山下泰平の趣味の方法

これは趣味について考えるブログです

難解な作品の受け入れ方

難解な作品と出会った時には

世の中には難解な作品がある。ごく最近だと藤本タツキさんの『さよなら絵梨』を難解だとしている人を見掛けた。

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私はというと、普通に楽しく読めた。パロディーも入ってそうだけど、そういうのを知らなくても楽しめる単体で完成された優れた作品だと思う。

優れた作品を見た後で他人の感想を見るのは楽しいので眺めていたんだけど、いくつか謎の反応があった。

ひとつは感想を間違えたら大変なことになるみたいなものであった。難解な作品は理解して解釈すべきだというよく分からない風潮があるらしいのだが、優れた難解な作品ならば『さよなら絵梨』のように、なにも分からなくてもそれなりに楽しめるように作ってある。

作品を格好良く解釈している人をみて、自分の読みはなんて浅いと感じる人もいたようだ。漫画の解釈や批評はあくまで批評と解釈で、別に全員がしなくてはならないものではない。個人的にはそういうものを読んでもヘーくらいにしか感じない。

そういった風潮への反発なのだろうか、解釈や批評なんて自由だなどといった雑な主張もあって、どっちにしろ極端だなーと思ってしまう。

難解な作品を前にして、なぜか反発してしまい私には分からないと拒絶をしてしまう人もいて、そういう人はフィクションに期待しすぎな気がしてしまう。なにかを学びとろうしているのかもしれないが、フィクションなんてものは面白いだけのものにすぎない。難解な作品もたんなる面白いものでしかないのだから、やっぱりへーって感じで受け入れればいいと思う。

なんにしろ難解な作品を普通に受け入れることができず、面白くもないと決めつけてしまう人が一定数はいるみたいだ。それはものすごく惜しいことなので、そういう気持をなくすため、難解な作品の上手い扱い方のようなものを紹介してみたい。

難解さはどこから来るのか

難解だと評される作品は大きく二つに分類できる。

  1. 下手だから分かりにくくなり難解
  2. そういう風に作ったから難解

(1.) は質が悪いので無視、(2.) の場合はそのまま楽しんだらそれでいいと思う。(1.) の好例は『死霊』とか書くと角が立つので具体例は出さないけど、そういう作品もあるんだなと思っておけばいいと思う。

難解さの質には色々あって、リストで単純化することは難しい。ひとつ私が好きな難解さを挙げておくと、作者の知識が足りないがゆえに選択肢が少なく、適切でない事象を使って難解さを構築したため、分かり難いなんていう状況だ。普通に考えると作品の質が悪いということになりそうだが、案外そういった瑕疵が作品の魅力につながったりすることがあってなかなか面白い。そういうのを含めて楽しんだらいいと思う。

物語とはなにか

難解な作品も物語のひとつでしかない。それじゃ物語とはなにかといえば、私の場合は次の条件をどちらかを満たしていたら、物語だと認識することにしている。

  • 意志を持ったものが動いたり話したりする
  • 時間が経過している

『意志を持ったものが動いたり話したり』していれば物語であり、意志を持つものが存在しなくても『時間が経過してい』れば物語だとすると、たいていのものは物語だということになる。それなら職場の報告書も物語なのかって話になるかもしれないけれど、そこから物語を読み取ってしまえば物語だ。こう考えると一般的に流通している『こうあるべきだ』といった考え方が、いかに狭いものか分かると思う。

事実、世の中には様々な物語が存在していて、私たちが知っているものは、全体からみると極々一部でしかない。もちろん難解な物語も、先に書いたように、大量に存在している物語のひとつでしかない。

受け入れられる作品を広げる

物語の種類は多い。そういうものを大量に読んでいると、ちょっと変った作品を目にしてもフーンとしか思わなくなってくる。ただし様々な種類の作品を大量に消費することは、一種のトレーニングに近く、別にそんな必死になって物語を消費しまくりたくもないって人がほとんどだと思う。

