山下泰平の趣味の方法

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『男が泣くな』はいつ発生したのか

日本には男が泣くなッ! っていうような概念がある。平均的な日本人が「男が泣くなッ!」と聞いて、思い付くのはこの名場面であろう。

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この感覚がいつ発生したのかが、よく分からない。明確にいつからだッ!! って判明するようなことでもない気がするんだけど、明治大正時代の娯楽物語から、なんとなくこの辺りってのは分かるんじゃないのかなってわけで、ちょっと資料を並べていきます。

明治の男はよく泣いた

まずは前提知識です。

かって男はよく泣いた。平安時代の作品なんかだと、男は普通に泣いている。平家物語だとカジュアルにみんなが泣いている。

江戸時代になると、歌舞伎なんかで男はここぞという時に泣く。だから江戸あたりで、男が軽々しく泣くもんじゃないっていうのが発生したのかもしれない。でもこれって物語の技術が向上しただけって感じもある。江戸以前は人が泣いてたら感動するッ!!! みたいな幼稚な感情しかなかったのが、意味ねぇのに泣いてて馬鹿じゃねぇの程度の事を考えられるくらいに知能が進化したため、ここぞというところで泣くッっていう技法が創出された可能性が高い。

また葉隠では、臨終の親の前で泣くなって妻が怒られてたりする。侍の世界だと感情を表しすぎるなってのは、男に限ったものでもない。そもそも江戸時代には色々な人がいたわけで、一部の階級以外はわりと泣いてたように思えなくもない。そんなわけで個人的には江戸時代に男は泣くなが登場したってのは、粗雑すぎる考え方だとは思うけど、この辺りは私の乏しい知識からの推測なんで、あんまり信用しないでもらいたい。

そして明治、これまた感覚的な話になってしまう。明治時代の真ん中あたりだと、特に泣いちゃ駄目だっていうのは感じられない。ただ一つ言えるのは、資料の上では江戸より明治人のほうが泣いているって点である。もちろん出版点数も圧倒的に違うから単純化することはできないけど、明治の男はよく泣いている。

例えば明治のある時期の純文学の世界においては、他人の悲劇に同情して泣けるというのは、文学者として優れた資質だとされていた。詳しく書くのは面倒だから略すけど、ある時期の純文学作品で登場人物がやたらに号泣したりしているのは、その辺りに理由があったりする。泣ける男のほうが優秀だっていう分野が存在していたわけだ。

それじゃ文学する人からわりと離れている兵隊はっていうと、泣かないほうがいいかなっていう感じである。物語の世界だと兵隊本人よりもむしろ、戦死をしても家族は泣くなって状況のほうが多い。こういう場面は、フィクションの世界なら感動できちゃうからな。兵隊さんはっていうと、軍神廣瀬中佐(昔のスーパーヒーロー)が多情多感の人物として描かれているし、乃木将軍(スゲー偉い人とされていた)も息子を失い平然としているが心の中で泣いているみたいな場面が好まれていた。偉い軍人だって泣くのが当たり前なわけである。

ってわけで、曖昧ではあるけれど、明治には男が泣くなッ! って感覚はかなり薄かったような気がしないでもない。

明治の娯楽物語

そんな気がしないような思いがあるように感じられるみたいな曖昧な話じゃなんなんで、明治から大正の娯楽文化から、男が泣くなを観察していこう。

明治の娯楽物語というのは、あまり知的水準が高くない人が読んでいたものである。そんな普通の人が読んでた物語を観察することで、どういう理由で「男が泣くな」が発生したのかは分からないけど、「男が泣くな」がどのあたりの時代に広く普及したのかは判明するっていうわけである。

というわけで明治の30年代の作品だと、わりと勇士が泣いている。『真田幸村 田辺南鶴 講演[他] 今古堂 明治三四(一九〇一)年』では、幸村の策略によって切腹させられそうになった福島正則が悔しさのあまり号泣している。

正則、今さら仕方なく豆のような涙をボロボロ流し、アワヤ双肌押し抜いで、切腹致さんとその覚悟を致した時、幸村は殿下のお顔へ目くばせをいたし、命乞いを殿下より願うと知らした。目も口ほどの用を足すとはこのことでございます。秀吉は会得あって、

秀吉「正則しばらく待て」

正則は泣きながら負け惜しみ、

正則「殿下、お捨て置きを願う。正則切腹を仕る」

福島正則は荒大名として有名な人物、その男がボロボロ泣いているわけだから、誰が泣いてもokだろう。

『渋川伴五郎 : 誉の柔術 百武琴玉 講演[他] 名倉昭文館 明治三三(一九〇〇)年』では、豪傑が斬られた父親と対面し号泣する。

息は時に細くなり、やがてコロコロと痰が上って来て、そのまま首がコトリと垂れるかと思えば、息を引き取ってしまいました。伴五郎は余りの悲しさに、ワッとばかりに泣きながら、思わず父の亡骸に取り縋り、

