オッさんの謎
『裸一貫より成功せる成金の生立蒼竜窟主人 著 三盟舎 大正八(一九一九)年』で、明治時代に金を払わず商品を仕入れ、格安で売って富豪になったオッさんが紹介されている。ちょっと意味が分からないと思うので要約してみよう。
平岡浩太郎は国家主義団体の玄洋社を資金面で支え続けた男である。彼が若かりし頃「ひとつ海賊になったつもりで、第二のよき屋になり、玄洋社の活動を援助しよう」と決心したことがあるそうだ。その「よき屋」の創業者が野村久一郎である。平岡ほどの男が範としよういうのだから、その偉大さは言うまでもないことである。
関西の小間物王として名高い野村久一郎は三年で数十万を稼ぎ出した男であるが、かっては一人の若者に過ぎなかった。商売道具も天秤棒くらいのもので、毎日のように福岡市の仲間町で化粧品や小間物を売り歩いていた。そんな彼が二七歳の頃に人生観を大きく変える出来事があった。
いつものように行商をしていると、町内で最も貧しい老人の葬式に出会した。老人が棺桶に入れられる際には、経帷子(白い着物)に六文銭(三途の川の渡し賃)である。数日後、同じ町内の富豪が亡くなった際にも、棺桶に入る時にはやはり経帷子に六文銭だった。これを見た久一郎は、結局のところ金というものは天から預かったものにすぎないのだと考えた。ここからがよく分からなくなってしまうのだが、これをきっかけにして久一郎は、天から大量に預かれば預かるほど金持ちになれるのだから、他人から強引に預かればいいと思い込んでしまう。
金を大量に預かるため、手始めに久一郎は朝から晩まで村から村へと、小間物や化粧品を原価で売りまくった。近郊近村の人々は安く商品を売る良心的な小間物屋さんだと、久一郎を褒め称えるようになる。次に久一郎は博多の仲間町に小間物屋「よき屋」を開いた。あの久一郎のお店だとお客が殺到する。商品は依然として格安であった。
原価同様で販売を続ける「よき屋」に、対抗できる同業者はいなかった。不思議に思い営業の秘密を探ってみると、意外な事実が判明する。久一郎は一切金を払っていないかったのである。
商品の仕入れはもちろん、家賃や町内会費、はては三〇銭の醤油や一銭の豆腐まで全てツケ、当然ながら「よき屋」に商売人は近付かなくなる。ある時などは久一郎の母が豆腐屋の後を追って平身低頭し、ようやく一銭の豆腐を借りるというようなこともあった。こうして三年、ついに野村久一郎は数十万を稼ぎ出した。野村久一郎は金は金庫に貯めておき、絶対に銀行には預けなかった。人から預った金を銀行に預けるのはおかしいといった理屈だ。めでたしめでたしといったお話である。
久一郎の吝嗇(ケチ)は有名であったらしく、いくつかエピソードも紹介されている。
野村家では倹約を説くために、一二月に家族を集めイベントが開催された。家族からそれぞれ希望する商品を聞き、ダイヤモンドの指輪が欲しいといえば、その代金の千五百円を金庫から出し、自動車が欲しいといわれると一万円を机に積む。全員の希望を聞いた後で久一郎はおもむろに左手に金盥、右手に火箸を持ち乱打しながら「火事だッ!火事だッ!」と騒ぎ立て、出した金を金庫に全て入れると「買ったものは火事で全てが焼けてしまったと思え。本当の火事でなくて幸せだと考えろ」と説くというもので、楽しさ皆無のイベントである。
町内のつきあいも徹底しており、お中元、お歳暮の時期には紋服を奉書に包み、水引をかけわたし熨斗をつけたものを携えて近所の家々に挨拶へ行く。そうして「粗品ですが印までにお納めを願います。ご返礼なさいますでしょうから、この粗品を持って帰ります」と紋服を持ち帰る。「わざわざ贈ったり返したりが手数だから」といった理由であったらしい。
これは10年以上も昔に読んだ記憶だけがあったものの、出典を忘れてしまい長く探していたもので、昨年あたりに偶然にも発見することができた。当時はオッさんのイカれた思想や異常性が、ただただ面白いくらいにしか思わなかった。しかし10年も昔のことを調べ続けていると、多少は知識量と経験値が増えている。今となっては、少々この話に怪しさを感じてしまうのである。面白い話は面白い話しで置いておいてもいいかなとも思ったのだが、なんだか気になってしまい少し調べてみることにした。
実話であったのか、褒めているのか、けなしているのか
まずひとつの疑問として、これが実話なのかどうかという点である。金を払わずに品物を仕入れ、格安で売って富豪になるというのは、にわかには信じられない。しかしおおらかな明治時代ならギリギリ通用しなくもないような気がしなくもないという実に微妙なラインである。ただしいくら明治でも借りたものは返さなくてはならないのだから、いずれ破綻してしまうような手法ではある。
もうひとつ、どう読んでも褒めていない点も気になった。『裸一貫より成功せる成金の生立』は、成功した人物がどのような努力や冒険をしたのかといった内容となっている。発明家や冒険家などとともに野村久一郎も紹介されおり、褒めているように読めなくもないが、単なる嫌がらせのようにも読める。例えば次のような一文がある。
