- はじめに
- 主婦が旦那の給料で大学院に行くのが駄目な理由のようなもの
- 学問というものは自分の力で修めるべきものである
- 学問というものはリターンがある実利的なものである
- 学問というものは生活から離れた高尚なものである
- 謎の感覚は多い
はじめに
ちょっと前に主婦が大学院に行くのはどうなのかみたいな話が話題になっていた。この話題自体については、他人がなにしようがどうでもいいだろとしか言い様がない。しかし様々な発言の後ろに見え隠れする個々人の感覚は、かなり興味深かった。現在、私が調べている明治の文化と、そのままつながっているような部分が多くあったからだ。
そんなわけで、ちょっとまとめておくことにした。
慎重に扱うべき問題なので先に書いておくが、この記事では明治に存在した考え方や感覚について書いている。当然ながら明治以前にも、国内外に原形になるような考え方や感覚は存在しているが、この記事ではほとんど触れていない。私がその辺りに関して、あまり詳しくないからである。
明治の考え方として紹介している内容の中には、人類が持っている普遍的な感覚も含まれているかもしれない。そういった事柄も、私の興味の範疇ではないので論じない。
主婦に対する偏見についても、深入していない。私自身は概ね家事全般は好きでカリスマ主婦のトイレ掃除といった記事に対し「そのやり方だと便座が傷だらけになる上に素材が劣化するのでは……」程度の突っ込みを入れてしまうくらいのスキルならあるし、ルーチンワークとして弁当や晩飯を作ることもできている。しかし家事は環境によって労力が全く違ってくる上に主婦ではないので、論じるだけの知見がないと判断した。
また私は調べものをする過程で論文を読んだりもするが、学術の世界で生きているわけではないので大学院云々についても言及していない……といったことを前提にして以下を読んでいただきたい。
主婦が旦那の給料で大学院に行くのが駄目な理由のようなもの
私自身にそういった感覚がないため難しいのだが、「主婦が大学院に行くのはどうなのか」的な発言をいくつか読むに、次のような理由から主婦が大学院に行くことを否定的にとらえている人がいるようであった。
- 自分のお金で学んでいない
- 主婦が学んだとしてリターンがない
- 主婦に難しいことなど理解できるはずがない
恐らくこういうことが言いたいのだろうといった推測からなるかなり雑なまとめだが、あまり外してはないと思う。このようなものを読んだ上で、主婦が旦那の給料で大学院に行くのではなく、次のような行為に没頭し写真つきで SNS に投稿したとしても批判はされないのではないかという疑問を持った。
- 冷蔵庫の野菜室を整理するためのパーツを 3D プリンタで製作する
- フローリングを無垢材に張り替える
- ペットと幸せに暮す
- 快適なウォーキングのためにスニーカーとソールをそれぞれ20個購入し最適な組み合わせを探し出す
- 買い物用バッグを加工しワンタッチで自転車のヘッドチューブ部分に着脱できるようにする
これらは全て「主婦が大学院に行く」のと同質の行為であるが、多分批判されたりはしない。
順番に検討していくと 3D プリンタで製作した部品が冷蔵庫に詰込まれる野菜に耐えうる強度があるかどうかは素材と 3D プリンタの性能によるんだろうけど、概ね批判されたりはしないと思う。
フローリングを無垢材にするのは工具にもこだわり出したら、大学院の学費くらいすぐに使うことが可能である。しかしこれも批判されないはずだ。フローリングは家族全員にとってメリットがあるから批判されないのかなと考えてもみたものの、別に無垢材でなくても普通に生活はできる。逆に掃除が面倒クセーだけだろっていう人もいるはずで完全に自己満足の世界であろう。
ペットも種類によっては大学院よりも費用がかかる。ウォーキングに最適なスニーカーとソールを探し出したり、自転車のヘッドチューブ部分に理想的な重量配分でバッグを固定するのも、費用はかけようと思えばいくらでもかけることが可能だ。