最短で許容範囲を広げるのにお勧めなのは神話や聖典で、感覚やら構造が今とはかなり違う。ただしその中でお勧め作品はといわれると、ちょっと難しい。私が読んだ中では聖書やユーカラ、カレワラなんかが印象に残っている。日本語としてはこれはものすごく綺麗。

新興宗教の聖典の中にもものすごく面白いものはあるが、近代以降の物語の構造をとっているため、受け入れられる物語の幅を広げる意味ではあまり役に立たない。

とはいえなかなかそういうものを読もうとはならないと思うので、私が好きな明治時代の作品から、今とは異なる構造の作品をいくつか紹介しておく。そういうものも許されるのかとでも思えれば、多少は許容範囲が広がるような気がしないでもない。

公式がネタバレをする作品

今ではネタバレが嫌われているが、明治時代であれば序文で物語の結末まで紹介するなんてことも多かった。『黒田水精 : 探偵実話 松林伯知 講演[他] 銀花堂 明治三〇(一八九七)年』の序文はこうである。

この黒田水精の如きは身、本願寺の末派にてして、龍田御坊と尊奉せらるる身を持ちながら、無残にも利欲のために餓鬼畜生に劣る行為をなし、親族の者二名を殺し、就中(なかんずく)一名を地中に埋め一身を六つに裁(た)ちてよく警察官の眼を晦(くら)ませしも敏腕なる探偵の非常手段にかかり、鬼坊主とまで謡われし程の者もついには法廷に自白するに至りしは、一ッには証拠の確実なるに依るといえども、天性の良心に攻められ初めて本善の善に帰せしは、警察官の御尽力、探偵の勉励、裁判官の審問の宜しきによれど天性の善は悪事を包む事ならず(適宜、句読点を追加)

ようするに悪いお坊さんが人を二人殺したが、探偵が頑張って逮捕したら自白したといった単純なストーリーだ。『閻魔の彦 : 探偵実話. 上巻 埋木庵 編[他] 金槙堂 明治三四(一九〇一)年』の前書はもう少し詳しい。

此の閻魔の彦は神田橋本町の炒り豆屋の重助の孫息子にて、苦味走った一個の美男子、しかも性質獰猛、掏摸より窃盗また強盗と、年を経るに従い罪悪を積み、遂に人を殺し官吏を害して獄を脱っし、関東より信濃を荒し、名古屋大阪と悪事を働き、東京に返して三田の薩摩原警吏を惨殺し、囚われて処刑に処せられしと、是に関連せる柳橋の芸妓小春が色情に溺れて身を誤まり、顛沛流離、幾多の喜夢惨夢に一身を襲われ、果てに北海の函館へ流れ行きて、殺人を犯し逃れんとして汽船東京丸へ搭じたるも警吏の追跡に逃るるの術なく、甲板上にまさに捕につかんとする一刹那、護身の短銃を取って我と我が喉を打ち抜き、硝煙の中、滾々たる血潮を浴びつつ、身を蒼海へ沈めたる顛末なり。その間、貧に苦しむ考子と寒に泣く老爺あり、時に義侠の人も現わるるという実話なり。

もう読まなくてもいいのでは? というくらいに物語の詳細が書かかれている。前書きにあらすじが全て解説されていることに驚く人もいるかもしれないが、当時はネタバレを気にしない人は多かった。かっては読む前におおまかなストーリーを把握し安心しておきたい、好みの作品なのか判断するためストリーを知っておきたいといった需要があったのである。現在もネタバレが問題にならないジャンルもあって、例えば落語のオチを知っていても楽しみが半減することはない。演者の語り口や工夫、そして口演の技量から喜びが得られるからだ。

紹介した二作品は探偵実話というジャンルに属しており、実話を元にした物語だ。探偵実話とされているが、推理の要素はほとんどない。探偵がものすごい長距離を歩きまわったり、川の中に長時間隠れ続けて犯人の逮捕の糸口をつかむといった単純な内容になっている。実は探偵実話以前に推理小説は存在していたのだが、当時は複雑なトリックなどよりも、新聞に掲載されていた事件の詳細を知りたいという要求のほうが強かった。それに応えたのが探偵実話だ。探偵実話にもいくつか種類があり、閻魔の彦ならば小説形式の探偵実話、『黒田水精』は新聞記事を題材にした講談の口演を速記したというややこしい作品で、現在の感覚だとよく分からないかもしれない。

