山下泰平の趣味の方法

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創作したことが恥かしくなる社会

現代では質の良い漫画を描いたら褒められる。優れた小説を描いても褒められる。絵でも音楽でも、それが評価に値するようなものであれば、普通は褒められる。それが恥になるなんてことはありえない。しかしかっては、優れた創作物を生み出した過去が恥になるような社会が日本にあった。こういう状況は創作物そのものにも良いことではない上に、後の文化にも悪影響を与えてしまう。

私が知る中で一事例は、立川文庫である。

立川文庫とは、明治44(1911)年に刊行された講談速記本である。著者は雪花山人、野花散人とされているが、実態は玉田玉秀斎と妻の山田敬、長男阿鉄(おてつ)とその兄弟、そして早大をドロップアウトした中尾亭、元士族の奥村次郎などで構成された創作集団によるものであった。立川文庫の人気は凄まじく、200点近い作品を刊行し、当時の青少年を熱狂させた。近代的な大衆娯楽物語の魁ともいえる存在である。猿飛佐助をメジャーにしたのも立川文庫である。その後、佐助は映画化もされ忍術ブームを巻き起す。

大正時代の娯楽物語としては文句なしに面白い。それだけではなく、子供だった立川文庫の読者たちの中には、小説家や紙芝居作家、漫画家に成長する者たちがいた。彼らは立川文庫の物語を参考に、数々の作品を作り上げていく。もしも立川文庫がなければ、紙芝居や貸本漫画、そして大衆小説はずっと味気ないものになっていたはずだ。十分すぎるほど、日本の娯楽文化に貢献もしている。

しかし立川文庫の創作者たちは、自分たちの過去をみすぼらしいものだと認識していたらしい。

現在、立川文庫の実態を知るための資料というと、創作者集団にいた池田蘭子による『女紋』くらいしかない。

女紋 (1960年)

女紋 (1960年)

玉秀斎の妻山田敬の娘にあたるのが寧、そして寧の娘が池田蘭子である。池田蘭子による『女紋』は小説であり、作品としては優れたものであるが、資料としては少々頼りなく、その内容を完全に信じることはできない。残念なことに、蘭子の他の創作者からの証言は残っていない。

実はこの小説が書かれる前に、親類縁者との間で、かなり深刻な相談がなされた。ひとつには複雑で暗い血縁関係を書かざるを得なかったこと、もうひとつが今やそれぞれ立派な職についているのに、講談本「なんて下等なもの」の下請けなんかしていた過去をほじくり返すのに抵抗があったからである。創作者集団から巣立っていった他の執筆者たちの証言が残っていないのには、このあたりに原因がある。

さらに立川文庫の作者たちは、一日に原稿用紙70枚という速度で書き飛ばしていた。なぜなら原稿料が安いからである。1冊あたり300ページ、これを書き上げると7円程度の収入になる。暮していくには、最低でも一日に50枚は書かなくてはならない。そして原稿の質を上げる意味も、ほとんどなかった。なぜなら立川文庫は「下等」なものであり、読み飛ばされてしまうようなはかない創作物でしかなかったからである。その上、売れても取り分は変わらないのだから、書き飛してしまうのが当然であろう。阿鉄や蘭子、そして中尾亭などは、それなりの創造性を持っていたように思えるのだが、立川文庫は旧来の講談速記本を読み易くスタイリッシュにしただけのもので終ってしまった。これもまた文化的な損失である。

これに止まらず、速記本というジャンル自体にまで不幸は及ぶ。速記本といえば最初の作品は円朝で、猿飛佐助は立川文庫というのが、明治の娯楽文化に少しだけ詳しい人々の認識である。立川文庫は確かに圧倒的に読みやすい。しかしそのネタほ、ほとんど先哲たちの作品のオマージュである。立川文庫の最大の価値は、大人向けだった講談速記本を子供向けの読み物として発掘したことにある。立川文庫も講談速記本も評価されるべきところで評価されていない。円朝に関しては関係ないのでここでは置いておくが、円朝の作品は優れてはいるものの、さらなる名作を速記本は持っているとだけしておこう。とにかく速記本や立川文庫の真価を知るためには、一般的な評価を一度否定しなくてはならないわけだが非常に面倒くさい状況である。

優れた創作を作った過去が恥になってしまうと、このようなことが起きてしまう。なぜ恥になってしまうのかというと、これは単純で優れたものを優れていると認めることができない社会があるからだ。そんな時代はもう来ないよって思いたいものの、認識できていないだけで今でもそういう状況は発生しているような気がしないでもない。