高度なことを学ぼうとするなっていう言い掛かりに近い側面から考えてみても、これらの事例全てにおいて追求し始めたら大学院で学ぶのと同レベルの知的水準が必要になる。(無垢材の強度を計測する,自転車を安定させるためにフレームから設計する等)
行為としては同じなのに、なぜに大学院に行くことに対しては批判的な人がいるのだろうかと考えた末に、明治あたりから残る学問への感覚に加え、現在の主婦に対する偏見が組み合さった結果、このような意見が発生したのかなとというのが今のところの結論だった。
明治の感覚と主婦への偏見を単純化して組み合わせると次のようになる。
- 学問というものは自分の力で修めるべきものである→自分のお金で学んでいない
- 学問というものはリターンがある実利的なものである→主婦が学んだとしてリターンがない
- 学問というものは生活から離れた高尚なものである→主婦に難しいことなど理解できるはずがない
2と3が矛盾しているわけだが、これはかって『出世のための学問』と『変人による学問』があったことが原因となっている。こちらについては後述することとして、まずは『学問というものは自分の力で修めるべきものである』について解説してみよう。
学問というものは自分の力で修めるべきものである
『学問というものは自分の力で修めるべきものである』にもかかわらず、主婦は『自分のお金で学んでいない』から駄目だといった考え方である。これは明治の若者たちも苦しめた感覚で、その一部についてはこの記事で紹介している。
この感覚がどこから来ているのか、メジャーなところから紹介すると、福沢諭吉による「学問のすすめ 明治九(一八七六)年」にこんな一節がある。
士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。
個人が学問を修めた後で、みんなが自立自営をすることで、立派な国家になることができるよ的な意味である。ここでいう独立とは、自分で自分を支配……つまりコントロールし、他人を頼りにしなくとも生きていけるくらいの意味合いだ。「学問のすすめ」ではこの独立が自由ともつながっていて、学問を修めることで他人の権利を侵害せず、自由に独立して生きていくことが可能になるといった流れになっている。
上のような考え方を前提にして登場したのが、学生は自立、あるいは自活すべきといった考え方だ。福沢はエッセイ「教育の事」で『上等社会、銭に不自由なき良家の子供を学者仕立てに教育するの心得』について書いているように、「学問のすすめ」は基本的に金銭的に余裕のない者に向けて書かれたものではない。
しかし時代が進むにつれて、これまでなら学問を修めようと思いもしかなった階層の人々が、学問の世界へと参入してくるようになる。彼らの需要に応えるために、明治の三〇年代に入ると学生が自活するためのガイドブックが多く登場した。
一般的に苦学生向けの最初のガイドブックとされている「東京苦学案内 自立自活 吉川庄一郎 著 保成堂 明治三四(一九〇一)年」では『最後の勝利は自活苦学生なり』としており、こんなことが書かれている。
諸君が奮起一番した時は親をも頼まぬ親類も頼まぬ頼む所は鉄の如き決心と火の如き熱心だ
働きながら学問を修めることで、決心と熱心が身に付き、意志が強くなり出世もしやすくなるといった考え方だ。
「東京苦学案内」の一年前に出版された「学生自活法 光井深 著 大学館 明治三三(一九〇〇)年」でも『美衣美食は成功に就ての最大害毒にして、幾多の失敗は皆之「あまりに勝手よき」より胚胎(はいたい)し来る』とし『困苦は偉人の敬愛すべき敵手』であり『大いに成功せし人は、皆非常なる困難と戦い勝ちたる勝利者』だとしている。
ここから発展して生れた理屈として、「福沢は学問を修めてから独立しろとか言ってっけど、先に独立して学問修めたほうが100倍独立できるだろ」といったものがあった。「苦学する者へ 治外山人著 苦学同志会 大正一四(一九二五)年」では「貧しき者は幸なり」なんて宣言までなされている。
