山下泰平の趣味の方法

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判断の基準に伝統を入れないほうがいい

なにかを変える、変えないって問題が発生した時に、判断の基準に伝統を混ぜるのは止めておいたほうがいい。伝統だから残さなくてはならないって理屈はない。伝統じゃないからなくしたほうがいいっていうのも、頭にゴミ詰ってるとしか考えられない。伝統かどうかなんてのは、判断の基準としてほとんど役に立たない。伝統はあったらあったで面白いんだから、あったほうがいいんだけど、そんなに貴重なものでもない。ただの伝統なんだから、ワーワー言うことなんかない。なにかの制度を変えたところで、どっかに伝統の断片は残ってるんだから、安心して良いと思う。

例えばだけど、夫婦同姓が伝統かどうかっていうと、伝統だと思う。こういうことを書くと、日本が夫婦同姓になったのは最近のことだッ!!!!!!!!! ってマメ知識を紹介するバラエティ番組みたいなことを言い出す人がいると思うんだけど、なんで伝統じゃないのかまともに説明してみろよつかお前の年齢が2000歳くらいなら最近なんだろうけど100年とかメチャ昔だぞちょっとは物を考えろというわけで、伝統とはなにかっていうのをスゲー簡単に説明しちゃうと、多くの人が体験している物質的、精神的な様式で、親しみすぎて自然みたいになったものである。

で、落ち着いて考えれば分かることなんだけど、情報が流通する速度が上がれば、伝統が形成される時間も短縮される。弥生時代と現在だったら、伝統が形成されるまでの時間はもちろん現在のほうが短かい。

インターネットには、数年前に発生した習慣が伝統の様に見える事例がいくつか存在している。なぜそう見えるのかというと、伝統が発生するまでの過程が超短時間で終ってしまうからである。あるコンテンツを初期に楽しんでいた人の中には、去ってしまう者がいる一方で、残っている人もいる。そして参入して来る新参者がいる。発生した当初の意味など知らないままに、コンテンツから発生した特定のワードを使用する人々なんかも出てくる。かって村などの小集団で、何代にも渡って習慣等が伝わることで発生していた出来事が、現代ではわずかな年数で起きてしまう。だから伝統に見えてくる。

これらは情報の速度が向上したため、起きている状況だ。インターネット以前にもこういうことはあって、伝統芸能であれば、都々逸や浪花節が好例だろう。両者とも起源は江戸の後期だけど、流行したのは明治に入ってから、その際には質的にも大分変っている。これらは最近のものっていえば、最近のものなのだろう。それでも私たちは、なんとなく伝統っぽいなと感じてしまう。なぜなら都々逸や浪花節は、新聞やレコードといったツールによって短時間で広く流通したからだ。だからそれ以前の芸能よりも、短い時間で伝統っぽく成長することができた。演歌はもっと短期間で、日本の心になっている。この様に、環境によって伝統が形成されるまでの時間は変化する。

多くの人が伝統っぽいって思っちゃったら、もうそれは伝統だ。個人的には歴史だとか伝統に対し、過剰なまでに年月だけを求めるってのはちょっと理解し難い。日本刀なんて1000年程度の歴史しか持っていないッ!!!!とか発言してる十全たる異常者なんかもインターネットにはいて、本当に不思議で仕方ない。そういう人間って『創業120年、伝統の味』なんてコピー使ってる店に片っ端から電話いれて、120年とかで伝統とか威張るなとかクレームの電話を入れまくってるんだろうかって思うわけだけど、頭狂ってるんだから電話してる気もするな、そんなことはまあいいや。

夫婦同性に話を戻すと、明治も中頃を過ぎると、情報の流れはかなり早くなっている。印刷や通信、流通の技術はもちろんだけど、法律や教育も情報伝達のためのツールである。教育された人が多くなれば、法律をきちんと理解できる人も増えていくってわけだ。で、夫婦同性となった明治30年あたりには、それ以前とは比べものにならないくらい情報の伝達が早くなっている。そしてそれ以降、結婚した人のほとんどは、夫婦同姓にしてるわけだから、もう十分伝統だよなってのが私の認識である。

それじゃ「オッシャ夫婦同性はやっぱ伝統じゃねぇか、絶対に守れ糞どもがァッ!!!」て結論になるのかっていうと、そんな訳あるわけがなくて、夫婦同性もそれ以前のルールを壊して出来たものである。なんでルールを壊す必要があったのかというと、その時代に似わないものになってしまっていたからだ。今となっては夫婦同性とか面倒クセーって感じなんだろうから、さっさと別姓できるようにしたらいいんじゃないのって私も思う。というか名前自体面倒クセーし個人情報はマイナンバーに紐付けとかでいいだろ名前とかどうでもいいわって感想なんだけど、昔の状況だと夫婦同姓はわりと有効なものだった。もしも夫婦同性がなかったら、今の女性の地位はもう少し低かったことだろうし、偉い人は犯罪しても無罪みたいな風習がもうちょっと色濃く残ってたかもしれない。そんなことがなんで夫婦同性と関係あるんだッ!!って思ったかもしれないけど、説明するの面倒くさくて書くの嫌なんで気が向いたら自分で調べてください。とにかくある時は有効だったけど、今はそうでもないってことはわりと多い。

細かい話はともかくとして、なにかを決める際に、伝統かどうかを判断の基準にするのは全く意味がない。夫婦別姓も、夫婦同姓は伝統だとか、そうじゃないみたいな話の部分で、頭の良いはずの人たちが、判断を誤まったり、無駄な議論が延々と続いたり、屁理屈合戦をするみたいな状況になっている。そんなのは時間の無駄だとしか言い様がない。

もうひとつ、伝統云々を混ぜちゃうと、自分の主張を通したいばっかりに、先人たちがなしとげたことを軽んじてしまったり、馬鹿にしちゃったりしてしまう場合がある。今となっては古ぼけてゴミ丸出しのものであったとしても、その当時はものすごく必要で沢山の人が助けられていた存在だったものは割と多い。そういうものを、軽々しく馬鹿に出来ちゃう状況が発生するのもあんまり良くない。

とうわけで、伝統を判断基準に入れるのは止めておいたほうがいいと私は思います。