山下泰平の趣味の方法

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コロナ禍における日本の雰囲気を理解するために役立った書籍リスト

コロナ禍における日本の雰囲気はちょっと変なので、これはなんなんだろうかって考えることがある。

こういうことを考えて理解するためには知識が必要で、なにも知らない状態だと正しく考えることはできない。考えたところでどうしょうもないんだけど、考えて理解できると多少は落ち着く。そんなわけで今の日本の雰囲気を理解するために考えた際に、読んでて良かったなと思ったり、新たに読んだ本を紹介する。

私が気になった今の雰囲気は次の3つとなる。

  • 個人で判断している理由
  • 集団の判断が変になる理由
  • ケチで嫉妬深い理由

なんでこれが気になったのかというと、『ケチで嫉妬深い』個人が『個人で判断』するため『集団の判断が変になり』別の個人が『個人で判断』して問題を解決しなくてはならなくなるといった状況が嫌になってしまったからだ。嫌なものは嫌で仕方ないんだけど、理由が分かれば納得できる。そんなわけでこの雰囲気はなんなんだろうかと考えるため、過去に読んだものを確認したり、足りない知識を補うために新たに読んだりした。

結果的に自分は納得できるような結論が出たので、書籍をリストとしてまとめておく。ただし今回のケースでは、私が新たに読んだ本は一冊のみで、あとは大昔に無関係なことを調べた際に手に取ったものばかりだ。だから手に入りにくかったり、読みにくかったりで、ちょっと大変かもしれない。そんなわけでなるべく解説を入れておいた。ただし私の力量が足りていないため、なんだかすっきりしないものになっている。

ちなみにこのリストは私が興味のある文化、それもごくごく限定された範囲に関するものにすぎない。だから経済や政治、医療などについて考えるのには役に立たない。そういうものも詳しい人が作ってくれたらいいなと思う。

個人で判断している理由

今は難しい判断が必要となっているにもかかわらず、個人の判断に任せるといったことが、そこかしこで行なわれている。私にとってこれはかなりの謎だ。正直なところ精度の低い思考しかできない分野では、自分で判断なんかしたくない。なんでこんなことになってるんだろうと思い、読んだのがこの本である。

明治から戦中の期間、主義もなにもない状態を経て、全体主義と個人主義をいったりきたりしているだが、戦後に入り個人の判断があからさまに重視されるようになった。これには戦後民主主義が関係している。ところが私は戦後民主主義の知識がないため、いまいち理解できないところがある。というわけで読んだのがこの書籍で、戦後の人たちがどういうふうに考え、それに続く人々がどうなったのか書かれていて、考えるためにとても参考になった。

ただ戦後によく見られるようになった『一人一人が(自分のこととして)考える』というフレーズについて、言及がなくて残念だった。もっとも本を書く際には知ってて触れないという部分が大量にある。だから『一人一人が(自分のこととして)考える』は私が気になっているだけで、それほど重要なことではないのかもしれない。

*この記事を読まれた方から『〈私〉時代のデモクラシー 』を教えていただいた。本記事は現在の雰囲気をものすごい遠いところからなててる感じだけど、こちらの本は今の問題を直接に触ってる感じで面白かった。

*

戦後民主主義や『一人一人が(自分のこととして)考える』にも関連してくることなのだが、終戦直後からある時期まで日本のある部分は異常なまでに明るかった。能天気なまでに個人が調べ、判断することを信じていた時代があった。これも不思議だったんだけど、そういったことの一部についても、この書籍を読めばなんとなく分かってくる。直接的に戦後の明るさについて知りたい場合は、『あたらしい憲法のはなし』が短かくて読みやすくて良いと思う。

www.aozora.gr.jp

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この文章は実に良くて、文部省が出したパンフレットだとは思えない。一種の異常な迫力すらあるのだが、当時はこういった文体がよくあって、GHQやラジオ放送の影響なんかもあったのかなと思わないでもないけど、戦後のことは詳しくないのでよく分からない。