このような考え方が流通し、誰の手も借りずに学問をしようといった若者が生み出されていく。そしてこの記事で紹介した文子のように、無駄に反骨精神を持ち過ぎたがために、苦学に失敗してしまうものが続出した。
こういった感覚は苦学者向けガイドブックの他、修養書や受験雑誌、講演会などを経由して世間に広がっていった。ちなみに苦労をして生計を立てると同時に学問を修めるといったように、二つを同時にやってしまうというスタイルは明治にはよくあるものだった。西洋文明を高速で受け入れるため、例えば絵画と製図、旅行や健康増進とスポーツなど、複数の事柄を同時に済ませてしまおうする傾向が強かったのである。
苦学に関連するものとしては、徒歩で旅行をしながら身体を鍛えつつ、名所旧跡を巡って知見を広め、経験値を詰み上げたついでに人間関係を広げながら東京へたどり着き、苦学をして出世するといった行動様式が存在している。これについては次の記事で軽く触れた。
苦労をすることで学問の効果が倍増するといった考え方は、明治の中頃に生れ昭和の初めあたりまで存在していることが確認できている。その後にどう変化したのかは把握はしていないが、今でもかなり良い環境で成長してきたであろう人が、苦労をして学問を修めたと主張する姿をたまに見る。やっかみに対する自衛や、自分の努力を評価したい気持もあるのかもしれない。ただ学問は苦労をして修めたほうが良いといった価値観に、影響を受けている側面も感じられなくもない。
苦労すれば苦労するほど学問に味が出るといった考え方は、かって必要な感覚ではあった。本来なら田舎で一生を終えたはずの若者たちが、この考え方に影響されて東京へと飛び出すことで、階層や人口に流動性が出たことは事実である。しかし今となっては意味のない価値観で、学ぶために費やした苦労と、学んだ結果に関連性などあるわけもない。
私の実体験から分かりやすい事例を出すと、電子書籍がある。
紙書籍には質量があるため、読むと身体が疲れるといった問題がある。これは私が常に最低3冊は併読しているといった事情もあるのだが、数時間も読み続けていると、本を取っ換え引っ換えしたり、保持したりページをめくったりでものすごく疲れてしまうのである。だから読み続けるため、座る姿勢に疲れたら、歩いたり寝転んだりする必要があった。
今ではパソコンに電子データを表示し、ボタンを押せばページをめくったり書籍を切り替えたりすることができるのであまり疲れない。こうして楽に本を読めるようになった結果、理解度が低下したのかっていうと、そんなことがあるはずもなく、情報収集の労力が軽減し効率化しただけにすぎない。
高速かつ効率的に学びたいのであれば、苦痛なんて減らせるだけ減らしたほうが良いに決っている。自活して学んだほうが良いとか、苦労して学んだほうが素晴しいといった価値観は捨てて、それぞれがそれぞれの環境で最適化された選択肢を選ぶというのが妥当なところであろう。
ちなみに「学問のすすめ」はベストセラーでありかなり広い範囲に与えているので、明治時代の考え方を調べているなら把握しておいたほうがいいが、現代では当然といったことしか書かれていないので、娯楽として読むなら福沢諭吉の変人エピーソード満載の福翁自伝をお勧めしたい。
学問というものはリターンがある実利的なものである
明治の『学問というのはリターンがある実利的なものである』は『主婦が学んだとしてリターンがない』から駄目だといった考え方につながっている。
実は明治時代に学校を卒業することは、そのまま出世に直結していた。こちらも苦学と深くかかわっている感覚である。苦学とは金銭的に余裕のない若者が、苦労を重ねて各種学校を卒業しようとする行為を意味する言葉だ。
意外なことに純粋に学問を追求したいといった気持を持つ苦学生は、明治時代にはほぼいなかった。彼らの目的は学校を卒業し出世をすることにすぎなかった。
