだけど、大正1年にもうひとつの分派のようなものが発生している。

「修養団」の活動に影響を受け、学生数名で部屋を借り、共同生活を送りはじめた学生たちがいたのである。

工夫して共同生活をすれば、あまり金がかからない。衣食住の問題を解決するのはもちろんのこと、彼らは簡単な医療行為まで研究している。全てを自分たちで用意するわけだから、社会に出る前から世の中の仕組みも学ぶことができる。

金がかからないのだから、貧乏な家庭の子供でも、無理すれば教育を受けることができるかもしれない。より高度な教育を受けることが出来る人間も増えていくだろう。結果的に良い世の中になるよねっていう雰囲気もあった。そして自分たちの力で生活していくのはとても楽しい。もうデメリット皆無じゃんといった思想であり、捕え方によっては「修養団」よりも先鋭的な活動である。

残念ながら彼らの活動は、あまり普及することがなかった。その後の「修養団」の発展と比べると、ないに等しいくらいの活動で、今では知る人もほとんどいないと思われる。

失敗してしまった

「修養団」の分派たちの活動が、残念な結果に終ってしまったのにはいくつか理由がある。

まず発生したのが、教育学部であったという点である。当時は経済的な理由で師範学校を選ぶ人々もいたものの、教育に情熱を持っていた人々もやはりいた。もちろん蓮沼さんもその一人であろう。生活という足許を見直し改善する方向に深化することなく、とにかくデカくして子供だけでなく国民を教えようという方向に向ってしまった。そんな流れの中で、分派の活動は胡散霧消してしまったのだろう。

また現実的な問題もあった。

いくら威張ったところで、彼らは単なる世間知らずの学生である。知識はあるが、家事のスキルはとても低い。自然に気合と少しの知識で全てを解決するしかなくなってしまう。世間一般と比べて洗練された手法で掃除や料理をしていたわけではなかった。そして彼らの活動は、仲間内での閉じられた活動だった。

学生の生活の外では、生活を改善するために様々な人々が活動していた人々がいた。例えばホウキひとつとっても、地道に道具の改善を模索する人々が存在していた。

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彼らと同じ時代に、真面目に効率的な調理方法を探究し、味の素の活用を普及させようとした人もいる。

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そして安価な食生活を目指し、全く新しい主食を開発してしまうオッさんもいた。

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彼らは合理的であり、より効率的な生活を探し求めていた。そして「修養団」の学生たちと、同時代に生きていた。状況的には生活を洗練させるために、両者は連携することができたのである。

これからどうするべきなのか?

かなり長くなってしまったので、まずは話をまとめてみよう。

  • 子供に掃除をさせるのは伝統でもあり実用でもある
  • 戦前からの悪習もあるが今より合理的な人々も存在していた
  • テクノロジーを活用し最小最短で掃除するのは良いことである

強引に気合でなんとかするっていうのは、物資が乏しい時代にできた日本の伝統なんだと思う。これは事実なんだから仕方ない。

しかし今は別に物資に乏しくない。物資が乏しくなったら強引に気合でなんとかしたらいいけど、今そんなことする必要ない。掃除したいなら、ダイソーとかに行ったら100円で山ほど便利な掃除道具が販売されている。もしも今、蓮沼さんが生きていたら、「修養団」も全く別のことをするような気がしないでもない。時代が違うんだから変っていくのが当然で、それが出来ずに強引に気合で教育しようとするからヤバいっていう感じだと思う。

伝統を大切にするっていうのは悪いことではない。子供に掃除をさせようっていうのは伝統であるのだから、それはそれで残していても支障がない。掃除もできないオッさんとか迷惑だからオッさんに掃除を教えるのも良いことである。そして、最小限の道具で掃除をするっていうのを、子供たちに教えるのもやっぱり良いことなんだけど、合理的な方向へ進むことも、やはり日本の伝統である。伝統である合理性を破棄しちゃったら駄目だと思う。もしも掃除で人格を教育したいのであれば、それが効果的だというデータを出すべきだと思う。

というわけで当たり前のことばかり長々と書いてしまったなっていう感じであるのだけど、今はすごい時代が動いててこういうことを個人のSNSやらブログに書くのがすごいやりにくくなっているなーっていうのが感想である。雑誌とか本、あとデカいメディアに書くほうが楽だな。あんまり良い状況ではないから強引に書いてんだけど、色々と難しい。

そんな話はどうでもいいとして、もういちどみんなで考えてみて欲しい。犯罪者がアニメやらゲームしてることが多いってニュースあるけど、掃除しすぎて犯罪した奴のニュースとか放送されないではないか。つまり掃除よりアニメやらゲームのほうが、脳に強烈な影響を与えることができる。だからアニメやらゲームで教育したほうが効率的なのではないかというわけで、みんなも人格を陶冶するため良いアニメを観て良いゲームで遊ぼう! 今日も読んでくれてサンキュー!!