平岡浩太郎は『よき屋』を真似て裸一貫よく百万の富を得、『よき屋』を超越して一世よく百万の財を散じたのであった。 (中略) 『よき屋』の野村久一郎は、今なお百万の財を積み、爪に燈して身に絹糸をまとわざる
素直に読むと野村のように富を得た平岡は、世の中のために惜しげもなく財産を使ったが、人から金を預ってると理屈をつけた野村はケチ臭く金を溜め込んでいるといった内容だ。
ところがこれを悪口だと断言できないのが、文化の面白さと難しさである。この当時は倹約や節約は美徳とされていたし、貧しい家に生れた少年が奮闘努力し出世するといった物語も多かった。天秤棒一本で成り上がった野村久一郎のエピソードも、そういった物語の類型として読めなくもない。
『裸一貫より成功せる成金の生立』の信頼性
そもそもだが『裸一貫より成功せる成金の生立』が、どこまで信用できるのかといった疑問があった。野村と同じく吝嗇な金持ちとして、小林万次郎は次のように紹介されている。
小林万次郎はもと貧しい百姓の子供で、小商人の養子となりチャッパと呼ばれる行商……当時の東京でいうと屑屋……をして、五年もかけてようやく五十円を貯めた。この五十円を元手にして営業を広げ、得意先のお手伝いなどをしながら、高利貸しなども兼業、他人に嫌われたり善良な旅人を騙し財産を増やして大金持ちとなり、金の力で代議士になったものの選挙費用に金がかかり号泣したらしい……といった内容だ。全体的に野村に対するよりも手厳しく、完全な悪口の部類であろう。
この記述がどの程度まで信用できるのか、調べてみることにした。まず見付かったのは議会制度七十年史 第11であった。
小林 万次郎 長野県郡部選出 立憲政友会 文久3年11月生、長野県出身○中野銀行を設立し専務取締役となる、生糸商を営む○当選一回(9補)○大正8年9月27日死去
中野銀行が高利貸しのことなのだろうか? それだと五〇円を元手にして……といった記述に不整合が出てくる。これだけでは情報が少ないためネットで検索してみると Wikipedia に情報がまとめられていた。
信濃国水内郡温井村(長野県下水内郡岡山村を経て現飯山市)の清水家で生まれ、高井郡松川村(下高井郡中野町松川を経て現中野市)の素封家・2代小林万次郎の養子となる。3代小林万次郎を襲名した。生糸商を営んだ。
出典も書かれている上に、議会制度七十年史とも内容があっているため、正しい情報だとしていいだろう。ここにある素封家とはようするに金持ちのことで、2代目の小林万次郎の養子となり3代目を継いだ形である。現在の感覚だと落語家でもないのに3代目というには違和感があったのだが、当時は商人も代目を継ぐ習慣が残っていたらしい。
養子になるくらいだから、将来を嘱望されていたのだろう。そして見事に3代目を継いでいるわけで、その期待に応えたということになる。仮に世間で苦労をしてこいと屑屋をさせたにしろ、跡取りにするために養子にした男に、五年かけて五十円を貯めさせることはないはずだ。こういった事実から考えると『裸一貫より成功せる成金の生立』の内容はかなり怪しく信頼性に乏しいとしていいだろう。
誰が書いたのか
次にこの書籍を誰が書いたのかを調べてみることにした。『蒼竜窟主人』が著者なのだが、当時はこういった雑な本の著者として名前が出るのを嫌い、本来の筆名とは別の筆名を使うなんてことがままあった。今回も類似のケースだ。
調べてみて出てきたのが『快男子 空拳突破 活人社編 活人社 大正三(一九一三)年 』であった。これは『裸一貫より成功せる成金の生立』とほぼ同内容で、『快男子』をコピーしものが『裸一貫より成功せる成金の生立』だということが分かった。どのような事情があったのか、よく分からないが、こちらの著者は『活人社編』となっており結局のところ作者の名前は分からない。
そこで活人社の出版物を眺めていると山水生活の広告欄に『快男子』が掲載されており、著者は戸山銃声と番衆浪人、番衆浪人は福田喜八、あるいは福田琴月という人物で、児童文学者としても活躍した。戸山銃声は人物評で有名な人物だ。内容や文体などからみるに『よき屋』について記述したのは戸山銃声であろう。
戸山銃声は山路愛山に著書『奇人正人』前書きを依頼しており交流があったことが伺える。山路愛山はといえば、玄洋社を引っ張った頭山満と親交があった。玄洋社の平岡浩太郎が登場するのは、このあたりのつながりが関係しているようだ。ちなみに『奇人世人』にも頭山満は登場し絶賛されている。これだけでなく先に紹介した山水生活にも頭山満は触れられている上に、戸山銃声が主筆を勤めていた雑誌『活人』にも頭山は登場している。戸山が平岡を上げ野村を下げているようにみえるのは、野村と玄洋社との間になにか関係があったからなのではないか推測することができる。
野村久一郎について
