1990年代、私が高校生くらいの頃にポリティカル・コレクトネスみたいな言葉を聞いたことがある。当時は今と違い、意識しないとあんまり情報が入ってこなかった時代だった。海外の政治だとか風俗に全く興味のない私が、そういう言葉を聞いたってことは相当に流通していていたんだと思われる。これは今だと当り前のルールみたいになっていて、ネットでミスるとボコボコに殴られるみたいな感じになっている。
最近だと文化盗用の盗用みたいなのがあって、これも今のことろは外人ってマジ糞馬鹿だよなーって雰囲気だけど、そのうち日本でも文化盗用するとネットでボコボコに殴られるみたいな感じになる気がする。
とにかくネットでミスると怒られる。これによって新しい職業も開発されていく。例えば頭とか色々狂ってる芸人は、テレビで不用意な発言するのが仕事である。それもネットで怒られる。
一概に悪いってわけでもなくて、インターネットが持つ「ネットでだけは良くあろう」という伝統や習慣によるところも大きいのだろうと思う。
2000年あたりに、ネットではルールが重視される理由みたいな話を聞いたことがある。日本と違ってアメリカやらの欧米は現実の世界のモラルが実に低い。この発言も今だと微妙なんだけど、昔のことだから聞き流すとして、とにかくモラルが低い世界に生きているから、ネットの中でだけは礼儀正しくしようっていう風潮があるっていうような内容であった。ちなみにオープンソースは善意を基盤にした仕組みなんだけど、こういった文化からも影響を受けているらしい。
その話を聞いたんだか読んだんだか忘れたけど、とにかく知った時はヘーって感じであった。あんまりインターネットを利用していなかったから、実感できなかったけど、とにかくヘーっていう雰囲気である。その後に、ネットを本格的に利用し始めたんだけど、日本のネットもとても礼儀が正しかった。
礼儀正しいのはとても良いことだけど、やってることはゴミみたいなインターネット地域もあって、おかしな歪みが発生していた。それが実に面白くて夢中になってしまった時期がある。
例えばなんだけど、当時は商用のソフトを無料で使えるようにできるパッチ(プログラムの一部分を更新するためのプログラム)が配られていた。なんでパッチなのかというと、昔は通信速度が遅かったんで、プログラム本体をダウンロードするのが大変だったからである。雑誌の附録CDで体験版をインストールして、パッチファイルで改変するみたいな流れだったと思う。
この行為は、完全に違法である。違法なんだけど、パッチファイルをダウンロードすると、掲示板にお礼を書くみたいなルールが存在していた。そのルールはサイトの管理人が作るんじゃなくて、利用者が作る。法は破ってもいいけど、掲示板にお礼を書くみたいなルールを破るとメチャ怒られる。これだけで十分に面白いんだけど、お礼に心がこもってなくても怒られるのだから大笑いである。
そのうちサイトの管理人さんに対して、心がこもってるかどうか判断する手間を強いるのはどうかという話になり、三行以上のお礼は心がこもっているという判断基準が作られたりしていた。なぜ犯罪者が犯罪者に心を込めてお礼をしなくてはならないのか? そもそもなぜ心がこもっていなくてはらないのか? そして三行以上ならokというのはどこから来た基準なのか? 管理人の負担を減らすために、なぜお礼の行数を増やすのか、読むのが面倒くさくなるだけでは? ……などなどの疑問が発生してしまうが、これも正しさから発生した歪みなのだと思う。
この時代からずいぶんと時間が過ぎてしまったけど、今も慣習みたいなものは残っていて、インターネットの価値は正しさが基準になっている。
例えばSNSなんかで、クソみたいなオッさんが発言をする。クソみたいなオッさんだから、もちろん発言もクソである。その発言がたまたま多くの人の目に入ってしまうと、オッさんはボコボコに殴られるといった流れがある。
確かにオッさんというものは、存在自体が間違ってる。なんでそんなことを言い切れるのかっていうと、俺もオッさんだからで、とにかくオッさんというものは9割くらい間違っている。寝てるだけで枕とかシーツを臭くするくらいだから、正しいはずがない。だからオッさんをボコボコにしても、倫理的な問題は発生しない。むしろ正しい。