探偵実話の構造もなかなか複雑で、基本的に事実に近ければ近いほど読者は満足するが、全体のストーリーは嘘をついてでも面白くしなくてはならないといった不思議なジャンルだ。読者の中には新聞連載中に、記述の誤りを指摘することに喜びを感じる人もいたようだ。

『黒田水精』『閻魔の人』ともに文体は文語で、今となってはあまり目にしない。適宜句読点は振ったものの、一文がかなり長いため物珍しく感じる人もいるだろう。内容も当時の実話を扱ったもので、正しく読解をしようとすると大量の資料が必要となってくる。それこそ難解な作品だとする人もいるかもしれないが、こういった物語を楽しんでいた人たちは、新聞を読む程度の知的水準の人々だ。ようするに普通の娯楽作品にすぎない。難易度の水準なんてものは時代が移れば変ってしまう事例だといえよう。

単純すぎて難解になった作品

単純すぎて読解するのが難しい作品がある。よく分からないと思うので、講談速記本からひとつ紹介してみよう。

話の都合上、講談速記本とはなにかを解説しておかなくてはならないのだが、これがなかなか難しい。今では講談が流行しており、それは良いことなのだが、講談のイメージを持っていると余計に分かりにくくなるのが講談速記本だ。そんなわけでここでは必要な知識のみ解説する。

講談速記本は年代によって質が変わる。明治の三十年代あたりまで講談速記本はその名の通り講談を速記したものだった。そのため演者が二日酔いで来ることができないから、弟子が代演しますなんてことが速記されているケースもあったりする。この時代の作品の品質は、演者の技量によるところが大きい。さしあたり正統派の講談速記本とでもしておこう。

明治の四〇年代に入ると効率化のため、講談速記本は口演をすっ飛ばし、文士崩れの新聞記者などが物語をでっち上げるようになってくる。原稿料が安い上に印税の制度もなかったため自然に粗製濫造が多くなり、最終的には思考する兵器のような超人的能力を持つ豪傑が、悪人を投げて身体粉微塵にするといった作品に人気が集まるようになってしまった。こちらは雑な講談速記本としておく。

今回紹介する事例は雑な講談速記本からのものである。雑な作品の場合、父親が悪人に殺害されその仇討ちのため諸国を巡るといったストーリーが多かった。いかに粗製濫造であったとしても、同じような話の繰り返しばかりでは、読者はついてきてくれない。その上で最低限の面白さも確保しなくては、読者は減るばかりである。しかし創作者たちはひとつの作品に時間をかけていると、生活ができないといった問題を抱えていた。追い詰められた作者たちは、手間と苦労なしに面白く目新しい作品を作るため、雑な解決方法を考案していく。

最も雑なのが殺害する悪人の数を増やすというもので、荒木又右衛門は三六人斬りで有名だが、明治三〇年には七〇人斬り、明治も四〇年になると千人斬りになってしまう。

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ギリいけないこともない?

奥州岩沼七十人斬 錦城斎貞玉 講演[他] 三新堂 明治三〇(一八九七)年

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1000人は無理だろ……

稲葉武勇伝 : 怪傑千人斬 石川一口 講演[他] 岡本偉業館 明治四三(一九一〇)年

数が増えたら面白いのかといえば微妙ではあるけれど、三六人より千人斬りのがすごいだろというのは分かりやすい。

『寛永豪傑春日熊之亟』で採用されたのは「面白き最後を致す」という手法で、こちらはなかなか解釈するのが難しい。まず章末で普通に「面白き最後を致す」といういう言葉が出てくる。

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なに?