伴五「お父上様、いま一言承りたいことがございます」

と云ったが最早如何とも詮方なきこの場の仕儀、

以上は講談速記本からの引用だ。せっかくなんで、違うジャンルも見てみよう。最初期娯楽小説の『奇々怪々 三宅青軒 著 誠進堂 明治三四(一九〇一)年』では、一本槍の虎吉という勇み肌の男が、自分が敬愛する人物の死を知り泣いている。

く、く、く、熊川めッと、腹の底から絞り出すように言ッて、あとはもう何も言い得ない。拳で膝を叩いて泣き出した。

とまあこの様に、別に泣いてもいいんじゃないのっていう感じであった。ただ自分のために泣くのは恥だが、人のために泣くのは良いといった感覚は多少なりとも発生しかけていたような気がしないでもない。

続いて明治40年代を見ていこう。

『豪傑後藤又兵衛 石川一口 講演[他] 立川文明堂 明治四一(一九〇七)年』には、次の様な場面がある。

思わず零す勇士の涙、ポロリと甚太郎の顔にかかりますると、甚太郎は怪訝な顔、

甚太郎「アア、父さん泣いてるな」

基国「エッ」

甚太郎「ヤッ父さんは弱いな、泣いてる。坊は強いから泣きやしない。坊は豪いんだから。ねえ父さん……」

我が子の健気さに豪傑が涙を流す場面、やっぱり男が泣いている。ちなみに甚太郎は後藤又兵衛の幼名だ。自分は強いから泣かないと、子供が語っていることを覚えておいてもらいたい。そして本作には、こんな場面もある。

又兵衛はやがて一刀ギラリと引き抜き、涙を払ってズバリッおみつの首を斬って捨てました。

後藤又兵衛は講談速記本の世界ではほぼ最強の人物、その又兵衛が泣いているんだから、最早誰が泣こうが驚きはない。

『勤王名士坂本竜馬 石川一口 講演[他] 柏原奎文堂 明治四一(一九〇七)年』では、母親のお幸が龍馬にこう言い聞かせている。

お幸「泣かぬようにしなさいよ。武士は泣くものではございませんよ。恥をかかされて、黙っているものじゃありません。無礼をするものがあったら、此方からも負けないようにするのですよ」

龍馬「もう泣きません」

龍馬は子供時代は駄目な奴だったってのは、明治に入るとわりと有名だった。だからこれは物語の流れとして、自然な場面ではある。ただ龍馬もやっぱり大人になると泣いている。

姉より思い掛けないこの餞別、実に男子に勝る姉の志でございます。龍馬は深く喜びまして、涙に暮れて押し頂きまして、

龍馬「姉上の賜り物、ありがたく頂戴を仕ります」

大正時代の子供向け作品

そしていよいよ大正時代なんだけど、その前に明治の物語の事例を眺めてみると、面白いことが分かってくる。まず大人はわりと泣いているっていう点だ。そして子供は泣くのを止めておけっていう傾向が見られる。子供時代の又兵衛は強いから泣いていない。しかし大人になった又兵衛は、人のために泣くのである。龍馬も同じ状況だ。

またもや面倒だからちょっとスッ飛すけど、子供というのは無邪気であり、大人は人情が理解できるといった考え方が存在した。だから大人は人のために泣けるわけである。

そして明確に男は泣くなと語っている作品というのは、明治大正時代だと思いの外に少ない。私が覚えているものだと、大正時代の子供向け作品『猿飛霧隠忍術競 : 竜驤虎搏 凝香園 著 博多成象堂 大正六(一九一六)年』で、猿飛佐助とまだ未成年の霧隠才蔵が出会う場面である。

佐「ハッハ……涙を拭け、涙を拭け、見っともない。大きな奴が泣く奴があるか」

才「何を吐かすぞッ、乃公(おれ)は両親の顔を知らないのだから、ツイ思わず涙が出たのだ」

佐「フム……それは気の毒だ。ではモット泣けモット泣け」

才「馬鹿奴、泣けと云って泣かれるか。もう乃公は一生泣かんぞ。サア来いッ」

佐「オオ合点だッ」

この場面は、印象的だったんで覚えていた。なぜ印象的なのかっていうと、佐助が泣く奴があるかと発言をしているからである。実はこういう場面は、あまりない。未成年とはいえ、この時霧隠才蔵は19歳、しかも親のために泣いている。通常の子供向け作品では、子供は泣くなって場面が多い。

