山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

本を書くためにやったことと感想のまとめ

本を書いた。わりと苦労した。内容についてはおいておいて、本を発売するまでにやったことと感想をまとめておく。

私は日本全国に意味の分からないことを調べている人が沢山いるんだろうなと思っていて、そいういう人々が色々と発表するような世の中になって欲しいと考えている。変なものを読みたいからね。なのでが趣味で色々と調べている人の参考になったら嬉しい。

数年に渡って公開をしていく

自分の調べたことを延々と公開していく。自分がスゲー発見したぞッ!! ってなったとして、そういうのもジャンジャン公開する。発見を隠しておいて場所を選んで公開みたいなの、私はあんまり意味ないと思っていて、情報をオープンにしておくとその分野について他人が調べてくれることもある。自分より調べやすい場所にいる人、例えば研究機関に所属している人が調べてくれると素晴しく良くて、品質の高い情報を得ることができる。結果的に、自分が分かる速度も上っていく。

なにかをアウトプットするためには、その周辺のことも調べないといけないみたいな状況にもなるので、自分の知識も増えていく。ずっと調べてたら新しいことがどんどん分るようになってきて、最初の発見なんてどうでもいいようなものになってくる。だから情報はなるべく公開し、分かる速度を上げていったほうがいい。

他人が調べていないことで遊ぶっていうのは楽しいんだけど、ちょっと公開するのがおっくうだったり面倒くさかったりする。俺一人楽しけりゃいいだろみたいな気持にもなりやすい。コミュニケーションはありすぎると疲れるけど、皆無だと思い込みだけで生きるみたいになる。でも変な分野を調べている人と知り合いになるのはなかなか難しい。なのでアウトプットをコミュニケーションのひとつとして捉えて、なるべくやるかっていう感じなのが良いと思う。

本にしてまとめようと思った

そういうことを続けていると、情報をまとめたくなってくる。私の場合は、調べたことを本にまとめようと思った。なんでそう思ったのかというと、次のような感じである。

  • 金ちょっと欲しい
  • 本っていう物質の寿命がそろそろなくなりそう
  • 編集の人を働かせたらより良い出力になりそう
  • だいたい3冊くらいなら本書けるくらいの内容がたまってきた
  • 年齢的にそろそろまともな社会的な位置付けみたいなのあったほうが人生楽ではないか
  • 1mmくらいは社会貢献したほうが良いのでは? (もうオッさんだし)

まとめるのは本じゃなくてもよくて、好みの問題である。本の場合は商売でやることだから、どっかで妥協しなくてはならない。そういうのが嫌な人は、別の方法を考えたほうが良いと思う。

個人的には編集の人の手が入ることによって、自分が考えてもみなかったことなんかが加わるんで、本っていう形式は悪いものではないって考えている。逆にいうと他人の手が入らないのなら、本っていう形式にこだわることはないかなっていう感想である。

出すために宣伝用の記事を書く

思うだけではダメなので、出せるような状況にする。書籍の企画を書いて持ち込みして……みたいな方法は、私の興味の対象がマイナーかつ曖昧すぎるのと面倒クセーので無理、同人誌みたいなのは作るノウハウがない。というわけで違う方法を使う。

普段は自分のやり方で情報を公開しているわけだけど、それをデフォルメして多くの人目につくような記事をいくつか書く。例えば自分の興味の対象に、スポーツをからめると、普段とは違う層の人が興味を持ってくれる。そういう風に多くの人が読んでくれるようにしていく。

わりと狙ったけど失敗っていうケースが多いので、こういうことをやりたい人は100個出してひとつ成功したら良いくらいの気持でやったほうがいい思う。地味にどうでもいいことを調べているような人間に、なにがウケるのかなんてよく分かんないんだから概ね失敗する。あんまり期待しすぎてガッカリすると続かない。私もあんまり期待せずにやった。