苦学のガイドブック「新苦学法 島貫兵太夫 著 警醒社 明治四四(一九一一)年」に、日本における苦学のスタイルがどのように発生したのか、解説されているので引用しておこう。
苦学とか力行と云う文字は、支那から来たもので、随分支那人と云う奴は、苦しんで勉強した。所謂篤学者が多かつたのである。彼等は貧困の間にあっても、苦学力行して学問した。 そうすれば、如何なる人も天下の宰相になれたので、何んでも彼でも学問さへすればよいと云ふ様になつていたのである。
支那の苦学と云うのは、元来彼の対策及第的の勉強で、その試験に及第すると云ふ事が唯一の目的で勉強したものである。
その支那人の貧乏なる家の子弟が、苦しい境遇にありながら、如何なる苦痛にも堪え忍んで学問した其の事から、此苦学と云ふ文字も出来たので、日本に於てもそれに倣って苦学と云ふ文字も用ひ、又これを実行する人も出来て来たのである。
注意しておきたいのは、ここで語られる事柄は明治後半の社会通念としてはほぼ正確だが、中国の試験制度や文化に関する事柄については怪しいという点だ。とりあえず昔の中国で苦労して学問して出世した奴らがいたから、俺らも学問したらなんとかなるだろといった雑な奴らがいた程度の認識で留めておいたら問題ないだろう。
「新苦学法」では学校を卒業したら、出世できるだろうと考えている若者に対し、次のような警笛を鳴らしている。
何んでも彼でも学問しさえすれば、何んかなれる、いや何にでもなれると思ったのは、維新前の爺共が考えた事で、彼の支那の対策及第的の学問をした時代の夢である。
苦学を成功させるためのガイドブックの中で「新苦学法」は異色の存在で、学問々々といってるけど君らがしたいことは金を稼ぐことなんだから、学問なんてすっ飛ばして働いたほうが効率が良いんじゃないかといった内容となっている。確かに当時は学問を修める、あるいは楽しむためにはそれなりの対価が必要で、各種情報へアクセスするのも難しかった。資産のない家庭の出身者が苦学に失敗してしまうと、再起不能になることも少くはない。そんな事情を踏まえて考えると、苦学にリターンを求めるより働いてしまったほうが効率が良いという主張には説得力があった。まして特に学問への興味のない資金が足らない若者が、苦労が報われず利益もない学問に手を出す意味などなかったのである。
そして現代の話である。今では多様な学校が存在し、制度も整えられている上に、一定の水準までならば情報へアクセスすることも容易である。そして対価を払えるのであれば、誰もが好きなことを好きな方法で学ぶことができる。人生が狂う可能性があるほどの対価を払わなくては、学ぶことができない時代ならともかく、現代において大学院の修了に過大なリターンを求めることなどない。まして趣味で好きな勉強を好きにするのは完全に個人の自由だ。
学問というものは生活から離れた高尚なものである
明治時代には先程紹介した出世のための学問と、万人にはとうてい理解できない難しい学問といった区分けがあった。そんな明治の『学問というものは生活から離れた高尚なものである』といった考え方は『主婦に難しいことなど理解できるはずがない』といった感覚につながってくる。
学問と云うのは、専門の学問の事で、医学、化学、地学、歴史、曰く何と云う如く特殊のある一学術の研究をする事が、学問をすると云うのだ。 (中略) これら専門の学術に対して天才ある人は、大にその才能を発揮すべく、その学術の為に尽瘁するこそよい。けれども何等天才なき徒輩迄が、古き支那流の学問万能主義をそのまま担ぎ込んでまで、無闇矢鱈に学問々々と、それ等専門の学問に手を出したとて、何等得る所のないのは知れ切ったことである。
こちらも「新苦学法」からの引用。当時の学生の中には学問をしたいと東京に飛び出したものの、学問がなにかを知らないといった者もいた。だから学問の解説をしているわけだ。この一文の要点は「学問は思っている以上に難しいもので、天才なき徒輩が憧れだけで学問に手を出したとしてもなんら得るところはない」といったところであろう。
