山下泰平の趣味の方法

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コロナに関する政策に竹槍で B29 を爆破するみたいな話だ的な批判をすることについて

間違った例えは止めよう

コロナに関する政策に、竹槍で B29 を爆破みたいな話だ的な批判をたまにみるようになってきた。私もわりと子供の頃に、戦時中ヤケクソになった日本人は竹槍で B29 をブッ壊そうとしていたといった話を聞いたことがある。その時はへーって思ってわけだけど、最近になって戦中戦後の新聞を読むうち、あれって嘘だったんじゃないのかなと感じるようになってきた。そんなわけで自分で少し調べてみたら、やっぱりこれは有り得ないような話だなといった感じだった。実は先に調べている人たちは沢山いて、ググったら結論はすぐに出るんだけど、ここでは私が調べたことについて記録しておく。

そもそも私は明治の文化を調べていて、かって日本人は合理的、科学的に考え行動しようとしていたことを知っていた。これについては本にしてまとめたので、興味がある人は読んでみてください。

少し考えれば分かることだけど、根性論や精神論だけで明治維新を始めとする色々なことは、乗り切れなかったはずだ。そしてそういうスタイルは、大正から戦時中にまで残っている。戦争が始まった瞬間に、不合理な根性論だけになるというのはありえない。

戦車必滅

例えば1945年07月10日から17日にかけて、京城日報で『戦車必滅』の連載がなされた。時期的には敗戦間近といったところである。

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恐らく生者必滅をモジったタイトルで、お前ら結構余裕あるなとツッコミを入れたいところだけど、この連載は根性だけでなんとかしろといったものではなかった。連載の第一回では歩兵が戦車を破壊した実例を掲載、2回で戦車の構造を解説し、続けて具体的な破壊方法を紹介するといった内容だ。

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もっとも戦車の周囲には随伴する歩兵がいるわけで、成功する可能性はものすごく低い。ただ記事としてはなかなか面白く、これを読んだ当時の人も、こういう方法があるのかと思ったり、絶対無理だろと突っ込みを入れたり、英雄になりたい少年が戦車を爆破する自分を妄想したりしたのだろう。

話をB29に戻すと、戦車ですら一応は合理的な方法で破壊するための解説がなされている。飛行機だけは竹槍で破壊しろといった話になるはずがない。

竹槍訓練の合理性

竹槍が一種のシンボルになったのは、陸軍軍人の荒木貞夫による3時間半にも渡る名演説がきっかけだった。一切水を飲まず、血を吐くかの如き演説だったとされており、迫力のある内容だったのだろう。もっともこの演説は、実際に竹槍で戦えという趣旨ではない。演説の冒頭で「昔から天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」と語っており、要するに人の和が一番大事で、人の和があれば竹槍の三百万本もあれば戦えますといった趣旨の演説である。なかなか理解しにくい演説なので、解説している書籍も何冊かある。

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建国の肇に還れ 帝国傷痍軍人会佐賀県支部 昭和11 昭和一一(一九三六)年

今や演説は影響力を失っているが、昔は身体を張った演説に人気があった。文学者の島田清次郎も演説をしまくったし、蓮沼門三という人も絶大なる演説力で、もともと学生サークルでしかなかった「修養団」を巨大な組織に成長させている。

荒木の演説も長く影響力を持ち続け、最終的には竹槍訓練へとつながっていく。竹槍で本土決戦に備えよというやつだな。その訓練の過程で精神力があれば B29 だって竹槍で墜せるという例え話を真に受けて、竹槍で絶対に B29 殺すみたいになったアホな子供なんかはいたかもしれないが、大人のくせしてそんなこと考えるクソ馬鹿は今も昔も少数派であろう。

竹槍訓練だけを見ると、そこには合理性がないようにも思える。しかし当時の事情を考えると、仕方がなかったのかなと思えなくもない。このあたりのことは専門的に調べたことがないので話半分に聞いて欲しいんだけど、明治の中頃から終りにかけ、日本の組織は大きな決断することに対するインセンティブがほぼない上に、仕事に対して専門性が求められないといった状態になっていた。これはこうなるしかないような理由があったから仕方ないものの、今も組織は駄目だが、現場の個人がメチャ頑張るといった様式が残っているような気がしないでもない。