ずっと続けて運が良かったら、本を出しませんかと編集さんから連絡が来るので、企画を考える。

今後は完成するまで、次のような流れで物事が進んでいく。

  • 企画を出す
  • 企画が通る
  • 文章を書く
  • 文章を直す

企画を考える

私が当初考えてたのは明治娯楽物語に登場するヒーローを10人くらい紹介するっていうもので、これなら3ヶ月くらいで書けるかなーっていう感じであった。そしたら話の流れで、明治娯楽物語の概要を紹介する本みたいになってしまった。この辺りはこちらでコントロールできることでもないので、なんとかするしかないんだけど、そんなもん書くのは無理である。なぜ無理なのかというと、明治娯楽物語がゴチャゴチャしすぎている上に、書いてた奴らが思い付きでおかしなことをしているからで、つながりを綺麗に並べるのがかなり難しい。意味の分からん断片が転がっているだけである。

ただこの無理っていうのも、自分がやってることに対する思い込みみたいな部分があって、他人の考え方のフォーマットに当てはめたらなんか出来るみたいなことがある。せっかく他人と作業をするわけだから、そういう機会は利用したほうがいいよなっていう感じで、無理して企画を作ったら、なんか知らないけど企画が通った。

色々あるけど自分の考えとか好みは軽くみて、調べてる対象を重く扱うみたいなの態度ゲットできたら最高だと思われる。

本文を書く

色々と考えて、明治娯楽物語がアメーバみたいな感じで蠢く不気味な文章を書いた。いつか書こうと思って調べてあったことやら、過去の文章を手直ししたりして、ジャンジャン繋げていく感じで作業をする。この時点では36万文字くらいあった。参考文献やら言及した作品が250くらい、画像は300超えている。これヤベーし本にするの無理ではって雰囲気があった。

打ち合わせの時に編集の人が仮原稿を印刷して持ってきてくれたんだけど、分厚い紙の束を前にしてげんなりした顔しているのが印象的であった。私が整理したらいいんだけど、そういうの苦手なのと面倒クセーって思ったんで、とりあえず編集の人に絶対になにがあっても文句言わないから、適当にジャンジャン削ってくれ、極端な話、句読点だけ残して書き直しみたいな感じでもいいと宣言し、放擲して放置しておいた。私はオッさんだから駄目だけど、編集の人は若者だったんで頑張ったらなんとかなるだろうという目論見である。あと私の変な記事を読んで連絡してきたわけだから、普通より優秀か変人なんだろうから、なんとかするんじゃねぇの?みたいな雑な計算もあった。編集の人が作業の途中で狂ったりしてなんとかならなかったら、次の犠牲者を探し出す作戦である。

流石にまかせっぱなしっていうのもなんなんで、8万文字分くらいある2章分は全部削除って私が決めた。この2章分はかなり力を入れて調査した部分だったんだけど、実は本筋とあんまり関係ない。俺が好きだから強引に埋め込んだだけです。というわけで別にいらんだろうという判断を下したわけである。最初からそんなもの入れるなって話だが、とにかく私が削除したのはここまでで、あとは編集の人に頑張ってもらった。

今回はバーバー大量に書きまくったものを他人に削除しまくってもらったら、品質の高いものが出力されるんじゃないかっていう実験的な狙いもあった。結果的にめちゃくちゃ上手くいったんだけど、失敗する可能性も高いし、今後はもう止めておこうっていう感じである。

共有作業は Google Doc でした

最初共同作業は Word でって言われたんだけど、どうしても嫌だったんで google Doc を使うことになった。私の文章の書き方は emacs で独自の記法を加えた Markdown 形式のファイルを sed で変換して正しい Markdown 形式にしたものを html にして簡易電子ブック形式にして推敲するみたいな感じなので、 Google Doc 形式に変換するのは簡単だった。

ところが Google Doc は emacs で作業するのと比べて10倍くらい苦痛でヤバかった。私は送り仮名とか漢字の読み方とか独自のものを使っていて、コンピュータでその辺を上手いこと誤魔化すみたいなことをしている。なんでそんなことしているのかっていうと、恐らく脳の言語を司る部分がおかしいんだろうけど、検査受けたことないから謎ではある。とにかくそういう部分があって、Google Doc でそれやるのなかなか難しかった。