一種の高尚さ、分からなさへの憧れは確かにあったようで、例えば藤村操は「巌頭之感」で『ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。』なんてことを書いているが、よく分からない。なんでホレーショを出してきたのかちょっと意味不明だが、オーソチィーなど英語を使っているのは当時の若者っぽくて微笑ましい。事実、当時の中学生のほとんどが、この詩を諳じることができたらしい。この詩にそれほどの価値があるとは思えないが、よく分からなくて格好良いから流行したのであろう。
中学生だけでなく学問に縁がない人々も、分からないものに反発を感じながら憧れを持っていた。「出勤迄の充実生活 丸野内人著 日東堂 大正五(一九一六)年 」では高尚な趣味を始めたいと考える市民の姿が描かれている。
我等の同僚は、イザ何かしやうとなると必ず文学という。よし文学という高尚の名は過分であるとするならば、正直のところ小説や講談である。而して縮刷物、何々叢書をポッケットに忍ばせて置くのを、非常に優雅なことして居る。算盤を弄びながらも、一面に「こうだぞ」と思い知らせるらしく見える。
こちらも高尚な趣味といわれても文学くらいしか思い付かない。だから事務員として働きながらも懐に難しい本を入れておき、本当の自分はこうなんだと思いたい……といった描写である。なんだか残酷な気もするが、現代でもありそうな話ではある。
それに加えて当時は学問を修めると、選択肢が減るといったことも起きていた。せっかく学校を卒業したのだから、知的な職業に就いたいが、就職口が全くないといった状況である。この現象は高等遊民なんていう流行語にもなったほどで「殺活自在処世禅 丸山小洋著 須原啓興社 大正五(一九一六)年」では、「此の学問ある以上は彼の職業は出楽ぬ」という若者に対し、こんなアドバイスを送っている。
吾等の日常の事は決して実用と云ふことのみで説明は出来ぬ。我等の知識には日常不必要なことが多いが、しかれども知識を尊重するのは、勝海舟が刀を腰にするのと同一原理ではあるまいか。(中略)若し武士が人を斬るの機会なきを以て、名刀の価値を疑うに至らば、吾等は之れを何と評するか。(中略)武士が両刀を腰にして心強く感じるごとく、我等は高等の学問を修めて一種の安心満足を感ずるのである。
要するに学問とは実用のためのものではなく、太平の時代に武士が差していた名刀のようなものだという解釈で、心に名刀を忍ばせて日々の労働に勤しめといったところであるが、そんなわけないだろうといったところであろう。
学問は実用から離れた高尚なものであるといった考え方から、純粋に学問を追求する人間たちの中には、手仕事を忌避する者も登場した。メジャーなものから紹介すると、夏目漱石の「吾輩は猫である」に次のような会話が登場する。
「寒月というのは、あのガラス球を磨すっている男かい。今の若さに気の毒な事だ。もう少し何かやる事がありそうなものだ」
「可愛想に、あれだって研究でさあ。あの球を磨り上げると立派な学者になれるんですからね」
「玉を磨すりあげて立派な学者になれるなら、誰にでも出来る。わしにでも出来る。ビードロやの主人にでも出来る。ああ云う事をする者を漢土では玉人と称したもので至って身分の軽いものだ」
寒月とは理学士の水島寒月、彼が論文を書くために硝子の球を磨き続けるという有名なエピソードだ。わかりにくいかもしれないがこの場面は良くできたギャグで、野暮だが解説しておくと、水島寒月は難しい学問を修めようとしているにもかかわらず、職人のようにガラスの球を磨いていて、その行動を理解できない人物たちが寒月を評しているのが面白いといったちょっと複雑な構造となっている。明治時代にあった手仕事は下等で、頭を使うことは上等といった考え方に基いた高度なお笑いに仕上がっているといえよう。