『人事興信録 初版 人事興信所 明治三六(一九〇三)年)』によれば野村久一郎は安政三(一八五六)年一月三日に生れ、飯山石油炭株式会社取締役、武甲炭礦株式会社取締役、福岡県平民とされている。父親は長野忠右衛門、博多で手広く呉服商を営んでいた野村家の養子となり、明治一七(一八八四)年に野村久壽の跡を継ぎ、後に東京に出て実業の道に進んだそうだ。当時の年齢は四七歳とされている。野村も小林と同じく養子になり跡を継いでいるわけだが、当時はそういうことがままあったのであろうか。
『裸一貫より成功せる成金の生立』によれば、野村久一郎が金は預かりものだと悟りを開いたのは二七歳、つまり明治一六(一八八三)年前後だということになる。この記述を信じるとすると、養子になる以前の話ということになるが、ちょっと微妙な話ではある。
久一郎に息子が誕生したのは明治一七(一八八四)年、地方商工業者に関する一考察~明治期の博多における呉服太物商を中心に~によると明治一二(一八七九)年には呉服商人たちが主催した『福博誓文晴』という大安売りキャンペーンに『斧屋(読み方は「よきや」)』として参加したことになっている。
この時点で『裸一貫より成功せる成金の生立』の内容にはかなり無理があることが分かる。そもそもだが「よき屋」を経営していたのはどうやら久一郎一人ではないらしい。『人事興信録 第8版 [昭和3(1928)年7月] 』によれば、野村久壽の五男野村久次が、明治一六年に家督を相続、斧屋(よきや)という質商を営みながら野村商店を創設、福岡県民の多額納税者として知られるとされている。この記述が正しいとすれば、久一郎の斧屋は支店のようなものであったのだろうか。
私が明治時代の商業に明くないので、不明なところも多い。実は明治四四年あたりに野村久一郎の子供が誕生しており、これが安政生れの久一郎なのか、久一郎の名前を継いた別人なのかは謎のままだ。どちらにしろ『裸一貫より成功せる成金の生立』における久一郎への記述の多くは、おおむね嘘としてもいいだろう。
野村久一郎と玄洋社
なぜこんな嫌がらせのようなことを書いたのか、『快男子』が出版された大正四年前後に、玄洋社との久一郎と間になんらかの軋轢があったとすれば、あっさり納得できそうだ。というわけで調べてみると、こういうことは誰から調べてくれているもので、『明治期の地方都市における選挙と地域社会』に、その理由の一端のようなものが記載されていた。商工業と同じく私は政治についてもあまり詳しくないため、このあたりは話半分で聞いてもらいたい。
これまで何度か当たり前のように玄洋社が登場していたが、話の都合上、少しだけ解説しておこう。玄洋社は没落した旧福岡藩の不平士族たちによって起きた政治団体である。皇室や国家を盛り上げるため人民権利を守り、国全体が成長することで民権が伸長するといった考え方のもとに運営されていた。国内でのテロ行為や義勇軍を組織し海外でゲリラ活動を従事する一方で文化的な活動でも一定の影響力をみせた活動の幅が広い団体だ。玄洋社は元が福岡を中心に活動していたため、博多で商売を営んでいた野村一族とのかかわりも当然ながらあった。
興味が薄いためあまり調べてはいないのだが、福岡と博多を合併するとかどうとか、今後の福岡をどう発展させるのかなどなどを巡り、博愛会、博多協和会、博多会などといった選挙団体が鎬を削たり協力したりしていたらしい。旧士族と商売人が対立したり仲良くなったりもあったようで、もちろんここに玄洋社もかかわってくる……このあたりで私は納得してしまった。
ようするに野村家と彼らとつながりのある人々が、玄洋社と選挙で争うことがあったという、なんとも単純な理由であったのだが、事実なんてものはこんなものでヘーっていう感想であった。小林にどこまでも手厳しく、野村に対して少し歯切れが悪いのも、玄洋社が小林とかかわることはほぼないが、野村家とのつきあいは生じる可能性があるくらいの理由なのかもしれない。
知らないことは分からない
『明治時代に金を払わず商品を仕入れ格安で売って富豪になったオッさんの謎』について調べていただけなのに、色々なものを読むことになり大変だった。
ただし良いこともあって、知らないことや興味のないことは、資料を読んでもよく分からないということが分かった。私は明治の中頃から大正時代あたりの資料を読むのが趣味で、今回も資料さえ読めば分かるだろうと思い調べてみたのだが、商業や政治に全く興味がないため、なんだかよく分からなかった。こういう分野は研究している人も多く、資料も大量にある。それでも深入りして調べる気になれない。個人的に入手困難な資料を手に入れるため苦労するよりも、入手しやすい資料を大量にさっさと読んだほうが効率が良いといった指針で趣味を続けてきたつもりだったが、それなりに選択をしていたのだなと自覚したのは面白かった。
少々残念なのは金を払わずに成り上がった野村久一郎という人物が実在しなかった点で、面白い事実なんてものはそうそうないものだなと改めて感じた。