変な Youtube を観てないで、山川の教科書で勉強しろ、山川がダメなら岩波ブックレット(薄い)を読めという話がある。元の発言した人にはそういう意図はなさそうなんだけど、陰謀論や歴史修正主義の人を批判するような含みがある発言も多い。
私も岩波のブックレットはすごく良いと思う。ちょっと思い出話をすると、私は高校を卒業したら適当に楽そうな仕事をしようと思っていた。ところがこの本によると、工場で働くと休日に野球をさせられていると書かれていて、絶対に野球をしたくないので大学に進学することにしたんだけど、読んでなかったら野球させられて嫌な気持になっていたと思う。
だから岩波のブックレットはお勧めだが、陰謀論や歴史修正主義の人は、反発しそうな内容が多いのではないかな?
その他、Youtube にも質の良いものがあるといった意見もあった。確かにラジオの時代から良質な学習コンテンツは存在しているが、良質なコンテンツが消費されるとは限らないという問題がある。私も面倒くさそうな動画と爪楊枝で虎を一回転させる方法があったら、爪楊枝で虎を一回転させる動画を観ると思う。あと今さっき Youtube で"歴史 真実"を検索したら大量のヤバすぎる歴史の真相や教科書から消される真実やら教科書が教えない歴史が出てきて、この中から良質なの選ぶの難易度が高すぎるしまともな本買ってきて読むほうが1000倍楽だと思う。
私はというと、こういうことを書いた。
確証バイアス、チェリーピッキングが起きにくい、既知の陰謀論と衝突しにくい手法として提案したのだが、これも完璧に駄目である。
私が提案していることは、以下の三点だ。
- 何を読むか自分で決める
- 何が面白いか自分で決める
- 何がつながっているか自分で見つける
そしてこの行為が役に立つかどうかは不明ということになる。このように全てが不確実で、この提案は不確実性を楽しめることが前提になっている。
私は心の底からやったら面白いんだからやったら良いのでは? と考えていたが、人によっては楽しさより不安や不快感が勝る可能性が高い。私は読む速度が速く、無駄への恐怖心がない。価値やフレームが定まっていないものを好む性質でもある。みんなこういう性質を持っているんだろうと誤認していたため、みなが不確実性を楽しめるのだと勘違いしたのだと思う。
逆にいうと教科書や岩波ブックレット、よいYouTubeを勧めるのは、不確実性を除去するためで「これを消費すれば問題ない」という安心感を提供しているのだと思うが、上述したような問題があるので、こちらの手法もなかなか伝えたい人には伝わらないのではないか。
もうひとつ、私は勘違いして書いた記事がある。
私は歴史修正主義は資料を丹念に調査し、瑣末な証拠のようなものを大量に収集し、あの事実はなかったのであると主張する(問題はあるが)知的な営みだと考えていた。みんなもそう思ってたよね?だから調べる対象を変更してもらえば、有益な活動になるのではと考えた。
しかし実はそれは違っていて、私が観察した限りだと、どうもテンプレ文のようなものがあって、それをカードバトルみたいに出すといった営みらしい。だとしたら私の書いたものは、手札が増えるわけではないから意味をなさない。
上の記事を書いている時に、二つほど頭に浮んでいたことがあった。
ひとつは日本国紀だ。
内容は置いておいて、日本国紀は分厚い。509ページある。あまり本を読みなれてない人が、あれを全部読んだんだとしたら、それは単純にすごいことで、普通に尊敬できる偉業だと思う。
日本国紀は賛否両論ある書籍で、本の内容を検証し批判するのは良いこと(これについては書いた人もありがたいと思っているのでは?)と思う。しかし読んだ人を貶めるみたいな流れがあったのは、違うんじゃないかと私は感じていた。事実と本人の気持は別の話で、分厚い本を読んで爽快な気分になったのであれば、それはそれで良いのではないか?
日本には分厚くて難しい本を読むと、一気に成長できるといった感覚があった。現在ではビジネスパーソンの自己啓発みたいな形になっているのかな? 「この一冊で世界の見方が変わる」みたいなやつね。この感覚は明治時代の、海外の難解で分厚い本を翻訳すると、生活できるようになるといったものに由来している。だから今や根拠のないものだが、感覚として残っていることは事実なのだから、俺は分厚い本を読んだんだ! というのは、良いのではないか?もちろん完全に良くはないのだが、私は「これを読んだぜ!」という人に語る言葉を持っていない。せいぜい「やったな!」くらいである。
もうひとつは、疎開した知識人が、地方文化にほとんど影響を与えていないという事実だ。私が読んだものは、地方に知識人を受け入れるだけの文化的な素地がなかったという文脈で書かれていたのだが、これは誤りだと思う。
仮の話になるが、一日一善運動の提唱者山本滝之助や修養団の蓮沼門三が全盛期に疎開していたら、村の美化運動だとか若者組の改革などに着手したことは想像に難くない。道路を整備したり、公民館を建てるなど、ハードウェアを改善から始めるんじゃないんだろうか? 事実として戦後、公民館がブーム(色々あるのだが)になる。これらは生活改善運動の流れ(これも色々あるが)で、山本や蓮沼は無関係ではない。そして公民館は、公民学校、図書館、博物館、公会堂、町村集会所、産業指導所などの機能を兼ねた文化教養の機関だ。受けいれるための、文化的な素地はあったのである。
もちろん陰謀論や歴史修正主義に夢中になる人と、昔の地方とは全く別の存在、かつ別の構造を持っている。しかし語るためには中に入っていくしかないというのは同じで、彼らと語り合うためには、なんらかのコミュニティーを作るしかないんじゃないのかなと考えている。そこまでしたいのかといわれると、いやそこまではしたくはないですという結論で、結局のところ我々は語る言葉を持っていないのだと思う。

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