山下泰平の趣味の方法

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明治の助けたい人々

明治35(1902)年7月11日の朝日新聞に、『哀れの一家(差配人の美挙)』という記事が掲載された。

哀れの一家というのは本所区若宮町の194番地に住む石坂家の人々である。なぜ番地まで分かるのかというと、新聞紙に掲載されてしまっているからだ。

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現代では考えられないことではあるが、このあたりの時代だと、良いことをしても犯罪を犯しても、住所氏名つきで掲載されてしまう。なぜそんなことになっているのか、詳しく書き始めると長くなってしまうので、現代とは常識が違うのだといったところで納得してもらいたい。

若宮町の石坂一家に話を戻そう。当時、石坂一家はかなりのピンチに陥っていた。

3年前に大黒柱の父親を失い、16になる息子の弥太郎は呉服屋で奉公をしていた。奉公とは今でいう住込みバイト、あるいは相撲部屋への入門をイメージしてもらうと分かりやすいだろう。弥太郎は呉服屋で、雑用をしながら一所懸命に仕事を覚えていた。もちろんお給料は微々たるもの、これだけでは一家五人が暮していくことはできない。そこで祖父の栄次郎は草鞋を作り、一家5人は細々と暮していた。

ところが母親のわかが脚気になって寝込んでしまう。看病疲れだろうか、やがては祖父と祖母も倒れてしまった。こうしてはいられないと、弥太郎が奉公先から家に帰ってくる。しばらくは三人の看病をしていたのだが、先立つものはお金である。しっかりしているとはいえ、弥太郎はまだまだ16歳で世間を知らない。どうすることもできなくなり、呆然としているところへやってきたのが、正義の差配人中村赤太郎であった。

差配人とはいわばアパート(長屋)の管理人さんのような存在で、家賃を集めたり建物の管理するのはもちろんのこと、喧嘩があれば仲裁をするし困っている人がいれば助けもする。短い新聞記事とその後の経緯から推測するに、たまたま石坂一家の窮乏を知ることとなった差配人の中村赤太郎は、正義感が強いだけではなくかなりデキる男であったようだ。

赤太郎はまず役所へと駆け込むと、一家の窮乏を訴え施術券を手に入れる。施術券とは無料で診察を受けることが出来るチケットで、その手続はかなり難しい。その上、給付してもらうためには委員による調査が必要だった。世慣れない弥太郎では、とうてい出来ない仕事である。

施術券とともに当面の生活費を弥太郎に渡すと、赤太郎はその足で知合いの新聞記者の家へと向う。目的は冒頭の記事を書かせるためである。

赤太郎がなぜそんなことをしたのか? 『哀れの一家(差配人の美挙)』とあることから、自分の名誉欲を満すためだと思ってしまいそうだが、彼はそんなケチな男ではない。この新聞記事は、石坂一家のピンチを救う起死回生の一策であった。

明治のある時期、新聞に悲惨な境遇の人物が掲載されると、それを見た読者が恵与金を新聞社に送るといった習慣があった。そして新聞社は、恵与した人の名前を掲載する。ちなみに朝日新聞は『めぐみ』というコーナーをもっていた。『めぐみ』に自分の名前が掲載された読者は、良いことをしたなと満足し、困った人は助けてもらえる……といった具合で、当時の不完全な社会福祉を新聞社や読者が補っていたと見ることもできるだろう。

もちろん赤太郎は、こういったシステムがあることを知っていた。石坂一家の窮乏を掲載し恵与金を集め、一家を再生させようというのが赤太郎の目論見である。そしてこの狙いは、当たりすぎるほど図に当たってしまった。石坂一家の記事が掲載された三日後に、以下のように報じられている。

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一金五十円とあるのが石坂一家に集まった恵与金である。赤太郎はかなり記者を急かせたようで、石坂弥太郎は正確には石渡弥太郎、住所も194番地ではなく195番地と間違いだらけだが、そんなことは小さな話で、重要なのは記事がもとで50円もの恵与金が集ってしまったという事実である。朝日新聞の『めぐみ』コーナーをいつくか調べてみたが、50円以上も集まるというのはなかなかない。

50円を現代の貨幣価値に換算するのはかなり難しい。ただ石坂一家改め石渡一家にとっては、恐らく現代の200万円くらいの金額に感じられたことだろう。再生するには十分な金額だ。石渡一家への恵与金はこれに留まらなかった。翌14日にも恵与金があったことが報じられている。

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新聞社を通さず恵与した人もいたようで、総額にして数十円というお金が集まってしまった。

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赤太郎が偉いのはこの後で、金を渡して終りではない。役所と相談の上で恵与金を川崎銀行へ預け、赤太郎が管理することにした。そして母親おわかの全快の上は、赤太郎が弥太郎に相応な仕事を紹介する予定であると報じられている。

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こうして石渡一家はピンチを切り抜けることができたものの、現代人の目から見ると親切すぎる赤太郎の行動にいくつか疑問が湧き上がってしまうかもしれない。

一般的に差配人は、住人が困っていれば助けるのが普通である。これはボランティアというわけではない。家賃の取りはぐれをなくすためだが、こういった事情を踏まえたとしても、中村赤太郎は親切すぎる。やはり名誉欲のようなものがあったのではないのかだとか、弥太郎の母親わかに惚れていたのではないか、あるいは恵与金を着服しているのじゃないのか等々、いくらでもうがった見方はできてしまうことだろう。

しかし当時は明治である。現代人よりもずっと素朴な人たちが多かった。寄付して名前が掲載されれば嬉しいし、人を助ければ気分が良い。この記事に登場した人々は、この程度のことしか考えていない助けたがりの人々だった。もちろん売名行為だなんだのと、グズグズ因縁を付ける嫌な奴もいない。この件で赤太郎の得た報酬も、人助けした後の酒は美味いと飲んだ一杯くらいのものだろう。

石渡一家と赤太郎、そして恵与をした人々のその後については、よく分からない。それでもかって日本にこういう人たちがいて、確かに生きていたことだけは事実である。

参考資料 朝日新聞復刻版 明治編 日本図書センター