他の子供のように、泣き顔なぞしない。

『豊臣秀若丸 : 忠孝美談 凝香園 著 博多成象堂 大正七(一九一八)年』

「コリャ、武士の倅が泣くと云う奴があるか、何故父上と申さぬ」 「ホホホ旦那様としたことが何を仰せられるやら、如何に利発な性質とは申せ、誕生(日)の来んう内に何うして言葉が分りましょう」

『飯篠山城守 武士道精華 立川文明堂編纂部 [編] 立川文明堂 P139 大正三(一九一三)年』

誤解なきよう書き添えておくと、飯篠山城守が泣いているのは0才の赤ん坊だからで、父上と申せというのは当時のギャグである。なにはともあれ、こういう感じで子供の男の子は泣くなってのが大正時代には溢れている。

ただし「男が泣くな」作品が、存在しているのもまた事実だ。私が知らないだけで「男が泣くな」は、この時代には形成されていたと考えてもいいのかもしれない。

男は泣くなは、どこから来たのか

ここで今回紹介した資料から分かることをリストにしてみよう。

  • 明治の男は泣いていた
  • 男は泣くが子供は泣かない
  • 大正時代には男は泣くな的発言が存在している

ここから分かる事実は、明治の男は泣いたが、子供は泣くなという発言が存在しており、大正時代になると「男が泣くな」が登場しつつあったといいうことである。

先に書いたように、今回紹介している資料は、基本的に下等な作品ばかりだ。教育のある立派な人ではなく、昔の日本に沢山いた一般的な人々が読んでいた書籍である。当然ながら最新鋭の知識や感覚が描かれているわけではない。もちろんこれだけの資料で断言することは出来ないのだが、大正時代になり、ようやく男が泣くなといった考え方が、一般的に通しはじめたと考えてもいいのだろう。

難しいのが今ある「男が泣くな」と大正時代の「男が泣くな」が直接つながりがあるのかどうかっていう点で、文化ってわりとブチンって切れちゃったりすることがある。現在の「男が泣くな」は、私の知らない時代や場所で発生しているかもしれない。これは「男が泣くな」に限った話でもないんだけど、頭の片隅にでも置いておくと色々便利だと思う。ネットにはわりと間違いが流通しているからね。

改めて資料を眺めて見ると、男が泣くなといった概念は、全てが少年に対するものであった。恐らくこれは現代でも変っていない。

ここから少し話が飛躍し、私の推察になる。昔の子供の出生率と死亡率は今よりずっと高い。

図録▽出生率と死亡率の長期推移

で、子供を育てるというのはとても難しい。昔は今より住環境も悪いし、家電も普及していない。狭い部屋に5人くらい兄姉がいて、3人が泣き出したらかなり面倒くさい。そんな時、親は泣くなと怒ったことだろう。もしも彼らが、物語に時おり登場する強い男の子は泣かないっていうのを知っていたとしたら、子供に語ってしまうこともあっただろう。

現代でも少年時代に培われてしまった感覚で、オッさんが若者に男が泣くなって言い放ってしまう。明治時代に男の子は泣くなと言われて育った作家たちが、大正時代に男は泣くな的な場面を書いてしまう……なんてことがあっても全く不思議ではない。

こうして『男が泣くな』は大正時代に発生したのであるッ!!!!……なんてことを大威張りで主張するつもりはない。ただもともとは男は泣くなは、子供向けの発言であったっていうのは、それ程外してはいないんじゃないのかなって思わないでもないんだけど、やっぱりよく分からない。

そしてこれまで書いてきたことは、「男が泣くな」の断片でしかない。こんなことを知ったところで役に立つのかなって思うかもしれないけど、知っていると今ある悪い習慣を否定する勇気を持てる。

これまで書いてこなかったけど、「男が泣くな」は、男性にとっても女性にとってもあんまり良くない。そして今は昔とかなり違う。子供を育てるのが大変なのは変りないけど、その一方で便利な道具が登場し、様々な研究も進んでいる。子供に泣くなって言うのは良くないっていう知識も、徐々に流通し始めている。だから私たちは、少しだけ頑張ればそろそろ男は泣くなを脱却できる時期に来ている。こうやって世の中ってのは少しずつ良くなっていくわけなんだけど、今回紹介した作品の多くは、講談速記本と呼ばれるものだ。面白いし日本文化を考察するのにも役立つから読んで欲しいんだけど、現代人には読みにくいんだよね。大正後期になるとグッと読みやすくなるんだけど、なんかよいのないかなーって探してみたらありました。

note.mu

解説も付いている上に当時の挿絵までの掲載されている。こんな良いものを一体誰がネットに無料で公開してくれたんだッ!!って感動しちゃたんだけど、よく考えたら私でした。ありがたいですね今日も読んでくれてサンキュー。