集団の判断が変になる理由

集団や組織が変な判断をしているところを多くみる。外に出ている判断は、外部に出せると考えた判断であって、内側ではさらに奇妙な判断が日々行なわれているはずだ。自分が属している組織によるなんだこれ? みたいな判断に、苦しんでいる人もいるのではなかろうか。

科学的、合理的に物事を考えた上で変な判断になるのは仕方ないけど、別にそういう感じでもなく、よく分からない判断がなされているのは、知性や考え方、環境の問題だと私は考えている。

これについて考える際に役にたったのは、テクノクラートとジェネラリストといった概念である。ゼネラリストとは広範囲な知識と経験をもつ人で、テクノクラートは科学者あるいは技術者だった政治家や高級官僚、ふたつの考え方が交ざって政策が決っていく。

*ここではテクノクラートを『高度の科学的知識や専門的技術をもち意思決定を行い管理・運営にたずさわる管理者。技術官僚。』ジェネラリストを『分野を限定しない知識、経験を持ち、全体的な立場から判断人』程度の意味で使っています。指摘されて気付いたんですが、違う分野の定義が混ってて分かりにくくなってますね。すみません。。 * 政治的判断などといった大きなことだけでなく、営業と技術者や描き手と編集なんかが喧嘩したりも同じような現象だ。私はこういうことをこの本で認識した。

若い頃にこれの岩波文庫版を読み、その後は知識と技術、勘と思索などについてたまに考え始めた。そのうち日本の昔に興味がわいてきて、下記のような本も読んだりした。ちなみにこれを選んだのはずいぶんと昔の話で、今だともっと正確で良い本があると思う。

明治以前の日本では植物の分野で博物学的な思考をしていたため、西洋の分野をすんなり受け入れることができたなんて話が書かれている。もちろんそれだけではなくて色々(色々って書いてるのは忘れたからです……)なんだけど、明治維新の直後はわりと高い地位にいる人たちが科学的な思考を理解していたため、政治に技術を基準とした判断を持ち込むことができた。

ちょっとややこしいのが元科学者や元技術者が正しい判断が出来るわけでもないという点で、俺は技術に詳しいと言い張ってるだけのテクノクラート(自分はテクノクラートだと思い込んでいる狂ったオッさん)とかも大量にいる。こういった知性の歪みの理由については、次の本で触れられている。

明治の中頃から終りにかけ、日本の組織は大きな決断するインセンティブがほぼなく、仕事に対して専門性が求められないといった状態になっていた。

昔からジェネラリストの立ち位置だけど、なんもできないだけの人はいて、今となってはそんな仕組みは破綻してるんだけど、ある時期までなにもできなさが求められていたがゆえに、今もいるみたいなことになっている。ややこしい話なんで、そんなもんかなとか思っておいたらよいと思う。とにかく誰も責任をとろうとしないってのも、このあたりと関係しているのだろう。

こういう諸々によって今の組織は駄目だが、現場の個人が工夫をしてチャ頑張るといった様式に転じてしまったような気がしていて、これには苦学のあり方もわりと関連している。

日本の特権階級(含む自覚なき上流の一族)の知性や行動が人々の期待に応えられないとか、戦前の出世をしたい持たざる者たちが語った「大きな仕事をして国に貢献する」といった目的は、せいぜい地元に錦を飾る程度のものでしかなったなどといった現象も、苦学にかかわってくる事柄で今の世の中にも影響を与えている。ただし表面的には今の状況と直接的には関係ないようにみえるため、考えるための材料としては向いてないかもしれない。

具体的な事例から学ぶなら、鉄道なんかが分かりやすい。

明治時代に水運をもっと発展させるっていう選択肢もあったんだけど、それを過去の人達はしなかった。個人的には幸福な結果だったと考えているけど、なんでそれを選ばなかったのかと考えるのも良いと思う。ただこちらも今の状況と関連させて考えるのは難しい。