竹槍訓練はそのような状況下で起きたことで、それ自体は馬鹿馬鹿しい行為だし合理性にも欠けている。しかし武器がなんにもないのに戦う必要があるのであれば、その辺に落ちてるもので武器を作るのは合理的な行動ではある。そういう状況にならないように行動するのが正しいのだが、頼れるものが皆無な状況下では、精神論と根性論すら合理的な考え方になるようなこともないわけではない。

様々な人間がいる

ありとあらゆる時代に沢山の人間が存在していて、様々な行動をする。戦時中にも竹槍訓練をする人もいれば、同じ時期に電気蓄音機を集めて電波兵器を作ろうとする人もいる。

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読売新聞1945年03月02日 広告 「米英の撃滅に電気兵器は絶対に必要だ」

竹槍訓練するよりも、職場で働いたほうが国のためになるだろといった人もいた。

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読売新聞1945年03月27日

というわけで、マジに竹槍で B29 をベキクソに壊そうとした人は、ほとんどいないとしてもいいはずで、コロナに関する政策に竹槍で B29 を爆破みたいな話だ的な批判をするのは妥当ではないような気がする。

本当に竹槍で B29 を破壊しようとした集団はいなかったのか

ここまで書いてなんなんだが、私には竹槍で B29 をブチ壊そうとした集団はいなかったと断言することは出来ない。なぜならそういう資料が、どこかに残っているかもしれないからである。

少し難しい話になってくるけど、過去のことを理解しようとすると、自分の好みと違う事実も受け入れなくてはならない。現代の社会の状況によって、書けることが変ってしまうこともある。これはそういうものなのだから、受け入れるしかない。

だから今の時点では、竹槍で B29 を破壊しようとした少数派の人間を例に上げて、コロナに関する政策を批判するというのは、ろくろく調べず梅干し食ってるから俺はコロナにかからないと自信満々で人込みを歩行する人と同じような感じではある。しかしそれも竹槍で B29 を壊そうとした集団に関する資料が出てきたとしたら変ってしまう。この記事の妥当性も消えてしまうはずだ。

こういうことは別に B29 と竹槍だけに限った話でもない。少し怪しそうな情報は本当かどうか疑ってみる。調べた結果、事実と違っていたら、正しい情報を受け入れるというのはとても大事なことだ。コロナに関する情報も同じで、確かに面倒クセーし、不安になっちゃう人もいるんだろうし、イラついている人が増えているようにも感じる。だからさっさと正しいことを決めて結論だけ教えろやとなるのは分かるんだけど、そういう考え方はヤバいと思う。

とにかく情報の妥当性というのは状況によって変る。その時に最も妥当な方法を選べるように、落ち着いて信頼できる情報を収集しつつ、状況が変わり以前の妥当な方法が間違った手法になったら、それを冷静に受け入れるようにするのが一番マシな態度で、今のところはそういう感じで日常を送るしかないんでしょうねといったところです。

とはいえ今までそういう感じで考えたことなんかねぇし意味分かんねぇよって人もいることだろうな。そういう人に向けてお勧めの本があればいいのだけど、探すとなかなかないものだな。その時にだけ役立つ考え方でなく、状況が変ったとしても使える普遍的な内容で、日常生活にも応用できるものなら余計にいいのだが、そんな素晴しい本などあるはずもないかと諦めかけたところでようやく発見することができました。

簡易生活とは明治・大正・昭和初期に知識人や庶民の間でブームになった生活法で「実用がすべて・簡易で簡素・余計なものは排除」といった原則に従って生活するとムダな付き合いや虚飾が排除され個人のポテンシャルは最大限に発揮されるというものなのだが、独自解釈をした変わり者もいて……といった本で、こんなに良い本を一体誰が書いたんだろうと思いつつも、どこかで聞いたことのあるタイトルだなと考え込んだところ、そういえばこの記事の上のほうでも紹介した私の書いた本かと気付きましたというわけでヨロシク!