しかし見ず知らずのオッさんに、死ねとかクセーとか今すぐ産れなおせなどといった罵詈雑言を浴せるメリットがあるのかっていうと完璧にない。その発言によってオッさんが心身ともに美しくなるのであればやる意味あるけど、いくらネットでボッコボコにしたってオッさんの健康診断は最悪のままである。つまり意味のない行為に夢中になっているわけで、これでは人間は合理的な選択をするという大前提が崩れてしまい、混沌としたクソみたいな社会が構築されてしまう。クソみたいな社会を推進する行為は正しくないのだから、クソみたいなオッさんを罵倒するというのは、間違った行為になってしまうのだが、クソみたいなオッさんをボコボコにするのは善であるのだから、なかなか話がややこしい。
こういった現象が先鋭化していくと、文化的に愚劣になってくるのは確かである。10年前と今を比べると、圧倒的に正しい作法が増加している。このまま正しさが増えて行くと、まともなコミュニケーションができなくなっちゃうんじゃないのかなって思ていて、2ちゃんねるなんかではかなり以前からそういった現象が発生しているような気がしないでもない。
私はマイナー商品の情報を収集する際には、未だに2ちゃんねるを利用してるんだけど、最早ほとんどコミュニケーション不可能な雰囲気になってきている。有用な情報を教えてくれる人もたまにいるんだけど、絶対にひとりは文句を付けるやつがでてくる。サンキューみたいなことを書く人は、あんまりいない。そこからコミュニケーションにつながることもとても少ない。あとなぜか韓国籍の人に怒りを打ッ付ける人も出てくる。リコーと戦い続ける人もいれば、お疲れを言わない人に切れ続ける人もいる。そこから情報をゲットするのが難解すぎて面白いんだけど、全てがこういう感じになったらヤベーだろうなーとも思う。
文化的に愚劣になると進歩も阻害されてしまう。こういう事例はわりとあって有名な話だと暗黒時代の中世なんかがある。私の詳しい分野だと、明治の純文学の世界がそうで、あの時代の作品は今読むとクダラネーっていう感じの作品が多い。なんでそうなったかというと、純文学はとにかく真面目であるべきという習慣が根付いちゃったからである。真面目なのはいいんだけど、明治の奴らは雑なので『真面目=悲惨,悲しい,苦悩』みたいな公式を作ってしまった。十分な才能を持つ人々はいたんだけど、そういったルールがあるため、クダラネー作品しか書けなかったといった事例が多々ある。試しに読んでみるとわかるけど、あの時代の作品は主人公が意味なく苦悩している作品がメチャ多い。これも習慣から発生する一種の病理であるわけだけど、私は暇潰しにこういうようなことをずっと考えたりしてて、この文章も俺がちょっと思ったことを暇潰しにグダグダ書いてるだけで糞の役にも立たない文章だと思うんだよね。
そんなわけで私のクダラネー雑談にここまで耐えぬいた人のために、私がこういうことを考えるようになったきっかけとなった書籍を紹介すると、ホイジンハの中世の秋です。
- 作者: ホイジンガ,Johan Huizinga,堀越孝一
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2001/04/10
- メディア: 単行本
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ひとつの事柄の歴史を書いた書籍もわりとおすすめ、3冊くら読むと色々なことを考えることができて、暇潰しに良いと思う。
- 作者: スーエレンホイ,Suellen Hoy,椎名美智
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1999/05/01
- メディア: 単行本
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こういうことは私みたいな脳が粗雑なオッさんが考えるよりも、脳が新鮮な若者が考えたほうが良いし結論もより正しい。自分の専門分野や興味と異なるジャンルの書籍を読むと、一挙に思索のやり方が変ったりすることもあったりなかったりなので、暇な人は色々な本を読んでみると面白いかもしれないですよ。