なんだかすっきりしない解説になってしまったが、このあたりをまとめて学べる本を私は知らない。そんなわけで雑多な紹介でごまかすことになってしまった。

ケチで嫉妬深い理由

政治の緊縮財政的な傾向や、日本に住む人のケチさや嫉妬深さについては、大正終りあたりから戦後にかけて形成されたものが、惰性で続いてるって私は解釈している。なんでそんなことになったのか知らないんだけど、大正時代から個人の節約が国力を上げるみたいな話が流れだし、戦時中は投資や貯金が流行した。個人が貯金したところで戦争に勝てるわけもない。合理性などないように見えるのだが、それくらいしかやれることがなかった、あるいは当時の社会の状況だと合理性があったものの今では効果をなくしてしまい感覚だけが残っているのかなくらいの感じで処理している。

で、そんな傾向を大正時代くらいから批判している人がいる。こちらは短かいからすぐ読めると思う。

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私は戦前の雑多な文章を大量に読んでいるので、個人が政治やケチになっちゃうのは、なんとなく納得できている。あんまり自信がないけど、それで(私が)考えるのに支障ないので(私としては)問題ない。残念ながらこのへんも解説してくれている本を知らないので紹介できない。

調べれば分かるとことは多いけど

個人の判断を信じる明るい時代があって、ケチさや嫉妬深さに意味があった時代があった。そしてかっては今のような判断基準が正しい時期もあった。それらの残骸が今の雰囲気を作っているのだなというのが、今回紹介した知識を使って出した今の私の結論だ。平凡な結論だが私はこれで納得している。

そして以下は余談。

今は雰囲気が悪いような気がしてしまうけど、実際には前々からこういうことはよくあった。ただ今の時勢でより明確に見えるようになっただけである。それでも嫌な場面を何度も見ていると、だんだん人間が嫌いになってくる。もともと私は人類に恨みなどなく、知ってることはシェアしていこうっていう気持があったんだけど、今の状況を見ていると最近はもうなにを書いても伝わらないかもしれないなってたまに思う。これもいわゆる分断ってやつのひとつなのかもしれない。

知ってることを伝えるのを諦める人が増えていくと、世の中の質が悪くなってしまう。なぜなら知らないことは、分からないからである。分からないことは調べたら分かるわけだけど、自分の興味がない分野に関しては分からないことが分からない。

今回のケースだと『集団の判断が変になる理由』については、もともと知識があった。『ケチで嫉妬深い理由』は私は明治から大正時代の大量の資料を読んでいるので、感覚的に理解できる。だから自分の中に疑問はない。両者とも戦後に形が変っているものの、本質的には大きな変化ではない上に、そのあたりへの興味が薄いので、新たに調べることはしなかった。

私が最も納得できなかったものが『個人で判断している理由』であった。明治から戦前にあった概念が、終戦を経てなぜ今に至っているのかが理解できない。だから適切でありそうな本を探して読んだ。

こういうの取捨選択は知ってるからできることで、知らない分野に関してはどこまで調べるかを決め、必要な情報を探して学ぶことがなかなか難しい。この記事に書いたことも私は必須の知識だと思ってるけど、どうでもよすぎて読むうちに目から血が出くるって人もいるはずだ。

そういう分野はもちろん私にもあって、ワクチンや感染関連の知識は適当にググってヘーって感じで、今まさに行なわれている実際の政治や経済の動きについてもなにも知らない。学んだほうがよい知識が大量にあるんだろうけど、興味がないのでなにが必要なのかが分からない。知ってる人からすれば愚かすぎてヤバい人間に見えると思う。そもそも私は困ってないと考えているけど、知識がなさすぎて困っていることを認識できていないのかもしれない。

そんなわけで私は知ってることを伝えてくれる人は重要だと思う。そしてそういう人が諦念を乗り越えるために必要なのは、やっぱり知識と考えることである。状況を細かに見て考えていくと、人間自体を嫌いになることはないなと分ってくる。もしも全てが嫌になりかけてる人がいたら、私がしたみたく自分の分野に関連する知識で考えてみて、不完全なリストにすると精神が落ち着くような気がしないでもない。

今回の記事も私が落ち着くためにかなり無理して書いたもので、いつもならなるべく避けようと心掛けている大幅な理論の飛躍や推測、当てずっぽうみたいなところも多い。いい加減な文章だなと自分でも思うのわけだが、多少なりとも知ってることは今後も書いていこうと考えていてて、それがこの記事で書いた苦悩に対する自分なりの回答である。