明治中頃の学校で、同性愛がどう消費されていたのかというと、プラトニックなものが至高とされていた。
流通していた美談として、美少年を付け狙う上級生の不良と、美少年の親友が決闘、喧嘩に負けた不良が武器を使って逆襲し、美少年の親友は死んでしまうっていうものがある。この事件に感動した熱血の少年たちは、血染めのガクランをグラウンドに埋め、長く記念としていたそうだ。
この種の物語は好まれたようで、美少年をかばって退学になってしまうパターンもある。「父帰る」で有名な菊池寛も、学生時代に恋心を抱いていた親友をかばい退学になっている。菊池に関しては、物語を自分で演じてしまった側面もあったように思える。その他、色々なパターンがあるんだけど、とにかく少年に秘かな恋心を抱きつつも男らしく友情を育み、悲劇的な結末を迎える物語が、一部の層に喜ばれる時代が確かにあった。
なぜこの様な物語が消費されていたのか、あくまで仮定でしかないが、ちょっと考えてみることにしよう。まず武士の行動様式の影響なんかも考えられないこともないんだけど、私はその時代についてあまり詳しくない。だから明治限定で考えると、まず学生に性的なものは禁物という考え方が流通していた。女と恋愛するのは糞野郎である。だから男に恋したら、プラトニックなものが至高とされていたのは不思議ではない。
悲劇的な終りを迎えるという点については、当時の真面目好きといった風潮がある。詳しいことを書くとものすごく長くなってしまうので結論だけ書くと、真面目でないものは芸術でも学問でもないっていう時代であった。悲劇的なのは真面目ってのも雑なんだけど、泣いてるから真面目だとか、不機嫌だから真面目、悩んでるから真面目なんてことを超インテリたちが真面目に信じていたのが明治である。だから悲劇的な結末は、真面目で良いものだとして受け入れられていた。
もうひとつ、藤村操の投身自殺との関連性もあると考えられる。これは華厳滝でエリート学生が自殺をしたっていう事件で、木に「巌頭之感」を書き残していた。これも今読むと幼稚なものではあるものの、当時の学生たちは反発を感じながらもこういった行為に憧れを持っていた。この辺りの感覚も関係していたことだろう。
こういった物語は、過去の文化としては面白く、過去から今の文化を分析する際には役に立つ。しかし今さらこんな行動様式を押し付けられたら、セクシュアルマイノリティの人々はえらい迷惑だと思う。
押し付けられたものは認識できるけど、美しく昇華されてしまった物語を、無意識のうちに演じてしまうっていうのもあるだろう。これなんかは、物語に行動を強制されているってことになる。美しい物語はかなり扱いが難しい。なぜそれを良い、あるいは悪いと思ったのか、それ自体になんの意味があるのか、どういう成り立ちなのか、そんなことを真面目に考えたり調べたりするしかない。
- 作者: 菊池寛
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- 発売日: 1991/12
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