あとファイルが編集不可になるという地獄みたいな風景も広がった。これは次回は素直にワードでいこうと思わせるに十分な事件であった。

GitHub でやったらいいみたいな話あるものの、途中でレイアウトのチェックだとか、最終的にはゲラの直しみたいなの出てくる。中途半端に別のツールを使わずに、最初っから一緒に仕事する人の文化に合わせたほうが良いっていう感触があった。ちなみにバージョン管理のシステム自体は昔ちょっと使っていた。ただ私の書き方がかなり特殊なんで、あんまり役に立たず面倒クセーだけなんで今は使ってない。共同作業には向いてそうだなとは思う。

いろいろあるけど、なにを使って共同作業するのかっていうのは複雑な問題で、そもそも書いてるものと出力されるものが同じみたいな文化(WYSIWYG)が、書く人にも普及しているのが悪いと思うわけだけど、そこを直してくの厳しさあるため、とりあえずは共同作業する人が属している文化圏にあわせるのが今はベストなんじゃないのかなって感じである。というわけで、相手にあわせるためにも、少しだけパソコンが使える人になっておいたほうが良いと思われる。

なにかが完成した

放置してたら忘れたころに編集の人が狂ったように作業しはじめて、ずっとメールで俺のことを見ていて不気味であった。

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竹田見てる

これはGoogle Doc の機能で、誰かが編集したらメール届く機能で、この後しばらく竹田に監視される日々を私は送ることになった。四六時中、竹田が見ているため、そのうち俺も狂ってしまうんじゃないかと思われたが、なんか知らんうちに原型みたいなものが完成し文字数も20万文字くらいになっていた。

作業量の見積りをミスったけど良かった

この時点で私は8割くらいは終ったと思ってたんだけど、作業量の見積りをミスってた。本って商品なんで、適当にブログを書くのとは大分違う。私の性格がいい加減なだけに、膨大な作業が必要であった。

ヤバかったのは引用している文章のページ数を教えてくださいっていうもので、私は読んだ本を片っ端から忘れるため、本当にマジクソヤバかった。そもそも書名が分からないみたいなケースもあって、調べるため数十冊くらい読んだと思う。この時点で文章が減ってたから良かったけど、最初に書いたままなら身体が消滅していたか、未だに作業をしていたかだと思う。とにかくヤバかったんで、スクリーンショット撮ったら情報ゲットするスクリプトを書いてしまったくらいである。

cocolog-nifty.hatenablog.com

続いて年表作ってくださいっていう爆弾作業が、投下された。これも無理すぎたので、あえて超適当なの作って誤魔化すという高等テクニックを使ったりした。年表を作るのは本当に地雷で、作った時点で全人類が敵になり延々と突っ込み入れられるみたいな雰囲気がある。そこで超適当のスカスカにして概要だけ伝えるみたいな戦略をとったわけだが、適当にするためにかなり調べなくてはならなかった。

このあたりの文章、説得力ないのでなんとかしてくださいみたいなのも、資料を調べなおしたり、探し出してきたりで、結局のところ一冊分の文章を書き終えるのと同じくらい大変だった。少しハゲたけど豆腐食いまくったら直ったので良かったと思われる。逆にここの文章を直してくださいみたいなのは、楽しくて良かった。

大きかったのが、明治のゴミみたいな本を読みまくってると超絶どうでもいい部分が、読みなれていない人にとっては気になるみたいなのが分かった点だ。また私はわりと自由に調べているつもりなんだけど、かなりつまらないルールにしばられているっていうことも判明した。

例えば講談速記本に詳しい人は、講談速記本に登場する忍者を忍者と呼ぶことはない。忍術使いという用語を使う。なぜなら講談速記本には忍者という言葉が出てこないからなんだけど、現代の忍者の概念は明治40年代には成立している。忍術使いという言葉によって、理解が遅くなるんなら、忍者を使ったほうが良いわけであるな。しかし一人で調べたり書いてたりしていると、忍者は使えないかなっていう考えにとらわれてしまう。ところが編集の人は講談速記本をメチャクチャ知ってるわけじゃないから、忍者をガンガン使ってくる。そうすると、別にいいかってなる。