この考え方は孟子なんかの影響も受けていそうではあるが、とにかく実用と学問は別といった考え方は戦後にまでも残っていて、『私たちの実践科学 富塚清 著 社会教育協会 昭和二五(一九五〇)年』には知識を活用できない学者、あるいは専門家のような人物が多く登場する。
結核の専門医でも存外、盃のやりとりをやつてるかも知れません。ところで梅毒なんかだって、唇からうつることがあるという。で、日本人この点は一向気にしません。感情の空白の場所がここにありそうです。
「栄養士の料理はまずいね」……って、これには私も同意で、女高師の家事科出の女史の料理の味は、さすがにすききらいのない方の私さえ参ってしまった経験があります。それでも料理をやればまだいい方で、それをまるでやらないなんていう女史があります。そんなくだらぬことをやると、こけんにかかわるのだそうです。
かって満州の工業大学で燃料とか暖房とかに深い関係のある教授を訪れたところ、その先生もも煙突なしの練炭こんろを部屋に入れて、「どうも少しくさいですが他に仕方がないですから……」との言いわけ。亜硫酸ガスと一酸化炭素は充満、こちらは五分もがまんが出楽なかった。煙突の先生が煙突をつける才覚がないとは! ここでも実行に結びつかぬ、学問の役に立たなさを痛感したことでした。
こういった考え方が今も残っているのかどうかは知らないが、『主婦に難しいことなど理解できるはずがない』といった感覚を持つ人はいるようなので、ありそうだなとは私は思っている。主婦の仕事の中心が手仕事であることから、『主婦が大学院に行っても無駄』だといった発想に至った人もいそうだが、こちらは個々人の内面で起きたことなので実際どうなのかは不明だ。
謎の感覚は多い
明治から少し離れてしまう上に私の個人的な経験の話になってしまうが、この社会では真面目な学問の話題とエンターテインメントを、かっちり分ける傾向が強いようには感じている。私は自分を楽しませるために過去のことを調べているわけだが、それはある種の人にとっては真面目な話題……学校で習う歴史の範疇にはいる?……らしく、何度か炎上したり怒られたりしたことがある。ただいくら怒られても、いちいち分ける意味が全く理解できなかった。
私にとって知的な活動は、あくまで生活の一部でしかない。常日頃から良い飯と睡眠だけは確保するようにしていて、なぜなら良い飯と睡眠の後には良い調べ物が出来るからだ。そんなわけで昨年度に最も役立ったのは、新しく購入した容量が大きく性能の良い冷蔵庫であった。
旧冷蔵庫時代は常に中身を把握し、一週間分の献立を考えながら生活、買い物の際にも冷蔵庫のスペースについて考えるといった生活で、かなり脳のリソースが消費されていた。冷蔵庫が巨大化し「まるごとチルド」と野菜室の性能が向上したことによって、1週間は腐敗を防げるようになった。これで冷蔵庫を把握する必要がなくなり、調べ物に知能を使えるようになった。明治文化と冷蔵庫に関連なんてないように思えかもしれないけれど、私にとっては同じくらいに重要で、ここを分ける理由がわからない。
学問というか知的活動にまつわる謎の感覚はわりとあって、私には理解不能なことが多い。
正直なところ『主婦が旦那の給料で大学院に行くのは駄目だ』的な発言を読んだ際にも、まったく理解することができなかった。誰が大学院に行ってもいいんだ的な発言も、ちょっとピンと来なかった。どういうことなのか関連するようなものを読むうちに、明治の感覚に似ているなと感じ、自分の考えをまとめるためにもこの記事を書いてみたのだが、改めて読むと焦点のズレた誰の役にも立たないような内容になってしまったような気がしている。かなり注意深く書いたつもりではあるけれど、不快に感じた人がいたのであれば申し訳ない。
ただ欠落した部分がある人間なりに考え、それなりに納得することができたので、記事にしてまとめるという作業は、少なくとも私のためにはなったのだと思う。