いわゆるヒキといわれるもので、次章への期待を持たせるための技術だ。そして次章で出てくるのが、次のような場面である。

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最悪な一日

武士は声を上げる寸暇もあらばこそ、初めのエイと掛け声の其の時に、腰の所より真っ二つ、二番目のエイと云う掛け声に胸の所より真っ二つにされましたから、腰より下と腹より上と、胸より上と三ッに斬れ分かれました。

エイエイ言われて身体を二回真っ二つにされるといった最低最悪の経験が描かれているわけだが、初見の際にこれが「面白き最後」なのかどうか確信が持てなかった。殺された人間は一人なので、おそらくこれが「面白き最後」なのだろうが、なにが面白いのかよく分からなかったのである。

講談速記本を読み込んでいくと分かってくることなのだが、豪傑に刀で殺される場合、斬られて止めを刺さされて死ぬのが普通だ。つまり三分割されているため、目新しくて面白い「面白き最後」だという雑な手法にすぎなかったのである。死に方というか、死体の形が面白いから面白いといった単純すぎてヤバい技法で、現代人には受け入れ難いが、当時の娯楽作品は全体的に水準が低い。そんなわけで殺害される悪人の数が増ると面白いだとか、悪人の死に方が普通と違うから面白いといった幼稚な技法でも十分に通用してしまうというわけだ。

これらの雑な技法は、普通に読めばそんなものかで終ってしまう。ところが深読みしすぎると解釈が難しくなってしまうというなかなか面白い状況で、先に紹介した探偵実話も含めて、今となってはほとんどの人にとってよく分からない存在になってしまっている。それでもこういった作品を多くの人が楽しんでいた時代が確かにあった。そしてこれらの無茶な作品に比べれば、現代の難解な作品はずっと受け入れやすいような気がしてはこないだろうか。

よくわからない感覚

この文章全体が蛇足のようなものなのだが、さらに蛇足を加えておくと、社会の仕組みが原因なんだろうか、誤りを過大に恐れたり、なにかを著しく重く見るといった風潮があるように感じている。こうした感覚が、難解な作品は難しいから間違えやすくリスクが高い、難解な作品には高度な解釈か可能だから重く扱うべきである、みたいなものにつながって、冒頭で紹介したような状況になっているような気がしないでもない。正しい感想を言わなくてはならないといったプレッシャーが転じ、解釈や批評なんて自由なんだといった態度につながっているのも、あまり良い状況じゃないのかなとも思う。ある種の陰謀論や歴史修正主義、あるいは過剰な保守と構造が少し似ているからだ。

どう似ているのかというと、この辺のことは面倒くさいし楽しくもないからまあ置いておくとして、これらは政治的な正しさが過剰に求められるようになったからとも解釈できるんだけど、私は昔のことを調べている人なので少し違う方向から考えていて、一回でも選択肢に失敗したら悲惨な状況になるといった社会のあり方に原因があるんじゃないのかななどと推察している。『一回でも選択肢に失敗したら悲惨な状況』といった考え方が有利に働く時代もあったんだけど、今はそれが変わってきていて『一回でも選択肢に失敗したら悲惨な状況』が悪い方向に働いているというわけである。色々と分析できなくはないけど、この辺のこともやっぱり面倒くさいし楽しくもないからまあいいや。

とにかくあんまり良くなくて、そういう状況から距離を置くためには、私の経験則だと全然別のものを見るのが一番なので明治の変な作品を紹介してみたんだけど、もっと手っ取り早くて三千円くらいで実行できるのは動物園に行くことだ。

人間二〇人分くらいある重要の巨大な生き物が全裸でバシャーって水の中に入ったり、土の上を転げ回るところを見ていると、社会の小さいこととかどうでもよくなってくる。キリンなんかは舌が紫の上に首が長く、マジに蹴られたらだいたいの人間は死ぬよな……などと考えてると、こだわりみたいなのが少しだけ消える。動物園は本当に良くて実のところ明治の変な作品よりも、動物園のほうがお勧めである。

それならなんで明治の意味の分からないものを紹介したのかといえば紹介したいからで、もう少し詳しく知りたいって人は私の本を読んでみてください。