こういうのは実に重要で、一人でずっとなにかを調べていると、どうしても独善的になってしまう。なのでたまに複数人での作業するのは良いことだと思う。

私が生産するゴミみたいな誤字や、用語の統一みたいな作業に編集の人の労力を使わせてしまったのは反省すべきところで、そういう作業は事前に機械的に済ましておくべきだと思った。人間でないとできないことをしてもらったほうが、編集の人の創造性が発揮され全体の品質が上がる。次回は原稿の真ん中くらいで、引用するもののフォーマットとか、修正点みたいなのを詳しく聞いておいて、完成寸前に word に変換して作業に参加してもらうみたいな感じでいこうと思っている。

他人の意見を最大限に受け入れると良い出力になる

おかしなことを調べている人は、自分なりの考え方とか美学みたいなものがある場合が多いと思う。私も昔は自分はこうだッ!!! みたいなのが、そこそこはあったんだけど、最近は自分がダサかったりセンス破滅的な部分が多いって分かってきたんで、他人に色々してもらったほうが得っていう風になってきている。

なんでもかんでも ok ok みたいな感じで他人の意見を最大限に取り入れると、出力されるものが良くなる。この時もそういう感じでやって、通常時の私では書けないようなものが書けた。

www.asahi.com

自分の個性やセンスなんてものは、歴史的な目で見るとどうでもいいことで、なにかのコピーでしかない。だったら他人の能力も混ぜたほうが、不気味で良いものが完成して最高っていう考え方である。これは今回に限ったことではなく、ここ2年くらいは他人の意見をジャンジャン受け入れたり、他人が働きやすい環境を作るっていうのを続けている。他人の能力が発揮されたら自分にとっても都合の良いことになるみたいな感じなんで、今後もこういう感じで生きていく所存である、

というわけで、編集さんにかなり色々とやってもらった。削除してくれた部分は、私なら絶対に消さんみたいなところもあったんだけど、なくなったのを読みかえすと、なんか知らんがスムーズみたいな雰囲気になっていた。自分では消せない部分を他人に削ってもらうのは、気分が良くて最高だと思う。ただし文体やら書き癖は統一したいので、変更した部分は全部手入れしている。

本の題名とか章題とか私のプロフィールは、かなり編集の人に考えてもらった。なんでかっていうと、私があんまり興味がないからである。昔はタイトルとかに興味あったんだけど、明治の本って題名と内容無関係な場合が多い。

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喫驚し玉ふな 稲沼鋳代太 著 警醒社 明治三四(一九〇一)年

この本は主に禁酒をキリスト教を進めつつ、ついでに禁煙も推奨するというもので、タイトルに意味などない。プロフィールもそうで、明治の娯楽本に著者の紹介なんて書かれていない。章立ても存在しないことが多い。こういうのをずっと読み続けていると、自然に題名とか著者とか章立てとか、なんでもいいじゃんみたいになってしまう。なのでその辺りは、かなり助けてもらった。もっとも在野研究者って書いてあるけど、俺はゴミみたいな明治の本を(自宅内で)歩きスマホしながら読んでるだけなのだが……とか、ジブリと朝日新聞は注目してないだろ……とかタイトル長すぎだろ……みたいな感じの疑問も複数あったけど、まあいいかみたいな雰囲気になっている。

多分だけど私が考えたら、どんどんおかしな方向に進んでいって、表紙に木の根っこの写真を印刷してタイトル材木とかになってしまい、誰も手に取らない書籍になっていたと思う。外側ポップで、扱ってる書籍は下等、そんなものをなぜ調べているのか不明、全体的に見ると理解しがたいような書籍になって良かった。あとそもそも本の内容を考えると勝算ゼロだと私は思っていて、古書店で高く売れたらいいやみたいな感じだったんだけど、なんか売れそうな雰囲気になったのもすごかった。

いろいろと書いたけど、共同作業を通じて、企画書とはかなり異なる本へと成長したのは最高だったものの、企画書の意味ねぇだろみたいな感じで会社の偉い人から怒られなかったのかみたいな疑問は残る。でもまあ売れりゃ勝ちみたいなところもあると思われるので、買っていただけると嬉しいですというわけでサンキューです!!!!